第18話 圧倒的な輝き
レインの掌から流れ出た緑の魔力は、まるで光の繭のようにルキウスを包み込んだ。
その光はあたたかく、柔らかく、春の陽だまりのような癒しに満ちていた。骨の軋み、裂けた肉の悲鳴、血に溶けた毒素――すべてが、その緑の輝きに触れた瞬間から、静かに、確かに、和らいでいく。
「すごい……」
リーナは驚きに息を飲んだ。
青魔法と異なり、緑魔法は“再生”を司る。ソワン族の中でも限られた者にしか扱えない、純粋な回復魔術。激しい代償と引き換えに、肉体を“あるべき姿”へと戻す魔。
レインは、その魔術を静かに、しかし全身全霊で使用していた。
呼吸が荒くなる。額からは汗が滴り、背筋が震えている。それでも、彼の目は閉じることなく、ただルキウスの傷を見つめていた。
「……っ、まだだ……もう少し……!」
ルキウスの深い裂傷がゆっくりとふさがり、瘴気が魔力の奔流に押し流されるように消えていく。
呼吸は穏やかになり、血色が戻り、ついには――
「……ぁ……」
ルキウスが小さくうめいた。まるで深い眠りから目覚めたばかりのように、彼のまぶたがわずかに震え、そして、静かに開かれた。
「戻った……!」
リーナが小さく叫んだ。
メルキオルも隣で、信じられないというように固唾を飲む。
だがその瞬間――
「……く……っ……」
レインの体が、限界を超えたようにぐらりと揺れた。
「先生……?」
リーナが声をかけるより早く、レインの膝が崩れ、その身が傾いた。
倒れ込む直前、彼はわずかに微笑み、言った。
「……これで……またひとつ、救えた……」
その言葉と同時に、意識がふっと闇に沈む。
眠気ではない。それは、“癒しの魔”に深く触れた者が必ず迎える代償――魔力の反動による“強制的な眠り”。この眠りに入った者は、下手をすれば数日、あるいはそれ以上戻らない。
だが、レインの顔は穏やかだった。
静かに横たわる彼の身体を、リーナが優しく抱き起こす。
「先生……本当に、ありがとう……」
彼女の手は、涙で濡れていた。
かつて、異端とされたその手が、いまこの瞬間――“命を救う”手となったことを、誰よりも彼女は知っていた。
――夜明け前の空は、まだ深く、青かった。
リーナとメルキオル、そして審問官のディートとマリオは、担架のように組んだ布と枝にレインとルキウスを乗せ、森の中を進んでいた。
祭殿から離れたこの森の奥で、夜通しの移動。幸い怪鳥ジル=サルハの死によって瘴気は霧散し、魔の気配は薄らいでいた。だが、それでも道のりは過酷だった。
「はっ……う、うぅ……あと、少しですから……っ」
リーナは息を切らしながらも、レインの顔を確認し、状態を確かめる。微かに汗ばみ、眠ったままだが、呼吸は安定している。
その姿を見るたびに、心の奥から何かが震える。強く、誇らしく、そして――切なかった。
一方、ディートとマリオが運ぶルキウスもまた、安静に眠っている。毒は完全に浄化され、傷も塞がっている。だが身体の奥深くに疲労が残り、しばらくは動けないはずだった。
――こうして、彼らは再び“びょういん”へと帰還した。
* * *
時間は流れた。
臨時の療養室に設けられた一室。
そこには、白布のかかった寝台が二つ並んでいた。レインとルキウスは、並んで横たわっていた。
レインは、まだ眠っている。
代償による深い魔法睡眠――魂が現世を離れた状態に近い眠り。そこから目覚めるには、体と魂の調和が必要だ。
だが――もう一人は、静かにまぶたを開いた。
「……ここは……?」
ルキウス=サルヴァリスの目が、天井を捉えた。
そして、自分が寝台にいること、傷も痛みもないことを理解し、ふと横を向く。
そこには、レインが眠っていた。
ルキウスは黙ってその顔を見つめる。自分が追っていた“癒しの魔術師”。“異端”の象徴。“ソワン”の名を継ぐ者。
――その男が、自分を救ったのだ。
「……皮肉な話ね……」
ルキウスは苦笑し、額に手を当てた。動けるようになったとはいえ、まだ力は戻っていない。
それでも、意識ははっきりしていた。
そのとき、扉が静かに開いた。
「目を覚ましたんですね。」
入ってきたのはリーナだった。手には湯気の立つハーブ茶と、筆記用具のようなものを抱えている。
「傷の状態はどうですか?痛みは?」
ルキウスはゆっくりと体を起こす。手をついても痛みはなかった。まるで生まれ変わったような感覚。
「この“びょういん”……本当に、存在するのね」
「はい。“異端”と呼ばれた魔術でも、人を救えると証明する場所です。あなたも……今、それを体で知ったはずです」
リーナの声には一切の嘲りもなかった。
ただ静かに、まっすぐだった。
「この男が……あたしを……」
ルキウスは目を細め、レインを見やった。
眠る青年の表情は、静かで、どこか疲れきっていた。だがそこにあったのは、誇り。命を救う者の――確かな使命の痕だった。
ルキウスは、はじめて自分の中の認識が音を立てて崩れるのを感じていた。正義も、任務も、教義も、越えて――一人の命を守るという行為の、圧倒的な輝き。
ルキウスは徐に立ち上がり、療養室をあとにしようとした。
「待ってください!まだ万全じゃ――」
「いらぬ心配よ。ディート!マリオ!もう行くわよ!」
ルキウスは颯爽と”びょういん”を出る。ディートとマリオは夜中にも関わらず”びょういん”の外でルキウスの回復を誠実に待っていた。二人とも瞳を湿らせ、安堵の表情を浮かべていた。
「ルキウス様、もうお身体の具合はよろしいのですか?」
「あたしがこんなことで弱るとでも思ってるのかしら。早く王都に戻るわよ。」
足早に歩みを進める三名。リーナはルキウスの背を見つめ、”びょういん”の窓際から見送っていた。
マリオがルキウスにおずおずと尋ねる。
「今回の件は……大司教様に報告されるのですか?」
「もちろんよ」
ふわと夜風がルキウスの髪をなでる。ルキウスは”びょういん”の方向を振り返り、穏やかな目つきをして言い放った。
「貧相な村人と、小汚い”骨董品屋”しかないとってもつまらない小村だった。ってね」
再び王都の方角へと振り返り、もうこんなところはごめんだわ、と憎まれ口を叩きながらも、足取り軽く異端審問官たちは森を抜けるのだった。
一方”びょういん”では、療養室にメルキオルが現れ、寝台を見るなり、
「ええっ!審問官を帰しちゃったんですか!?」
「まだ万全じゃないですよって教えたけど、もう王都に行くっていうから……。」
不思議そうな顔でメルキオルを見つめるリーナ。
「何をしてるんですかリーナさん……彼らは異端審問官ですよ。教会本部に報告されたら次こそ私たちは追われる身になってしまうんですよ。」
メルキオルは呆れ顔でため息混じりで話している。時折首を傾げ、腑に落ちない表情でリーナに対する。
「メルさん、大丈夫ですよ。」
「え?」
「あの人、きっと”治って”ますから」
「??」
メルキオルが全く理解できないといった表情の最中、リーナだけは清々しい顔つきで窓の外を見つめていた。その瞳は、”びょういん”が闇夜に消えていった異端審問官の肉体と魂を癒したということを確信した、強く優しいものだった。
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