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屋敷に戻ってから、イリアの置かれている状況を把握するために、まずは情報収集にあたった。
けれど、学院時代も結婚後もイリアと親しくしていたわけではなく、共通の知人もほとんどいない。だから、できることは非常に限られていた。そんな風にまんじりともせず頭を抱え、手をこまねいていた私の助けとなってくれたのは言うまでもなく、エイヴァンである。
私や娘に対しては過保護すぎるほどに過保護な夫だ。私たちが少しでも豊かに暮らすことができるように懸命に働いている。領主としての仕事はもちろん、それとは別に活路を見出した貿易業も忙しく、いったん外に出ると帰りが遅い。晩餐を共にできるように努力しているようだが、なかなか難しいこともある。
今日も夕刻に、帰りが遅くなるという知らせがあった。
夕食を終え、娘が眠ったのを確認し、夫の帰りを待つ。結局、顔を合わせたのは明け方だ。それまで起きて待っていた私の顔を見て、何か察したのだろう。当たり前に手助けを申し出てくれた。
エイヴァンは、手広くやっている事業のおかげで顔が広い。あらゆる階級の貴族とも顔見知りだ。
とりあえず、と数日かけて色々探ってくれた。その中で知りえた情報は、イリアが関わったとされる犯罪は複数件におよび全て立証済みだということ。また、妹殺害の嫌疑においては現段階ではまだ断定されたわけではないが、確証があるということだった。
併せて、彼女の護衛も共犯として投獄されたと聞く。
「そもそも、イリア様は妹殺害の罪で捕まったのではないのですか……? 他にも何かあるのでしょうか」
「そうだねぇ。多分、妹君殺害の件が本題ではあると思うんだけど、恐らくそっちの立証に時間がかかるから余罪を追及して時間を稼ぐ算段だろうね」
「では、殺人以外の罪はでっちあげということですの?」
「うーん。それがそうとも言い切れないんだよね」
時間は既に深夜である。室内の明かりが夫の顔をほの暗く映し出す。目元に落ちた影はより深く、双眸に濃い闇を生んでいた。目端が利き、商才もあるので狡猾だと言われがちだけれど。
丸顔に大きな瞳と小ぶりな鼻と口。年齢よりもだいぶ若く見られるので、対同性だとあなどられることも多いらしい。だからといって、そこで卑屈にならないのが彼だ。ひげでも生やそうかとぼやいていた。
意見を聞かれたので、正直に似合わないからやめたほうがいいと言った。なのに、聞いていたかどうかわからない。いつかはひげを蓄えようと画策している。
商いをするにあたって、男性が年齢を逆に詐称することはよくあるそうだ。
外見が他人に与える印象というのは、内面と比較しても割合が大きい。
ゆえに、女性が着飾るのは自分を大きく強く見せるためであるし、自信をつけるため。見るからに高額なものを身に着ければ、社交界では一定のけん制も生まれるし、威嚇の意味合いもあるだろう。これほどの財力があると示すのは、己を守る盾となる。
で、あるならば。派手な装いを厭うイリアはただひたすらに自分自身を磨き上げ、知識と教養、知恵で貴婦人としても己の地位を向上されせてきた人なのだ。見掛け倒しではない。
そんな人が。―――――犯罪に手を染める?
あり得ない。
「君がそういうのも分かるけれどね。……僕は君のことを信じているから、君がイリア様は潔白だというのなら、信じたい。だけど、マリアンヌは実際のところ……。イリア様のことをどれだけ知っているの? 僕が知る限り、君とイリア夫人が仲良くしているのを見たことがない」
商業を学ぶため、郊外の学校に通って教育を受けていたエイヴァンは、イリアとの接点がほぼない。幼い頃、公の場で何度か顔を合わせた程度らしい。すなわち、成人してからの彼女しか知らないのだ。
「そもそもマリアンヌはイリア様のことをほとんど知らないんじゃない? 仲良くもないのに、彼女のことを気にするのは、なぜ?」
「、」
反論しようと口を開きかけて、彼の言っていることがあまりに的を得ているので何も言えなくなる。
「―――――でも、仕方ないよね」
「え?」
「調べてあげる。もっとちゃんとね」
エイヴァンはにこりと笑った。ほんの一瞬前まで、私がイリアに関わることをあまりよく思っていないようだったのに。
「君は多分、イリア様の愛好者なんだね」と、一人で何か納得している様子。
愛好者? 全然違うような気がしたけれど、だからと言って自分がイリアに向けている感情を何と呼ぶのか表現するのは難しい。
ただ、分かっているのは。
私はずっと、彼女になりたかったのかもしれないということ。結婚してから、そのことに気づいた。
幼い頃から、大抵のことは何の苦も無くこなすことができたので、有り体に言えば何においても達成感が得られなかった。いつかのときに護衛から『いつも面白くなさそう』と言われたが、きっとそれは正しかったと思う。
壁を乗り越えるという体感がないので、何かを始めるときに心の底から沸き立つような期待感もない。
また、利発と評される一方で、自分の能力の天井も見えているから、できそうにないことは最初からやらなかった。要するに私は、無駄な努力を無駄だと思い込む愚かな人間で。そうやって無駄だと切り捨てた部分こそ、本当は大切なものだったということに気づいたのは最近のことだ。
あくまでも想像でしかないが、イリアは恐らく「できないかもしれない」をいくつも乗り越えて、一つ一つ確実に身につけていったのだ。そうして、重ねた努力が彼女の存在そのものを押し上げてきたのだと痛感する。不撓不屈の精神は、誰にでも真似できるものではない。それ、そのものこそが才能なのだといえる。
天井からあるからと、その向こうに青空が広がっているにも関わらず飛ぶ練習すらしなかった私。
この背には、一度も羽ばたくことのなかった翼が生えている。動かし方を知らないので、動かすことができない。
凝り固まったそれは、いつか膿んで、千切れて落ちる。そのときまで、役にも立たない翼を引きずって歩くしかない。
イリアは、―――――飛んだのだ。折れて血に塗れた翼を、それでも動かして天井を突き破った。
私は、遠くからそれを見ていたのだ。
結婚してから、結婚前よりも人脈が広がり多種多様の人と関わるようになったことで、自分がいかに他人を頼って生きてきたのか分かった。
改めて考えてみると、私に与えられたものは全て周囲が吟味して選定したものだ。そこに失敗はない。
ルビーはピアノが得意じゃなかったからフルートを選んだと言っていた。私はピアノが得意だったからフルートは与えられなかった。演奏したことがないから分からないけれど、もしかしたらフルートは苦手なのかもしれない。最初にフルートを渡されていたらどうだっただろう。
練習したところでフルートがうまくなったとは思えない。
今だって。エイヴァンがいるからこそ、私は屋敷の中という安全圏にいてイリアに関する情報を得ることができるのだ。
「ありがとうございます。エイヴァン様」
協力してくれるという夫に礼を述べると、彼はいんだよと頷く。
僕は、君を愛しているから。君が望むから何でもできると。
*
「イリア夫人と妹君について、お前はどのくらい知っている?」
もしかしたら父からも何か話が聞けるかもしれないと生家に連絡を取り、家令に依頼して時間をとってもらった。久しぶりの屋敷に懐かしいような感覚になりつつ、父と対面する。
二人きりというのもまた、あまりないことだったので落ち着かない。特に事が事だけに。にこやかに迎え入れてくれたが、空気もどこか張りつめていた。
応接室に入ってからは慣例通り、互いの体調を労う挨拶に始まり、向かい合ってソファに座る。応接台の向こう側の父は険しい顔を崩さない。早々にイリアと亡くなった妹の話を振られた。
姉妹の関係値についてはなかなか説明が難しいけれど、仲が良いと思っていたのでそれをそのまま伝える。すると、実に申告な顔で否定された。
社交界のごく一部の人間にはイリアと妹の不仲がまことしやかに囁かれていたと。
そんな話は知らない。
ぽかんと口を開けたまま動揺していると、誰もが知りえた情報ではないと言われる。
あくまでもイリアを貶めようとする輩が良からぬ噂を流していると、ほとんどの人間は取り合わなかったらしい。それはそうだと強く主張する。
イリアが妹を案じて、いかにも大切そうにしていたのをこの目で見ているから。にも関わらず、父にはすげなく返された。
「けれど、こうなってしまっては。それも事実だったのだと思わざるを得ない」
続けて訊かされたのは想像もしていなかったイリアとソレイルの関係である。彼らは、ひどく冷め切っていたというのだ。
そんなはずはない。学院で見かけた姿から推察したソレイルの気持ちについても熱弁してみたが、ただちに覆されてしまう。
ソレイルはイリアのことを疎ましく思っていたとソレイルの友人が証言したらしい。
「その証言なさったというのは、赤い髪の……エドワルド様ですか?」
彼のイリアへ向けた優しいとは言えない視線や口調を思い出す。
それには返事をせず「ともかく、ソレイル様とイリア様の関係はあまりいいものではなかったようだね」と結論づける父。
夫婦の本当の関係なんて当人以外には分からないものなのに、外側から見ただけでこんな風に決めつけられてしまうのだと首筋が冷える思いだった。
だが、それはそうとして。
「イリア様とソレイル様が不仲だったということを踏まえても……、いえ、それはどうかわかりませんが……。そのことがこの度の事件にどう係わるのですか? 関係がないのでは」
「それがそうではないようなんだ」
「どういうことですの?」
「ソレイル様はどうやら……、シルビア嬢に入れ込んでいたようでね」
「……入れ……? え? ―――――それは、どういうことですか……?」
自身の震える声が室内に響く。
本当は、父が言った言葉の意味を理解しているはずなのに、心が受け付けない。それでも父は、容赦なく真実を突きつけた。
「マチス家の使用人によれば、ソレイル様はよくシルビア様に会いに来ていたという話だった」
「!」
それも、結婚前からだということを聞かされて、一気に血が下がる。顔が冷たい。つま先から漏れた出た血が、足元に血だまりを作っている気さえした。
学院に通っているとき、確かにソレイルがイリアの屋敷に足繁く通っていると聞いた。その話が、ここに帰結するのか。
「二人は恐らく恋仲だったのではないかという話だ」
「何を仰っているのですか?!」
たまらず、父の声に被せるように声を上げる。
本当に、私は今、一体何の話を聞いているのだろう。
勢いあまって立ち上がった私に、座るように指示を出して「何が真実かは、私にも分からないよ」と感情全て、どこかに置いてきたかのような声が告げる。事件についての概要を知り尽くした専門家ではないのだから当然だ。父はただ、他人から聞いた話を噂の一つとして語って聞かせてくれただけ。事実確認をしたわけでもない。
「……ならば此度の事件はソレイル様とシルビア様の仲に嫉妬したイリア様が犯行に及んだと、そういう話になっているのですか?」
深く頷いた父は不意に視線をそらし、腕を組んだ。何か考え込んでいる様子である。
ややあって、応接台に積み上げていた書類の束を取ってパラパラとめくり、人差し指でとんとんとこめかみを叩く。考えをまとめるときの癖だ。要するに、これはそんなに単純な話ではないのだと察する。
「全て、表向きの話だよ」
「……表向き?」
自警団に所属している人間からはまた別の話を聞いていると言ってから、父は黙り込んだ。
「お父様?」
「―――――マリアンヌ」
「はい」
「私はお前を愛している。とても大切だ」
「はい、存じております」
「そうだな」
だから、これでこの話は終わりだと一方的に打ち切られた。
「……お父様?」
前触れなく立ち上がった父は歩き出しながら、三つになったばかりの孫娘についてあれやこれやと訊いてくる。目尻を下げて好々爺然とした表情だ。誕生日の贈り物を用意しているからエイヴァンと二人でまた、日を改めて来るように言われる。分かりやすいほどに分かりやすく話を逸らされた。
「お父様……!」
イリアの話を続けてほしいと思うのに、全く聞く耳を持たない。
ベルを鳴らして侍従を呼び、シンシアもお前に会いたがっていたからと、彼女を呼んでくるように言いつけている。そんな姿をみれば、これ以上話を続けることはできなかった。父と二人きりならまだしも、第三者がいる場でイリアの話をすることはやはり、憚られる。
彼女は今、犯罪者として囚われている。
彼女と親交があるように思われるのは、良くない。私だけじゃない。誰にとっても不都合なのだ。
イリアはもはや、そういう存在なのだと肝に銘じなければならない。私にだって守るものがある。娘を巻き込むようなことは、絶対に避けなければならない。
実際、イリアと深い係わりがあったとされる人間はしかるべき所から調査が入るらしく、戦々恐々としているようだ。日を追うごとに、事は私が思っていたよりももっと重大なものとなっている。
侯爵家の嫡男の妻が、実は犯罪に手を染めており、肉親を手にかけたとなれば社交界だけでなく国家を揺るがす大事件でもある。ノルティス侯爵家は、国王の信頼も厚いと、我が国に住まう人間なら誰もが知っている家だ。
ノルティス家が一刻も早く事態の収束を図ろうと躍起になっているのも、伝わってくる。
このことがイリアにとって良い方向に動くことを願うしかない。
誰か早く、イリアの無実を証明してくれないだろうか。
ノルティス家だけではなく、マチス家だってイリアを救うために動いているはず。伯爵家第三位ではあるが、現当主は知略の人として知られる。彼女の無実を証明できるような証を持っているのではないだろうか。
しかし、父の言った通り、イリアをめぐる三角関係が事の発端なのではなく、この事件に別の思惑があるのなら。これはただの強盗殺人ではないということなのか。答えはどこにあるのだろう。何も分からない。
どこが表で、どこが裏なのか。
ひとまず、父から聞いた話を持ち帰り、エイヴァンに伝えてみる。
「そうか。……そういうことになっているんだね」
数日前よりももっと深刻そうに黙って聞いていた彼は、長い沈黙の後こう言った。
「イリア夫人の重罪は確定したみたいだ」
「―――――多分、極刑に処される」




