第八話 石の刃
木が葉を出すより、半年ばかり前のことである。
移り住んだばかりの幹の中は、まだ削りかけだった。
奥の壁に彫った上の段は、彫り込んだ底が手前へわずかに傾いている。
置いた袋がひと晩のうちに縁まで這い出てきて、朝には床に落ちているものが二つ三つある。
その底を平らにするために、冬のあいだも誰かしらが中へ入って、石の欠片で棚を削っていた。
壁は削った場所と残した場所とで厚みが違い、内側から掌を当てると、南へ向いた側だけがわずかに生ぬるい。
真ん中で火を焚けば、煙は洞の抜けた天井へまっすぐ上がっていって、朝になっても梁の下は乾いたままだった。
去年の冬に朝いちばんで確かめていたのは、穴蔵の底のほうである。
蓋の閉まりきらない穴蔵では実が凍り、上の段でやられたものが下の段まで届くのに四日かかった。
いまは、肘の高さの棚に種、膝の高さの棚に食う分が入っている。
暗いところで手を伸ばして取り違えなかったというだけのことが、この冬は毎朝繰り返され、繰り返されるたびに、駄目になったものは一つも出なかった。
二十四人が壁に沿って並んで眠っても、真ん中の火のまわりには、誰も跨がずに端まで歩けるだけの空きが残る。
その朝、ノアが棚を削っていた。
息を吹きかけても曇りの動かない、艶の失せた欠片を木肌へ当てても、狙ったところへは入っていかない。
繊維に沿って先が流れ、押し込めば押し込んだぶんだけ刃が脇へ滑って、削っているのか撫でているのか、手を止めて目で確かめるまで判断がつかなかった。
段の底の傾きは、奥の隅へ指を差し込んで測れば、手前側が指一本半ぶん低い。
その一本半ぶんだけ奥を削り落として平らにするのに、彼はもう三日を使っている。
ノアは同じ場所を三度やり直し、三度とも同じように流れたあとで、石を膝の上へ下ろした。
「この石が悪い」
言ってから、ノアは自分の言ったことに少し驚いた。
石というのはこういうもので、うまく入らないのは手のほうが下手だからだと、それまで彼自身がいちばん疑いもせずに思っていた。
道具のせいにするのは負けを認めることだ、というくらいの覚え方をしていたのである。
四年ぶん、彼は自分の手を疑ってきた。
腕が悪いだけなら、三日も削れば少しは平らになっているはずだった。
傾きは、三日前とほとんど変わっていない。
その日のうちに、ダンが袋という袋をひっくり返して、手持ちの石を火の脇の乾いた地面へ並べ始めた。
ノアは削るのをやめて、その手元のほうを見ていた。
拾ったまま袋へ放り込んであったものが、出してみると思っていたよりずっと多い。
四年のあいだ、川原で足に当たったものを拾い、拾った先で袋へ入れ、入れたことを忘れてまた拾ってきた分である。
濁った土気色の欠片が、大きさも厚みもばらばらのまま三十四、二列になって地面に伸びた。
ダンは端から順に一つずつ持ち上げ、握り、角度を変えて日にかざし、縁へ指を這わせてから、また元の位置へ戻していく。
戻す向きを間違えないので、彼の指が通ったあとの列は、通る前とまったく同じ向きのまま並んでいた。
その同じ動作が三十四回続き、終わったとき、手前に寄せられていたのは三つだけだった。
「三十四ある」
「多いな」
「多くない。三十四のうち、縁が薄く出てるのが九つ。九つのうち、握って指の余らないのが五つ。五つのうち、どこを叩けばどう割れるかを俺が言えるのは、三つ」
「残りは?」
「持ってるだけの石だ。形が悪いんじゃない。どこを叩けばどう割れるかが、こっちに分からないんだ。分からないものは、袋の中では石でも、手の中では石じゃない」
「持ってるだけの石って何だよ」
カイが膝を折って、寄せられなかったほうの山を指で突いた。
「持ってるだけの石だよ」
「言い方に悪意があるだろ」
「事実に悪意はない」
セトの声は火の向こうから来た。
カイは口を尖らせ、言い返す言葉を探して二列の石を端から端まで眺めたが、彼の味方をしてくれそうな形のものは、そこには一つも転がっていなかった。
「じゃあ、その三つで足りるのか?」
「足りない」
「足りないのに三つなのか?」
「三つしか無いから三つだ」
ダンは寄せた三つを袋へ戻し、袋の口を結んでから、結んだ紐をもう一度確かめた。
去年の冬に倒した木のことを持ち出したのは、そのときのフィンである。
三日かけて焼き倒して、割ろうとして、結局は薪にしかならなかった一本のことだった。
その薪はまだ屋根の下に積んであり、腕の高さを越えていたのが、この冬のあいだに膝の下まで減っている。
彼は「あれも、割れなかった」とだけ言い、それ以上は続けなかった。
ノアは膝の上の欠片を裏返して、割れ口ではないほうの面を親指で撫でた。
撫でても、何も分からなかった。
翌日から、割ってみることになった。
石を石で叩く。
それだけのことが、やってみるとまるで思うようにいかない。
場所は屋根の下にした。
中でやると屑が寝床まで飛ぶうえに、飛んだ先を探すのに火を近づけることになる。
膝の上へ樹皮を一枚敷き、割られる側をその上に据えて、叩く側は右手で握る。
振り下ろす高さは、肘から先が伸びきらないところまでと決めた。
それより高く上げると、当たる場所が振っている本人にも分からなくなる。
一つ目は、叩いた場所とはおよそ関係のない反対側から裂けて、丸みを帯びた塊が二つできただけだった。
どちらも掌には収まるが、何かを切るための形にはどう見てもなっていない。
二つ目は根元から崩れ、乾いた石灰の白がふわりと舞い上がって、袖にも髪にも睫毛にも薄く積もり、払っても払っても細かいものが指の間に残った。
石というのは、叩かれた場所を律儀に覚えていてくれるほど親切な相手ではない。
「そこじゃない。もっと端」
言っているのはカイである。
「端だと欠けるだけだ」
「じゃあ真ん中か?」
「真ん中は割れない」
「どっちなんだよ」
「どっちでもない場所があるはずなんだ」
答えているのはノアで、答えながら、自分が何も答えられていないことも分かっている。
その、どっちでもない場所を探すのに、この冬のほとんどが使われることになる。
十個割って、使える形は一つも出なかった。
寄せてあった三つのうちの二つと、寄せられなかった山から八つ。
十のうち、元の形へ戻せるものは一つも無い。
「十だ」
ダンが言った。
「全部か?」
ダンは答えなかった。
答えないということは、十個とも駄目だったということである。
カイもそれ以上は聞かなかった。
ノアは十一個目を手に取ったが、持ち上げた高さで腕が止まり、そこから振り下ろすでも下ろすでもなく、しばらくそのままでいた。
外はとうに暗く、幹の中では火が一度崩れて、崩れた分だけ壁の影がまとめて動いた。
それから彼は石を膝の横へ置き、その日はもう叩かなかった。
*
その十個目を数え終えた翌朝、セトが石板を抱えて横に座った。
石板というのは、川原で拾ってきた平たい石のことである。
表と裏で二面あり、片面が埋まるのに、ものによっては一冬かかる。
彼はいま五十枚あまりを持っていて、そのうち六枚が枯らした六本のことで埋まり、四枚が畑のことで埋まっていた。
刻むには、割って屑になったほうの欠片を使う。
刃にはならないと言われた石でも、木や石の面に線を引くことだけはできる。
彼は割る役をノアに任せたまま、叩く前の石と叩いた後の石を、いちいち並べて見比べるようになった。
書けることが一つも増えないまま日だけが過ぎるのは、この記録する役にとっては、割れない石より始末が悪い。
どのくらいの角度で当てたか、どのくらいの高さから振り下ろしたか、どこから裂けたか——炭を刷いたような黒い線が、叩くたび一本ずつ石板の面を埋めていった。
埋まっていくのに、並べて見比べたときに二枚が同じことを言っている、ということが一度も起きない。
「向きを変えるな」
三日目に、彼はそう言った。
「変えないと当たらない」
「当たらないのは分かる。けど、向きを変えると、当たらなかった理由のほうが分からなくなる」
ノアが手を止めて、握っていた石を持ち替えた。
「同じ石を、同じところで、同じように叩く。それを何度かやってから、一つだけ変える。角度を変えるなら高さは据え置く。高さを変えるなら角度は動かさない。二つ動かして割れたら、どっちで割れたのかを俺は書けない。書けなかったものは、明日のお前の役に立たない」
「面倒だな」
「面倒だから、俺が書く」
以後、ノアは同じ場所を三度ずつ叩くようになった。
三度とも同じに割れたことは一度も無く、そのことも一行ずつ刻まれていった。
セトは、同じに割れなかったという行だけが増えていく面を、日に一度は裏返して眺めている。
裏返したところで増えた行が減るわけではないが、増えていくものを見る向きを変えるくらいのことは、この役にもできた。
*
その一行が増えるばかりで一つも減らないまま、雪が緩みかけた頃、ダンは一人で川沿いを歩いていた。
数えるためである。
使える石は三つしか無いと言ったのは彼自身で、その三つが日ごとに欠けて小さくなっていくのを毎朝確かめていた以上、増やす当てを自分の足で探しに出るしかなかった。
歩きながら、彼は足の裏でも数を取っている。
住処の裂け目から川へ下りるまでが二百と少し、そこから川に沿って下るぶんは、まだ一度も数えたことがない。
崖はその途中にあった。
下りきってから水の縁を千二百歩ほど、川がひとつ大きく曲がるより手前で、雪解けで水が出ればまた沈む場所である。
雪の緩みかけたこの時期にだけ、崩れた斜面の裾が乾いて歩けるようになる。
その裾に、艶のある灰の塊が、大きいものも小さいものも混じって幾つも転がっていた。
雪解けの水を吸った斜面は錆を溶いたような赭に濁り、乾いた裾だけがそこから縁を切って白茶けている。
ダンは一つ持ち上げ、しばらく掌で重さを測ってから置き、もう一つ持ち上げて、また測った。
二つとも、同じくらいの重さだった。
同じ大きさのものが同じ重さである、というのは、彼にとって当たり前のことではない。
袋の中の三十四は、並べれば同じ厚みに見えるものでも、持ち上げれば軽いのと重いのに割れた。
探すのをやめた頃に見つかる、というようなことをダンはどこかで聞いた覚えがあった。
彼の場合はそうではない。
数えに来ただけである。
数えに来て、数えるものが増えた。
持ち帰った塊をノアが叩くと、割れ口に青みを含んだ光が一筋走った。
同じところへ同じように当てると、同じ形に裂けた。
三度やって、三度とも同じだった。
「これだ」
セトは返事の代わりに、まだ何も刻んでいない石板を一枚、膝の上へ載せた。
「どこにあった?」
「川へ下りて、水の縁を千二百歩。曲がる手前の崖だ」
「あんなところ、行ったことないぞ」
「雪が解けたら水が来る。今しか歩けない」
「じゃあ、また来年まで取れないのか?」
ダンは答える前に、指を折って数え直した。
雪が緩んでから水の出るまでを、彼は去年の分から四日と見ている。
その四日で二十四人が何往復できるかは、数えるまでもない。
「四日ある。今のうちに、運べるだけ運ぶ」
その日から四日かけて、一同は崖の裾と住処のあいだを往復した。
一人が一度に抱えられるのは、大きいもので二つ、小さいものを混ぜて四つか五つ。
往復に半日かかるので、日に一度きりである。
薪と水の当番を残すと、出られるのは半分ほどになった。
運んだ石は屋根の下の作業場に積み上がり、四日目の夕方に数えたら、百八十を少し超えている。
四年かけて三十四だったものが、四日で百八十になった。
積み上がった高さの分だけ、割ってもいい石が増えたということになる。
ダンはその山を毎朝数え、数えた数を毎朝セトに言った。
言われた数を、セトはそのつど刻む。
刻んだ数と、翌朝ダンの言う数が食い違った日が、そのうち一度あった。
「昨日のと合わない」
「合わない。昨日が百七十八で、今日は百七十五だ。三つ減ってる」
「割ったのか」
「割った。三つとも、ノアが試して駄目にしたぶんだ」
セトは前の日の数字を消さずに、その脇へ、駄目にした三つのぶんを別に足した。
「消さないのか」
「消さん。……減ったことのほうも、起きたことだ」
脇へ足したぶんで、その面は下の縁まで埋まった。
翌朝の数を刻む場所は裏しか残っておらず、裏は同じに割れなかった行で半分埋まっている。
以来、石の数を読むのに、セトは石板を二度返さなければならない。
ダンのほうは翌朝、脇へ足された三つを勘定に入れないまま山へ向かい、入れないまま数えて、合わなかった。
「三つ、足りない」
「そっちの脇に書いてある」
「脇は数えてない。明日の話をするのに、昨日の数が要る。……要るのは数のほうで、行のほうじゃない」
ダンがそう返した。
「昨日の数を残すのに、明日のぶんまで数える必要は無い」
セトがそう返した。
二人ともそれきりで、そこから先を続けなかった。
ダンはその朝、百七十五を初めから数え直している。指を折り直しているあいだに、日は指一本ぶん傾いた。
セトのほうはその半日、脇の三つを読むたびに石板を二度返した。
*
その日から、ノアは割る前に口を開くようになった。
「こういうものが要る」
そう言って、掌と指で形を作ってみせる。
掌へ収まって片側だけが薄く、握って引ける小刀。
それから、水の中で真っ直ぐ突き出すための、細くて重心の先寄りな穂先。
それから、片手で振れる程度の重さで、厚みのある短い塊。
「最後のは何に使うんだ?」
「まだ決めてない。けど、要る気がする」
「決めてないのに作るのか?」
「決めてないから作る。去年までは、割れた石を見てから何に使うか決めてた。それだと、石が決めた形の中からしか選べない。先に形を決めておけば、使い道のほうがあとから追いついてくる」
カイはそれを聞いて、口を閉じたまま動かなかった。
「……それ、去年までと逆じゃないか?」
「逆だな」
ノアは石を持ち替えて、答えたきり手を止めなかった。
選ぶところから始まるようになった。
百八十の山を端から見ていって、まず縁の一箇所が薄く出ているものだけを脇へ寄せる。
寄せたものを日にかざし、中に濁りの筋が走っているものは戻す。
筋のあるところで、石は割れる。
割れてほしくない場所に筋があれば、その一つはもう使えない。
残ったものを掌へ載せ、目を閉じて重さの寄り方を確かめる。
先へ寄っているものが穂先になり、真ん中に寄っているものが小刀になり、後ろへ寄って厚いものが三つ目になる。
選ぶのに半日、割るのに半日という日が、それから幾日か続いた。
これまで手当たりしだいに掴んでいた叩く側の石を、そのとき初めて選んだ。
寄せなかった山から、掌に余って重いものを一つだけ別に取る。
握って振ってみて、手首よりも肘のほうへ重さの来るものを選び、その一つだけは袋へ入れず、足元のいつも同じ場所に置くことにした。
割られる側ではなく、割る側に要るものである。
「その石は割らないのか?」
「これは割る側だ」
「割る側?」
「叩くほうにも、要るのと要らないのがある。今まではその辺のを掴んでた。掴んだのが軽いと、当たっても叩いた石のほうが跳ねる。跳ねた分は、割られる側には届かない。届かないぶんだけ、こっちは何度も叩くことになる」
掌に収まって片側だけが薄い、と彼は先に言い、そう言ってから叩いて、割れたものを掌へ載せてみると、言ったとおりの形がそこにあった。
自分の指が空中で作った形と、石が勝手に選んだ割れ方とが、この四年で初めて同じところに落ちている。
ノアはそれを二度、掌の上で裏返した。
二度目を裏返すあいだに、これは自分が上手くなったのではなくて、石のほうが今日たまたま言うことを聞いただけかもしれない、と思った。
思ったが、口には出さないでおいた。
確かめる道なら、一つだけある。
同じことを、もう一度やればいい。
割り上げた縁には、貝の内側に似た鈍い虹が薄く浮いた。
穂先は、二つ作った。
一本目と二本目のあいだに、彼は何も変えていない。
同じ山から同じ寄り方の石を取り、同じ場所へ据えた叩く側の石を同じ高さから落とし、割れ口の走り方まで揃った。
一本で足りるだろう、と誰かが言いかけたが、ノアはそのときにはもう同じ手つきで二本目を割り終えていて、言いかけた者もそこで口を閉じた。
ヴェルドは、少し離れた壁際からそれを見ていた。
ノアが三つ目の石に手こずって、同じ場所へ四度当てて四度とも思った形にならなかったとき、彼は口を開きかけた。
開きかけて、そのまま閉じた。
それから、消えかけていた炭を一つ、火の芯のほうへ寄せた。
*
リアが小石を持ってきたのは、その数日後である。
川の浅いところで長いあいだ水に洗われていたもので、角というものがどこを探しても見つからず、濁りがなく、日にかざすと向こうにある指の輪郭がぼんやり判るほど薄い。
「これ、誰も割ってない」
「そうだな」
「でも、こうなってる」
彼女はその小石を、ノアの掌の上へ置いた。
「割って作るのと、こうなるのとは、たぶん違う。これは誰も割ってないのに、角が無い。水が、ずっと同じところを触ってただけ。叩くと、石のほうが形を決める。触り続けると、こっちが決められるのかもしれない。かもしれない、としか言えないけど」
「削るのか?」
「削るんじゃなくて。擦る」
ノアは小石を光へかざし、それから自分の割った刃の縁へ指の腹をゆっくり這わせた。
引っかかるところと、するりと行くところが、指の下で交互に来る。
小石のほうは、どこまで辿っても同じに滑った。
「こっちは、どこも同じだ」
「そう。だから、欠けない」
「時間がかかると思う」
リアが言った。
「どのくらい?」
「……そこは、まだ何とも」
答えられないところから始めるのには、ノアももう慣れている。
慣れたというより、ほかの始め方を知らない。
擦る役には、誰が決めるでもなくフィンが座った。
平たい石の上へ川砂を撒き、水を打って、刃の縁だけを寝かせて当て、前後させる。
押すときに体重を乗せ、引くときは抜く。
抜かずに引くと砂が縁の下へ回り込み、当てているつもりの面が、端のほうからまるく落ちていく。
粥に似た濁りが石の窪みへ溜まっていき、溜まったものを流してはまた砂を撒き直すのを、一日じゅう繰り返す。
水は器に三杯、砂は両手にすくって四度ぶん。
それだけやっても、縁は指の幅ほども減らない。
彼は朝の早いうちに始め、外が暗くなってから戻ってきた。
そのあいだ、誰とも口をきかない。
「まだやってる」
二日目の昼、様子を見に行ったカイが戻ってきてそう言った。
「どのくらい進んだ?」
「聞いても答えない」
「答えないのか?」
「見せてはくれる。けど、見ても、昨日と違いが分からないんだ。減ってるはずなのに、減ってるところが目で追えない。あいつは分かってるみたいな顔で擦ってるけど、たぶん分かってない」
ダンは一度だけ見に行き、数えられるものが一つも無いと分かると、それきり行かなくなった。
三つ目は、その日のうちには形にならなかった。
形になったのは、それから何日か後である。
名前のつかないものが一つ、袋の中で場所を取っている。
三日目の昼、フィンは砂を替えた。
川上まで歩いたらしく、戻ってきた掌が濡れていて、親指の腹にだけ細かい粒が残っている。
なぜ替えたのかは言わなかった。
聞けば答えたのだろうが、聞くと手が止まる、とノアは思った。
止めてまで聞くことでもない。
替えてから、減り方が目に見えて変わった。
替えた砂は前より細かく、そのくせ、一粒ずつが角を持っていた。
下流の砂は流れてくるあいだに角が落ちる。
角の落ちたものと落ちていないものを、フィンがどこで見分けたのかは、ノアには分からない。
水で流して乾かすと、縁のところにだけ鈍い銀が細く出ていて、指を這わせても、もう引っかかるところと行くところが交互には来ない。
端から端まで、同じに来た。
フィンが、三日ぶりに口をきいた。
「見ろよ」
カイが呼ばれて縁へ指を這わせ、端まで行かせてから、もう一度、逆から這わせた。
「昨日と、違う」
「違う」
フィンは頷きもせずに、また砂を撒いた。
柄をつけたのは、その次の日である。
柄になる木は、屋根の下の薪の山から取った。
枯れて倒れたものだけを積むようになって、この冬で二つ目の山である。
その中から節の無い、腕の長さの一本を選んで、端から指二本ぶんの割れ目を入れる。
深く入れれば柄のほうが裂け、浅ければ石が座らない。
括るのは、まだ蔓だった。
若いままの蔓は、水へ浸けると若草の色を一段濃くし、指で押した跡がしばらく残るくらいまで柔らかくなる。
柔らかくしてから、割れ目へ石を噛ませて、その上から幾重にも巻いて締める。
巻きは十二重で止める。
それ以上重ねると柄が太くなって、握った指が回りきらない。
ウルが手伝いに入った。
「巻いた」
「緩い」
「巻いたよ」
「巻いたのは分かってる。緩いんだ。もう一回」
ウルの巻き方は、一重ごとに前の一重へ乗り上げていくので、締めたつもりのところが次の一重に押し戻されている。
ノアはそれを二度見て、二度とも言わずにやり直させた。
三度目にようやく横から手を添え、乗り上げた四重ぶんを解いて、下から順に締め直す。
締まった蔓を爪の先で軽く叩くと、短くて硬い音がした。
「できた」
「できたな」
「これで、突けるのか?」
「突ける」
握れる。
使える。
名前のつかないものにも、同じ日に柄をつけた。
片手で振る物なので、柄は小刀の倍の長さにして、割れ目も倍だけ深く入れる。
フィンがその縁を擦り上げるのに、そのあと幾日かかかった。
何に使うのかは、まだ誰も言っていない。
振ってみた者も、まだいない。
袋にしまってあった石に、柄がついた。
変わったところは、いまのところそれきりである。
*
足りていないと分かるのは、深い淵に入ってからである。
その淵のことは、全員が前から知っていた。
川がひとつ大きく曲がる先で川底が急に落ち込んでいて、上から覗き込んでも、底の見えない濃藍がゆっくり回っているのが分かるだけである。
岸から三歩で胸まで来て、四歩目からは足が着かない。
下流の側には濡れて黒く光る岩が一枚せり出していて、その上からなら、水の中を動くものの影だけは追える。
その底に、大きいものがいる。
初めての冬から四度目の春になるが、突く棒では長さも重さもまるで足りず、一度だけ当たったことがあるものの、手応えの直後に棒ごと弾き返されてそれきりだった。
雪解けを吸った水はまだ底のほうが冷たく、腰まで浸かって数えていられるのは、百かそこらである。
三人で入った。
ノアが穂先を持ち、フィンが上流から追い、カイが下流の岩の上に構えた。
段取りは、ノアが言った。
「あれは岩の裏へ入る。入られたら手が出ない。だから、入る前に下へ出す。フィンが上から歩いて詰める。詰められたら下流へ逃げる。カイはその岩の上で待って、下から回り込んでくるところだけを突く。俺は真ん中に立つ。立つだけだ。俺が突くのは、二人が外したときにする」
「外す前提かよ」
「外す。三人で三度は外す。外したあとに何が残ってるかを決めておかないと、獲れない」
一度目は、カイである。
影が自分の側へ回り込んできたとき、彼は待ちきれずに早く突いた。
穂先は水だけを裂き、脇腹の鈍い錫色が一度ひるがえって、そのまま底のほうへ落ちていった。
突いた腕が、水を裂いた分だけ軽く戻ってくる。
軽いというのは、当たらなかったということである。
カイは、口を開かなかった。
「もう一回、上から」
そう言っただけで、彼は水を蹴って岩へ上がり、上がってから、置いた足を一度だけ組み直した。
二度目は、当たった。
当たって、そして、蔓がほどけた。
柄だけが手の中に残り、噛ませてあった穂先は魚の脇腹に刺さったまま、日の届かない底へ一緒に沈んでいく。
締めた蔓は水を吸って膨らんでいて、膨らんだぶんだけ一重ずつが浮き、浮いたところへ次の一重が滑り込んでいた。
爪で叩けば硬い音の返っていたはずのものが、岩の上から見るかぎり、指で押せば沈むところまで戻っている。
ノアは水に立ったまま一度だけ舌を鳴らし、それから岸を振り返った。
「もう一本ある」
彼は岸に置いてきた袋のほうを、顎で指した。
「持ってくる」
フィンが上がっていって、袋から二本目を出し、水を渡って手渡した。
去年までなら、失くした時点でその日が終わっていた、とカイは思った。
思ってから、自分がもう三度目の位置に立ち直っていることに気づいた。
三度目に入る前、ノアが水に立ったまま柄の巻きを締め直すのを、カイは岩の上から見ていた。
締め直しても、まだ緩いのだろうと思った。
二本目のことを、そういえばあのとき誰も聞かなかった、とカイは思った。
三度目は、下から来た。
影が岩の裏へ回り込んだところをフィンが足で塞ぎ、逃げ場を失ったものが真上へ跳ねた瞬間に、ノアが両手で押し込んだ。
押し込んだ手応えがそのまま腕へ返ったらしく、踏ん張った足元の砂が抉れて、ノアは膝から流された。
流されても手を離さないのが、岩の上からは見えた。
離せば二本目が無い、というだけの話のはずだが、それだけには見えなかった。
カイは岩から降りた。
降りてから、自分がいつ降りると決めたのかを、思い出せなかった。
岸まで引きずるのに三人がかりになり、横たえたそれは、ウルの背丈ほどもある。
尾がまだ間を置いて跳ね、跳ねるたびに濡れた砂が飛んで、三人とも顔まで汚れた。
背は日を受けて深い緑青を返し、腹側だけが夕方の光を溜めて薄い黄金に光った。
持ち上げようとして、三人のうちの誰も一人では持ち上がらないことが分かった。
笊には、どう置いても入らない。
この四年で獲ってきた魚は、どれも笊に収まる大きさだった。
カイが座り込んだ。
濡れたまま、岸の砂の上へ、腰から落ちるように。
膝が小刻みに笑って、しばらく力の入る気配がない。
寒いからだ、と彼は決めることにした。
決めても、歯のほうは言うことを聞かず、血の気の引いた薄青の腕には鳥肌が浮いたままだった。
口を開く者はいなかった。
三人ぶんの息の音だけが、しばらく岸に残っていた。
ヴェルドが上着を脱いで、その肩へ掛けた。
「もう上がって」
「……上がってる」
「水から出ただけでしょう。今日はもう、川に入らないでね」
「入らないよ。もう入れない」
「じゃあ、運ぶのは?」
「それはやる」
「立てるの?」
「……もう少ししたら」
腹を開く前に、脇腹から一本抜いた。
先が潰れて、根元のところが薄く欠けている。
もう一度これで突ける形ではない。
沈んだほうである。
ヴェルドはそれ以上急かさず、抜かれたそれと、砂の上へ落ちたもう一本とを拾って、水気を袖で拭ってから同じ袋へ戻した。
*
その大魚を捌くのを、ヴェルドは住処へ戻ってから、少し離れたところで見ていた。
見ながら、濡れた袋を裏返して火の脇へ広げ、端の乾いたものから畳んでいる。
置いたのは屋根の下の平石の上である。
一枚では尾のほうが落ちるので、二枚を並べて継いだ。
押さえるのに二人、開くのに一人。
新しい刃は、押しつけなくても通った。
これまでの欠片なら皮のところで一度止まり、止まったところを両手で押して裂いていた。
今日は、置いた手の重さの分だけが入っていく。
腹を開くと薄紅を刷いた白がひらいて、湯気に似たものが冷えた空気の中へ細く立ちのぼる。
奥のほうから出てきたものは暗い葡萄色をしていて、それだけは触らずに笊へ落とした。
リアが中身を分け、その場で食べる分と、埋めて土へ返す分と、吊るして干す分とに置き分けていった。
その場で食べる分は、二十四人へひと切れずつ渡ってまだ余る。
吊るす分は、屋根の下へ十六枚下がった。
ダンはその三つを別々に数え、数えてから、三つを足した数のほうは言わなかった。
足した数を言えば、明日には減っているからである。
「十六だ」
「一尾で?」
「一尾で。これまででいちばん多かった日は、四人が半日ずつ川に立って、それで九枚だった」
「足すと、いくつになる」
そう聞いたのはカイで、彼は笊のほうを見ていない。
「足さん」
「足せば出るだろ」
「出る。出るが、言わん。……足した数っていうのは、その日のいちばん多い数だ。いちばん多い数を口に出すと、明日からは、そこから減った話しかできなくなる。減った話ばかりしてると、そのうち誰も俺に聞きに来なくなる」
「聞きに来なけりゃ、楽でいいじゃないか」
「楽じゃない。……聞きに来ないやつは、勝手に自分で見当をつける。俺も前にやった。そのときは、多いほうへ外れた」
カイはそれ以上を聞かずに、笊の縁を指で二度弾いた。
セトはその横へ座って、いつもどおり書いていた。
書きながら、手元から目を上げないまま、一度だけ言った。
「この刃は、誰かを傷つけることもできる」
リアの手は止まらなかった。
セトも、それきり何も付け足さずに次の行を刻んだ。
刻み終えたところへ、ノアが来た。
「いま、なんて刻んだ」
「聞いたとおりだ」
「聞いたとおりを刻んだのか。それとも、思ったことを刻んだのか」
「聞いたとおりだ。……俺が言って、俺が刻んだ」
「自分の言ったことを、自分で刻むのか」
「刻む。刻まないと、言わなかったことになる」
ノアは平石の端の刃を見た。
見たが、取り上げはしなかった。
「消せるか」
「消せる。粉が出るまで擦れば、消える」
「消してくれとは言わない」
「言われても消さん」
畳んでいたヴェルドの手が、そこで止まった。
傷つける、という言葉が出るまでに何日かかったかを、彼は数えていない。
数えていないが、遅かったとは思わなかった。
見ていたのはセトのほうではなく、平石の端に置かれた刃のほうである。
あれは今日、腹を開くために置かれている。
明日も同じ場所に置かれるだろう、と思い、そこから先へは進まないことにした。
指先が、また動き出した。
*
皮は、剥いで残した。
背から尾までひと続きに剥がれ、広げてみると、二人が向かい合って持ってちょうど張れるだけある。
その皮の端をリアが細く裂いたのは、翌朝である。
裂き方は、端にだけ刃を入れて、あとは手で引く。
刃で最後まで行くと幅が揺れるが、手で引けば、皮のほうが同じ幅のまま裂けていく。
指の幅の三分の一で、長いものが六本取れた。
裂いたものを水へ浸けて柔らかく戻し、柄の割れ目へ石を噛ませ直してから、その上を隙間なく巻いていく。
蔓のときのように重ねるのではなく、端と端を突き合わせて並べるように巻いた。
巻き終わりを内側へ押し込み、日の当たる岩の上へ置いた。
「乾くまでは触らないで」
翌々日には、縮んでいた。
巻いた日には柄との間へ指の先が入ったのが、もう入らない。
乾いて透けた爪に似た色になり、爪で叩いても蔓のときのような音は返らず、代わりに何の音もしなかった。
ノアが握って、二度、三度と振った。
ほどける気配がない。
「なんで分かった?」
「分からない」
彼女は柄の巻きを指でなぞった。
「干した魚が、そうなってたから」
*
その夜、ノアは眠る前に、小刀を寝床の脇へ置いた。
寝床の脇というのは、壁と背中のあいだにできる、拳ひとつぶんの隙間のことである。
寝床の脇に物を置いている者は、この幹の中にほかにいない。
手元へ置いておきたい物を、まだ誰も持っていないからである。
火影を一筋だけ返す縁が、そこにある。
明日も使うから手の届くところに置いたのだと、聞かれれば彼はそう答えただろう。
指を伸ばして、その縁に一度だけ触れた。
これから、こういうものを作る人間になる。
そう思ったことを、彼は誰にも話していない。
話す理由が、思いつかなかった。
火の向こうから、誰かがこちらを見ていた。
目が合う前に、逸れた。
その隣で、ダンが数えていた。
石でも、魚でもない。




