プロローグ③
それだけ言うと僕は蛇口の栓をひねり、出てきた生ぬるい水で手洗いうがいをしてから便所を出た。
ナカガワもそれに続いたが、この期に及んでまだ納得していないらしく、何かブツブツ言い続けている。
「でも確かに、普通だったら、取材の車とか大量に来てるはずだよな、いやだが腐ってもここは学校だからなあ、一般の生徒を刺激しないようにとか、そういう配慮が働いてたりするのかなあ、それかまだあまり知られてないとか」
「いやいや、もし仮にお前の言う通りだとしたら、学校側が知らないなんてありえねえだろ? 常識的に考えろ、てかお前いつまで言ってんの? てかお前なんで今ここにいんの? 補習は? 行かなくていいの?」
中学の頃、何者かの手によってコンタクトケースの中の洗浄液を尿に替えられていてもなお微笑みを絶やさずにいられた僕でもさすがにしびれを切らし、思わず語調を強めて詰問してやらざるを得なくなった。
おかしい奴に正論をぶつけてもしかたないことは経験から十分すぎるほど知っていたが、「知っている」こととその通りに行動できることとの間にはまだ大きな懸隔が横たわっているものだ。
そしてここでの僕は、とにかくこの騒がしい男から距離を取りたいと、ただその思いだけに純粋に突き動かされていたのだった。
しかしそのごくささやかな望みは、第三者の介入により見事に実現を妨げられることになる。
再び職員室前のお廊下に足を踏み入れかけた時のことだった。
「あ、アオキくん、久しぶり、体調治ったの?」
不意に誰かにそう呼びかけられた。
声のしてきた方を見ると、これまた同じクラスのシライシと視線が合った。
女子にしては高めの背丈、大きいわけではないが黒目がちで妙に惹き付けられる目、細く高い鼻梁、荒れたところの見当たらない肌、縮毛矯正をかけているのかと思われるほど真っすぐな髪は肩の辺りまで伸び、窓から差し込む陽光に照らされて透けたように色調を薄めている。
僕は月並みだが心臓が大きく一度跳ねるのを感じた。
恥ずかしながら告白しておこう。派手でではないが整ったその顔立ちの持ち主に、入学当初から僕はひそかに思いを寄せていた。
初めての席替えでたまたま近くの席になった日の夜には有頂天になり、思わず日課のアニメ視聴を忘れ、ただひたすら彼女について考え続けているだけで夜を明かしてしまったほどである。
ほとんど病気だ。
そう自覚できていながら、僕はふと暇ができると彼女のことを頭で思い浮かべるという癖をやめられずにいた。
月並みな言葉で言えば、彼女に恋していたのだろう。
そう、つい数日前まで、僕は確かにそのような状態にあったのだ。
シライシはその時、別の女子2人と何やらお喋りをしていたようであった。
つまり、お友達同士の親密な会話を打ち切り、敢えて僕に話しかけてきたというわけだ。
本来であれば、昇天してもおかしくないほどの大きさの幸福感に全身を包まれること必至だったが、その時の僕の胸には、実際には喜びに加え、それを上回るほどの大きさ疑念もまた去来していた。
……白々しい口を利く奴だ、牽制しているつもりだろうか? 「体調を崩した」のはお前のせいでもあるんだが……。
僕はそう考えながら、目を細め、それとなくシライシを睨みつけた。




