3.プライオリティー
あの晩からしばらく経ち、久しぶりの休暇を儚と満喫しているときにふと、電話が鳴った。俺は儚の様子を気にし、ためらいながらも電話に出た。
去年から責任のある役職を任された暁は、最近忙しくなかなか早く帰れないことが多かった。三十代前半という事もあり、若いという事だけで舐められている部分があるため、こちらも必死だ。確かに、経験の差などをあげていたら、きりがないだろう。
しかし、それに見合うだけの努力を今までしてきたという自負があった。
そしてとうとう。この仕事が落ち着けば、ようやく認められそうなところまでこぎつける事が出来たのだ。
……だが、そのかわりに儚との会話が極端に減ってしまった。
そもそも、儚と同棲を始めたきっかけは、彼女が職場で倒れた事だった。
馴染めない職場で四年以上頑張っていたのだが、医者に倒れた理由を聞いたときは愕然とした。
儚が倒れた原因は、極度の過労と軽い栄養不足だった。
俺からしたら、夜間の残業などは当たり前だったため、特に違和感を覚えていなかったが。人間関係がうまくいっていなかった儚は、雑用からなにから自分の許容量を超えた仕事を請け負って、昼食はとらないことのほうが多かったらしい。
出逢った頃は昼をよく一緒にとっていたが、その頃は時間が合わず、どうしているのか把握していなかった。
何故そこまでしていたのかと始めは責めてしまったが、高校を卒業する前に両親を亡くた儚は認められようと必死だったのだろう。現に彼女は気が弱すぎると感じる面はあるが、同棲しだしてからもよくやってくれている。
祖父母の事が大好きだった俺は、二人が亡くなった後にこの一軒家を譲り受けた。その為、この広い家をきちんと管理し、スーパーなども遠いこの環境に慣れてくれた儚には感謝している。
ところがこの頃、儚の様子がおかしかった。
何か言いたげな目線を送ってきたと思えば、急によそよそしく接してきたりする。はじめは浮気なども心配したが……どこか疲れた様子は、とても「新しい恋に舞い上がっている」ようには見えなかった。せっかく同棲できたというのに、予想外の展開に戸惑いを隠しきれなかった。
そのため、忙しいプロジェクトの合間に、なんとか今日という休日をもぎ取り、儚とのんびりしようと考えていた矢先に電話がきた。「今日は、二人でのんびり過ごそうと」彼女に言ったばかりであったため、タイミングの悪さに舌打ちする。
……悪い予感は当たるもので、その電話は急ぎの仕事だった。
「――――あぁ、分かった。今からすぐ向かう」
電話を切ると、いつもの間にかキッチンから出てきた儚がそこに立っていた。
俺の言葉をきいていたのだろう、小さな声で問いかけてきた。
「……仕事、いっちゃうの?」
そう聞いてくる様は、どこか親と離される子供のように頼りなさげだった。
普段は仕事だと言えばすぐ納得するのに、引き留めるような動きをみせた彼女に、思わず微笑む。滅多にない甘えに、嬉しくなってしまったのだ。おまけに、少し心細そうに言った彼女が可愛くて、俺はあやすように儚に言った。
「どうしても外せない仕事なんだ。でも、この仕事が終わればもっと休暇も取れるし、今までみたいに帰りが遅くなる事も減るよ」
これまで広い家に彼女一人残していたが、ようやく寂しい思いをさせずに済む。
いつもの儚なら、ここで喜んで引き下がるはずだった。―――けれど、このときの儚は違った。
「どうしても…今、なの?」
そう、さらに言い募ってきた。
儚が仕事のことで何か意見するのは初めてだったので、驚きはしたがこの時の彼女の反応を、俺はただの我が儘だととらえてしまった。
「儚~。だいじょうぶだよ、すぐ戻ってくる。ほんの二、三時間だけだよ」
だから待っててねと、明るく言いきかす俺に対し、儚はだんだん表情を曇らせ涙目になってきた。仕事に行くといって引き留められるどころか、泣かれる事すらなかったため内心動揺していた。
一体どうしたというのか。様子がおかしい儚のことは気になるが、今はそんな事に
構っている時間は無い。先ほど電話を受けてから、だいぶ時間をくってしまった。もう、出なければ……。
「ねぇお願い。あと少しでいいから待って!」
儚がこれほどまでに何かを望むのは初めてだったが、俺としても行かなければなら
ない。俺は彼女の様子に引っかかるものを覚えながら、後で事情を聴けばいいと話を打ち切ることにした。
「儚、もう時間がないんだ。
早く行けば、その分だけ早く帰ってこられるんだから。ね?」
「だめ!だめなの、それじゃあだめなの!!」
叫ぶように言った後、彼女はとうとう涙をこぼした。
明らかにその様子はおかしいとは思うが、仕事をしなければ儚を食べさせていく事は出来ない。このプロジェクトはチャンスでもあるが、賭けでもあった。失敗するわけにはいかないのだ。
「ごめんな、もう行くよ」
「いや、お願い!いかないで…いかないで!!」
そんな縋りつくような声を聴きつつ、俺は無情にも扉を閉めて会社へと急いだ。




