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「……マリアンヌ様? どうしました? ぼんやりして。やはり、貴女様でもさすがにお疲れですか?」
落ちそうになっていたクッションを胸に抱き、遠い昔のことに思いを馳せていると、真正面から声がかかる。先ほどまで、小さな窓から外界の様子を眺めていたというのにもう飽きてしまったようだ。
「もうすぐ宿に着きますから。起きててくださいね」
不可抗力とはいえ、マリアンヌ様に触れたことがエイヴァン様に知れれば僕の命はないので。と続ける。
軽口を述べる気力は残っているらしい。
つい先日、命の危機に瀕するほどの怪我を負ったというのに基礎体力の違いなのか、元気そうだ。
「眠ったりはしないわ。起きていたいし」
もうすぐ夜がくる。
これが最後だと言わんばかりに強い光を放っていた夕陽も隠れてしまった。それでも、完全な闇が訪れる前の束の間に見える、群青と漆黒、橙の混じる空は壮大で。普段、まじまじと眺めることがないので新鮮でもある。
「けれど、さすがに疲れたわ。私、騎士じゃないのよ。体力は人並みにしかないの」
「……そう、でしたね。何だか勘違いしてしまいます。マリアンヌ様は天使もかくやという類まれなる容姿をお持ちで、しかも一介の騎士に手を差し伸べてくださる優しい方なので。常人とは違うのだと」
「ふふ、可笑しな言い方。さっきは、私が人助けをするなんて思いもしなかったって言っていたじゃない」
「意外だって、言ったんですよ」
「同じだわ。それに、私は誰にでも優しいわけじゃないわ。私は私の為にしか優しくしないの」
昔からそうだった。
「マリアンヌ様こそ、妙な物言いをなさる。貴女様がご自身のために動いたのだとしても、結果的に人を救うことになったのだから。ご自分をもっと誇ってください」
「あら。貴方、案外優しいのね」
「案外、とは何ですか」
がたがたと揺れる馬車の中。もう二度と会うことはないだろう人のことを思う。
―――――彼女の訃報を知らされて。今回もまた、間に合わなかったのかと一度は絶望したけれど。
彼は約束通り合図を送ってくれたのだ。
私は今度こそ、力を尽くせただろうか。
*
あれは多分、七つのとき。
母と一緒に招かれた他家での茶会で。主催者である女主人に言われた。
『マリアンヌ様はピアノがお上手だとお聞きしています。ちょうどここには良いピアノがありますので、皆に聴かせてあげていただきたいわ』
本当に私の腕を評価していたのか、あるいはほんの少しの悪意があったかもしれない。
その人は母の古くからの知り合いであったし、招かれているのは顔見知りばかりであったけれど、同世代の貴族ばかりだったので、誰の子供が一番優秀か、将来への見通しはどれほどのものなのか試してやろうというもくろみもあったはずだ。
そんな中、余興として選ばれたのがたまたま私だったというわけである。
そうして披露した私の腕前は、悲惨ではなかったけれど称賛には値しないものであった。
きっと誰が聴いてもそう思ったはずだ。それもそのはず。だって私は、ピアノを弾くのが好きではない。
指がなまらないように最低限の練習しかしなかったし、意欲的に音楽を学んだわけでもない。譜面を読み込んだわけでも、作曲者の意図を汲んで心を込めた演奏をしたわけでもなかった。
―――――なのに、私は皆に褒められた。
感動して涙がこぼれたという人まで現れるくらいに。
拍手喝采、称賛の渦。私を取り囲む大人たちは口を揃えて、演奏家も顔負けだと褒め称えた。
『―――――しかも、お美しくていらっしゃる! 将来が楽しみですわ!』
大仰に両手を叩きながら、かように聡明であるなら嫁ぎ先も引く手数多だろうと。
背筋が凍るような思いで、その場に立ち竦んでいた私の気持ちを、誰か理解できるだろうか。
だって私には既に、エイヴァンという婚約者がいる。婚約が決まったときは、顔も知らない人と結婚するのは嫌だと癇癪を起したものだけれど、定期的に顔を合わせる度にだんだんと、彼のことが好きになった。
穏やかな口調と、全てを包み込むような眼差しが特に好ましい。
今ではエイヴァンのことが大好きだ。だというのに、こんなつたない演奏がきっかけで、他の婚約者候補が現れるかもしれないのか。
面倒なことになる予感がして、そうと悟られないように息を落とした。大人たちの称賛は有難く受け取り、同時に聞き流す。彼らもきっと、自分たちが何を言ったか明日には忘れているだろう。
なんて無責任な大人たち。
隣でただ微笑んでいる母が、彼らの言葉を真に受けないといいと思う。
そのとき、次のピアノ演奏が始まった。
見覚えのある顔だ。名を、イリア=イル=マチスという。
彼女の演奏を聴いていた人は少ない。おしゃべりに興じていた大人たちは変わらず口を動かし続け、親と共に呼ばれた子供たちは運ばれてくる料理に夢中だった。
しかし、そんな彼らには一切、興味も示さずに。
止まないざわめきの中、正しく伸ばした背中を曲げることなくまっすぐ前を見据えて『イリアと申します』と短く自己紹介した彼女は、楽譜も見ずに時間にして約十五分の曲を弾いて見せたのだ。
大人でも難解だと根を上げる、誰もが知っている古い曲だった。
小さな指、華奢な体格、大人なら難なく指が届くけれど、子供には当然届かない鍵盤もある。強弱だって甘いところがあった。大人のように力強くは叩けない。
それでも、一体、どれほどの時間を練習に費やしたのかと思うほどの演奏だった。
私は、心の底から感銘を受け、鳥肌を抑えることができなかった。
だから。
ただちに盛大な拍手を送った。私がそんなことをするのがあまりにも意外だったのか、会場が静まり返る。
伯爵家第一位の令嬢というのは何をしても注目を集めるものだと感心するほどだ。
隣に立っていた母は瞠目し、娘の突飛な行動を止めようとしたのだけれど、私は止めなかった。
だってあまりにも素晴らしい。この演奏を最初から最後まで一音も逃すことなく聴くことができたのは幸運でしかない。聴いていなかった人を哀れに思うほどに。
ピアノの前に立ち、優雅な仕草で礼をしたイリアが拍手を送り続ける私の顔を見た。
視線と視線がぶつかり、空中でパチンと音をたてたような気がする。そしてそれは、何かの始まりであり終わりでもあるようだった。
恥ずかし気に、だけどとても嬉しそうに微笑する彼女の顔がなぜか、この目に焼き付く。
後でお話する機会があったら、どうしてそんなにピアノが上手なのか訊いてみよう。一日何時間くらい練習しているのだろうか。並みの練習量ではないはず。
「マリアンヌがエイヴァン以外に興味を示すなんて。不思議なこともあったものだわ」
茶会が行われていた部屋から出て長い廊下を歩いていると、母が言った。
「そうですか? 私ってお母さまからそんな風に見えるのですか?」
訊き返すと「そうねぇ」と肯定しているのか否定しているのか分からない曖昧な返事をされる。
首をひねる母と同じように私も首を傾げた。顔を見合わせていると、
「今日はなかなか良い演奏でした」
不意に、廊下の奥にある階段のほうからそんな声が聞こえた。演奏を褒めている割には感情の乗らない声だ。何だか気になって、母が止めるのも構わずに声の主を確認するため、踊り場のほうへそっと身を乗り出す。そこに居たのは、イリアと馴染みはないものの恐らくイリアの母親と思しき人。
「次にこういう機会が与えられても、誰にも文句など言わせないくらいの技術を身につけなさい」
「はい」
「誰からも称賛を得られるような表現力を育てなさい」
「はい」
「いつも前を見て、俯かないように。微笑みを絶やさず、誰に何を言われても堂々としていなさい」
「はい」
あまりに淡々としている。母親と娘というより、教師と生徒のようだ。もっと褒めてあげればいいのに。そう思って口を開きかけたのに、肩を叩かれて出鼻をくじかれた。むろん相手は母である。
「駄目よ」と小声で制され、それどころか半ば強引に腕を引かれた。
音がしないようにその場から離れる。
「マリアンヌ。貴女の正義感は美徳ではあるけれど、あまり首を突っ込みすぎるのはよくないわ」
「……でも、お母さま」
「そうね。とても気になる言い方だわ。だけれど、マチス夫人にも言い分はあるはず。本当は盛大に褒めてあげたいのかもしれないわね。お母様だったらそうするもの。けれど、娘がソレイル様の婚約者ともあれば妥協は許されないのよ、きっと」
「……よく、分かりません」
「貴女にはまだ早いかしら。けれどその内分かるわ。それに、」
「それに?」
「彼女の顔を見た?」
「彼女……、イリア様のですか?」
「そう」
悲しそうに見えた? と問われて首を振る。少なくとも叱れた幼子みたいに心許ない顔をしていたわけではない。むしろ、どこか誇らしげだったように思う。それは、イリアの母親もそうで。言葉は厳しくとも、高揚しているようにも見えた。
「嬉しかったのね」
「……嬉しい?」
「そう。貴女が拍手したから」
「……拍手……、」
これもまたよく分からず、歩きながら考える。私が拍手したから、だから何だと言うのか。
「マリアンヌが拍手しだしたら、近くに居た方たちも何となく拍手を始めたのよ。まばらではあったけれど、それでも貴女が与えた影響は大きい。貴女も知っておかなければならないわね。爵位というのは、それだけ人に影響を及ぼすの」
「……、」
「でも、驕ってはいけないわ。それは貴女自身の力でも、私や旦那様の力でもない。あくまでも家に与えられた権力でしかないということを覚えておかなければ」
「はい、」
「これからゆっくり覚えていけばいいわ」
ふわりと笑う社交界の華。あまりにも美しくて息を呑む。私もこうありたい。
「私、イリア様と仲良くなりたいわ」
「そう」
「はい」
「旦那様に相談してみましょう」
「はい!」
―――――私がイリアの友人となることができたのは、これよりもずっと後で。
私が全てを思い出したのはそれよりももっと後。
時間はかかったけれど。
私はやっと、イリアの人生の一部になれたのだ。
*
「ところでマリアンヌ様。ずっと思っていたことを聞いてみても?」
揺れる馬車に身を任せ、うとうととしていると再び声がかかる。
どうやら私が眠りに落ちないようにしているらしい。
「……何?」
「マリアンヌ様のイリア様へ向ける感情って、何て名前ですか?」
「感情の……、名前?」
眠りたくないのに、頭の中に靄がかかっているかのようにはっきりしない。
「はい。あの、言っていいかわかりませんけど。その執着心はまるで、恋ではありませんか?」
「え? 恋?」
我ながら間の抜けた声が出る。
「はい」
深く頷いた護衛に「馬鹿なことを言わないでちょうだい。私はエイヴァンに夢中なのよ」と答えながら、霧が晴れるように冴えていく頭でふと考える。
まさかそんなはずはないけれど。
彼の言っている通り、この友愛がもしも「恋」と呼ばれるようなものだったなら。
―――――私、永遠に叶わない恋をしたのね。




