第19話 ただいま
季節がわずかに進み、風に含まれる空気がやわらかくなった頃。
“びょういん”の一室では、一人の少女が、眠り続ける青年のそばに静かに座っていた。
リーナ=カルミア。
彼女は、レインの隣で毎日を過ごしていた。薬湯を替え、体を拭き、熱を測り、時には手を握って小さく語りかける。
彼の眠りが深いことは、頭では理解していた。けれど、心はそう簡単に納得してくれない。
それでも――彼が戻ってくることを、彼女は信じていた。
十日目の朝。やわらかな光が、薄いカーテン越しに部屋へ差し込む。
部屋には鳥の声が微かに聞こえ、薬草棚からは優しい香りが漂っていた。
リーナはいつものように、椅子に腰をかけ、そっとレインの手を握る。
「……今日も、いい天気ですよ。先生」
そう語りかけた瞬間だった。
彼の指が、わずかに、けれど確かに――動いた。
「っ……!」
リーナは息を飲む。目を見開き、しばらく動けなかった。
ゆっくりと、ほんの少しずつ。
レインのまぶたが震え、そして、光に耐えるようにそっと開いた。
「……う……ん……」
聞こえたのは、掠れた、けれど紛れもない――レインの声だった。
「せ、先生……! 先生っ!!」
リーナの声がはずむ。彼女は立ち上がり、ベッドの傍に身を乗り出した。
レインの目が、まだぼんやりとしたまま動き、ようやく、目の前の少女に焦点が合う。
そして――彼女が微笑んだ。
「――おかえりなさい、先生」
その言葉は、深い安堵と温かさを含んでいた。
十日という時間が、彼女の心にどれだけの不安と焦りをもたらしたか。
それでも、毎日を信じて待ち続けてきたその強さが、いま小さな涙となって彼女の瞳に宿る。
「……ただいま」
かすかな声で、レインが答えた。
言葉の意味が、どれほど重く、どれほど喜ばしいものだったか。
この瞬間、リーナの胸にあふれる感情は、言葉にならなかった。
彼は、戻ってきた。
自分たちのもとに――“びょういん”に。
リーナは涙を拭おうともせず、ただその手を握り続けた。
もう一度、この温もりを確かめるように。春の風が窓を揺らす。
その風は、どこか遠く、祭殿の森を抜けた記憶を運んでいた。
でも今は、ただ静かに、優しく――癒しの場所へと、吹き込んでいた。
レインが目を覚ましてから三日後。
少しずつ体調も戻り、簡単な散歩ができるようになった彼は、リーナ、メルキオルと共に、いつものようにハクガクの家を訪れていた。
古びた柱時計の音が、静かな室内に響く。
囲炉裏の傍で湯を沸かしていたハクガクは、三人に椅子を勧めながら言った。
「……お前さんたちが会った審問官――ルキウス=サルヴァリスという男は、間違いなく“神の剣”と恐れられる存在だ。かつて、数多の“異端”を裁いてきた実力者だ。異端審問官の中でも、あれほどの剣を振るえる者は、そうはいない。」
レインは驚かなかった。あの夜、対峙したジル=サルハと真正面から渡り合った戦いぶりは、まさしく伝説と呼ぶにふさわしいものだった。
けれど、ハクガクの次の言葉には――息を飲んだ。
「そのやつが……今回の調査報告にこう記していた。“この村に異端の存在は確認できず、住人は信仰に従い質素な生活をしている。特筆すべき事象はなかった”」
メルキオルが目を見開いた。
「……あの人、私たちを――」
「やっぱり、守ってくれたんですね……」とリーナが呟いた。
ハクガクは小さく頷く。
「やつが本気になれば、お前さんたちは全員、今ごろは王都の地下牢だ。……だがルキウスは“何もなかった”とした。しかも報告書は、教会本部にすでに受理されたと聞いた。”びょういん”は、もう“見逃された”ということになる」
その場に、静かな安堵が広がる。
リーナはそっと胸に手をあて、震えるように小さく微笑んだ。メルキオルも長く吐息をつき、力を抜いたように座りなおした。
だが――レインだけは、目を伏せたままだった。
「……俺は、まだ弱い」
ぽつりと漏れた声に、ふたりが振り向く。
「先生……?」
レインは火の粉がちらつく囲炉裏の方を見つめたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。
「……あのとき、俺はルキウスを救うために、力のすべてを使い果たした。毒の解毒、傷の修復……そして、代償として十日以上も眠っていた」
拳を握る。その手は、まだ少し震えていた。
「敵か味方かなんて、関係ない。救える命があるなら、俺は手を伸ばす。それが“びょういん”を作った理由だ。……でも、あのとき、もしもう一人でも患者がいたら……俺は、救えなかった」
リーナが静かにうなずき、言葉を返した。
「でも、先生がいなければ、あの時ルキウスさんは――」
「わかってる。わかってるが……」
レインはゆっくりと目を閉じた。まるで、自身の中に残る“弱さ”と静かに向き合おうとするかのように。
「癒す力を、もっと強く……もっと確かなものにしなければ。でなければ、“びょういん”は夢物語で終わってしまう」
その言葉には、焦りではなく――決意があった。
ハクガクは、その様子を見て静かに笑った。
「ならば、あとは“どう学ぶか”だ。お前の中にあるその炎が、いつかこの村全体を灯す明かりになるだろう、レイン」
春の風が、ふと障子を揺らした。夜の闇を照らすには、まだ小さな光。だが、それでも――消えることのない、“癒し”の灯火。




