No.106 泡沫の喧騒
矢場はなるべく誤解が発生しないよう、細心の注意を払いながら、それでも日本軍がまったくもって間違っていないと主張しているようには聞こえないように、知り得る情報のほとんどを皆に伝えた。しかし、その努力の甲斐あっても虚しいほどに、皆の心情は穏やかではなかった。そんな中で最初に口を開いたのは美珠だった。
「神崎君がこれ以上、苦しい思いをしないために、辛い道を進もうと思っているのなら止めたい。それは矢場大佐と同じ意見です。...多分、皆も」
美珠が皆の顔を見る仕草に合わせて、皆は同意を示すようにうなずく。
「でも...神崎君から理不尽に何もかもを奪っておいて...ここにまた戻ってきてほしい。また一緒に戦ってほしいっていうのは...無理があるんじゃないでしょうか。神崎君がいてくれたから救われたのは、確かに私たちです。国民って言ってもいいかもしれない。...でも、誰も、神崎君を救おうとしていない」
美珠から放たれる言葉は穏やかなそよ風のようであったが、その場にいる者は全員、美珠が理性で抑え込んでいる感情が今にも沸騰しそうなことを感じ取っていた。
「それじゃあ...神崎君が私たちの敵になったって誰も責める権利はない。国のために、人のために犠牲になってほしいって、頼んですらないまま押し付けたのに、今度は国を救うことまで...押し付けてる。何で...神崎君にそこまで求めるんですか?作戦の度にあんなに辛そうで、私たちのために必死に戦って、ずっと護ってくれていた神崎君を裏切ったのは...私たち日本軍です」
美珠の主張は全く持ってその通りだった。矢場を始めとする将校クラスがぐうの音も出ないほどの正論。国のための犠牲というのならもうすでに払っている。そのうえで、献身的に憂希は戦っていた。奪ってなお、与えてくれていた。救ってくれていた。
「なんですか...指名手配って。誰だって受け入れられないようなことをして、それに怒ったら非国民のおような扱いをして、追い回して、捕まえて。...次は何を神崎君に押し付けるんですか」
「...美珠ちゃん」
「総司令やもっと上の人が、国を主語にして話すのは...仕方ないことかもしれません。立場とか責任とかあると思います。...じゃあなぜ、自分の家族や自分自身ではなく、本来護るべきだった国民の一人である、神崎君なんでしょうか?そこまでめちゃくちゃにしたのに...少しの救いも許さないのは...どうしてなんですかっ...?」
美珠は共に努力を誓いながらも、憂希に及ばぬ自分の力不足に悔しさをにじませていた。自分よりもたくさんの努力をし、時には体を失い、時には精神を抉られながら、それでも戦っていた憂希があまりにも無責任な軍の実験にさらされていたことに、心から腹を立てた。あまりに身勝手で災害のような理不尽を目の前にし、当事者のように怒っている。
「安楽堂。...君の言う通りだ。我々は神崎に甘えすぎた。すべてが身勝手で、こちらの都合で、理不尽だ。だが....何の犠牲も出さない戦争はない。何ものにも侵されない平和はない。それで呑み込めと言っているわけじゃない。ただ....神崎の怒り、憎しみを、本心を確認したい。総司令や軍を破壊することが目的なのか、別の解決策があるのか。もし命で解決するのなら、喜んで俺の命を差しだそう。それで....平和になるのであれば」
「振動...」
振動は以前よりこのことを早く憂希に開示し、落ち着くのは無理だとしても会話が成立し、意思が確認できるように取り計らうべきだと、散々和日月に対して打診していた。しかし、最高機密情報となるこの実験について、和日月は情報開示の一切を許さなかった。そのことをずっと悔いている。
「私たちが彼を巻き込み、陥れ、戦争に利用した事実はなかったことにならない。だが、その犠牲や苦しみを理由に戦争に手を抜くわけにはいかない。使える手は尽くさなければならない。そうでないと本当に神崎が強いられたあらゆる理不尽が理不尽のまま終わってしまう。何かに結びつき、結果を成し、つながってこそ、我々が罪を償うことにつながるはずだと考えている。それがこちらの解釈で、それもまたこちらの都合を押し付けていることに変わりないことは重々承知している。それでもそうする他ない」
「……そうですよね。私が困っているわけでも辛いわけでもない。そんな私がまるで代弁しているみたいに皆さんに意見を言うのは違いますよね。出過ぎたことを言いました。すいません。まずは神崎君と話し合うということであれば、協力させていただきます。今どこで何しているかわからない状態よりも、せめて顔だけでも見れる状況になるのであれば」
この状況で辛くない者はいない。皆がそれぞれにこの状況に思うところがあり、消化しきれていないものを抱えている。咀嚼するにしてはあまりに情報が粗く噛むに噛めない。輪廻はずっと心配そうな顔をしている。その理由はまた憂希の能力行使の気配が感じられなくなってしまったことも関係している。
「心から感謝するよ。...私からはそれくらいしか今できることはない。申し訳ない」
「振動さんや皆さんが直接かかわっていたわけではないのに、いろいろ言ってごめんなさい」
「いや、指摘はもっともだ。神崎は最初から軍や上層部に不信感を持っていた。そもそもこの戦争に対してもそうだ。それが蓄積しているところに今回の件が完全に起爆剤となってしまった。信頼回復に努めきれなかった我々の落ち度でしかない。便宜上、軍に所属し、戦争に参加している以上、脱走兵として扱わなければならないことを...理解してほしい」
振動の辛苦に悶える表情を見て、その場にいる者はそれ以上、何も追及できなかった。ここで責めるべきなのは将校たちではない。
「...旦那には許可取ってねえが、ここにいるメンバーで神崎の捜索隊を組みてえと思っている。だが、大々的な作戦は無理だ。ここにいるメンバーは軍の主力だ。それが作戦に関係ないところであっちこっちに出回ってちゃあ重要な作戦に支障が出る。一回の捜索に対し、スリーマンセルを徹底し、一組ずつ対応する。一日一回一組の捜索だ」
一回の捜索も長時間は実施できないことは明白だが、何もやれないよりはいいだろうとその場にいるメンバーは一人を除いて、矢場の提案に合意した。
「...ゆーき、いない。すぐ...みつける...の...むずい...むずか...」
「輪廻ちゃん、何か感じるの?」
「んん。...ちかくにゆーき...わかんない」
「...輪廻ちゃんは中国でも憂希君が能力使ったらわかったもんね。...てことは」
「日本は愚か、アジア圏も怪しいということか」
「それってまた...あの、なんとかっていう激やば宗教に捕まっちゃったってこと?」
「...その可能性も否定できない。だが、意識がある状態で輪廻が感知できないまま何もなく拉致されたとは考えにくい。...米軍含め、一度確認する必要があるな。まずは内部の情報を洗い出す。それまでは皆、待機してくれ。...今は以上だ。解散」
輪廻の感覚はかなり正確だ。憂希を日々探ることが習慣化したことでその精度や範囲は常に向上している。大気の流れや気圧の変化、雲の流れや波の高さ。あらゆる自然の変化を敏感に感じ取ることで憂希が引き起こす自然界のイレギュラーに反応するセンサーを構築していた。最初に会ったときから感じ取っていた憂希の周囲に存在する違和感。それに気づいたときから、あらゆる事柄を感覚的に理解することが多い輪廻にとって、それを広大な世界から探すのはそう難しくない。ただ、そうは言っても距離に依存するものだ。
「....ゆーき」
輪廻は光信聖教に拉致されたときのどこかに行ってしまったという不安よりも、目の前で見た憂希の激昂が頭の中を支配していた。あんなに暴れた自分に一切怒りを見せず、苛立ちすらしないまま、自分への攻撃から身を挺して護ってくれたあの憂希が、あそこまで怒りに震えていた。そして、今までは違和感程度しかなかった自然の乱れが、憂希の怒りに触発されて理性を失ったような乱れにまで発展していた。すぐにで逃げ出したくなるような天変地異を目の前にし、輪廻はただただ憂希のことが心配だった。
「大丈夫。きっとすぐ帰ってくるよ。憂希君がいない日本軍なんて考えらんないっしょ。てか、それまでにうちらでめっちゃ強くなって、憂希君驚かしちゃお!」
「...うん!」
いつかまた本を読んでくれる。いつかまた言葉を教えてくれる。いつかまた皆と遊べる。そしていつか、憂希も戦わなくてもよくなる。輪廻はそう信じることにした。今、自分に生まれた今までにない複雑さが、知らないのに、知らない部屋に来た時より、不安じゃない。この複雑さを理解した先で、もっと憂希たちを理解できるはずだと信じて。
憂希は日本軍で支給されていた部屋よりも大きな空間に落ち着きをなくし、どこかそわそわしながら荷物の片づけを終わらせた。ホテルのスイートルームとはこんな感じなんだろうかと数時間経ってまだ見慣れない部屋を見渡しながら、憂希はベッドに座り込んだ。
「...」
正直、まだ信用していいか判断できていないケビンや欧州軍に対して、警戒は解いていない。日本軍ですら憂希を陥れ、利用していた。信用できる組織は今はない。というより、組織である以上、信用できない。一枚岩でもない上に、掘ろうと思っても底の見えない裏が大きく深い影を落としている。易々と信用しては命すらどうなるかわからない。
「切断...。あの人が最初から殺す気なら...俺はやられていた」
怒りで冷静な判断ができぬまま、和日月に挑んでいたが、今になって思い返せばかなりの無茶だった。ただ、だからと言ってすべての真実を聞き出すことを諦めるわけにはいかない。すぐに目的へと突き進めない歯がゆさや悔しさはあるが、それでもやけになって目的を達成できなかったら意味がない。
「神崎 憂希君、いるかい?」
「はい」
ドアの向こうからケビンの声がし、それに憂希は返事をする。まだ青年の姿でいるケビンの声に慣れない。老紳士のイメージがまだ張り付いているようだ。
「休んでいるところすまないね。君に最初のミッションだ」
「光信聖教の所在がわかったんですか」
「いや、すでにわかっている側の勢力だ」
「どういうことです?」
「先日、内通者をあぶりだし、その者たちを拘束していたが、その者たちがどういう手段を使ったかは不明だが、拘束から脱出し、欧州軍側に攻撃を仕掛けてきている。この制圧に君の力を借りたい。この件を君に処理してもらうことで、私の立場もきっちりと示したいんだよ」
「...わかりました」
欧州軍で勃発した光信聖教に懐柔された内通者の暴動。その鎮圧という名の紛争に傭兵のように駆り出される。これが憂希が日本軍との溝がさらに深まる小さくも重い一歩となる。
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