第六話 畑を耕す日
その夏、魚は多すぎた。
川は毎朝、頼みもしないのに同じだけの影を寄越し、ノアが突いてフィンが追い込むうちに、笊は昼を待たずに満ちる。
春の初めには一匹を仕留めるのに半日かかっていたことを思えば、これは間違いなく良い変化のはずだ、とノアは思っていた。
ところが満ちた分がそのまま食えるわけではなく、夕方に余ったものは、翌朝にはもう匂いが変わっている。
笊を置いた地面には饐えた乳白の染みが日ごとに広がり、そこへ集まる羽虫の羽音が、日が高くなるほど厚みを増していった。
捨てに行く先も、日を追うごとに遠くなった。
近くへ埋めた晩には夜のうちに何かが掘り返しにきて、朝には土が浅く散らばっているので、次の日はもう一つ先の藪まで運ぶことになる。
運ぶ手間が、獲る手間を追い越しかけていた。
「三、捨てた」
ダンが言った。
運んだ本人が戻ってくるより先に数が出る。笊の中身だけを見ているのではないのだと、ノアはこの夏のうちに気づいていた。
彼は獲れた数だけでなく、捨てた数も数える。
「そこは数えなくていいだろ」
「数えないと、減ってることに気づけない」
「増えてるのに?」
「増えてても、捨ててる」
カイは笊を覗き、それから空を見上げて、反論の材料が空にも無いことを確かめている。
ダンの数え方に間違いは無い、とノアは思う。
間違いが無いから腹が立つのであって、獲っている側の言い分としては、我ながら褒められたものではない。
夏の川は若草を映して浅い翡翠色をしており、その色の下に何がいるかを、彼はもう見なくても言い当てられるようになっていた。
三つ目の淵の底には平たい石が四枚並び、そのうちの一枚だけが少し浮いていて、その下へ影が入るのは日が梢の切れ目に来る頃だと決まっている。
石の並びを覚え、影の差す時刻を覚え、どの淵で何が休むかを覚えて、覚えることの方が突くことよりずっと多いのだと、この頃には分かっていた。
この春から、彼は頭の中にもう一本、川を作っている。
水へ入る前に岸で一度目を閉じ、その一本を上の瀬から下の淀みまで順にたどってから足を浸けるのが癖になっていて、たどり終えるまでの時間は、夏のあいだに半分になった。
だから、捨てる魚が増えたとき、彼が考えたのは獲る量を減らすことではなかった。
翌日から、ノアは余った魚を火の上に吊るし始めた。
濡れているから腐るのなら、濡れていなければいい、という理屈である。
一度目は生焼けで、それを食べたカイが半日転がっていた。
外側だけが縮んで固まり、裂けば中はまだ湿ったままぬめっているのを、見なかったことにして口へ入れたのがこの男である。
「腹の中で泳いでる」
「泳いでない」
「今、右に曲がった」
「食う前に言え」
二度目は乾いたが、三日置いたら虫が湧いた。
吊るした縄の結び目のあたりから細かい粒が涌き、裏返してみると、日の当たらない下側だけが最後まで湿っている。
「これは?」
「言うな」
ノアは黙って全部埋め、埋めながら火から吊るすまでの距離を指の幅で測って、その数をセトに言わせて覚えさせた。
三度目は火から離した場所に吊るし、下では薄墨色の煙だけを立てたが、煙は風向きに合わせて勝手に逸れるので、風上へ樹皮を立てて塞いだ。
樹皮は二度倒れ、三度目にようやく石が役に立った。
生木を混ぜれば煙は重く垂れ、乾いた枝だけにすると軽くなって上へ抜けてしまうので、彼は混ぜる割合を朝と昼で変え、変えた日には必ずセトを呼んで数を言わせている。
吊るされた身は日ごとに薄くなり、二日目には縄の跡がくっきりと食い込んで、指の背で弾くと乾いた音が返ってくるようになった。
子どもたちは日に何度もその下を通り、通るたびに一度ずつ見上げていく。
四日目の朝、それは琥珀に近い透け方をしていた。
「できた」
「食っていいのか?」
「たぶん」
たぶん、で食えるものが増えるのは、悪いことではない。
*
その琥珀が屋根の下に三十枚ほど下がる頃には、南の畝のほうがもう枯草色に変わっていた。
リアが日の出とともに足を向けていたのは、そちらである。
この春に埋めた種のことだ。
蓄えの三分の一を土に賭けて、残りで春を凌ぎ、その賭けの答えが出るのがこの秋だった。
枯れた畝に錆色の粒がまばらについていて、まばら、というのが正確なところである。
リアは膝をついたまま、葉の裏まで返しては返した葉をきちんと元へ戻し、指の先で一つずつ確かめていく。
畝の端まで行き着くと向きを変えて同じ列をもう一度戻ってきたのは、見落としがあると思ったからで、二度目に見つかったものは一粒も無い。
探す速さが、途中から少しずつ落ちていった。
「実った」
「思ったより少ない」
ダンが脇から口を挟む。
彼のほうは、既に数え終えていた。
「埋めた穴が三十三。返ってきたのが、二十二」
「……返ってきたのに、減ってるってこと?」
「増えてない、とは言える」
子どもたちが畝の縁に並んで、その二十二を見ている。
半年ぶん土に賭けていたものの答えが、笊の底に薄く一層だけ載っていた。
少ないと言われる前に自分で少ないと分かってしまうのが、いちばん応える、とリアは思う。
一粒は爪の先ほどの大きさで、笊を少し傾ければ全部が片側へ寄り、寄った分だけ底の編み目が透けて見えた。
リアはそのうち七粒をよけて、別の袋に入れた。
「これは、来年」
「食えるのは?」
ダンが聞いた。
「十五」
「一食にもならないな」
土は、撫でられたくらいでは何も答えない。
その夜、セトが石板を出してきた。
膝の上に載せ、去年から使っている面の空いているところを指の幅で二度測って、そこから先を新しく使うと決めてから刻み始める。
「こっちの側だけ、多い」
彼は畝を東西で分けて数え直しており、朝日の当たる側の実は、当たらない側の倍近くついていた。
「なんで?」
「分からない。だから、そういうことがある、と書いておく」
「書いておいたら、来年は増えるのか?」
「増えない」
「じゃあ意味ないだろ」
手を止めないまま刻む音は短く乾いていて、炭のような黒い線が一本ずつ増えていく。
その音は、火が爆ぜる音のあいだにきちんと収まった。
「来年も同じだったら、二回目になる」
カイは何か言い返そうとして口を開けたまま少し考え、それから閉じた。
「……来年の話をされると、腹が減る」
ウルが横から覗き込んで、石の上の印を指でなぞった。
なぞった指の腹に石の粉が付き、それを自分の膝で拭ってから、彼はもう一つ隣の印を同じようになぞる。
「これ、俺の名前?」
誰の名前でもなかった。
二十二では冬を越せないので、その秋、みんなで森を拾えるだけ拾った。
こぶ状の実と細い根と、割れば中身が一口あるだけの堅い殻を、屋根の下と穴蔵とに分けて収めていく。
拾える場所は去年より遠くなり、遠くなった分だけ帰り道で日が傾くのが早く、袋を抱えたまま、屋根が見えてからの下りはいつも駆け足になった。
「これも埋めればいいだろ」
カイが拾った実を袋に放り込みながら言うと、リアが首を振った。
「去年こぼしたのは、ひと冬、土の上にいた。穴蔵のも、ひと冬越してた。出たのは、その二つだけ」
拾い終えて数え直すと、実と干した魚を合わせて、蓄えは四十日分になっている。
去年の同じ時期より十日多く、その十日は、そっくり火の上に吊るした分だった。
*
四十という数が出てから十二日目に、その冬の最初の雪が降った。
その四十を毎朝数え直す役は、言い出す者もいないままダンに戻ってきている。
雪の日は何もできない。
屋根の下に全員が押し込まれ、白いものが向こうを塞いでいるのを順番に眺めるだけで、その順番を決めたのも彼だった。
入口の樹皮の簾をめくると、外は音を吸い取ったように静かで、めくった分だけ冷たいものが入ってくる。
簾の内側には夜のうちに薄い霜が降りるので、朝いちばんにめくる者だけが、その粒を指で剥がしてから外を見ることになった。
順番にする理由は無い。順番でないと誰も見に行かず、誰も見に行かない日が続くと、自分がいま何日目を数えているのかを、ダンは言えなくなる。
「今日、何日目だ?」
「知らない」
「セト、知ってるだろ」
「知ってる」
「言うな」
セトが石板を伏せ、カイが寝返りを打ち、フィンが薪を一本足す。
火が薪を食べ終える音がして、それから灰が崩れる音がして、その二つの音のあいだが日ごとに長くなっていった。
誰かが体を動かすと全員が少しずつ位置を直し、直した先で肩と背中が触れ合って、触れたまま朝まで動かない。
動かないでいるほうが、腹は減った。
ヴェルドは入口に一番近い、一番冷える場所に座っていた。
ウルの足が簾の外へ出るたび黙って引き戻し、自分の上着を裂いたものをかけ直してやりながら、彼自身の膝の上には何も無い。
そのウルは、籠の前にいた。
籠は空である。
跳ね兎は前脚が治ってから出ていき、それきり中に戻ってこない。
底に敷いた草は春のまま乾いて色を抜かれ、丸くくぼんだ形だけが、押し戻されないままそこに残っている。
「いないの?」
リアが聞くと、ウルは首を振った。
「いる」
「どこに?」
「そのへん」
外に出られなくなった朝から、ダンは毎朝ひとつずつ数字を口に出すようになった。
言えば減るのが分かる。言わなければ、減っていることを誰も見ない。
屋根の下で動いているものは、その数のほかに無かった。
「あと二十八」
「二十」
「十」
「まだ言うのか?」
「言う」
「言われると減った気がする」
「実際に減ってる」
数字が三に届いたところで、雪解けの方が先に来た。
セトの石板の面は、去年の夏に刻んだところから、この雪解けまで途切れずに続いている。
そのあいだに、夏と秋と冬が一つずつ終わった。
塞いでいた白が薄い水色の水に変わり、屋根の際から一日中落ち続ける。
落ちた雫は入口の前の土を細く掘っていき、掘られた筋は日ごとに深くなって、三日目には誰もがそこを跨いで出入りするようになった。
落ちる音を最初に聞きつけたのはフィンで、彼は何も言わずに外へ出て、何も持たずに戻ってきた。
確かめに行っただけらしい、とダンは思う。
確かめたところで増えも減りもしないが、フィンの脛が濡れて戻ってきたぶんだけ、外側で何かが動いたことにはなる。
「これが無かったら」
ダンはそれだけ言って、その日は残りを数え直さなかった。
雪解けの川で獲れた分を、ノアはまた火の上に吊るす。
去年は四日かかった透け方が今年は三日で出たのは、去年より火から遠い場所に吊るしたからで、遠くて速いというのは去年の彼には無かった考え方である。
無かったら、というのは、去年の夏に同じようにして吊るした三十枚のことである。
賭けた三分の一が二十二にしかならなかった秋を越せたのは、獲りすぎた夏に捨てるのをやめたからだった。
七粒には、誰も手をつけていない。
*
七粒の袋は、リアの寝る側の壁際に掛かったままだった。
春が来て、川が濁ったのは、その次の朝である。
「濁ってる」
「すぐ澄むだろ」
澄まなかった。
川は、こちらを見ていない。
十日経っても水底は見えず、湯を溶いたような灰白の濁りが朝から晩まで同じ速さで流れて、その中に影があるのかどうかも分からない。
雨のたびに濁りは濃くなり、汲んで置けば土は沈んだが、飲めはしても旨くはなかった。
器の底に指の厚みほど溜まったものは傾けても流れ落ちず、掌でこそげ取ると、細かい砂だけが爪の際に残る。
上を見に行った者は、まだいない。
ノアは三つ目の淵に立った。
四枚の石はまだそこにあるはずで、浮いた一枚も、その下へ影の入る時刻も、彼はいまだに全部言える。
目を閉じれば頭の中の川は今も上から下まで一息でたどれるのに、たどった先はいつも同じところで止まる。水の面である。
言えるのに、その面から下は覗いた分だけ厚みが増していくばかりで、一年かけて頭の中に作った川は、その朝から一つも役に立たなくなった。
突いて、砂だった。
もう一度突く。
また砂だった。
引き上げた棒の先からは濁りが糸を引いて垂れ、その糸が切れるより早く、彼はもう一度同じ場所へ棒を入れている。
「ゼロ」
ダンはその数も数えた。
ノアは翌朝もまた同じ場所に立ち、立っている時間だけが日ごとに長くなっていく。
濁って十四日目、彼はフィンを連れて上流へ歩いた。
道は無く、岸を辿り、辿れなくなれば藪へ入り、棘に腕を持っていかれながら、また川へ戻る。
傷は細くて数が多く、血は流れるというより滲む程度で、腕に赤い線が何本も引かれていった。
「戻るか」
フィンが聞いた。
「まだだ」
「三度目だぞ、藪へ入るの」
「濁りが、どこから来てるかを見る」
「見て、濁りが止まるか」
「止まらん」
「じゃあ、なんで見る」
「止まらんことを、見た者がいないからだ」
フィンはそれきり何も言わずに、今度は先へ立って藪へ入っていった。
入ってから、彼は棘の枝を掌で外側へ寄せている。
寄せた側の掌にも、腕と同じ細い線が増えた。
藪を抜けた先で別の川筋が合わさっており、そちらは底の砂まで見える、藍を薄く溶いたような水だった。
二つの水は合わさってもすぐには混ざらず、しばらく並んで流れてから下流のどこかで見分けがつかなくなる。
フィンはその境目に手を入れ、二度、左右へ動かしてから引き上げた。
引き上げた指のあいだに残ったのは砂ではなく、押すと指の腹で伸び、離すと糸を引いてから切れるものだった。
「なんだ、これ」
「知らん」
「食えるか」
「知らんと言ってるだろ」
ノアはそれを岸の石になすりつけ、乾ききる前にもう一度、同じことをした。
何のためでもない。
戻ってきたのは日が落ちてからで、二人とも脛まで濡れている。
「石が、一つずつ見える」
フィンが言い、ノアが指で石の大きさを作ってみせた。
「遠いのか?」
「半日」
半日の水は、水ではない。
そのあと何度か通ってはみたが、往復する体力の方が先に尽きた。
運べる量は、運ぶために食う量に負ける。
そうしているうちに、穴蔵の底が見えるようになった。
底には木屑の白茶が薄く溜まっているきりで、ダンはそこへ手を入れると、指の腹に付いたものをしばらく見てから、口へ持っていきかけてやめた。
「拾ったのが、二日分」
「干物は?」
「九日分。合わせて十一」
「畑は?」
「秋だ」
秋までは百と何日かある。セトの石に刻まれた去年の同じ印までを数えれば、そうなった。
カイが指を折り始めて、途中でやめた。
十一で折る先が尽きたからではない。
百の方を、折れなかった。
腹が減るというのは痛みではない。
体の芯のあたりが薄くなって、立ち上がるときに一拍遅れる。
ダンは隣の肩の上がり方でその一拍を見分けられるようになり、見分けられるようになったことを数に入れるかどうかで、しばらく迷った。
座るときも立つときも一度どこかへ手をつくようになり、つく場所を探す目つきだけが、誰も彼もよく似てくる。
ダンは笊を置いて、それから初めて、自分の方から言った。
「干物があって、この数だ。来年も川だけを勘定に入れるなら、俺は数える役をやりたくない」
*
リアが口を開いたのは、その少し後だった。
言い出す前に、彼女は膝の袋を一度持ち上げた。
七粒は、持ち上げても重さにならない。
「埋めるだけじゃなくて。土をどけて、草と石を払って、並べて、ずっと世話をしたい」
全員が振り返った。
振り返られてから、リアは自分が何を頼んだのかを数のほうで理解する。
去年は三分の一だった。
今度は、全部である。
言ってから、彼女は袖の端を握った。
その夜は曇っていた。
空は鈍い銀鼠で、屋根の隙間から入る光には熱がない。
火のほうが明るい夜というのが春にもあるのだと、リアはこのとき初めて知った。
「拓くのか?」
ダンが確かめる。
「拓かないと、並べられない」
「どのくらい?」
リアが地面に指で線を引くと、線は屋根の端から屋根の端まで届き、それでも足りずに一度切れて、切れたところから彼女はもう一度引き直した。
彼らの住処は浅い窪地の底にあり、北を岩が塞いで、南だけがなだらかに開けている。
彼女が線で囲おうとしているのはその南で、膝までの枯草と、拳ほどの石が数えきれないほど埋まっている場所だった。
枯草は根元だけが去年の雨で腐り、上半分は立ったまま乾いていて、風が渡るたび、擦れる音が窪地の縁を一周してから戻ってくる。
「窪地の南側、全部」
「種は?」
「七粒」
ダンが指を折った。
折り終えた手をそのまま火の向こうへ差し出し、数の代わりに、線の引かれた土の一点を指す。
「七粒に、その広さは要らない。去年の畝の四分の一で足りる」
「今年は、足りる」
リアは線の外側をもう一度指でなぞり、なぞる指が途中で一度止まった。
「どのくらい増えるかは、分からない。去年は三十三埋めて二十二だった。今年の七粒が同じ返り方をするなら、掘るだけ無駄になる。でも、違う返り方をしたときに、蒔く場所が無いから諦めました、とは言いたくない。増えたときに困るのが、嫌なだけ」
「その分からないもののために、腹の減った体で夏まで掘るのか」
言ったのはカイで、彼はリアの引いた線も見ずに、火の方を向いたまま言っている。
膝を抱えた腕の内側で指が三本だけ動き、数を作りかけて、作りきる前にほどけた。
「掘って、外れたら、秋に何も無い。だいたい、待たなきゃいけないのが嫌いだ。魚は今日獲れる。実は秋まで来ない」
「掘るなら、今しかない」
セトが横から言った。
「秋は実を取るので手が塞がる。冬は土が凍る」
ノアが顔を上げたのは、そのときだった。
「川は澄む」
火に照らされた彼の手は去年の滑らかさをもう持たず、節が目立ち、藍色の筋が去年より太く浮いて、爪の際に土が入ったままである。
「濁ったら、いつかは澄む。棒をもっと長くして、二人で追い込めば、去年の倍は獲れる。掘る手間を、そっちに回した方が早い」
理屈は通っていた。
ここへ持ってくるまでに彼が何度も自分で検めたはずのもので、検めた回数のぶんだけ言い方が短くなっているのだと、リアには思えた。
「どのくらいで澄む?」
「澄まなかった川を、俺は見たことがない」
「見たことがないのは、見てる年が少ないからだ」
セトの口調は責めておらず、それでもノアは口を閉じた。
閉じたまま、膝の脇に置いた棒の先を指で確かめている。
先端は去年の秋に自分で焼いて固めたもので、そこだけが他より濃く、触れば今も炭の匂いが指に移った。
そこへヴェルドが、静かに聞いた。
「川が、また濁ったら、どうするんだろうね」
誰も彼に答えず、代わりに互いに答え始めた。
ヴェルドは口を挟まないまま、答えの代わりに薪を一本、火の届く位置まで押した。
ダンが指を折り直してから聞いた。
「十一日分だ。拓くのに何日かかる?」
「やったことがない」
やったことがない、というその一言が、その夜だけで四度出て、四度とも返事は無い。
四度目に返したのは、フィンである。
「やったことがない、って、何度言うんだ」
「数えてない」
「四度だ」
ダンがそう言った。
「四度言って、四度とも誰も返してない。……返しようが無いからだ。やったことがないのは、本当だからな」
「本当だから、なんだ」
フィンは膝の上の蔓を置いた。
「火も、屋根も、刃も、器も、ぜんぶやったことがなかった」
フィンは両手を開いて、閉じた。
「言うたびに手が止まるんなら、いつまでも何も持てん」
「増えたのは、外れなかったものだけだ」
ダンが返した。
「外れたほうは、増えなかったから、お前が覚えてないだけだろ」
「覚えてる。俺が数えてるからな。……去年、三十三埋めて二十二だ。十一は外れてる。その十一ぶんの穴を掘ったのは、お前だ」
フィンはそれを否定しなかった。
否定しないまま、置いた蔓をもう一度膝へ戻した。
「掘った。……掘ったから、二十二のほうが返ってきた」
ダンは指を折りかけて、折らずに止めた。
止めた指を膝へ下ろすまでに、火が一度爆ぜている。
「半分だけ拓くのは?」
カイが言った。
反対している者が譲歩案を出したので、一瞬、誰も返さない。
「半分も三分の一も、去年やったことだ。去年は三分の一で、返ってきたのが二十二だった」
ダンが返す。
「……半分でも、夏までかかるか?」
カイはそこで引き下がった。
リアはその間、袋を膝から下ろさなかった。
自分の引いた線が短く畳まれていくのを見ていて、途中で一度、線の端を足の先で消し、消したことに気づいてから、同じところを指で描き直した。
「南は石が多い」
セトが石板を裏返し、そこに何か書き始める。
拓く場所を決める話に移ったので、拓くかどうかの話はもう終わっており、書きながら喋るので字と声が半分ずつ遅れた。
フィンが立ち上がって外を見に行き、しばらくして、石を一つ抱えて戻ってきて火の手前に置いた。
濡れた土の匂いが一緒に入ってきて、置かれた石の下側だけが、まだ夜の湿りで黒い。
置いた石は、一人で持てる大きさだった。
「掘れる」
フィンはそれだけ言って、置いた石の位置を親指で少しだけずらした。
「食える物を、全部書き出す」
セトが続ける。
「若芽と、根と、去年拾ったこぶの実。順番に試す」
「先に、私が舐める」
リアが言うと、ヴェルドが首を振った。
「僕が食べる」
首を振られて、リアは種の袋の上に両手を戻した。
ノアは長いこと火を見ていたが、誰も彼を急かさない。
薪が二度崩れ、崩れるたびに輪の全員の影が壁の上で一度ずつ伸び縮みして、それでも誰も口を開かなかった。
やがて彼は突く棒を火の脇へ置き、そのまましばらく動かなかった。
「……俺は、まだ川の方が早いと思ってる」
ヴェルドが、その棒を火から少し遠ざけた。
薪と間違えられないように。
ダンが先に立ち上がった。
「じゃあ、明日から掘る」
「掘る」
ノアの声だった。
*
土は硬かった。
反対したまま鍬を持たされるというのは、カイにとって初めての経験である。
尖らせただけの棒では歯が立たず、ノアが平たい石を蔓で括りつけたが、何度も外れ、外れるたびに縛り直したので、その鍬は日を追うごとに蔓の団子のようになっていった。
「それ、道具か?」
「団子でも掘れる」
掘れてしまったので、彼は口を閉じ、次の日も鍬を持った。
持ちながら「あと何日で秋だ」と誰にともなく聞き、答える者がいないと分かると、二度目は飲み込む。
飲み込んだのであって賛成したわけではない、というのは、自分でもよく分かっていた。
一日で進むのは腕を広げた幅の三つか四つ分で、朝に見た土と夕に見た土の差は、目で分かるほど小さい。
それでも翌朝には、乾いた土肌と、鍬の入った側の湿った艶との境目が、前の日の分だけ動いていた。
雨の日は土が重くなって刃に貼りつき、乾いた日は硬くて跳ね返される。
まともに進むのは、その中間にあたる二日か三日に一度の朝だけで、その朝が来ると誰も口をきかずに掘った。
掘り返した土は湿った黒褐色で、握ると崩れずに掌の形に残り、離せば指の腹に細かい粒だけが残る。
去年の畝のものより、ずっと濃い匂いがした。
リアは日に一度、掘り返した端に膝をついてその匂いを確かめたが、確かめるだけで何も言わないので、誰も何のためかを聞かない。
草の株が張っている場所では、なお遅れた。
掌ほどの株を一つ起こすのに二人がかりで半日近くかかり、起こしたあとの窪みを埋め戻す土が足りず、足りない分をまた別の場所から運んでくることになる。
石は掘るより運ぶ方に時間がかかり、窪地の南の際に積み上がっていって、積み上がった分だけ畑になった。
進み具合が目に見える形をしているのはそれだけだったので、カイは日に何度もその山を見に行く。
掘っているあいだ、食い繋いだのは、セトが書き出した順のとおりである。
若芽から始めて、根、こぶの実、それから川縁の細い貝。
若芽は噛むと青く、飲み込むと喉の奥が痺れるものと痺れないものがあった。
「痺れたやつは?」
「二度と採らない」
セトはそれも書いた。
書いたのは葉の形と、生えていた場所と、口へ入れてから痺れが来るまでのあいだに数えた数である。
根は灰に埋めて焼くと外側が縮んで焦げつき、割れば湯気と一緒に土の匂いが立って、いくら噛んでも甘くはならない。
貝は岸の石を一つずつ裏返して探すので、進む速さは歩幅ではなく石の数で決まる。
一口目は、いつもヴェルドが食べた。
何ともないという顔で頷くので、次に口へ入れる者も大丈夫だと、その頃はまだ思っている。
当人が自分の舌を疑っている様子は、カイの見ているかぎり一度も無かった。
貝は十日で岸から消えた。
「川が、二回裏切った」
「二回目は、川のせいじゃない」
セトがそう言うと、カイは黙って笊を裏返した。
その日、干物の最後の一枚をみんなで割ったが、一人ぶんは指の三本の幅にも足りない。
「明日は?」
「無い」
ダンはそれだけ言った。
翌朝、フィンが日の出前に出ていって昼過ぎに戻り、抱えていたのはこぶし大の根が三つだけで、泥をつけたまま、洗うより先に熾の脇へ並べられた。
ヴェルドが舐め、少し待って、それから頷いた。
三つで一日が終わり、次の日は二つだった。
ダンは配る量を二度決め直し、二度ともフィンの分から減らした。
本人がそう決めたので、誰も止めない。
一番大きい体が一番少なく食うのは、計算としては正しく、見ているぶんには正しくなかった。
そこから先は、順番を作り直しては、作り直した端から使えなくなる日が続いた。
若芽は夏に入ると茎が硬くなり、噛んでも繊維だけが口に残る。
根は掘る場所が住処から遠くなり、二人で行って戻るのに半日、持ち帰るのが両手ぶん、という数が出た日から、ダンはその数を言わなくなった。
代わりに増えたのは木の内側の皮で、剥いだものを一晩水に浸けても翌朝はまだ苦く、二晩浸けると今度は何の味もしなくなる。
味が無くなったほうを噛んでいれば、腹の中で嵩だけは増えた。
セトの書き出しは三度作り直され、一度目に消したのは痺れる若芽、二度目は貝、三度目は根で、消すたびに残りの行が上へ詰まっていく。
ダンは配る量を三度目に決め直したが、今度はフィンの分から減らさなかった。
減らす先が、もうどこにも無い。
掘り始めて三十日目、そのダンが手を止めた。
「鍬の減りが、お前のところだけ早い」
「握りが変わったから」
リアが開いてみせた掌は豆が潰れて、皮の下から濡れた紅がにじんでいる。
掌のどこよりも、そこだけが去年と同じ濃さを持っていた。
それから彼女は、少し不思議そうに続けた。
「去年は、この豆、できなかったの。できるほど、握れなかったから」
掘り始めて四十六日目、カイが屋根の裏を覗いた。
籠を置いてある側である。
ウルはその陰にしゃがんで、何かを口に入れたところだった。
セトの書き出しに、その形の実は無い。
「これ、当たり?」
「……ばか」
覗いてから誰かを呼ぶまでに、カイは一拍だけ遅れた。
口の中のものを吐き出させるのが先か、人を呼ぶのが先か、その一拍のあいだ、彼はどちらも思いつかなかった。
その一拍のことを、彼はそのあと誰にも言わない。
*
ウルは二日、屋根の下で丸くなっていた。
水を飲むたびに戻すので三度目からはリアが器を持って横で待ち、額に当てたものを替えて、また替えて、リアにできるのはそこまでだった。
当てた葉は体の熱ですぐに乾き、乾くまでの間が、一度目より二度目、二度目より三度目と短くなっていく。
夜のうちに二度、寝息が浅くなった。
その二日、畑は一度も掘られておらず、掘らなかった分はそのまま秋の分から引かれるのだが、それを口に出した者はいない。
ヴェルドは、ウルが口に入れたのと同じものを指で潰していた。
潰れたものは薄い紫を出して、彼の指の腹と爪の際を染めていく。
潰し終えても、まだ潰していた。
二日目の夕方、ウルが目を開けて言った。
「ヴェルドより、先に食べた」
「僕が先に食べるはずだった」
ヴェルドは答えを重ねず、まだ掌に残っているものを、指の腹でもう一度潰した。
リアが決め直したのは、その夜である。
試すものは一人ずつ、一口だけ。
最初の一口は、彼女が舐める。
ダンは何も言わずに指を折り、その数をセトに渡した。
七粒には、最後まで手をつけなかった。
夏に入る前に、セトは畝を割った。
「東に三つ、西に三つ、北に一つ」
「同じじゃないだろ」
「七は三つに割れない。割れないなりに割る」
リアは七粒を分けて渡す前に、一粒ずつ掌へ載せて日に透かした。
どれも同じに見えたが、彼女は透かすのをやめない。
「これは深く」
「どのくらい?」
「指の、二本ぶん」
「こっちは?」
「深いのと、浅いのと、両方作る」
分からないものは、両方作ればいい。
そう決めた分だけ、世話をする畝の数は増えた。
土をかけたあと、掌でならすことはせず、指の背で二度撫でて終わりにした。
踏み固めた場所からは何も出てこないというのを、去年のうちに一度だけ、身をもって覚えている。
蒔き終えても、掘るのはやめなかった。
蒔く場所はもう足りている。
掘っているのは、来年の分である。
*
来年の分は、腕を広げた幅で十七ぶん残っていた。
そこへ秋が来た。
畝の上に夕方の褪せた橙が長く落ちて、影が畝の一本ぶんだけ東へずれている。
枯れかけた葉の下では房ごとに濃さの違う鉄錆の粒が垂れ、房の重さは東から北へ順に軽くなっていた。
数える前から東のほうが多いと分かる、という状態を、ダンはこの日初めて経験した。
「場所は、去年と違う」
セトが言った。
「違うのに、同じだった」
「じゃあ来年は東に多く蒔くのか?」
「三回目を見てからだ」
「掘ったからか?」
セトは刻む手を止めなかった。
摘むときは笊を下へ添えてから茎を折った。
そうしないと握った拍子に粒がこぼれ、こぼれた粒は枯草の間に落ちて二度と見つからない。
折り口からは薄い汁が出て指を染め、その染みは三日ほど落ちなかった。
リアが手のひらに乗せた房は、潰れた豆の跡の上に載った。
その手の上で数え終えて、ダンが言った。
「九十」
「去年は?」
「二十二」
「四倍か?」
カイが言い、ダンが言い直した。
「四倍と、少し」
そこで一度、指を止める。
「九十だ。食えばひと晩で終わる。でも、一粒が十三になった」
「四倍って、じゃあ来年は?」
カイが言い終える前に、フィンがリアの手の方を見て、それからカイの肩を小突いた。
カイは畝を見渡してから、聞き方を変えた。
「掘った分の、どれだけ使った?」
「十分の一」
「……知ってた」
セトは石板に「九十」と刻み、その横に「東」と刻み、それから、どちらでもない印をもう一つ刻んだ。
ダンには、その三つ目が何の数なのか分からない。
何のためだったのかは、のちにセト自身も思い出せない。
摘み終えた房と、よけた種と、食べる分と、鍬とを、同じ穴蔵の同じ蓋の下に入れることになって、そこで手が止まる。
「入るか?」
ダンが蓋を持ち上げてみせる。
「入る。詰めれば」
「詰めたら、どれが種か分からなくなる」
「印をつける」
「去年、三つぶんを一つの穴に入れたやつがいた」
カイが手を挙げた。
「あれは俺だ」
前なら、あれは改良だったと言い張っていた。
蓋は、指の幅だけ浮いたままになった。
ノアは最後に一つ籠を下ろして、それから短く言った。
「川だけにしなくて、よかった」
その川は、同じ年の終わりに澄んだ。
川底の石が一つずつ、青みを帯びた輪郭で見えた。
四枚のうち一枚が、まだ少し浮いている。
見に行ったのはセト一人で、彼は書きに行った。
ノアはその日、畑にいた。
冬に入って間もなく、浮いたままの蓋の隙間から、冷えたものが入った。
翌朝、いちばん上に載っていた実がいくつか白く固まっていて、リアが指で押すと、へこんだまま戻らない。
押した指の下で皮が割れて、中は実の色をしていなかった。
やられているのは上の段だけで、下の段まで手を入れてみても、そちらはまだ冷たいだけだった。
「入りきらなかった分だ」
カイが言った。
言ってから、自分の言い方が気に入らなかったらしく、言い直した。
「増えたのに、減ってる」
ダンは笊の縁を指でなぞった。
リアは駄目になった分を別の袋へ移し、口を結んでから、種の袋のほうを膝に載せた。
去年の七粒とは違って、はっきりと重さがある。




