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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
今生の、ソレイル=バン=ノルティスという人。

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1

『貴方の周りで起こることは全て、貴方の責任です。良い事も、悪い事も。何もかも、貴方がそこに居るから起こるのですよ』


私には生まれるよりも前から、家によって定められた婚約者が居た。

名をシシリアという。白に近い薄い金色の髪をしていて、いつもにこにこと柔らかな笑みを湛えている子だった。私の話をよく聞いて、おしゃまでおしゃべりで。思えば彼女は、私の初恋の人だったような気がする。

いつだったか父から『お前は将来はシシリアと結婚して、侯爵家を支えていくことになる』と言われたときは本当に嬉しかった。

彼女と歩んでいることになる人生に期待し、希望を抱いたのだ。

けれども。胸に抱いた理想や頭で思い描いていた夢は、儚くも消え去ることになる。


それは、私が六つのとき。

定期的に行われていたシシリアとの茶会で起こった。



侯爵家の広い庭の一角に東屋を作ったのは父である。母がその場所で薔薇を眺めるのが好きだったので、どうせなら屋根のあるところでゆっくり過ごせばいいと、職人を呼んで作らせた。

母専用の休憩所のようなものであるが、今回のシシリアとの茶会はこの東屋で行われることになった。

普段は室内で顔を合わせているのに、たまには趣向を凝らして、青空の下でお茶を楽しめばいいという助言に沿うことにしたのだ。言い出したのはもちろん母である。

整っている顔立ちなだけに厳しい雰囲気を持ち合わせる母であるが、柔軟な思考に陽気な面も持ち合わせていた。


「お久しぶりです。ソレイル様」


シシリアがお手本のような礼をしたので、こちらも礼節に倣う。

侍女や侍従が見守る中、対面に座して近況報告から始めた。

婚約者は、淑女教育を始めたばかりで大変だと、家庭教師から習っている内容を事細かに教えてくれる。僕には必要のない情報だったけれど、耳を癒してくれるような愛らしい声に笑みが漏れる。

彼女の話なら、もしかしたら一生聞いていられるかもしれない。

そんなことを考えて、また口元が緩んだ。

やがて、テーブルにセットされていた菓子皿からクッキーを摘まもうとして。シシリアがこのお菓子をとても気に入っていたことを思い出す。

はしたないからと齧り付くようなことをせず、そっと唇に挟んで食べるのだ。さっくりとした食感のクッキーを口に含んだ際の抑えきれない喜びが、大きな双眸から伝わってくる。その顔を見るのが好きだった。

だから。

お先にどうぞ、と順番を譲った。

初めは遠慮していたものの、僕の頑固なところをよく知っている彼女は、躊躇いながらも手を伸ばす。

それでも「いいのですか?」と確認してくるので、早く食べるように促した。

侯爵家の嫡男ともあれば、皆、しなくても良い忖度をするから少し煩わしくもある。

「私、これが大好きですの」

血色の良い頬が丸くてかわいい。彼女が笑うと僕も嬉しかった。

何かと決まり事の多い侯爵家では時々、呼吸をするのも苦しかったから。

それではお先に、と言って小さく口を開けた彼女の指先を眺めていた。爪が丸いのはピアノを習っているからだろうか。教師も舌を巻くほどの上達具合だという。

「良い香りですわ」

いつか演奏を聴かせてもらおうと、クッキーの丸い端っこが欠けるのも、シシリアが咀嚼したのも、こくりと喉を動かして嚥下したのも。全部、全部間近で見ていた。

そして。

その大きな目が、さらに大きく見開かれて、首筋に血管が浮く。

「?」

奇妙な声をたてて、彼女は上半身を伸ばした。顎が上を向き、小さく呻く。

その瞬間は、食べ物が喉に詰まったのだと思った。

違うと分かったのは、数メートルは離れた場所に居た護衛が東屋の中に走り込んできて、僕を抱え上げたから。


家令がシシリアの座っていた椅子を倒す。その刹那、彼女は地面に赤い液体を漏らした。

吐血したのだと分かったのは、そのときだ。


シシリア、名前を呼んだはずなのに声が出ない。

抱え直されて、護衛の肩が視界を覆った。それでも、完全に隠しきれずにはみ出した世界が、この目に飛び込む。

もがき苦しむ彼女の髪が地面に広がって、がくがくと震えた小さな指が地面を掻く。この世にしがみつくみたいに、爪をたてて。足をばたばたと動かしていた。

何事かを伝えようとしているのに、周囲の人間は遠巻きにして近づかない。

「毒だ! 血液から汚染するかもしれない」


助けなきゃ。誰か。彼女を、


「見てはなりません、ソレイル様」

誰がそう言ったのか分からない。

「誰か! 医師を呼べ!」家令が声を上げたのを最後に、意識が途絶えた。


真っ暗になった闇の中で彼女を呼ぶ。


シシリア。

死なないで。


「―――――シシリア様は亡くなりました」


自室のベッドで目を覚ました僕に母が言った。目尻が赤く染まっているのを見れば、先ほどまで泣いていたのが明白である。それでも決して弱みを見せないのが母だった。

心臓の音がうるさくて耳を塞ぎたいほどなのに、身体は面白いほどに動かない。横になっているにも関わらず、血液がどこかに下がっていくのが分かった。


「貴方の周りで起こる全てのことは、貴方の責任です」


冷たい声が、振ってくる。

確かにそうだ。だって、あのとき。僕は彼女に勧めた。本来なら僕が先に食べるはずだったのに、先に食べて良いよと言った。

「良い事も。悪いことも。何もかも貴方がそこに居るから起こるのですよ」

それが侯爵家の嫡男としても責任であり、宿命なのよ。だから、気を抜いてはならないの。


不幸が起きたというのに、それすらも利用して侯爵家の跡取りとしての在り方を示そうとする。

「はい」と頷いた自身の声は、他人のもののように感情を伴わない。


僕のせい。

僕のせいだ。


シシリアの小さな手がクッキーを掴む。その様子が何度も蘇る。

嬉しそうに綻んでいた唇も。

命を狙われていたのは恐らく僕自身である。なぜなら、テーブルの上の菓子皿は一つであり、ならば序列としては当然、僕が先に手をつけるはずだったから。

つまり、彼女は僕の身代わりとなったのだ。


「ならば母上。シシリアは僕のせいで亡くなったのですね」


返事はなかった。ただじっと僕の顔を見据える眼差しだけがそこにあった。母は何か耐えるかのように唇を噛み締めていたようだけれど。何を堪えていたのか分からない。

「僕が居たから、シシリアは死んだんですね」

そして、その日から。

ずっと悪夢に苛まれた。寝ても覚めても彼女のことが頭に過る。


だからなるべくたくさん頭を使うことに集中して、気を紛らせることに努めた。侯爵家の書庫に納められている蔵書を数えきれないほどたくさん読んだ。端から端まで一冊ずつ。もちろん、読めない文字や理解できない単語の方が多かったけれど、それでも意識をそらすには十分すぎるほどの役目を果たしてくれた。


夜が明ける前から、深夜を過ぎても。ただひたすらにペンを持った。


「坊ちゃま、少しは休憩なさってください」

家令が気遣うように声をかけてくる。

ちょうど良かった。剣を習いたいと言えば、戸惑いながらも護衛騎士に話をつけてくれるという。

後日、約束通りに顔馴染みの騎士を連れてきてくれた。

学院に入るまではまだまだ時間があるから。この空白の期間を鍛錬に使うのだ。頭も体も酷使すれば疲れ果てて、何とか眠れる。


そうしなければ、寝られなかった。


シシリアとは最後に、どんな話をしただろう。

彼女は絵画が好きで、侯爵家に飾られている絵を見るのが好きだった。結婚したなら、我が家に飾ってある絵を全て見るのだと楽しそうにしていたのを思い出す。表に出していないものもあるから、全て確認するにはそれなりに時間を要しそうだと言えば、時間ならいくらでもあるじゃないと。

彼女はそう言っていた。


いつか死ぬまでに全て見られれば、いいのです。


彼女との茶会に用いていた応接室にもいくつかの絵が飾られているが、それらをじっくり見ることもなく彼女は天に召された。

母が殊更気に入っている絵は、名のある絵師が丹精込めて描いた少女の絵だ。足元にたくさんの靴を並べて、どれを履くか決めかねている。選択肢がありすぎると、逆に何も選べないのだと。そういう意味の絵だったと思う。

そういえば、シシリアに似ている気がした。

好きなものがたくさんあって。会う度に、興味関心が別のものに移っている。だから、彼女の話を聞くのが好きだった。


そんなことを考えながら、ただ時間を消耗しているだけの日々に終止符が打たれたのは一年後のことである。


「―――――婚約者?」

「そうだ」


父の執務室。数えるほどしか言葉を交わしたことのない我が家の主が、仕事の片手間に水を向ける。

その人の後ろに控えた家令が、父に何か分からない書面を手渡した。見ているのか見ていないのか、さらりと流し見て執務付けの端に避ける。そしてまた、新しい書面を手渡される。今度は署名するようで、万年筆の先にインクをつけている。


「シシリアは亡くなったばかりです」


言ったところで意味はないと分かっていたけれど、何の抵抗もしないわけにはいかなかった。この件に関してもそうだが、己に決定権がないとはいえ、だからと言って何の意見もないわけじゃない。唯々諾々と従うのは従僕と変わりなく、であれば嫡男とは言い難い。

黙っていれば、あっという間に次の婚約者が決まってしまう。それだけは避けたかった。


「このままお前の婚約者の席を空けておくわけにはいかない。それは分かるな?」


ちらりともこちらを見ない父の整えられた黒髪を見つめる。下を向いて作業しているのでどんな表情をしているのかさえ読めなかった。代わりに家令の視線がちくちくと刺さるようである。

「はい」と返事をしながらも退路を探していた。物理的な話ではなく、この話の出口がどこかにありはしないかと考えあぐねている。


「何人か候補者がいたんだが、マチス家になるだろう」

「マチス家?」あまり聞き馴染みがない。

「イリア嬢だ。近々顔合わせがある」

「……え?」


あまりにも突然だったのであっけにとられて言葉が出ない。さすがに早すぎる。顔合わせということは、この婚約が既に決定事項だということ。「ち、父上、」少し待ってほしいと言うつもりだった。なのに「話は終わりだ」と、退出を促された。それでも動けずにいると「行け」と追い打ちをかけられる。


凝った意匠の絨毯に両足が縫い付けられているようだ。微動だにできず、ぐるぐると回転しているのは頭の中。絶対的な権力を前にして、反論の一つも出てこない。

「坊ちゃま」やがて、家令に支えられて部屋を出た。


息が上がる。

苦しい。


「坊ちゃま、お気にを確かに」


家令がわざわざ膝を折って視線を合わせて来る。シシリア様のことは残念に思いますが、我が家にも猶予はないのですと静かな声が告げた。

この件は国王陛下の意向でもあると。そうして告げられた真実に逃げ場を失ってしまう。最初から退路など用意されていなかったことを知る。


シシリアは元々、やんごとない家柄であるがそれもそのはず。彼女の母親は王妃の遠縁である。その方と王妃は幼い頃より親交があり、シシリアも大そう可愛がってもらっていたようだ。僕とシシリアが縁を結ぶことになったのは、侯爵家と王家の繋がりをより強固なものにするため(というより、侯爵家を王家に繋ぎとめておくため)であり、また、シシリアの立場を盤石なものにするためでもあった。

ところが、彼女はあろうことか我が家で何者かによって殺害されたのである。

その毒薬は恐らく、僕を狙ったものであろうが、結果的にシシリアが命を落とすことになった。

つまり、これは侯爵家の失態である。王妃の悲しみは深く、国王陛下も憤怒の表情を隠さなかったという。

それでも父が自ら責任を取ることにならずに済んだのは、一重にこれまでの侯爵としての功績によるものだろう。また、元老院に名を連ねていることも功を奏した。

ただ。

だからといってお咎めなしということにはならない。

僕の知らないところで此度の件で責任を追及された者たちがいるようだった。我が家の使用人が数名、咎を負ったのだ。

料理長、料理人、菓子や茶を準備した侍女、メイド、あの場に居合わせた従僕。護衛。

全員が極刑に処されている。


知らなかった。

最近、顔を見ない侍女や侍従が居ることには気づいていたけれど。侯爵家の敷地は広大で、使用人はいつも忙しく動き回っている。だから、いつも同じ顔が傍にあるわけではない。上級使用人はその限りではないものの。子供である僕の傍についているのは数人で、それ以外は、屋敷と両親のために立ち回っているから。

数日、顔を見なくても不思議に思うことなどなかった。


「ソレイル様の婚約者が定まらなければ、今度はその座を巡って血が流れるでしょう。旦那様はそれを案じておられるのです。これ以上失態が続けば、旦那様も責任を取らざるを得なくなります」

「……、」

「マチス家のご当主と旦那様は昔から親交がありますので、何も問題はございません」

「問題がない」

「はい」

「イリア様も聡明なお嬢様と聞き及んでおります。ですから、安心なさってください」

「安心」

「はい」


問題がない? ―――――誰にとって?

安心? ―――――誰にとって?


シシリアは僕のせいで死んだのに。なぜ、僕は責任を取らなくてもいいのだろう。

咎を負うべきは、僕だったのでは?










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