12
ずっと、考えていたことがある。
もしも人生をやり直せるとしたら、どこから始めるだろうかと。
いくつも犯した過ちの内、何をなかったことにするだろうと。けれど、いくら考えても、何をやり直したとしても私が私のままであるなら、過ちはやはり過ちのままなのではないかと思う。
枝分かれの道は結局、巡り廻って同じ場所に辿りつく。行き止まりじゃない限り。
すなわち、どの道を選んだとしても、最後は同じなのではないか。
ルビーが教えてくれた通り、何も選ばない道すら選択肢だったとしても。
道を進まずにその場に留まったとして。永遠に同じ場所に居続けることはできない。
それとも、始まりだと思った場所は出発点ではなく、既に到達点で、すなわち「終わり」だったのだろうか。
*
やがて私たちは学院を卒業し、それぞれの道を歩むことになった。
卒業式の日に、少しだけイリアと話をする機会に恵まれたのは、どういう幸運だろう。学院の校門前で迎えの馬車を待っているときに、不意に声をかけられたのだった。
「マリアンヌ様。……あのときのお菓子、妹はとても喜んでくれましたの。それにとても美味しかったですわ。本当にありがとうございました」
感想を聞かせてほしいと言った私の言葉を覚えていたようだ。忘れていると思っていた。
驚きのあまり返事もできずにいる私に微笑みさえ浮かべて、彼女はいつも通り優雅に礼をする。何か言わなくちゃ、と思うのに咄嗟には声が出ない。やがて絞り出したのは、
「お礼を言うのは、私の方ですわ。こちらこそ楽しい時間をありがとうございました」
いわゆる慣例に倣ったような面白くも何ともないありきたりな返答で。二人の間には気まずいような空気が流れる。
街中を並んで歩いたのが夢だったかのよう。
まもなくその人は「それでは、ごきげんよう」と、あの日と同じように待たせていた馬車に乗り込み、去って行った。
砂埃がけぶる中、取り残される。あまりにあっけない最後だ。
この手には何も残らなかったし、何一つ渡せなかった。私たちの間には本当に何もなかったと、今更ながら思い知る。
「ごきげんようイリア様。また、どこかでいずれ、」
彼女がいなくなった後、ぽつりと地面に転がるように落ちた声を聞いたのは、私だけだ。
「……いずれなんて、きっと来ないわ。もう、来ない」
卒業後、すぐにエイヴァンの家に入ることになり、―――――あっという間に月日が流れて行った。
時を同じくしてイリアも侯爵家に嫁いだのだが、そこはさすがの名家である。国王からの信頼も厚く、広く名が知れ渡っている旧家でもあるから、イリアとソレイルの結婚は大々的に報じられた。
街頭には二人の肖像が貼り出され、彼らの結婚を知らせる号外が配られたほどである。新聞の売り子が二人の出会いを面白おかしく語って聞かせた。創作なのか何なのか、互いの両親によって引き合わされた二人は、その顔をみた瞬間、恋に落ちたらしい。
イリアはソレイルに夢中で、ソレイルも彼女に夢中。他の異性は目に入らず、相思相愛でこの日をずっと待ち望んでいたと。
事、伯爵家第三位の家柄であるイリアが、相当に格上である侯爵家に嫁ぐ夢物語のような話は年頃の少女たちを貴賤なく喜ばせた。
彼女はまさしく、夢物語の主人公。
知らないうちに、私たちは随分と離れたところに来てしまったようだ。
互いが結婚した後、何度か夜会で顔を合わせる機会もあったのだが。イリアが私の存在を把握していたかどうかは分からない。
今や、侯爵家第一位の家柄と男爵家第一位の格差である。
イリアに声をかけられない限り、挨拶することさえ許されない。それに、いつだって彼女を意識している私と違って、当の本人は同格かそれ以上の女性たちの相手に忙しく、目すら合わなかった。
学生のときとは違い、実に社交的に振舞って高位貴族たちと親睦を深めている様子である。にこにこと貴婦人らしく笑う横顔を遠くから眺めていた。
相変わらず、華美ではなく品の良い装いに感心を覚えながら、もっと明るい色のほうが似合いそうだと思うのに、助言できるような立場にない。
そもそも彼女は私の言葉など必要としていないだろう。
侯爵家の嫡男の伴侶である彼女。流行を追う立場ではなく、流行を生み出す人になった。
私たちはもう二度と、同じ場所に立たない。立っている舞台が違う。
一抹の寂しさに、それでも自身を奮い立たせて踵を返す。「急にどうしたんだい?」と優しく問うてくれるのはエイヴァンだ。その腕をしっかりと握って、二人で自由に歩く。
ゆっくりと音楽を楽しみ、踊りたいときにステップを踏む。気の置けない友人たちと会話をして時間を潰し、気負いなく、自分の人生を大切していくのだ。
これでいい。これが、いい。
―――――その後も、社交界では度々、イリアのことが話題になった。ソレイルと共に外交に携わることも増えたという。語学に堪能なのは、学生時代に学んだことが生きているからだろう。
とある晩餐会では、危うく国賓の命を奪うところだったのをイリアが救ったらしい。その方は友好国からの客人で、いうまでもなく外交の最重要人物。先方から事前に、料理に使用する食材に関しての注意事項を伝達されていたにも関わらず、通訳がうまく汲み取れなかったようだ。そのため、今回に限り使用してはならない食材があったのだが、料理人は把握していなかった。
晩餐の最中、出してはならないはずの食材が混じっていることに気づいたのが、まさにイリアだ。
機転の利く彼女は実にさり気なく皿を下げさせたという。
イリアは、客人との会話の中でたまたま、食べられない食材についての話を聞いていたらしい。通訳を介さずに言葉の意味を理解できるからこそ、知りえた情報だった。我が国と、友好国では同じ果物でも名前が違う。また、同じ名前でも、別の果物を差すことがあるのだ。
運よく事なきを得た晩餐会だったが、当然、このことは問題視された。しかしながら、そのときもイリアがうまく取りなしている。
結果として、職を失った者はいるが、刑に処されるには至らなかった。こういう事態では、極めて稀なことだ。国政に関わることのない私でも、知っている。
学院で、いつも外国語の本を読んでいたイリアの姿を思い出す。山積みの蔵書と、インクで黒く染まった指。眉間に寄った皺に、楽しそうとは思えない口元。
侯爵家に入るために、一体、どれほどの知識を頭の中に詰め込んだのだろう。
「……君は本当に、イリア夫人のことが好きなんだねぇ」
外出先より持ち帰った新聞を読み込んでいると、エイヴァンが苦笑する。
そこには、イリアが夜会で纏ったドレスが他にはあまり見ないシルエットだったので、女性たちの関心を引いた。と、そんなことが書かれていた。どうやら外国から仕入れたものらしい。
「だって気になるんですもの」
対面のソファに腰かけた我が家の主は「まぁ、彼女の名前は商人たちの間でもよく聞くよ」と、組んだ足に肘を置く。
騎士としての才能は開花しなかった彼だが、商才には長けていたらしい。
男爵家の財産を倍に増やしたようで、義両親を大変喜ばせていた。そして、わが父も。その人にしては珍しく、手放しで私の夫を称賛する。亡き母と私以外には冷淡である父が珍しいことだ。面食らっている私に、シンシアが笑いながら、旦那様は案外、息子が二人もできて嬉しいのかもしれませんと教えてくれた。
「イリア様は何か事業に携わっていらっしゃるの?」
「いや、そうじゃないけど。我が国で起業を考えている諸外国の実業家に助言なさっているようで」
「まぁ、そうですの? さすがですわ!」
「そうだね」
クッキーにジャムをつけて食べた夫が美味しいと微笑む。その姿を見ているだけで、心がほっと温かくなった。いわゆる、世間一般でいうところの燃え上がるような恋愛感情とは違うのだろうけれど。
この人と一生を添い遂げるというのは、決して悪いことではない気がした。
昨年産んだ子も、もう少しで一歳になる。
幸福の形はきっと人それぞれなのだろうけど。私は幸せで、誰の目から見てもそう映るに違いない。
「かぁたま!」
乳母が連れてきた我が子を抱き上げた。柔らかな甘い香りがして、また少し満たされた気分になる。
「お、だいぶ言葉がはっきりしてきたなぁ」とエイヴァンが、我が子の小さな頭を撫でて、ついでという感じに私の頬を浚った。
幸福は、形のないものではない。
だけど、こんなにもはっきりと明確に、形として存在している。
いつかのとき『奥様は本当にお幸せですね』と実家から連れてきた侍女が感嘆の混じる声で呟いた。
本当に、そう。自身があまりに恵まれていることに感謝する。その相手は両親だ。
―――――そしてまた、時が流れて。
娘が三歳の誕生日を迎えようとしていたとき、それは起こったのである。
「どこぞの貴族のお嬢さんが強盗に襲われたらしいんだよね」
娘のヘッドドレスを街へ買いに行くという私に、エイヴァンが言った。
護衛はついているものの十分に気を付けてほしい、と続ける。
「物騒ですわね」と相槌を打てば、くれぐれも油断しないようにと重ねて見送ってくれた。
馬車に乗った後、侍女と他愛もない話をしながら、ついでに私用でも公用でも出かけるときは必ず二人以上で行動するように言い含め、もし可能なら侍従を連れて行くように伝えておく。神妙に頷いた侍女にほっとして、自身も気を付けようと改めて身を引き締める。
かといって、いつもと違うことをしたわけではない。ただ、気を抜かないようにしただけ。つまり、私にとってはその程度のことで、誰かが強盗に襲われたのだってまるで別世界の出来事だった。
強盗に襲われたのが誰で、その女性がどうなったのかすら確認しなかったのだ。
正直に言えば、このとき。私はエイヴァンとどのような会話を交わしたのか、仔細を思い出せない。その程度の話題だったのだ。日常会話の一つとして消費されていくものの一つ。
手に入れた情報も興味がなければ途端にこの手から消えていく。
水面に浮かぶ、小さな気泡と同じ。放っておけば、そこにあったことすら気づかれず消滅する。
「何だか、きな臭いよね」
「……何のことですの? 何か臭いますか?」
後日、仕事に出るエイヴァンを玄関ホールで見送っているとふいに落とされる不穏な気配。
首を傾げる私の頭をさらりと指で撫でて「何もないといいけど」と呟く。どうなさったの、と訊けば何でもないよと笑う夫は、何かを振り切るように頭を振ったかと思えば、不安げな顔から一転して普段通り陽気な雰囲気を纏う。
「おとうさま、いってらっしゃいませ」女の子は言葉を覚えるのが早いなぁ、と夫が満足気に笑った。
迎えの馬車に乗る後ろ姿に手を振って。今日も何事もなく一日が始まり、やがて何事もなく一日が終わるはず。
もしも。この先に起こる出来事を予見できていたなら。
私はどうしただろう。私に何かできることはあったのか、私のこの小さな手で、背後に現れて今にも私を呑み込もうとしている運命という強大な荒波を止めることができたのだろうか。
ずっと、ずっと考えている。
音もなく、姿も見せず、気配すら感じさせないそれを、前方にしか突き出すことのできないこの腕が止めるなんて。無理難題にもほどがある。振り返ることすらできなかったのだから。
それでも。
それでも、腕を突き出すべきだったと。―――――考え続けている。
「イリア様が?」
初めはただの噂だと信じて疑わなかった。社交界では時々、火のないところにも煙がたつ。そういった類の話だと考えていたのだ。だから、それがまさかただの与太話ではなかったとは誰が思うだろう。
「そうですわ。……犯罪に関わっていたようですの」
男爵家第三位のご夫人に招かれた茶会で、そっと耳打ちされた噂話に眉を顰める。まさか、そんなはずはないと笑い飛ばした私に、相手方も調子を合わせてくれた。今しがた口にしたばかりの話を打ち消そうとして、別の話題を提供されたものの放っておくわけにもいかず。
「あのノルティス家のご夫人に限ってそんなことがあるはずありませんわ」と改めて訂正する。
その場では皆の同意を得ることに成功したが、それでも不安が過った。
ノルティス家は現当主だけでなく、何代にも渡って国政における重要な役目を与えられ、権力を欲しいままにしている家だ。要らぬやっかみを買ったのかもしれない。
だけれども。それほどの権威を手中に収めているのであれば、例えばもしもイリアが真に犯罪に関与しているとしても(そんなことはあり得ないが)ノルティス家が護ってくれるはず。
何にせよ、彼女が困ることにはならないだろうと踏んだ。根拠のない安心材料に息を吐く。私には何もできないけれど、ソレイルが彼女を守るに違いない。
そう、強く信じていたのに。
イリアは妹殺しの罪で捕縛されてしまうのである。
街頭に。
彼女がソレイルと結婚したときと同じように、号外が貼り出された。わずか数年前のことと、状況が似ているにも関わらず、その内容は天と地ほどにかけ離れている。
美しく描かれたイリアの肖像に「殺人犯」という文字が、黒く穿つようにくっきりと記されていた。その横に、彼女の妹らしき女性の似顔絵があり、その上には大きくバツが描かれている。被害者の顔を隠す意味合いもあるのだろうが、あまりに配慮に欠けた記事だった。
何が、起こっているの?
強盗に襲われたという女性は、イリアの妹だったの?
それを仕組んだのがイリアなの? なぜ? どういうこと?
理解が追い付かないまま立ち竦んでいると、ぞくぞくと集まってくる野次馬に押しのけられるようにしてたたらを踏んだ。
抱きしめるように支えてくれた侍女の手を握る。ぶるぶると震える身体は抑えがきかないほどに、動揺していて、身体の芯から滲み出る恐怖に怯えていたのだった。
茫然としている間にも、新聞売りの少年が鍋の背を叩いて人を集める。
カンカンカンカン!
けたたましい金属音と共に、この衝撃的な事件の顛末を、大仰な身振りで語って聞かせていた。
一様に深刻な顔をした聴衆が、やはりノルティス家の人間は両手が血に染まっていると吐き捨て、誰に怯えているのかひそひそ話を始める。更に声を落として「悪女」「悪辣な女」「気性が激しく従者をいたぶっていた」など、あることないこと噂話に興じている。一つ一つの声は小さいのに、集団になると大声で叫んでいるようにも聞こえた。私の耳は、つぶさに一つ残らず全てを拾っていく。
そのどれもが、イリアを貶める言葉だった。
あれほどに努力して、あれほどに苦しみながら手に入れた居場所を。
こんなにもあっさりと失くしてしまうのか。
ここに彼女はいないのに。彼女がここにいて、彼らの中傷に傷つく姿を想像してしまう。
イリアが妹を害するなんてこと、あるはずがないのに。これは絶対に何かの間違いだと分かるのに、彼女の犯行だと分かるような確固たる証拠があるからこその嫌疑だろうと思えば、迂闊なことは口にできなかった。
私自身も立場のある人間である以上。騒ぎを起こして、家族を巻き込むようなことはできない。
何より、彼女への疑惑を覆せるような信用度の高い、無実の証を持っていない。
知っているのは、イリアが妹想いの姉だったということだけ。
そして、彼女が繊細で傷つきやすく、だからこそ他人への配慮を忘れない誠実な人柄だということを理解しているだけ。
そして、それら全てが彼女を救うためには何の役にもたたないということを、私はちゃんと知っているのだった。




