第七話 大木の住まい
冬に入って四日目の朝、穴蔵の底でも、実が凍った。
見つけたのはダンである。
四日前に上の段がやられたのは、閉まりきらない蓋の隙間から冷えが落ちてきたからで、リアが割れた分を袋へよけて口を結び、それで済んだことになっていた。
その朝も彼はいつもどおり蓋を開け、上の段から順に数を確かめていて、下の段の三つ目で手が止まった。
掌へ載せて持ち上げると、指で押した皮が音もなく割れ、凍って緩んでまた凍ったものが中で濁った蝋色に固まり、実の形だけを残して中身をやめている。
上で起きたことが、四日かけて下まで届いていた。
数は、どちらのときも減っていない。
増えたのに減っている、というのは、四日前にカイが言ったことである。
その場かぎりの言い方だと、ダンはそのとき思った。
穴蔵の底は掘ったままの土が鈍色に凍てついており、蓋の隙間から落ちた冷えがそこへ溜まって、抜ける道が無いのでいつまでも出ていかない。
屋根の下は逆だと、彼は知っている。
火を焚けば煙が抜けきらずに天井の裏へ溜まり、溜まった煙が夜のうちに水へ変わって、朝には梁の下側が決まって濡れているのを、彼は去年の冬に何度も指で確かめた。
上へ置けば湿り、下へ置けば凍る。
乾いたまま物を置ける場所が、この暮らしにはひとつも無い。
ダンは割れた実を火の脇へ置いてから、そのことを言葉にしてみた。
「入れ物が足りないんじゃない。上へ置けば湿って、下へ置けば凍る。どっちも数は減らないんだ。減らないのに、食える物だけが減っていく。足りないのは、置く場所の種類が、足りない」
言い終えてから、彼は自分の言い方があまり上手くないと思った。
上手くはないが、これ以上正確に言う言い方も思いつかない。
「そんな都合のいい場所があるか」
カイが言った。
返事は、無かった。
ダンはそれを、話が始まった合図として受け取った。
最初に出たのは、いま在るものを大きくする、という案だった。
幹を斜めに立てかけて樹皮を張った三角の骨組みを、北へ二つ継ぎ足す。隙間に樹皮を差し込み、上から蔓で締め上げていく作業に三日かかり、形にだけはなった。
継ぎ足した翌日に雪が緩み、継ぎ目から泥を含んだ黄土の水がひと筋落ちてきて、その真下にちょうど、よけておいた種の袋が置いてある。
ダンが袋を引き寄せるより先に、フィンが継ぎ目の下へ肩を入れて押し上げた。
水は止まった。
押し上げているあいだだけ、止まっていた。
カイが下から覗き込んで言った。
「ずっとそうしてろ、とは言えないな」
「言うなよ」
肩は入れたままである。
リアは天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。
その黙り方は、思いつかない者の黙り方ではないとダンは思った。
とうに思い当たっていて、言うと終わってしまうことを言わずにいる者の、黙り方である。
「三角は、大きくできない」
「大きくすると、どうなる?」
ダンが聞いた。
「弱くなる」
大きくすると弱くなるというのは、屋根という物の、ささやかな意地の悪さである。
小さいうちだけ律儀に言うことを聞いておいて、頼りにされ始めた途端に手を抜く。
ダンはその晩、割れた実を捨てなかった。
数に入れないものを取っておく理由は無いのだが、捨てると数が合わなくなる気がして、袋の底へ戻しておいた。
*
ならば、初めから大きいものを探しに行けばいい。
ノアがそう言ったのは、その翌朝である。
翌朝のうちにフィンとカイを連れて出て、これまで踏み込んだことのない森の奥へ向かった。
行くほどに木は太くなり、幹の肌は墨に近い焦茶へ変わって、根方には深い緑青の苔が、剥がせば下の樹皮ごと持っていきそうなほど厚く貼りついている。
太さは申し分ないのに洞が端から無いか、洞があっても膝の高さで根と土に塞がっているかの、どちらかだった。
そういうものが、三日続いた。
ノアは二日目の途中から、探しているものの形が自分の中で細かくなっていくのに気づいていた。
太いだけでいい、と出発したはずが、太くて洞があって、洞が高くまで抜けていて、根が邪魔をしていないもの、という具合に条件が増えていく。
条件が増えるというのは、見つからないことに慣れていくことでもあるらしい。
カイの軽口は、二日目の昼まではあった。
見上げるほどの木の前で「こいつ、俺たちが住むって言ったら怒るかな」と言い、フィンが「木は怒らない」と答えて、話はそこで終わる。
三日目には、何も言わなかった。
ノアは足音の数で、彼がまだ後ろにいることを確かめるようになった。
戻ってきたのは三日目の日暮れで、出ていったときと同じように、三人とも何も持っていない。
窪地の北は、切り立った岩が塞いでいる。
乾いた砂色の岩肌は冬のあいだだけよく日を受けるので、その一帯だけが風の当たらない、少しばかり暖かい場所になっていた。
その際に、木が一本立っている。
三人はその下を通って帰ってきた。
三年、毎日その下を通っている。
器の水は、朝いちばんに坂の下の湧き口から手で提げてきた分である。
縁の一箇所が黒く欠けているのは、去年、湯を起こそうとして火の脇へ置いた者がいたからで、そのとき縁は炭になり、内側まで細く裂けた。
以来、器を火のそばへ置く者はいない。
温かいものが要るときは、火から出した石を水へ落とす。石は三つで、一杯きりである。
ノアが足を止めたのは、水を飲み終えて、その器を岩の窪みへ置いてからだった。
置いた器の縁に、幹の影が落ちている。
影が器から外れるまでのあいだ、彼はそれを見ていて、影のほうが器よりずっと太いことに、そこで初めて気づいた。
「これ」
「なに?」
「これ、太くないか?」
腕を広げて幹に当ててみても抱えきれず、フィンとカイが左右から加わってもまるで足りず、そばにいた者が次々に加わって、十人でようやく指の先が触れた。
輪に入らなかった者のほうが、まだ多く残っている。
根元の南側には身をかがめれば入れるほどの裂け目があり、中は埃っぽい鳶色をして、朽ちた葉が幾層にも溜まったまま、奥へ行くほど乾いている。
「ここ、雨のとき入ってた」
ウルが後ろから言った。
「いつ?」
カイが聞く。
「前」
「前って?」
「前」
去年のことなのか、その前の年なのか、本人にも分かっていないらしい。
彼はただ入っていただけであって、見つけたつもりというものが無いのだから、誰かに言うという考えもそもそも浮かばなかったのだという。
三日歩いた足で聞くには、なかなかの話だとノアは思った。
思ったが、腹は立たなかった。
探しに行った先に無いものが、出かける前から立っていた場所にある、というのは、そう珍しいことでもないらしい。
彼は中へ入り、しゃがんだまま両腕を広げてから、裂け目の外にいる三人を振り返った。
「削れば、入る」
「何人?」
フィンが聞いた。
「全員」
「詰めてか」
「詰めなくていい。いま両手を広げて、どっちの指も壁に触ってる。ここを腕一本ぶん外へ広げれば、真ん中に火を置いても、端にいる者の背中まで届く。……肩と背中をくっつけて寝なくてよくなる」
外から見ているあいだ、裂け目は人ひとりぶんの隙間でしかなかった。
入って初めて、頭の上のほうが思っていたより広いのが分かる。
セトが幹の外を歩いて一周し、歩数を数え、途中で二度立ち止まって根の張り出しを押してから戻ってきた。
「二十六歩。北側の三歩は根が出てるから、そっちは削れない。入るなら南からだ。……上のほうは乾いてる。根元は湿ってる。手を当てると、膝から下だけ冷たい。中で、分けられる」
「分けられる、って」
ダンが聞いた。
「置く場所の種類が、二つあるってことだ」
「……種は上か?」
「上だ。乾いてるほうが上にある。下は凍らない代わりに湿る。数はどっちも減らないのに、駄目になり方だけが違う。それを、別々に置ける」
ダンが穴蔵のほうを一度だけ振り返り、それきり口を開かなかった。
*
その幹を掌で二度叩いて、カイは自分が一番早い道を見つけたと思った。
「倒して、割って、板にすればいい。中を削るのに何日かかると思ってるんだ。倒せば一日、割れば板になる。板になれば、好きな形に組める。わざわざ木の言うことを聞いてやる理由が、どこにある」
理屈は通っていた。
通っていることを、彼は幹を叩いた二度のあいだに決めている。中を削るのに何日かかるかを、彼のほうも一度も数えていない。
「あれは無理だ」
ノアが言った。
「岩の際で何日も火を焚くことになる。あの太さなら、三日では済まない」
「じゃあ、細いので試す。板になるかどうかは、太さの話じゃないだろ」
言い直しただけのつもりで、カイは振り返った。
「倒していい」
ヴェルドの返事は、一拍だけ遅れた。
「……いいよ」
カイはもう火の置いてある方を向いていたので、その一拍を聞いていない。
選ばれたのは、一人で抱えられる太さの、窪地の縁に生えた別の一本である。
一番早い道は、一番大きいものには使えない。
根元に火を寄せ、燃えた分の焦げを石で削り落とし、削って新しい木肌が出たところへまた火を寄せて、それを日の出から日の入りまで繰り返した。
一度の火で倒れる木は、無かった。
三日かかった。
火を絶やさないためにその三日、全員が薪を集めることしかしておらず、誰も凍えなかった代わりに、何ひとつ進まなかった。
カイはその三日、自分の言った「一日」という数字を誰も持ち出さないことのほうが気になっている。
二日目の午後には風向きが変わって火が枯草へ移りかけ、フィンが上着を脱いで叩いて、それで消えた。
火というのは、こちらが見ているあいだだけ行儀よく燃えていて、目を離した隙に急に付き合いが広くなる。
三日のあいだ、ヴェルドは薪を運ぶ列のいちばん後ろにいた。
運び終えても戻らず、火の際までは来ないまま、燃えているものがよく見えるだけの距離に立っている。
「そっち、寒いだろ」
カイが呼んだが、ヴェルドは首を振っただけで、動かなかった。
なぜ来ないのかを、カイは聞かなかった。
聞けば来てしまいそうな気がして、それはそれで違う、と思ったからである。
三日目の夕方、木が倒れた。
芯だけが白い細い焔が、倒れたあとの根元でしばらくのあいだ立っていた。
倒れて、それで終わりだった。
割ろうとして、割れなかった。
石の欠片では断面をまっすぐ裂けず、打ち込むための楔も、叩きつけるための重い石も、この場には一つとして無い。
ささくれた生成りの割れ口が途中まで入って、そこで止まる。
結局、薪になった。
「早かっただろ」
カイが言った。
それには、誰も答えなかった。
言い張るための材料が、今度は最初から無い。
三日と、木一本と、全員の手が、薪になって積んである。
彼はそのまま薪を運ぶ側に回り、運びながら、一度も割れ口のほうを見なかった。
*
積み終えた薪は腕の高さを越え、日が落ちて、雪あかりが薄鼠に沈んだ。
セトは輪の外に立っている。
リアが同じ薪の山を見ているのが、彼のところからは見えた。その隣にノアが立っている。
先に口を開いたのは、彼女のほうである。
「切ったよね」
「切ってない」
ノアが言った。
「削る」
「削るのと、切るのと」
「違う」
違う、と言い切りはしたが、その根拠を彼はまだ持っていないのだろうとセトは思った。
持っていないから、代わりに手のほうが先に動く。
「明日から、あの木の中を広げる」
「待て」
セトである。自分でも思ったより強い声が出た。
「あれを削って、枯れたらどうする?」
「枯れない」
「枯れないと、どうして分かる?」
ノアが黙る。
「一本しかないんだ。枯らしたら次を探すのに、また三日か、それ以上かかる。そのあいだ穴蔵の底では実が凍り続ける。試してもみないで、良いとも悪いとも決めない方がいい」
「じゃあ、何を試す」
「別の木でやる。細いのでいい」
「細いのが枯れたからって、あの太いのも枯れるとはかぎらない」
「かぎらない。それでも、細いのが全部枯れたなら、太いのへ刃を当てる前に、お前はもう一度考えるはずだ」
ノアは薪の山のほうを見ていた。
見ているのは自分が三日かけて薪にした一本であって、これから枯らすことになる木ではない。
「何本だ」
「三本」
「一本でいい。同じことだろ」
「同じじゃない。一本だと、枯れたときに、その一本がもともと弱かったのか、傷のせいなのかが分からない。三本とも枯れたなら傷のせいだ。一本だけ枯れたなら、その一本の話でしかない」
ダンが指を折り、折った手を見せないまま言った。
「三本でも六本でも、枯らした木は薪になる。戻ってこないのは、待つ日数のほうだ」
「春にも、もう三本やる」
「なんでだ」
「時期が違えば、違うかもしれない。傷のほうは同じにして、削った時期だけを変える。それで枯れ方が違ったら、違いは時期のほうにある」
セトは石へ向いたまま、手を動かして答えた。
「違わなかったら?」
「違わなかった、と書く」
冬の三本は、その冬のうちに削り終えており、ここから先は春のほうである。
選んだのはセトだが、削ったのはノアである。
セトが決めた高さに、セトが決めた深さで、彼は石の欠片を当てた。
繊維に沿って刃が逃げるので同じところを何度も往復させることになり、一本ぶんで指の付け根が痺れる。
深さは指の第一関節までと決めて、削るたびにそこへ指を差し込んで確かめた。
三本目で、彼は確かめるのをやめている。
「同じにしたか」
「した」
三つの根方には、形の違う石を置いた。丸いのと、平たいのと、割れ口の尖ったのと。どれがどれか、あとから分かるようにである。
最初に葉を縮らせたのは、丸い石の木だった。
春が終わるころで、葉は縁のほうから褪せた枇杷色に変わっていき、丸まって、握れば粉になる。
ウルは朝がくるたびその木まで走っていって、落ちた葉の数を指で作って報告してくるので、途中からは誰も数を聞かなくなった。
聞かなくなってからも、彼は報告をやめない。
「今日、七枚」
「そうか」
「昨日は四枚」
「増えてるな」
「増えてる」
増えているのは落ちた葉の数であって、良い意味の増え方ではないということを、ウルはたぶん分かっていない。
分かっていないほうが助かる、という顔を、そのときリアがしていた。
セトはその数も書いた。
書かない理由が無い。
平たい石の木は、そもそも葉を出さなかった。
枝先の芽が固いまま黒ずみ、爪で押すと中身が乾いて縮んでいる。
いつ死んだのかが刻めないので、セトは印を一度入れてから削り直した。
起きた日を刻めない出来事というものが、この日、彼の石に一つ増えた。
いちばん質が悪かったのは、尖った石の木である。
葉を出し、三日だけ茂り、それから三日で全部落とした。
出したぶんだけ落ちる数が多いので、ウルの報告はその三日で跳ね上がり、跳ね上がったところで終わった。
削り口はどれも乾いて粉を吹いたようになり、指の腹で撫でると細かいものが爪の際に残って、水で洗ってもしばらく落ちない。
冬に削った三本は、生きていた。
夏になっても葉を落とさず、去年と変わらないだけ茂っている。
理由は、誰にも分からなかった。
ノアは初めから深さのほうも疑っていたらしく、同じ春に、浅く削った三本を別に用意していた。
三本目に取りかかるとき、彼は削る手を止めて、しばらく刃を当てる場所を選んでいる。
選んでも同じだと知りながら選んでいる手つきだ、とセトには見えた。
見えたことは、口にせずにおいた。
浅い三本も、夏のうちに枯れた。
「浅くても死ぬなら、深さじゃない」
ノアが言った。
「じゃあ何なんだ?」
カイが聞いた。
「分からない」
「分からないのを、あと何本ぶんやるんだ?」
ノアは答えず、掌を上へ向けて開いた。
六本ぶん削った手である。豆はとうに潰れて硬くなり、握ると硬いところが先に当たる。
「六本とも、削ったのは俺だ。選んだのはセトで、深さを決めたのもセトだけど、当てたのは俺の手だ。……次を削るのも俺で、何本目で俺が手を止めるかは、俺にも分からない」
セトはそれを刻まなかった。
刻めば数になるが、これは数ではない。
ダンは伏せた笊の上に座って指を三本折り、それからもう三本折って、開かないままの手を膝へ載せた。
「六本だ。あと何本で当たるのかは、数えられない」
セトが根方から石を拾ってきて、枯れた木のぶんだけ笊の脇へ並べた。丸いのと、平たいのと、尖ったのと、その繰り返しで六つ。
六本、枯れた。
枯れた六本は、一本につき三日ずつ火を焚いて倒した。倒れた半分は炭になり、残りが薪になる。
「燃やす分としては、ちょうどよかった」
ダンはそう言ってから、指を折り直した。
「去年やられたのは上の段だけだった。今年は下まで来てる。この蓋でもう一冬越すなら、俺が数えるのは減った数じゃなくて、駄目になった数のほうだ」
ノアはその薪の山の脇を通るとき、いつも二歩ぶん外を回った。
その晩、リアが一度だけ聞いた。
「あと何本?」
答える者はなく、彼女も二度目は聞かなかった。
*
リアは枯れた木の前へ、何日か続けて通った。
通う理由を、彼女は誰にも説明していない。
説明できるほどのものが、まだ手の中に無い。
削り口に指を当て、それから少し離れた無事な木の樹皮を薄く剥いで、同じところに指を当てる。
枯れたほうは指の腹が滑らないほど乾いていたが、生きているほうは、押し当てたところがすぐに温んで、濡れていた。
樹皮のすぐ内側に、指の幅の半分もない薄い層があって、そこだけが濡れて光り、淡い緑白をしている。
その外側は皮で、その内側は木で、どちらも乾いていて、濡れているのはその一枚きりだった。
彼女に見えているのは、その一枚までである。
潰れた豆も、熱を出したウルの額も、前脚を折った兎も、治っていくときはいつも濡れていた。
乾いてしまったものが元へ戻るところを、彼女は一度も見たことがない。
「ここ」
「どこ?」
「皮の、すぐ内側。ここだけ、濡れてる。豆が潰れたときも、ウルが熱を出したときも、兎の脚のときも、治るほうは濡れてた。乾いたものが戻るのを、私は見たことがない。だから、ここを残せばいいのかもしれない」
言い切らなかったのは、確かめていないからである。
確かめる先は、もう一本も残っていない。
剥いだところから、赤みを帯びたものが滲んできた。
薄い紅で、垂れるほどの量ではない。
指の腹で受けて鼻へ近づけてみると、匂いは青かった。
翌朝には滲んだところが少し盛り上がって乾き始めており、その次の朝には、もう塞がっている。
「見せて」
ヴェルドが言った。
リアが手を退けると、彼はその一枚から、しばらく目を離さなかった。
何を見ているのかは分からない。
ただ、この人がこんなふうに何かを見るところを、彼女は初めて見たと思った。
薄い層を残して削れば枯れない、というほど、話は簡単ではなかった。
夏のあいだに層を残して削った三本は、枯れはしなかったが、その三本の葉は、次に数えたときにはっきりと半分になっている。
セトが石板を全部持ち出してきて、火の届かない乾いた地面へ順に並べていった。
削った月と、深さと、残した層のあるなしと、そのあとの葉の付き方が、一枚ずつに刻んである。
「残すのは、要る。でも、それだけじゃない」
並べた石を端から順に指で押していって、彼は一枚のところで手を止めた。
「葉が落ちてるあいだに削ったものだけが、次の春に葉を出してる」
「じゃあ、葉が落ちてから削ればいいのか?」
カイが聞いた。
「まだ一回目だ」
セトは石を裏返した。
「一回目で決めたくない。六本枯らして分かったのは、俺たちが何を知らないかだけだ。知らないことが一つ減ったのを、当たったと呼びたくない」
「じゃあ、いつやるんだ?」
「葉が落ちてから」
つまり、待て、ということである。
夏の終わりから葉が落ちきるまでには、ひと月と少しあった。
その、ひと月と少しに、全員が賛成した。
リアは確かめる時間が要るから、セトは並べ直したいから、ダンはこれ以上本数が増えないからそれぞれ賛成し、カイは何もしなくていいからだろうとリアには見えた。ノアだけが理由を言わずに、代わりにその間、鍬の柄を三本ぶん作り直していた。
意見が割れなかったのは、この一年で初めてだとリアは思った。
割れなかった理由が、全員ばらばらだった。
くすんだ山吹の葉が、その頃から落ち始めている。
*
葉が落ちきってから、ノアは削り始めた。
石の欠片を握って幹に当てても思ったようには食い込まず、繊維に沿って滑って、力を入れれば入れた分だけ横へ逃げていく。
石とはこういうものだと彼は思っている。
思っているから、文句も出ない。
一日で、掌の幅。
ダンはその幅を毎晩刻ませ、十日目に、削れた分が裂け目の内側でどこまで来たかを指で示した。
「十日で、これだ」
中を削るのに何日かかると思っているのか、と聞いたのはカイである。
その問いに答えられる者は、まだいない。
フィンが一番長く握っていた。
朝いちばんに裂け目から入って、日が落ちてから出てくる。
出てきたときには手の甲が木の粉で霜を吹いたようになっていて、煤けた灰褐の石を持ったまま、しばらく火に当たっている。
四日目、ノアは刃を深く入れようとした。
早く抜けたい、という手つきだった。
そういう手つきになっていることに、彼自身が気づいている。
フィンが、その手首を押さえた。
握った指の跡が残るほどの力で、しかも押さえてから、しばらく放さない。
ノアの手から力が抜けて、握っていた石が指のあいだで一度だけ滑って止まるまで、放さなかった。
「まだだ」
ノアは何か言いかけて、やめた。
やめてから、押さえられていたほうの手首を、反対の手で一度だけ握り直した。
この男が口を開くときは、たいてい「掘れる」とか「見える」とか、そちら側のことだった。
できない、と言うために口を開いたのを聞いたのは、これが初めてである。
その翌朝、リアは幹の前に立って、樹皮へ指を当てた。
人差し指と中指を揃えて、皮の上へ置く。
「ここまで」
「二本ぶんか?」
ノアが指の幅を目で測る。
「二本ぶん、残す。そこまでは来ない。手前で、やめる」
ノアは、揃えられた二本の指の付け根のほうを見ていた。
見てから外へ出て、幹の外側を端から端まで見て回り、それからようやく戻ってくる。
「外は、削らない」
「どういう意味だ?」
ダンが聞いた。
「外側には、一本も傷をつけない。幹に何かを刻むのも、なしだ。数も、印も。削っていいのは、内側だけにする」
「それ、なんでだ。木のためか?」
「違う」
ノアは幹へ手をついた。
六本、という数が頭に浮かんだが、それは言わなかった。
「二度目が、無いからだ」
「この木だけの話か?」
「全部だ。薪にするのも、これからは枯れた木だけにする」
その日から日ごとに削り上がっていく内側は、裂け目から差す光を受けて淡い飴色をしていた。
冬の初めに、移った。
運ぶものは思っていたより少なく、笊と石板と種の袋と、冬のぶんの実と干したものと、火を移すための熾しを灰ごと詰めた樹皮の筒がひとつきりで、四年ぶんの暮らしは二往復で終わる。
まだ削りかけである。
奥はまだ狭く、棚の下は歪んでいて、それでも入ったのは、外のほうがもう寒かったからだった。
最後に裂け目をくぐって中で背を伸ばしたとき、ノアの頭の上にはまだ拳ふたつぶんの余りがあって、外の風の音が、樹皮を一枚隔てた分だけ遠くなっていた。
拳ふたつぶんが何のためにあるのかは、まだ決まっていない。
屋根はそのままにした。
壊す理由がなく、置いておく物のほうが増えている——削り石の欠片が十いくつと、鍬の柄と、笊と、火を焚くための乾いた枝。
中で削り、外で組む。ノアはそこを、そういう場所と決めた。
中で火を焚くと、天井の高いところで洞が上まで抜けているらしく、煙はそこへまっすぐ吸われていって、吸われていくのをしばらく全員で見上げていた。
梁の下が濡れない、というだけのことを確かめるのに、火を焚くようになってから三年かかっている。
奥の壁には、高さを変えて棚を彫った。
そこは幹のいちばん厚いところで、二本ぶんの印までにはまだずいぶん遠い。
上の段が肘の高さ、下の段が膝の高さで、彫り終えるのに四日かかった。
ノアが彫り上がった縁を掌でならしてから言った。
「上が、種だ」
ダンが下の段へ手を入れ、指の先を天井へ当てる。
「下は?」
「食う分。どっちも手が届く」
「暗くても、か?」
「暗くても、高さが違えば間違えない」
「印は?」
カイが聞いた。
「いらない」
「去年は、印をつけるって話だったろ」
「去年は同じ穴に入れてた。同じところに置くから印が要る。高さが違えば、手を伸ばした先で分かる。……暗いところで印を読める者は、この中に一人もいない」
カイはそれ以上言わなかった。
去年、一つの穴へまとめて埋めて、そのたびに掘り返させられたのは彼である。
ダンはそれから両手を上下に伸ばして、二つの段のあいだの幅を自分の体で測ってから、それきり何も確かめなかった。
穴蔵には、凍っても構わないものだけを残した。
穴蔵の蓋は、閉まった。
指の幅も、浮かなかった。
リアが最後に、袋を一つ運んでくる。
「それ、置くのか?」
ダンが聞いた。
「置く」
「去年の、凍ったやつだろ」
「そう」
「……袋の底へ戻したのは、俺だ」
「知ってる」
「食えないぞ」
「食べるために置くんじゃない」
彼女はいちばん奥の、いちばん上の段にそれを置いた。
置いてから、少しのあいだ、手を離さない。
色の抜けた実が袋の口から少しだけ見えていて、熾火の朱が壁を回っても、その段にだけは届かなかった。
フィンが最後に外から入ってきて、使い込んだ石の欠片を、入口の脇の窪みへ並べて置く。
明日も使うものを、明日も同じ場所から取れるように置く、というだけの手つきである。
木は、春に葉を出した。
内を抜いた上にも、そうでない上にも、同じだけ、青みの残る黄緑が吹いた。
削り口の縁には、乾いた臙脂の筋が幾本か残っている。
幹が、自分で塞いだ跡である。
リアが、そこへ指を当てた。
乾いていた。
中の壁は、まだ半分が削りかけのままだった。
フィンが入口の脇の窪みから石の欠片を取り、縁を親指でなぞる。一年ぶん使った角は、丸くなっている。丸くなった角では、去年と同じ深さまで削るのに、同じ場所を二度なぞらなければならない。冬のあいだに彼が持ち替えた欠片は、四つだった。
彼はそれを掌の上で二度ころがし、平たいほうの面を上にしてから、削りかけの壁のほうへ顔を向けた。
「これで、あとどれだけ削れる?」




