No.105 功利と義務
日本軍は再び音信不通、行方不明となった憂希を脱走兵と判断し、通常の処遇では考えられないほどの早さで指名手配となった。グレード1が脱走したともなれば猶予などなく、国家安全および国民の安全を著しく脅かす存在という考えで、即時判断が下された。軍単位ではなく、国単位の規模である。
「余計なことをしてくれたものだな...光信聖教」
和日月は憂希の一連の事件についてまとめられた報告書を読みながら静かに呟く。憂希に行われた実験の詳細を知るものは和日月を含め、軍の中では四人のみだ。だが、その実験経過観察や報告書は保管され、管理されていた。その情報が漏洩すれば誰が知っていようが知っていまいが関係ない。
「...『一部能力兵に詳細を開示する要請あり。連携および信用に大きく悪影響を及ぼす可能性が高いため、開示する対象を極限まで絞り、早急に説明の場を設定する』....何を考えている」
そして、矢場から入った連絡に目を通し、和日月はまた眉間にしわを寄せる。今まで秘匿してきた意味を考えれば、今更説明をしたところで見え方は変わらない。それどころか、状況は最悪であり、そのタイミングで情報を開示しようものなら受け手側の印象は確実に地に落ちたのものとなるだろう。
「...最終手段はまだある。まずはどう傾くか見物だな」
和日月は用意周到である。不測の事態に対して複数の対策を手の内に用意し、どうなるかを静観している。その手段の中には最終手段も最終手段。軍としての統制、国防を達成するために非人道的とも言える手段も用意している。誰にも褒められず、認められることがないとしても、それが人の未来のためであれば、和日月は自分の腹を切るように、人の腹も切るのだ。
矢場、振動、花菱に収集されたのは憂希の一件を知り、普段から憂希とのかかわりが深いメンバーだった。仁野、美珠、ラプラス、傀、印章院、輪廻。すでに指名手配となったことについては呼び出されたメンバーの耳にも入っていた。状況としては憂希に対する待遇の印象は極めて悪い。
「さて...何から話したもんか。...まず、最初に言っておく。これは俺たちも事後報告を受けた内容だ。保身だとか言い訳だとか思われても仕方ねえが、それは事実だ。...皆、人が能力者に進化するためにはでかいリスクが伴うってのは知ってるな?」
「...死んじゃうかもってこと?」
「そうだ。だが、この国ではな、志願制にしている他国よりも進化失敗による死亡者の割合は極めて少ない。他国の数値をしっかり把握しているわけではねえんだが、まあ他国の半分以下ってのは確実だろう。これは母数が多い少ないの話じゃねえ。確実に発生率が低いってことだ。...これには理由がある。そしてこの理由が神崎の件につながる」
「え...」
ここまでの情報だけでは、その場にいる誰も想像すらできなかった。どこに関連性があるのかすらも思いつかない。死亡率を下げる何かがあることしか、予想できなかった。
「理由は単純。我々は独自に能力者への進化で発生する死亡するリスクを軽減する条件を知っている。いや...長い年月をかけ、その条件を見つけ出したというほうが正しいわな。だが、この見つけ出すための手段ってのは、現代においてあっちゃならねえほど、人の道を外れてる。...所謂、人体実験ってやつだ」
「っ...」
その言葉の重みに思わずその場にいるほとんどが息を呑み、表情が強張った。輪廻はその言葉の意味を探ろうと、皆の顔を不安そうに見て、表情から悪い意味だということを理解し、悲しくなった。
「死刑囚を中心にかなり前からやっていたらしい。ただ、ずっと頭に置いてほしいんだが、これは死亡リスクを抑えるためってのが目的だ。何も頭のいかれた連中が人体改造してたわけじゃねえ...と思ってる。ここで敢えて改めて言うのは、個人的な観点から言っちまったら、そりゃダメだろって意見になる。そもそも戦争してる時点でこの時代においては悪だ。だが、人殺しを目的にやってんじゃねえってのは皆わかって参加しているはずだ。他国に比べ、人口が少ない俺たちが、同程度の戦力を準備するにはそのリスクはあまりに大きな障害だった。それを下げるってのは国の存亡にかかわっていた。その結果、たどり着いた条件は...精神的負荷を多く経験した人間は一定以上のリスク低減が見られるってことだ」
「精神的...負荷?」
「要するに、辛え目にあってきたやつが能力者になりやすいってんだとよ。なぜかなんて聞くなよ。俺も知らねえし、調べたところで理解できねえだろうからな。だが、その条件を見つけた日本軍は救われた。他国に匹敵する軍を備え、その結果、こうして大国の属国にならずに済んでいる。中国やロシアの近いこの国が生き残るために必死だった。本当に起きたのか?なんて疑うな。現時点で戦争に発展している事実が物語ってる。属国にされ、死亡リスクの高いまま国民を強制的に能力者へと進化される最悪のシナリオを回避できたと考えてくれ」
「...辛いこと」
その場にいる者のほとんどが自分の中ですでに呑み込んでいたはずの記憶をふと思い出す。平凡な人生に大なり小なり憧れを抱くほどには、何かしらで苦労してきた経験がある。しかしそれが条件と言われるとあまりに人によってばらつきがあるし、主観的だ。人によって幸福が違うように不幸も違う。それは性格だけではなく、環境や経験にもよる。好きなものが異なるように、嫌いなものも異なるはずだ。
「お前らがどの程度、それに該当してんのかは知らん。数値化できるものでもないからな。...だが、神崎だけは違う。数値化はできていねえだろうが、お前らとは一線を画すことがある」
矢場は伝えることをためらう心を拭い去り、強い決意をもって、言葉を連ねる。これだけ前置きをし、予防線を張り、前提を作っても不安が残る。自分ですら気持ち悪さが残る。そうあってはならないという自分の中の価値観が、許容することを拒んでいる。それでも、伝えなければならない。
「神崎は...能力に適応できるように。死亡リスクを極限まで下げるため、日本軍が神崎の人生という環境を意図的に崩壊させ、精神的負荷を故意に高めた人間だ」
「は...?」
誰の口から漏れた音かはわからない。だが、それでもこの話が初耳だった人間の心のうちは皆、同じだった。偶然的に、偶発的に環境に左右されることについて、それを自ら不幸だと思うことも、人のそれを見て恵まれていないと思うことも、人それぞれの自由である。当事者ですら制御できない人生という激流に押し流され、環境という一言では収まりきらないほどのやりきれない感情がそこには渦巻いている。しかし、その激流を、その悲劇を第三者が非道にも、狙って故意に発生させ、何もかもを奪い去るのは話が違う。
「...具体的にはな」
惰性のまま口から垂れ流すように、矢場は周囲の反応を一度無視し、最悪な情報を告げる。神崎 憂希という人生を狂わせた、両親の殺害、環境の破壊。懸命に生きてきた人生にとどめを刺すように能力者へと進化させた。その結果、グレード1の適応。日本軍の要として活躍するに至る。日本軍の自作自演のような実験。一つの家庭を崩壊させ、二人の命を奪い、一人の人生を破綻させた結果、国を護るに足る軍事力を手に入れた。その経緯を事実をベースに皆へ伝える。
「何言ってんの...?...何それ。ほんとなの?...ねぇっ。矢場ちゃんっ」
「...そんなこと」
「これは大佐としての立場から言うがな。...この実験をしていなければ、日本軍はすでに先の一戦でロシア軍に敗北している。他のグレード1が出現した可能性があったかもしれないが、事実として、憂希以降にグレード1は現れていない。引き合いに出すべきじゃねえし、それを言い始めたら人として腐ってるってのはわかったうえで、敢えて言うぞ。国民を護るのが我々の使命だ。十のために一を犠牲にするのが軍人だ。神崎という兵士を生み出したことによって、護れたものは大きい。それは俺たち全員が認識するところだろう。他国は死亡リスクを無視して兵力増強に手を出している。数の話だ。命を数えるなってんならそういう考えは甘ちゃんだってことになる。背に腹は代えられなんって話だ」
「矢場大佐...じゃああれっすか。結果よければすべてよしって話っすか?」
言葉に気を使ってはいるが、傀の言葉には確実に怒りが染みこんでいる。言葉が保水しきれない怒りが徐々に滴っているのがわかる。矢場が悪いわけじゃないと頭でわかっていても心がそれを許さない。傀であれば相手によっては掴みかかっていてもおかしくない。
「...そういうことになるな。結果を求めるのが戦争だ。結果を突き詰めるのが国だ。最悪を避けるために悪も利用するのが軍だ。そうまでしねえと...国民は護れねえ」
矢場の顔つきはいつになく真剣だ。いつも大らかで大雑把な矢場が大佐の顔を見せている。その言葉には責任が乗っている。これからも国を護るために戦ううえで、ここで中途半歩な説明はできないという覚悟がある。伊達に大佐という立場にない。
「...国民が次々に死亡リスクに呑まれ、軍事力が他国より劣り、大国の標的となることを防げた今、ここまで歩みを進めた道がすべて間違いだと言い切れるやつはいねえ。言う権利があるとすりゃあ、神崎だけだ。旦那にあそこまでブチ切れてた理由はこれでわかったろ」
「....」
皆が感情を整理しながら、言葉を探している。情報があまりに突飛すぎて処理が追い付かない。感情が拒絶反応を起こしている。だが、憂希がいなかったらという可能性を考えれば考えるほど絶望的だったと今までの経験が語っている。散々憂希に頼り切り、依存し、寄りかかり、負担をかけてきた。それが実際はもっと前から仕組まれていたことに、それを仕掛けた当事者でないにもかかわらず、無尽蔵に罪悪感が湧いてくる。
「ゆーき...すごいおこってた。...こわいゆーき....しらない。ずっとやさしい。でも...こわかった」
輪廻が泣きそうな声で小さく呟く。ずっと憂希の心配をし、能力を感知したときも一目散に探しに行き、目覚めたときもすぐに跳ね起きて駆け付けた。しかし、ずっと探していたはずの憂希はそこにはおらず、まるでかつてうずくまってやり過ごした嵐のような怒りをまとった憂希が目の前にいた。肌から骨まで強張るような恐怖が輪廻を包んだ。
「ゆーきがおこってるっ。...けんか...はダメ!」
「...ああ、そうだな。....こっからは大佐って立場は関係なく、俺として話す。神崎は必ず旦那に接触しようとしてくるだろう。そこで俺たちが神崎と向き合ってやるんだ。力尽くでもなんでもいい。まずは話し合う状況を作る。そのために俺たちに協力してくれねえか。神崎を....ここに帰れるようにしてえんだ」
矢場は輪廻の訴えに心から納得したような表情を浮かべ、その場にいる皆に懇願する。また肩を並べて戦えるように。背中を預けて戦えるように。平和のために同じ方向を向けるように。
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