噂と、「存在」の消失④
「『二度と赤子の傍を離れられない』、と言ったよな」
「あ、はい、そういう噂ですけど」
「それはいったい具体的にどういう状態なんですかぁ? 例えばその『赤子』の人形を、物理的に放置してどこかへ去ったりした場合は、どうなるんですかぁ?」
「え? 何?」
「どうなるんですかぁ? 俺はそれが知りたい、とても強く今すぐ、早く知りたい、まだか? まだなのか? それとも、もしかして知らないのか? あんなに偉そうにベラベラベラベラまくし立ててたのに? うわーこれは恥ずかしいー、かわいそおー」
「は? ……いやいやいやいや、はいはいはいはい、わかりましたわかりましたよ、んーと、……えっとそうですね……確かあたしが聞いた話によると、そうやって『赤ん坊』の人形を雑に扱ったりすると、なんかひどい不幸に見舞われるらしいです、最悪の場合、存在自体を消されるとか何とか」
「…‥ハハッ、そうかそうか、存在を消してくれるのか、無償で? それはいい、実に悪くない、出血大サービスというわけだ、フハハハハハ……」
そこで笑いながら教室を出た私は、勢いそのままに階段を下り、玄関口へと向かった。
もちろん何も面白くなどなく、だからその「笑い」はひとえに平静を装うためにのみもたらされたものにすぎない。
実際、脳内を満たしていたのは、「セロトニン」・「βエンドルフィン」といった物質(いずれも「笑い」と関係する)ではなく、ただ一つ「ヤバい」というフレーズだけだった。胸の辺りに何かが詰まった感じがしてひどく息苦しい……。
もはやみなまで言わずとも明らかだろうが、その時私が柄にもなく慌てた感じで逃走を図ったのは、一刻も早く「赤子」のもとへと舞い戻るためである。
もちろん完全にイかれていることの明らかな「巌窟王」の言葉を頭から信じ込んだつもりはない。だが反面、「赤子」を放置して塾にやってきたこと、すなわちGの言葉で言えば「赤子」を「雑に扱った」ことは、確かに一つの重大な「不幸」を私にもたらしていた。
それとはすなわち、Xの「不在」である。
遡ること数日前、最後に会った時に本人の予定を聞いておいたので、本来であれば今日、我々はまた会えるはずだった。そう、会えることは絶対間違いなく確実に、間違いのないことだった。
にもかかわらず、蓋を開けてみればこの通り、いつまで待ってもXのやってくる気配はない。
そこに本来あるべき現実を捻じ曲げる形で無理やり挿入された「不幸」の気配を感じ取るのはごく自然な流れではないか。もしかするとXは、私の不手際により、まさしく「存在」を抹消されてしまったのかもしれない……。
「事務室」で何やらPCをいじくって仕事をしているふりをしているらしい(ヘッドホンをつけてパンクバンドのメンバーよろしく、激しく頭を振っていた)Kに、社会人の常識として「すみません、調子悪いんで早退します」と声をかけてから塾を出た。
Kはと言えば、「なんだって?」とか何とか言って、困惑した表情を見せていたがもちろん無視した。
午後八時半をわずかに過ぎたばかりの時刻だった。




