そして「天国」へ③
私が三歳の時、母親が家を出て行った。原因は不倫である。職場の若い男とひそかに恋に落ちていたらしく、気づいた時には既に荷物を持ち、姉を連れ、家から忽然と姿を消していた。
仮に今同じことが起こったのであれば、どのような手段を使ってでも、私は母親を連れ戻すだろう。
それは「母親のことを愛している」だとか、そういうクソ寒すぎる理由からではなく、「片親」の不在がその家の子どもにとって、やがて必ず大きな負担となるだろうことを身をもって存じ上げているからだ。
だが弱冠三歳ということで、まだ「何も知らない」のも同然だった私は、母親を追う代わりに、残された父親の支えとなることを選択した。
詳しい事情を知らない幼児からすれば、父親は配偶者に捨てられた可哀そうな大人であり、同情の余地が多くあるように思われたのだ。
ちなみに、母親に関する記憶は一つしか残っていない。
それはなぜか室内で、新品の靴を履いてウロウロと行ったり来たりを続けている姿だ。
一歩一歩足を踏み下ろすたびに鳴る床の軋みと粘ついた接地音が、今も耳にこびりついて離れない。
もしかするとそれは母親から我々に対する何らかのアピールだったのかもしれない。
だがしかし少なくとも私は全くその意味に気づかず、ただわずかながらの鬱陶しさを覚えながら、右から左へと聞き流し続けるだけだった……。
とにかくそういう事情で母親の芯材が人生から消えて以来、私は常に父親のことを念頭に置きながら生活を送ることになった。
まるで何かに憑りつかれたように、朝から晩まで仕事にのみ情熱を注ぐ父親の代わりに朝食と夕食を作ったり、洗濯をしたり、掃除をしたりと、身の回りの世話が主たるものだったが、意外にも一番キツかったのは、「コミュニケーション」である。
普通であればやらなくてもよいことと引き換えに、自身の貴重な若い時間がどんどん失われていくことは、当該の人物に対し、とてつもなく大きな焦燥感を引き起こすものである。
そのせいなのか、年を経るにつれ「なぜ俺がこんなことをやらねばならんのか」という当然の疑問が徐々に大きく膨らんでいき、それと比例するように、父親に話しかけるのが困難になっていった。
中学校に上がる頃には、家庭から会話らしい会話は消えた。
そして重苦しい沈黙が幅を利かせる中、私と父親はまるでただルームシェアをするだけの赤の他人であるかのように、黙々と生活を送ったのだった。
だが繰り返しになるがそれでも私は、父親の存在を頭から消すことができなかった。
高校卒業後の進路に際しては、担任教師から県外の大学を進められたが、父親を一人残していくわけにはいかないと考え、結局地元の中堅私大に進学した。
バイトもせず、友達も作らず、毎日ただひたすら家事ばかりの日々を送った。
その後は自宅から通える私立高校に英語科の空きがあったので応募して採用され、職を得た。
同時に、一生涯父親の傍でその世話をし続けることが決定した。
二十五歳を超えてなお童貞のままという「人外」ができるまでの過程は以上のような感じである。
……いかがだろうか?
なのに父親はあの日、仕事を終えて疲れて帰ってきて休憩も取らずに夕食を作ろうとし始めた私に対し、ソファに深々と寄りかかってビールか何かを飲みながら、こう言ったのである。




