空のクジラ
気が付けば、クジラの背に乗っていた。
何を言っているかわからないだろう、私も意味が分からない。
黒いつるっとした皮膚に、冷たい感触。
目が覚めたら、私は文字通りクジラの上に乗っていた。
雲の上で、眠れる音楽と名を打ちそうな、甲高いクジラの声が空に木霊している。
どこかのファンタジー小説の冒頭にでもなりそうな文脈だ。
しかしこの話はファンタジーでない。
私はただの人間であり、この世界は科学が支配する、みんなの故郷、地球で間違いない。
だが何度、目をこすっても覚めないものは覚めないのだから、受け入れるしかないだろう。
しかし私はどうも諦めが悪いらしい。
往生際悪く、流れる空の景色を目に入れないようにして、クジラなんて初めて触ったなぁと、ぼんやり現実逃避してみた。
黒いゴムのような感触の肌を軽く押してみてもびくともしない。
クジラは背に乗っている私など気にも留めずに、ただゆうゆうと泳ぐだけであり、嫌でも目に入るのは、雲の流れと、顔にかかる冷たい風。
ふとクジラのひれが畳まれて、真下が見えた。
雲で真っ白だった。
つまりこの場所は雲が発生する場所よりも高い場所なのである。
落ちたら死ぬということを体が嫌でも理解してしまい、冷や汗と震えが止まらなくなってしまった。
落ち着かなくてはと、早まる息を押さえつけようとするがうまくいかない。
私が過呼吸気味に冷静さを失いかけた時だった。
くぉー
クジラの甲高い声が空に響いた。
私はそれにハッと顔をあげると、クジラの胸鰭が大きく雲を叩いた。
白い雲がいくつもの細い線を描き、まるで海のしぶきのように舞い上がる。
私は思わずその光景に、目を奪われた。
その姿は海を泳ぐクジラそのものだった。
「空のクジラ……」
クジラの体はぐんと持ち上がり、さらに上の雲へと飛び上がった。
「雲の上を……泳いでる」
そう、私を乗せたクジラは雲を渡って空を泳いでいた。
空に浮いているのではない、雲を泳いで、天空を渡っているのだ。
「本当に私どうしてこんなところに」
思いだそうとしても頭がぼんやりとしたままで思いだせない。
どうしてここにいるのすら思い出せない。
ただ一つだけわかることがあった。
「私には、何もない」
ぽっかりと空いた胸の喪失感、あったと思っていたものがない。
私には何も得意なことがない。
小さな絶望を思いださなければよかったと機嫌を損ねながらも、私は即座にそんなことどうでもいいと思えた。
自分の今の気持ちなどどうでもいい。
訳があった。
そんな情報はこのよくわからない状態をどうにかできるものではないのである!
ならば早々に気持ちを切り替えるのが得であろう。
私は随分と切り替えの早い人間でもあるらしいと自己分析を進めながら、また辺りを眺めた。
下を眺めれば、どこまでも藍色の雲が続き、クジラが尾を掻いたあとは、絵の具を散らしたような雲が点々としている。
上を見上げれば、限りのない天空。
視線をあげていくが、真上に首を向けていても、すべてをみれていないような気がした。
もう少し目を凝らそうと体を起こした時に気づいた。
服の袖が地面に向かってではなく、クジラに向かって垂れている。
私の体は、クジラに重力があるようにぴったりとくっついていた。
試しにクジラの上に足を立ててみる。
「立ててしまった」
ひんやりとして、澄んだ風が頬を撫でた。
クジラは泳ぎながら次の雲、次の雲へと、時々宙返りしながら渡っていった。
宙返りしても、まるで景色が回っているだけのように、私の足はクジラにぴったりと立っている。
その巨体をものともせず、しかし重力を感じさせる雲のしぶきをあげながら、この空を渡っていたのだ。
ふとクジラの向かう先に雲が見えなくなった。
このクジラはどうするのかと思っていれば、クジラはそのまま雲から飛び降りて海に真っ逆さまに降りていく。
「わっちょっと⁉」
私がくじらの背を掴んでいれば、私の体はクジラと一緒に海の中へ入っていく。
クジラはすぐに海面へと上昇し、ゆったりと泳ぎだした。
ふと、海の上に大きな雲が見えた。
入道雲だ。
それを見つけたクジラはそれにめがけてぐんと胸鰭と尾びれを交互に動かす。
クジラの口先が、入道雲に触れた。
吸い込まれるように入道雲にすっぽりと入ったクジラの体は、雨に打たれながらぐんぐん高度を増していく。
私は振り落とされないように必死にクジラの背のこぶに捕まった。
――落ちる
そう直感した瞬間、体がふわりと空を飛んだ。
足は宙ぶらりんと頼りなく垂れ、もう下にクジラはいない。
瞼越しに光が見える。
恐る恐る目を開けると、そこには青みがかった一面の雲の海を、橙色に染めながら昇っていく太陽が見えた。
白い雲に色を変えながら、色づけていく太陽と共に体も落下していく。
私はその光景に見とれていた。
くぉぉと高いような、低いようなそんな声が頭上から響く。
視線をあげれば、私の顔ほどありそうな光を反射しない黒い瞳孔がこちらを見下ろしていた。
ゆっくりと尾びれを動かしてその場に浮遊しながら、じっとこちらをただ見つめている。
きっとこのクジラは、このまま私を助けず、落ちていく私を見送るつもりだと察した。
なんとなく、このまま落ちても死なない気がした、それはきっと確かなことだ。
だが、それでも胸に残る不安が、私の手を上へと伸ばさせた。
「私、どうすればいいのか分からないの。どうやって生きていけばいいのかわからないの!」
それを口にした瞬間、涙がこぼれた。
あぁそうだ、私はわからなかった。
この世界は知らないことが、選択肢が多すぎて、それでも時間は迫ってきて。
このまま世界に取り残されるのが、怖くて怖くて仕方がなかった。
いつかくる夜に怯え、前を照らしてくれる何かを探していた!
必死に真上に手を伸ばして、私は叫んだ。
「お願い! 私をどこでもいいから連れてってよ! ここじゃ私きっと腐っていくだけだよ!」
間違うのは怖い、迷うのは怖い、人と同じでない自分が怖い。
誰もが通るはずだと思っていた道は遠く、この先は舗装された安全なものではない。
鬱蒼とした森のようで、歩けば歩くほどみじめになっていきそうだった。
雲の海のように、目指す道が太陽のように輝き、まっすぐと示されていたならどれだけよかっただろう。
その進む道が柔らかい雲しかなかったなら、どれだけよかっただろう。
しかし私の期待を裏切るように、クジラはそっぽを向いた。
呆れたのだろうか。
こんな誰でも悩むようなことに泣く私のことを。
人はどうやって大人になるんだろう。
歳をとっても、いつまでたっても外の情報は完結せず、人格も未熟、幼いところは残ったままで、苦しいことはいつまでたっても平気にならない。
大人ってそういうものになれるんじゃないの?
それともこれは私が失敗作だからなの?
情けない、自分がすごくすごく情けない。
喉から嗚咽が漏れてきた。
いっそのこと、世界の全員が私の犠牲で幸せになれるなら、どれだけよかったことだろう。
こんな人間、生きていてなんの意味があるのか。
涙が溢れて溢れて仕方がなくて、落ちていく体に置いていかれる涙は、早朝の水仙の葉から零れ落ちる朝露のように、七色に輝いていた。
ドボンと体が海に着水した。
ハッとして、私は手を動かしたが、水は指の間を通り抜け、体はゆっくりと沈んでいく。
このままだと本当に暗闇の中で一人になってしまう。
やはり私ではだめなのか、こんな出来損ないだからだめなのか。
私がそのまま諦めようとした瞬間だった。
くぉぉと先ほど聞いたような音が聞こえた。
ふとその声がする方向を探すと、それは下の方から聞こえてきていた。
クジラだ、しかし先程のクジラではない。
小さな胸鰭と尾びれをパタパタと一生懸命動かしながら、海面へと向かっていく、子供のクジラだった。
また一匹、また一匹と自分の下から子供のクジラが海面へと向かっていく。
子クジラの大移動のようだった。
彼らのヒレは私の足と同じように細く、頼りなかった。しかしそれでも彼らは上に向かって泳いでいたのだ。
私の手は自然と手にまとわりつく水をかいていた。
底へと足を引っ張る水圧を払いのけ、せかせかと黒が溶け込んだ水を蹴った。
動かなくては。
迷っても、間違いでも泳がなければ。
そうしなければいつまでも、苦しくて泣いているだけなのだから!
空のクジラの胸鰭の真似をした、うまく水はつかめなかった。
隣の子クジラの尾びれの真似をした、水は私の足をよけていった。
ふと入道雲が見えた。それに入ろうとしたが、私のような小さな体ではすぐに吹き飛ばされてしまった。
私は空のクジラの尾びれと、子クジラの胸鰭の動きの真似をした。
体の落下が少しだけ収まった。
「泳げた」
またひとかき、ひと蹴りすれば、また上へと昇っていく。
隣を泳いでいった子クジラたちと一緒に泳げるくらいになって、段々と速く泳げるようになってきた。
「泳げた、泳げたんだ私!」
そのまま無我夢中で泳ぎ続けた、ずっとずっと泳ぎ続けた。
時々隣の子クジラが休んでいたので、私も休んだ。
また泳ぎ続けた、泳ぎ続けた。
泳いで、休んで。
隣の子クジラが先に行っても、気にしなかった。
私も子クジラを追い越して、泳いでいった。
随分な時間が経った。
ふと、遠い昔に見た、あの瞼を刺すような光が目に飛び込んできた。
手を動かせば白い雲がしぶきをあげ、青白い雲の上を太陽が昇っていく。
いつの間にやらあの時あのくじらから落とされた空の上まで、私たちは登ってきていたのだった。
ふと後ろから子クジラとは明らかに違う、太くて低いクジラの鳴き声が聞こえた。
泳ぎながら振り返ると、そこにはあの大きなクジラが私の前に立っていた。
目を細めながらこっちをじっと見ている。
私はたまらず、その目に叫んだ。
「泳げた、泳げたよ私!」
するとその大きなクジラはにっこりと目を閉じた。
「空と海はつながっていると、言っただろう?」
ハッとそこで目が覚めた。
チリンチリンと鳴る風鈴、セミの声に遮られるかけっぱなしのラジオ、家に吹き込む生ぬるい風に混じる畳の匂い。
べったりとかいた首筋につたう汗を感じながら、しばらく私は呆然としていたが、ふと目に入ったのはあの音楽大学の不合格通知だった。
この半年、今起きるまで、見れば見るほど胸がざわついたのに、今ではまるで紙切れのように見える。
私には音楽しかない、この紙切れ一つで生きる希望も、食い扶持も、才能も失ったと言うのに、どこかそれは意味のないものに見えた。
「久しぶりに曲作るか」
バイトは二時間後、きっと一曲完成とまではいかないだろう。
ただ、その手は立てかけてあったアコースティックギターへと伸びていた。
春からずっと触っていないのだ、ポロンと弦を弾けば、聞くに堪えないピッチの外れた音が鳴り、少し指も痛い。
「こりゃひどいや」
そう言いながら、私は手に馴染んだコードを押さえた。
休んでもいい、泣いてもいい、間違えてもいいから。
泳ぎ続けなくては、いつか空に届くまで。




