噂と、「存在」の消失①
だからその夕方、すなわち「赤子」がアメイジンググレイスの発生とともに長い沈黙に入ってからだいたい二十時間ぐらい後の夕方、さらに言えば、「夏期講習」の初日に当たる日の夕方、せっかくシフトに入っていたにもかかわらず、また事前に本人から「来る」と聞いていたにもかかわらず、そしてだからこそハゲの部分を黒マジックで塗りつぶす工夫まで施して気張って出勤したにもかかわらず、Xがいつまで経っても現れなかったことで、私が顕著に萎え始めたのは想像に難くなかろう。
授業開始前に、既に「帰りたい」という気持ちで頭蓋内がパンパンになっていた。
この土地に来てからわりと平穏な日々が続いていたにもかかわらず、「赤子」を拾ったこと(もしかするとハゲたこと)をきっかけとして、どうやらツキを手放してしまいつつあるようだ。
私はそんなことを考えながら、授業が始まってからも壁によりかかり、天井にこびりついた薄雲のような形の染みをぼんやり眺めていた。
Kからは常々、「キミは愛想というものがない、もっと積極的に生徒の輪の中に入ってコミュニケーションをとれ」などと言われていたが、Xもいないのに、わざわざクソガキどもの中をうろつく気になどなれるはずがない。
そんな風に鬱状態に引きこもりかけていた私の気を別の意味で引き締めさせたのは、よりによってクズどものイカれた雑談だった。
私は先にこの塾の形態を「9割が自習」という物言いで表現した。
それは確かに間違いではないが、完全に正しいというわけではない。
真にありのままの実情をお披露目するのであれば、私はその説明を「9割がお喋り」という風に訂正しなければならない。
そもそも原理的に考えてみれば、挨拶さえまともにできないクソガキどもにとっては、「自習」どころか黙ってじっとしていることがまず困難なはずである。
実際奴らは、授業中でも構わずに平気で喋りまくりやがる。しかも全く関係のない話題で、だ。
「せんせえ、血液型何?」・「誕生日教えてよ」・「兄弟いるの?」・「髪切った?」・「実家暮らし?」・「カノジョは? いるの?」……たわけている、あまりにたわけていすぎる……。
繰り返しになるが、授業中に、全く脈絡のないタイミングで、それらの発言は教室内を飛び交いまくる。「塾の生徒」の振る舞いとして完全な誤りだろう。
だが、その「誤り」の度合いは、ある連中によってさらに加速度的に増幅されることになる。そう、言うまでもないことだが、その「連中」とは「講師」どもである。
何しろ私を除いた「講師」どもは軒並みクソなので、クソガキどものあまりに不愉快な「私語」の乱れ撃ちを、あろうことか「親しみ」の現れだなどと幸せな勘違いをし、叱るどころか大喜びで会話を弾ませようと頑張り始めるのだ。
その結果、クソガキどもが余計に調子に乗り、教室内は年末の競り市を彷彿させるほどの活況を呈し始めることになる。
……たわけている、あまりにたわけていすぎる……、楽しいのは結構だが、せめて誰か一人ぐらいは、状況に疑問や危機感の類いを抱いたらどうなのか……。




