讃美歌③
それでもこれまで私は「歌声」に対し、特に表立って行動を起こしたことはなかった。
臆したというよりも、単純に目立つ行動をとって逆恨みされるのが嫌だっただけだ。
さすがに一度か二度、どうしても我慢ならなくなったことがあって、その際は、大家に相談してみたのだったが、結局無駄だった。
録音しておいた「ああめえええええ」を聞かせてみれば、私が歌声を捏造し、言いがかりをつけているのではないかと疑われるだけで終わった。
だがこの日は事前に「赤子」にアニメ視聴を妨げられてムカついていたこともあり、そろそろ本気で黙らせておくか、と考えた私は、台所へ向かい包丁を引き抜いてから玄関の外へ出ようとした。
しかしドアの内側のカギに手をかけ、解錠を試みようとした時、私は不意にある事実に気づかされ、動きを止めた。
……?
……「赤子」が泣き止んでいる……、だと?
そうなのだ。あれほど騒がしかったはずの「赤子」が、まるでこれまで一度も、自分勝手に泣きわめいてこちらを辟易させなどしたことがないのだと言わんばかりに厚顔無恥な顔面を晒しながらいつの間にやら完全に沈黙していたのだ。狸寝入りを決め込んででもいるつもりなのか、瞼さえ閉ざされている。
そしていつしか室内にはただアメイジンググレイスが鳴り響くだけとなっている。
もちろんここでの「ただ~だけとなっている。」との表現は、事態が深刻さの度合いを下げたことを意味するわけではない。
「ただアメイジンググレイスが鳴り響くだけ」でも、十分すぎるほど異常で不愉快である。
それでも、「赤子」の声と混ざり合い、シンフォニーが奏でられていた初めの状態と比べれば、確かに幾分かは、マシに思われた。
だがこの場面で真に着目すべきなのは、「アメイジンググレイス」の出現と、「赤子」の泣き止みとが、連続する形で生じたことである。
もちろんデイヴィット・ヒュームの立論を参照するまでもなく、因果関係の措定は究極的な根拠づけが不可能という意味合いにおいて、あくまで仮説の域にとどまらざるを得ない。連続する二つの事例を関連付けることは、どこまでいっても「恣意的である」との評価を決して免れられないということだ。
だが反面「ゴミ捨て場」での出来事とは異なり、今回の「大泣き」においては、あたかも隣家から聞こえてきた伸びやかな美声が、「赤子」をねじ伏せて強制的に黙らせたかのように私には受け取られたのであり、そして、その「ように受け取られた」ことこそが重要だった。
なぜなら私はその時、「赤子」を黙らせてくれることより他に、外界に対して望むところが何一つなかったからである。
容易に想像できるだろうが、人形であろうが本物であろうが、赤子の泣き声を至近距離から聞かされ続けると、マジで気が狂いそうになってくる。しかも終わりが全く見えないとあってはなおさらだ。
それゆえ「赤子」の再びの沈黙は、私に平常の冷静さを取り戻させただけでなく、「アメイジンググレイス」の主に対して幾分かの感謝の念を催させる方向にも作用した。
必然的に、その後の行動に微妙な修正が施される。
つまり私は結局この時も隣家へ襲撃を仕掛けるのを保留とし、包丁を台所に収め直したのだった。
しかし結局のところ、「赤子」をめぐる問題は、これで終わったわけではなかった。




