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短編集  作者: 春鏡凪
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海の咀嚼音

 黒い海を見たことがあるだろうか。

 あのヨーロッパあたりにある黒海のことではない、本当に黒い海だ。

 なーに、そんな幻めいた代物ではない、夜の海のことだ。

 月も浮かばぬ、曇天の丑三つ時、人も寝静まった真夜中に黒い海は姿を現す。

 いつものように僕たちが海に向かって歩けば、砂はじっとりと足に絡みつくように重い。

 いざやっと波際に着いてみれば、遠くから見えた凪いだ海は、急に顔色を変えた。

 手招くように大きく波をあげ、そこで何人かは食われてしまい、引く波が舌を鳴らすようにくちゃりと鳴る。

 運よく逃れられた者たちは堤防へとよじ登る。

 しかし海は大きく波を上げ、今度は大気を食らった。

 大きく吹き荒れる風、ゆらりと揺れた同胞たちは堤防の下へと落ちていき、消波ブロックに噛み砕かれて、海に食われた。

 ブロックの間からくちゃりと音を立てて、海が彼らを咀嚼している。

 その音を一人残った僕はじっと聞いていた。

 海が満足そうに舌なめずりをしている。

 だがまだ足りないらしい、海が落ちきれなかった私に向かって荒々しく波を突き立てて、大きく暴れる。

 しかし僕はそっと堤防を伝い、陸へと戻った。

 くるりと海を振り返り、コートを着込み直す。

「もう効かないよ、そんな脅し」

 しかし海はそれでも激しく咀嚼音を立て、ゆらゆらと波を揺らす。

 叫ぶようにこちらに来いと呼んでいるようだった。

「こんな世界でもね、まだ死ぬにはもったいないって思うんだ――って言ったら逆に、君は僕を食べてくれるの?」

 自嘲気味に笑ってみれば、波は途端に大人しくなった。

 海は優しい、どんなものでも私たちの中から食ってくれる。

 仮初の希死念慮を持つ彼らの思いを、大きな波で脅して攫ってしまう。

 脅して彼らを陸に戻す。

 君は誰よりも誰かと一緒にいたい寂しがり屋のくせに。

 「また来るよ」

 君がいつも咀嚼音を立てるのは何故だろう、本当に食らいたいのは何だったのだろう。誰かの思い出を食らい、いらないものを食らい、鯨の残骸を食らい、誰かの大事な人を食らう。

 まずそうなものばかり食らう君は、最後のデザートだけは食べるのをためらっていた。

 だが彼女は無理やり君の口へと飛び込んだ。

 彼女は君になった。

 優しい君は何度も乾いた砂へと昼夜問わず手を伸ばし続ける。

 こちらに来るなと手を払っている。

 だが君はきっといつか、その優しさをなくして、本能に従い陸にある全てを食らうのだろう

 君はいつか自分の身体で分かたれた彼らをまた1つにするために、僕を含めて全てを食らうに決まっている。

 早く晒せよ、その本心を。

 寂しいって僕を食らえよ、君のそんなつまらない偽善なんて、さっさと捨てて泣き喚いて綺麗な自分を捨てざるを得ない醜態をさらせよ!

 僕を裏切った君に、そんな罰が下ってもいいじゃないか。

 その日を待ちながら、暗い顔をしている日は君の側にいる。

 苦しげに、しかし弱々しく手を伸ばす君の手に少し触れながら、僕は月が来なければいいと思った。

 このまま君が孤独に押しつぶされてしまえば、きっと僕を食べてくれる。

 そう信じて黒い海の日は必ず君の元へ向かった。

 「早く寂しいって言えよ、馬鹿」

 君が大きく手を伸ばせば届くくせに、いつもあとちょっとのところで手を引っ込める。

 昔も今も、君は曖昧な態度で本心をごまかすんだ。

 残虐な優しさだね、こんなにも愛おしいのに、僕は君を見ることすら叶わない。

 だから生きる。君が僕を連れ去らない理由が、この砂浜から消えるまで。

 この世界に、君がいない世界に、僕を残すことがどれだけ残酷か、君が理解するまで、黒い海に白い百合の花束を投げる。

 恨めしくも、愛おしい君に花を捧げる。

 生きていくよ、不本意だけど。

 黒に体を浸しながら。


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