「不幸」の連鎖、そして「ハゲ」の発覚⑥
「どうした? どこがわからない?」
「えっと、いや、あの」
私がもう一度尋ねると、Xは途端に口ごもった。
「英雄」を前にして気後れしたようだ、そういう控えめなところも魅力の一つなのだ、と私はひそかに考え、さらに気分がよくなった。
学校帰りなのか、制服姿で、言葉を発するたびに襟元のリボンがわずかに揺れる。髪留めのゴムよりもわずかに明るい、だがくすんだ赤い色だった。その身体のどこかから甘い香りが漂ってきたような気がして、私はひそかに鼻から息を大きく吸い込んだ。
夢見心地な気分は、もちろん、しかし長くは続かない。
「あれ、せんせえ、頭、ハゲてませんか?」
それを口にしたのが誰だったのか、わからない。
しかし気づいた時、既にそのセリフは発せられており、そして発せられた時点で、何もかもが手遅れだった。
瞬時に教室がざわめきを取り戻していた。しかもそこかしこで、ヒソヒソと「ハゲ」という単語が飛び交わされているといった体たらくだった。
要するに、私の薄毛が新たに教室中の話題を独占し出したのであり、「手遅れ」とは要するに、そういうことだ。
それでも仮にXが普段と同じように一人黙々と自習に専念し続けていたのであれば、それで私は十分だった。
もとより彼女以外、私が味方でいてほしいと望む者はいない。
だが、残念ながら結局のところ、「ハゲ」の前では全てが無力である。
恐る恐るXの様子をうかがうと、彼女は言葉を発することこそなかったものの、目を大きく見開き、落ち着きなく周囲をキョロキョロと窺うことを繰り返していた。
つまりざわつきに動じず勉強を続けているどころか、好奇心の類をありありと剥き出しにしていたというわけであり、それは同時に、彼女の中で私の存在が、「英雄」から「ハゲ」へと堕落したことを意味する。
まさしく考えられるかぎりサイアクの展開だった。
……これもまた「赤子」のもたらす「不幸」によるものなのか……。
様々な意味合いにおいて「態勢を立て直す」ことが急務なのは間違いなかったが、残念ながら私のハゲは紛れもない現実であり、だからこそ即座に事態を完全に収拾することは困難に思われた。
なぜならその目的を果たすためには、私はハゲでなくなる必要があるからである。
だが、ひとまず「ハゲ」を肴とした耳障りな歓談だけでも鎮めたく思った。
だから私は、教室中の視線を意識しながら身体を起こすと、言ったのである。
「おい授業中だぞ、誰が喋ることを許可した?」
しかし繰り返しになるが、事態は既に取り返しのつかないところまで進捗していたのだ。
そのことを私に思い知らせてくれるかのように、見事に最も怖れていたことが起こった。
ちょうど聞こえるか聞こえないかという絶妙な声で誰かが呟く。
「……ちっ、ハゲが何をほざいてやがる」
「……」
ハゲのくせに偉そうにするな。
そう言われてしまえば、こちらとしてもそれ以上何とも言いようがないのである。
打つ手の無くなった私は一瞬だけ逡巡したが、結局「時計=カメラ」の残骸をポケットに入れ、教室を出た。
一刻も早く大本を正す必要がある。
そう考え、ほとんど落ちるようにして階段を駆け下りた。
それでも事務所にいたKに声をかけることだけはやはり欠かさなかった。
「すみません、調子悪いんで、早退します」
「は? また?」
「いけませんか? パワハラですか?」
「は? パワ? は?」
Kは大げさに戸惑ったような態度を示して何事かほざいていたが、自分としては既に筋を通したつもりだったので無視し、駐車場へ向かった。
停められていたKの車のボンネットに腰を下ろす。
しがない塾経営者にも拘らず、外車乗りなのは忌まわしいことこの上なく、普段からそれだけで十分百罰に値すると私は考えているのだが、反面、その場所は座って休憩するにはもってこいで、心を落ち着かせたい時などにわりと重宝していた。ボディから伝わってくるほのかな温かさが臀部に絶妙な刺激を与えて来て、心地よくてたまらんのである。




