そして「天国」へ⑦
今度は私の方が先んじて動きを止める番だった。
一瞬何が起こったのか、理解できなくなった。
なぜならわけのわからないセリフを投げかけられたと思った矢先、今度は掴んでいたはずの相手の手首が、わずかに離れた地点に移動していたからである。
いや、正確にはそうじゃない。
Sのいる位置は変わっていなかったので(つまり風俗店の真ん前)、表面上は、こちらの方が手を放して距離をとったということになる。だが、もちろん私にそんな記憶はない。
……いったい何が起こった? それにオマエ、だと? イイヤツジャノウ、だと? ……いったいどうしたというのだろうか……?
確かめる間もなく、続けてもう一度、Sは同じ口調で別のセリフを発した。
「わしのこともちゃんと、救い出してくれたしのう」
「すくい……、だす?」
Sは軽く口角を上げるようにして笑みを浮かべるだけで何も答えず、かと思うといきなり私の背後に回った。そのまま腰のあたりに手を回し、密着してくる。
要するに、抱き着いてきたわけだが、それでいて、「抱き着」かれたという感じは全くなくて、本来布地を通じて届けられるはずの体温や息遣いを、私はほんのわずかさえ知覚することができないでいた。
喩えて言えばハリボテのように、Sの肉体はひどく軽く、作り物めいて感じられた。
Tシャツの裾からわずかにのぞいた脇腹の辺りに、恐らくSの頭髪らしきものが触れ、そこに生じるくすぐったさだけが、妙にリアルだった。
「……な、……にをしている?」
「せっかくだから特別に、オマエの願い、叶えてやるよ」
どこかの漫画かアニメかで使われていそうなセリフだなあと、傍観者然としたスタンスで悠長に構えていられたのは一瞬だった。
いきなり下半身の感覚が薄れてきて、かと思うと身体が傾き、前かがみに倒れ込むことが始まった。
反射的に両手を伸ばして支えようとしたが、脳からの指令は全く動作を誘発せず、ほとんど「気を付け」の姿勢のまま、顔面から勢いよく地面に突っ込んだ。鼻の辺りを中心として燃えるような痛みが広がっていくとともに、背中側の右腰の上あたりに、別の強烈な痛みが萌して息が止まった。呼吸はすぐに再開されたが、しかし呼気を取り込むたび、痛みは全身を貫くようで、これ以上息を吸いたくないと、私はただそれだけを思っていた。頭の中にわずかに残った冷静な部分の私が、飽きもせず身を起こそうと試みているようだったが、やはり足に力が入らない。というよりも、腰から下がどこかへ行ってしまったかのように、何かそこに自らに属する一部があるという感じがしない。黒いアスファルトの地面に貯められ、放散される熱が香ばしい匂いを届けてくる。どこからともなく現れた蟻の隊列が、時折立ち止まりながら、至近距離を通過しつつ、じっと私の様子を窺っていた。その「視線」を遮断するようにして、目を閉じる。ゆっくりと、だが確実に、靄のようなものが押し寄せてきて、やがてそれに全身を包まれた私は、意識を完全に意識をかんぜんに、しいきを、ぜにがかんに、ぜたえおかわおあしてなwwばいsた。




