第20話 “癒しの原理”を記した者
その夜、レインは“びょういん”の裏庭に一人佇んでいた。
満月が静かに空を照らし、草葉の露が夜風に揺れている。
彼の掌には、小さな青い光が灯っていた。青魔法の片鱗である。
「……精度を上げるだけでも、魔力の消費を抑えられる。そうすれば……あの時みたいに眠り続けずにすむ」
月明かりの下で、静かに呟いた。
代償を払わずに済む魔術など存在しない。けれど、自分はまだ“その限界”すら、知らない。
だから――もっと強くならなければ。
ふと背後から、そっと誰かが近づいてきた気配がした。
「先生……まだ起きてたんですね」
リーナだった。手には、あの古びた《法術憲章》の冊子を抱えている。
「また解読してるのか?」
「はい。先生の力になる方法が、何か書かれてる気がして……」
微笑むその目には、疲れの色がありながらも、確かな光があった。
レインが「無理するな」と言おうとしたその時――リーナの声がわずかに震えた。
「……見つけたんです」
「……?」
彼女は法術憲章を開くと、裏表紙の内側を指差した。そこには小さな文字で、こう記されていた。
*著者:カーダ=ソワン
*居住地:エレジア山脈東端、霧の谷――“メルヴァの庵”
レインは目を細める。
「……法術憲章の著者?」
「はい。先生の魔力の限界を越える手がかりが、そこにあるかもしれません。“びょういん”をもっと大きくしたいって言ってたじゃないですか。私、力になりたいんです」
リーナの言葉には、強い決意があった。
癒しの魔に全てを注ぎ、倒れたレインを十日間も看病しながら、それでもなお、彼女は止まらなかった。ただ、誰かを救うために――“びょういん”の灯を守るために。
レインは、黙ってその顔を見つめた。
「……ありがとう、リーナ」
その声は小さく、けれど深い温かさを宿していた。
やがて、月が高く昇り、夜風がふたりの間をやさしく吹き抜ける。
エレジア山脈――霧の谷、“メルヴァの庵”。
かつて“癒しの原理”を記した者が、今もそこにいるとすれば。
これは、“癒し”の先に進むための旅になる。
翌朝、“びょういん”の調合室には、草花の香りが濃く満ちていた。
レインとリーナは黙々と作業に打ち込み、青緑色の小瓶を次々と並べていた。
「これで、五本目……次は藍苔草を煎じて……リーナ抽出は?」
「はい、もうすぐできあがります!」
二人が準備しているのは、“びょういん”の中でも特に需要の多い解毒薬――《アオノセイメイ》。
ルキウスを救った際に使用した青魔法を再現できる魔法薬だ。素材の採取と調合には時間がかかるが、それでもレインはこの薬を、しばらく自分たちが不在になる“びょういん”に必ず残したいと思っていた。
「せめて、これだけは量産しておかないとな……いざってときに使えるように」
「はい。“びょういん”の誰かが困った時、これがあれば、きっと助けになると思います」
手を動かしながらリーナは、横目でちらりとレインを見た。
昨日より顔色が良くなっている。声にも力が戻ってきていた。
――あの夜、レインが見せた弱さはもう、彼の中で“決意”に変わっている。
そして夕方、準備をすべて終えた二人は、食堂にいたメルキオルの元へ向かった。
「ん? 先生、リーナさん。なんですか、何か悪い薬でも飲んだ顔して」
メルキオルは冗談めかして笑ったが、レインの真剣な表情にすぐに姿勢を正す。
レインは短く深呼吸し、言った。
「メル。留守を頼めるか。“びょういん”を、しばらく任せたい」
メルキオルは目を丸くした。
「……留守? どこに行くんですか。」
リーナが一歩前に出る。
「《法術憲章》の著者に会いに行くんです。エレジア山脈の東、“メルヴァの庵”に」
「……なるほど。先生の魔力のこと、ですか。」
レインは頷いた。
「俺の“癒し”は、まだ未完成だ。今のままじゃ、また誰かを助けたくても倒れるだけになる。それじゃ意味がない」
「もちろん、危険がある旅だってことはわかってます。でも、前に進まなきゃいけないんです」
そう言うリーナの声は、震えていなかった。
誰よりもレインの苦しみを見てきた彼女が、今度はその背を押していた。
メルキオルは、ふたりの姿をしばらく見つめていた。
「……正直、不安です。ふたりがいなくなるってだけで、私の心臓が三つぐらい潰れそうなんですけど」
苦笑してから、肩をすくめる。
「でも――行ってください。先生がもっと“癒せるようになる”っていうのなら、それが一番の薬になる。……“びょういん”は私が守ります」
「ありがとう、メル」
「ええ。二人が戻ってくるまでこの“びょういん”と待ってますよ。」
その言葉に、リーナの目が潤む。
「うん……絶対に、帰ってきます」
その日、“びょういん”の棚には、整然と並んだ解毒薬と、整理された患者記録、そしてメルキオルが記した当番表が貼られていた。
――これはまだ、小さな診療所。
けれど、守る者がいて、進む者がいて、そして帰る場所がある。
旅立ちの日は、近づいていた。




