そして「天国」へ⑥
簡単に言えば、「人影」はなぜか浴衣を身にまとっていたのだ。
青色の目立つ生地に、朝顔の模様がちりばめられている。足には鼻緒のついた草履をつっかけていた。
要するにこれから夏祭りに出かけようとしている「少女」を彷彿させる出で立ちだったわけであり、我々が所属しているのが所謂「夏休み」に該当する時空であることを考慮すれば、時節的にもそれほど的外れというわけではない。
だが残念ながらどれだけ柔軟に考えようと、その場所はやはり夏祭りの会場でも何でもなくて、風俗店の真ん前だった。つまり「浴衣」を着た少女が一人で訪れてよい場所ではない。
私が咄嗟に「ほぼ小走りで歩き始めた」のは、上記のような事情に触発されてのことである。
理由付けのためにゴチャゴチャ述べてしまったが、早い話が、私は心配したのだった。
まだ夜のほんの初めとは言え、人通りの少ない薄暗い路地裏の、しかも人々の欲望が垂れ流され、渦巻く空間に、幼子がただ一人で足を踏み入れ、さらに奥深くへと進もうとしている……。
いくら他人から「常に舐められ続ける」という境遇を与えられてきた身とは言え、その現状を看過できるほど、私は腐ってはいない。
大方おもちゃ屋か何かと間違えたのだろう、と私はしかしまだ楽観的に考えていた。
風俗店というのは大人からすれば、その名称も含めて何となくいかがわしげな雰囲気を醸す場所だが、世間ずれしていないクソガキが、店頭に鳴り響く軽やかな音楽やきらびやかな照明などを、おもちゃ屋を彩る華やかな装飾と混同するのはあり得ない話ではない。塾生のメンツを参照すれば明らかな通り、クソガキというのはそれくらいどうしようもないほどのアホぞろいなのだ。
だから私は「人影」(以下、Sと記載)に近寄ったのち、次のように話しかけるところから始めてみた。
「こんなとこにいたら危ないよ」
「……」
Sは振り返ったが何も答えず、しかし目を見開いた状態で怖いぐらい視線をまっすぐに向け、こちらを見た。小さな頭の後ろで結ばれた髪がわずかに揺れている。
長い間瞬きさえしなかった。
容姿とは対照的に妙に老成した表情に虚を突かれた私は、しばらくの間、暑ささえ忘れた。
しかしずっと見つめ合っているわけにもいかず、ひとまず自らが怪しい者ではないということを示すために重ねて尋ねた。
「お母さんかお父さんは? 一緒じゃないの?」
Sはやはりまた何も返答をすることがなかった。
いや、返答がないどころか、そもそも聞いているのかさえ怪しく思えてくるほど、全く微動だにしなかった。
その「(無)反応」を受け、私はさらに狼狽し、逡巡した。
本来であれば、大人の言うことを無視したクソガキに対しては、相応の罰が与えられて然るべきだが、当該時点における私は、気を抜くと吸い込まれてしまいそうなほど澄んだ瞳にとらわれ、言わば「牙を抜かれた」状態にあった。
少なくとも、事を荒立てるのは得策でない。
そう考えた私は、正体不明の焦りに駆られるようにして、「まあいいや、とにかくここは危ないよ、早くどこかに」とだけ言うと、Sの手首を掴み、路地の外まで連れ出してやろうとした。その時だった。
「オマエ、やっぱり、いいやつじゃのう」
「え?」




