14
知らぬ間に下されていた裁定に異議を唱える間もなく、イリアは、留置されていた場所からどこかへ移送された。
エイヴァンから話を聞いた翌朝には、街頭へ貼り出された号外を見に行ったけれど、イリアの刑が確定したということ以外の情報は得られず。屋敷へ舞い戻り、夫から新たな情報を引き出そうとするも、詳しいことは分からないと言われてしまう。本当に知らないのか、何か隠しているのか判断できない。
ちゃんと調べてくれると言ったはずなのに。
焦燥だけが募っていく中、いてもたってもいられず再び生家に向かった。
「どこにいらっしゃるかお分かりにならないのですか?」
事前のお伺いもたてずに、相変わらず仕事が山積している父の隙間時間に滑り込む。執務机に紙を並べて何事か書付をしていたその人は、意表を突かれた様子で目を瞠ったものの、にわかに首を振り息を吐く。
諦めの悪い娘に呆れているのかもしれない。父が私を見限るようなことはないと知っているが、それでも喉がつまるような心地になった。こうしている間にも、彼女は酷い目に合っているかもしれないのに。
どこにいるか分からないという状況が不安を煽る。
「イリア様の無実は証明されないのですか?」
「そうだ。もしも今、無実の証が出てきたとしても彼女が無罪になることはない。刑は確定した。国王がそれを認めたんだ。減刑されることもない」
「それは、―――――つまり?」
「死罪が覆ることはない、ということだ」
ひんやりと、背筋が凍りつくような声だった。吐息が白く濁らないのが不思議なほど。
「なぜですか? おかしいですわ……! 侯爵家は何をなさっておいでなのですか?」
ノルティス家が動けば万事はうまくいくはずなのだ。そのときはきっと、国王の後ろ盾も得られる。そうなれば恩赦が与えられて、イリアは必ず釈放される。無罪放免となるだろう。
「侯爵家は動かないようだ」
「え?」
「イリア様を切り捨てることにしたんだろう」
「―――――!」
「これほどの醜聞だ。収拾できず、もはや取返しのつかないところまできている。侯爵家は知らぬ存ぜぬを通すつもりだと聞いている」
イリアは恐らく、侯爵家のために際どい手段を講じたこともあったはずだ。王家の暗部とも言われる家なれば、清廉潔白でいることも難しかっただろう。それなのに。咎を負うのは彼女一人なのか。
「ソレイル様は……?」
「……あの方は、」
黙り込んだ父の目元に影が落ちる。
「二人の間に何があったのか私は知らない。だが……、彼らが再び歩み寄ることは、ないだろう」
言い換えれば、ソレイルはイリアを助けるつもりがないということなのだ。
ここまでくれば何となく想像していたが、現実を思い知って、息が上がる。胸の奥を鷲掴みにされたようで苦しい。ソレイルがイリアに手を差し伸べなければ、他の誰が彼女を救うのか。
眩暈を覚えてふらついた私を、隅に控えていた侍女がすぐさま支えてくれた。焦りと共に立ち上がった父も傍に来て、背中を撫でてくれる。その大きな手は、絶対に裏切らないという確信がある。
イリアは今、どんな気持ちでいるのだろう。
「マリアンヌ。先日も言ったけれどね。この話はもうお終いだ。お前にはお前の人生があるだろう?」
案じるような優しい眼差しに戸惑いながらも「家族を危険にさらすつもりか」と問われれば、それは違うと答えるしかない。
「早く、屋敷に戻って娘の傍にいてやりなさい」有無を言わせぬ穏やかな声に部屋を追い出された。
実家では全く前向きな情報を得られず、後ろ髪を引かれるような気分で我が家に戻る。
珍しく外出することなく、執務室で雑務をこなしていたエイヴァンに顔を見せれば、彼もまた、父と似たような所感を口にする。娘を連れて公園にでも行ったらどうかと提案されて、さすがに断るわけにはいかなかった。家族との時間も大切にしなければならない。それが私の仕事だ。私が生涯をかけて為すべきことは、夫と子供を愛することだけである。
だけれども。
このままでは。
このままでは、イリアを失う。
彼女は友人ではないし、家族でもない。もはや知人ですらないかもしれないのに。いつ、刑が執行されるかと思うと夜も眠れなかった。
昼間には、幼い娘が私を探して屋敷の中を歩き回っている声が聞こえているのに、気もそぞろで。
いつもなら、その小さな体を抱きしめるだけで満たされるのに。
イリアのことが気がかりで何も手につかない。
そんなときだ。
―――――我が家に客人が訪れたのは。
真夜中。何の知らせもなく我が家の門を叩いたのは二人の男性だった。時間も時間であるから、当然、私も夫も寝入っており、最初に彼らと顔を合わせたのは侍従である。といっても、あまりに非常識な訪問なため、屋敷の中へ入れるつもりはなかったようだが。衛兵を呼ぶと言っても彼らが全く引かないので、しばらく押し問答した後、その中から得た情報によりエイヴァンに確認を取る必要があると判断したようだ。
寝室の扉をノックしたのはランプを手にした家令である。小さな明かりに照らされた顔は険しく、首元のタイは歪んでいた。
夜の一番深い時間帯である。眠っている主夫妻に声をかけるなど、よっぽどの緊急事態だ。
「どうした?」と声を潜めつつ、警戒を隠さない様子で半身を起こした夫の気配を感じながらも、私は半分、夢の中にいた。
ところが「……何?」と静寂の中に響く、常時とは違うエイヴァンの声を正確に聞き取る。頭の中の靄が霧消した。
「イリア様がどうなさったの?」
自分でも奇妙だと感じるほど、己の声ははっきりと澄んでいた。
いっさいの眠気が吹っ飛んだようである。確かに今、家令と夫はイリアの名前を口にした。
「―――――来客だ。マリアンヌに会いたいそうだよ」
「……どなた、です……?」
まさかイリアではないだろう。そう思いつつも早鐘を打つ鼓動に呼び覚まされるように体を起こした。
「彼女の護衛……、いや、元護衛かな……?」
明らかな非常事態であるというのに、冷静さを失わない夫が首を傾ぐ。
ベッドから転がるように下りて部屋を出ようとする私を、慌てて引き留めたのは家令の後からやってきた侍女であった。まず、お着換えをなさってくださいという彼女に、逸る気持ちを抑えつつ頷く。
さすがに寝間着のままでは人前に出られない。
そうして、軽く身だしなみを整えて、夫と共に玄関ホールに向かった。長い廊下が、いつもよりも倍、長く感じる。やっとたどり着いた先には、黒衣を纏った男性が二人。並び立つ体格からして一般市民ではないと分かる。
背も高く体も分厚い。目深に被ったフードが顔を隠しているので一見すると強盗のようでもあった。無意識にも身構えてしまって、二人が居る場所よりもかなり手前で立ち止った私の視界を塞ぐようにエイヴァンが一歩前に出る。
そんな私たちに気づいた二人は、フードを脱いでただちに膝をついた。
「夜分に申し訳ありません」
その声は掠れていて、ところどころ蓋をしたかのように音が抜け落ちて聞こえた。
元々そういう性質の声なのではなく、水分を失って干からびているように感じたのは間違いではないかもしれない。きっと口の中が渇いているのだ。
エイヴァンの肩越しに改めて彼らを観察すると、どこから来たのか、足元も肩にかけているローブも砂まみれだった。
「マリアンヌ様」
呼ばれてその顔を見る。顔には包帯を巻いており、右目が隠れていた。何があったのか口の端も切れているし、緩んだ包帯の先には血が滲んでいる。
こちらを見据える青い目がゆらゆら揺れて何かを訴えかけてくるようだった。
―――――知っている。
私は、その男性を知っていた。
そうだ。イリアと街で会ったとき、彼女の傍についていた護衛騎士である。間違いない。なぜか確信があった。光沢を失った金色の髪と、痩せた頬に、それでも既視感を覚えたのだ。
近づけば、顎から血液らしきものが落ちる。大理石の床にぽつりと小さな水たまりを作った。
一体、何があったのか。
「こんな時間にただ事ではないね」
エイヴァンの優しくも厳しい声が、彼らに自らの行いの是非を問う。けれども彼らはひるまなかった。
「どうか。どうかお助けください。もう、貴女様しかいないのです。マリアンヌ様」
眠気なんてとうに吹き飛んでいたけれど。あまりにも切実な声に、頭の芯が研ぎ澄まされるようだった。
「どういうことですの?」
前へ出ようとする私を夫が制する。危ないから後ろに下がっていろ、と。
「信用できる方が他にはおりません」
声が、震えていた。「と、いうよりももはや誰を信じればいいのか分からず、礼儀を欠いているというのは百も承知でここまでやって参りました」
下を向いたその人の頬からまた一滴、液体が零れ落ちる。今度は赤くない。
汗なのか涙なのか、私がいる場所からはよく見えなかった。
「イリア夫人のことだということは聞いているよ。でも、それなら協力できない。僕の妻を危険にさらすわけにはいかないからね」
私が口を開くよりも前に夫が返事をしてしまう。
「エイヴァン様!」たまらずに口を挟む。
「君は黙っていて。我が家の主は僕だ。全ての裁量権は僕にある」
目を眇めるようにして私を見やるエイヴァン。名指しされたとはいえ、こういう事態であれば私に決定権はない。それはよく分かっている。そもそも、イリアとの関係が明らかな彼らがここに来たこと自体、我が家を危機的状況に追いやっているようなものだから。
ノルティス家がイリアを見限ったのであれば、そこに国王陛下の意志があるとも考えられなくはない。
侯爵家が陛下の意にそぐわないことをするはずがないからだ。
部屋の中まで招き入れなかったのは、万が一の事態を想定したからであるが、玄関ホールで留め置いたのは後から言い訳ができるからだ。私たちは彼らを歓待したわけではなく、押し入られたのだと。
でも。
「エイヴァン様。お願い致します。話だけでも聞かせてほしいのです。私は、イリア様が今どうしているのかだけでも知りたいのです。―――――お願いです!」
腕にしがみついて哀願する。お願いです、お願いですと繰り返せば、やがて大きく息を吐き出す我が家の主。
「僕が君に弱いってこと、分かってやってるよね……」呟いてから、じゃぁ話だけは聞いてあげようかと、その場で彼らに事情を説明させる。
そして分かったのは。
その人はやはりイリアの義衛騎士で、名をアルフレッドと言った。家名は捨てたという。
「イリア様は今、下層の囚人が入っている牢屋にいるようです。いくつかの牢を転々としていたため、足取りを掴むのに時間がかかりました」
「……下層の?! それは、どうしてですの? そんなはずありませんわ!」
わなわなと身体が震えた。
我が国では、罪を犯した貴族の大半が刑を免れる。特権階級だからだ。
それでもよほどの罪状であれば捕縛され、刑にも処されることもあり得る。今回のように。
ただ、その場合も貴族が入る監獄は、一般の囚人とは別のところである。たとえ刑罰が極刑だったとしても、その日まではよく整えられた部屋で過ごし、望めば神職の者とも話ができる。貴族としての特権は、罪人であったとしても死ぬまで保証される。そういうものなのだ。
特にイリアは、侯爵家の人間であるから低層階の人間と同じ扱いをされることは絶対にないはずなのに。
それとも既に、離縁されているのだろうか。
「俺も、牢に入っておりました」
その言葉で、彼がなぜ怪我をしているのか理解する。これは恐らく、拷問の後だろう。
イリアの共犯とされた騎士というのは、アルフレッドだったのか。
しかし、その彼は釈放されてここにいる。ならば、イリアもそうなる可能性があるのかもしれない。光明が差したような気がしたのに、膝をついたまま私とエイヴァンを見上げたその男は、そっと首を振る。
その仕草にどんな意味があるのか分からなかった。
「―――――私が、彼を逃がしました」
今の今まで黙って俯いていた男が、顔を上げて静かに告白する。朗々と響く声に威厳を感じた。たった一言に重みがあるのは、彼が責任のある立場にいるからなのか。私でも知っているくらいに著名な騎士だった。
小隊を率いているはずで、警邏のために馬に乗って闊歩しているのを見たことがある。瞠目している私に名乗ろうとしたのだろう。口を開いたところを、エイヴァンが制する。
「君はこの物語の登場人物じゃない。名もなき人だよ。アルフレッドの影だ。名乗らなくていい」
彼の立場を重んじたからこそである。
アルフレッドと違って家を捨てたわけではないだろう。小隊の隊長を務めるほどの騎士が脱獄に手を貸したともなれば、ただでは済まされない。それこそ号外が出てもおかしくない。しかし、今のところそういった動きはなく、要するにまだ誰にも知られていないということだ。
「けれど名前がないのは不便だから、フランツと名乗るといい」
エイヴァンの提案に、その人は頷いた。
「それで? なぜマリアンヌなのかな?」
アルフレッドいわく、私とイリアが街であったときのことをよく覚えており、信頼に値する人間だと判断したらしい。何を見てそう思ったのか分からない。たった一日だけ、数時間の邂逅だ。
もしかしたら、私こそが悪人でイリアを貶めるような人間かもしれない、と伝えれば、アルフレッドは自信ありげに「貴女様がそんな人ではないことはもう、分かっています」と強い眼差しで断言する。
「一度しか会ったことがないのに、それはあまりにも浅慮では」
私を信じてくれるのはいいが、誰が敵か味方か分からないこの状況においては短絡的な気もした。
けれど、その人は譲らない。
「なぜ、ですか。なぜ、私を信じるのです?」
僅かに言い淀んだものの、アルフレッドはにわかには信じがたい事実を訥々と口にした。
イリアのことを長年に渡って見てきたらしい彼によれば、彼女は幼少期から既に孤独の中にあったという。
冷徹ともいえる両親と、そんな彼らから一身に愛情を受けて育った妹。
どんなに愛情を傾けても答えてくれない婚約者。その苦しみは筆舌に尽くしがたいと残された片目を強く閉じる。
心からの優しさを示す人間など、ほとんどいなかったと。
かいつまんで聞いた話だけでも、心臓が絞られるような痛みがある。
私にとってイリアという人は、勤勉で努力家、研ぎ澄まされた精神力を持ち、誰かをひたむきに愛し続ける姿は、尊敬に値するもので。だからこそ、誰もが彼女を愛するはずだと信じていたのだ。
なのに、彼女が実際に生きてきた世界は、どうしてこんなにも痛みを伴うものなのか。
仲が良いと思っていた姉妹はそんな関係ではなく、大切にされているはずと信じていた婚約者も本当はそうじゃない。ノルティス家の人間として周囲から敬われていたかと思えば違うようで。
親しい人間がいたのかどうか疑わしく、誰が相手でもどこか隔たりを感じる。
私はずっと、夢を見ていたのか。夢物語の主人公は、夢でしかなかったのか。
本当の彼女は、どこにいたのだろう。
「―――――マリアンヌ様」
「は、い、」
「……マリアンヌ様はあの日。シルビア様のものとは別に、イリア様にもお菓子を包んでくださいましたね」
「え、ええ」
「イリア様は、貴女様にもらったお菓子をずっと眺めていました。食べてしまったら失うと、なかなか手を付けることができずに、何日も眺めていて。とても嬉しそうだった。これ以上、置いていたらお菓子が駄目になると言ってやっと口をつけたのです。それで、……美味しくて、嬉しい、と噛み締めて、」
笑っていたのです。あまり見たことがない顔で。
「その後、お菓子の入っていた袋を、空になったそれを、大事に、大切に仕舞っておいででした」
アルフレッドの声がぐにゃりと歪んで聞こえた。それほどに、苦しそうだった。泣いているような気がしたけれど、彼はそれでも涙を堪えて。嗚咽で息ができなくなったのは私のほうだった。
贈答用の特別な包装をしたわけではない。イリアの分は、シルビアへの贈り物のついでに用意したものだ。シルビアへあげるなら、イリアも食べてくれたら嬉しいと。自己満足で、渡したものだった。特別なものじゃない。大したものでもないのに。
「心を込めた贈り物をもらったのが、―――――きっと、初めてだったのです」
胸を引き裂かれる。
どうして私はいつも、諦めてしまったのだろう。




