表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Ether World —神々の使徒の物語—  作者: 九十九 蒼一
第一幕 芽吹きの森
PR
5/26

第五話 知恵の実り

雪が退いた土は、思っていたより黒かった。


冬のあいだ一色に塗り込められていた地面が日を追うごとにまだらに剥がれ、その下から湿った黒土が顔を出していくのを、ヴェルドは誰よりも早く起きる癖のせいで毎朝ひとりで見ることになった。

日陰にだけ薄く貼りついて残った雪は汚れた灰色になって縮んでいき、その隣の枯れ草の隙間からは、痩せた若草が針のように立ち上がってくる。

梢の先に並び始めた小さな赤褐色の粒はまだ葉とも呼べず、風の匂いからは、冬のあいだ混じっていた乾いた棘だけが抜けていた。

春というのは、一度には来ないものらしい。


「腹が減った」


穴蔵の底を覗き込んだカイが、正直な感想を述べた。

底には木の実が数えるほどしか残っておらず、薄く溜まった殻の破片が、朝の光に鈍い飴色を返している。

冬を越せたのは事実だが、越しただけで手一杯だったというのもまた事実だ、とヴェルドは思う。


「数えるまでもないな」


ダンが横から言った。

彼にしては珍しく、数のほうは最後まで告げない。


罠を仕掛けようと言い出したのは、ノアだった。


「石の刃を使う前に、まず捕まえないと始まらない」


蔓で輪を作り、細い枝でつっかえ棒を立て、その上に木の実を数粒置く。

仕組みは笑ってしまうほど単純だが、仕掛け終えるまでに三日かかった。

輪の大きさをどれくらいにすれば足が入るのかが分からず、大きすぎるものと小さすぎるものを両方作って、どちらも一度ずつ地面に伏せて確かめている。

ノアが地面に図を描き、フィンがその上に杭を立てて、力任せに打ち込んでいった。


「そこ、緩い」


三本目を打ち終えたところで、ダンが口を挟む。


「打ったばかりだ」


フィンが言い返した。

ダンは答えず、その杭を指の腹で押して、傾いた分だけ土がへこむのを見せる。

フィンはもう一度、同じ杭を、さっきより長く打った。

カイは輪の脇に小石を並べ、兎は白い石を避けて通るから小石で道を作れば輪に入る、と言い張って、二日後に自分でどけている。

どけるとき、並べたときと同じ丁寧さで一つずつ拾っていったので、ヴェルドはそれを黙って見ていた。


一日目、二日目は何もかからず、朝いちばんに見に行く役だけが順番に回っていく。

三日目、木の実だけが綺麗になくなっていた。

輪はほどけておらず、つっかえ棒も倒れておらず、置いた場所の土だけがわずかに浅くくぼんでいる。


浅いくぼみのふちを指の腹でなぞってから、ノアが言った。


「賢いな」


「賢いというか、こっちが間抜けなんだろ」


カイの茶々に、ノアはつっかえ棒の角度を無言で直した。


四日目の朝、見に行く順番だったウルが駆け戻ってきて、その罠が作動していることを、言葉より先に指の向きで伝えた。


跳ね兎だった。

後ろ脚に蔓が食い込んでおり、身を捩れば捩るほど輪は締まっていって、締まった分だけ捩る力が強くなる。

冬毛がまだ半分残った体が、朝日の中で小刻みに震えていた。

首から背にかけては、もう夏の色に変わりかけた薄茶が覗いている。

濡れた黒い目が、輪のまわりに寄ってきた顔を順に見て、瞳の中には青みがかった顔がいくつも小さく映り込んでいた。


誰一人、口を開かない。

藪の向こうで、何も知らない鳥が呑気に鳴いている。

世界は、こちらの都合に合わせて静かになったりはしないものらしい。


「……どうする?」


最初に口を開いたのはフィンで、輪から一歩下がったまま、自分が打ち込んだ杭を爪の先で意味もなく弾いていた。


「どうするって、そりゃ」


カイが言いかけて、やめる。


ヴェルドはみんなの背中越しに、震えているものを見ていた。

何か言おうとして、口を閉じる。

腹が減っている、という事実に返す言葉を、彼も持っていなかった。


「……ノア」


「なんだ?」


「その刃で、こいつを押さえられると思う?」


ノアは自分の手にある石の刃を、掌の上でいったん裏返してから見た。

昨秋、割れた石を何十と拾い集めて、その中からようやく一枚だけ使えたものである。

木を削るには申し分なく、蔓を切るのにも困らず、刃としてはよく割れている、というところまでは彼にも分かっていた。


分かっているのはそこまでで、その先を彼はまだ一度も試したことがない。

褐色の石の、鋭く薄い縁が、朝日を受けて一筋だけ光った。


「……無理だな。一度で終わらせられるなら、たぶん誰も何も言わない。けど、この刃で、暴れてるやつを押さえて、狙ったところへ入れられる気がしない。二度目、三度目とやることになる」


「なるだろうな」


「それは、僕らのやり方じゃないと思う」


ヴェルドは静かに言った。

声を荒らげたわけでも責めたわけでもなく、寒いから火に近づこう、と言うのとほとんど変わらない調子だったはずである。


「僕らの手は、これを力ずくで奪うための手じゃないんだ」


言ってしまってから、少し悔いた。

自分で決めさせるべきだったのかもしれない。

彼らが自分の手で結論に辿り着くまで待つというのが、この一年で彼が自分に課してきた数少ない決まりだったからである。

けれど今日だけは、待っていられなかった。


めいめいが、言われるより先に自分の手を見た。

輪の内側を覗き込んでいた顔がひとつずつ下を向いて、木立の低いところから射してくる朝日の中に、青みがかった手のひらが並ぶ。

どれも小さく、細く、爪すら大して固くない。

爪の際には冬のあいだに染みついた炭の黒と樹皮の粉が残っていて、川で何度洗っても抜けないその汚れだけが、いちおう働いてきた証拠のように見えた。

木を削り、土を掘り、蔓を裂くには向いているし、何かを組み立てるのにも向いている。

藍色の血管が透けて見えるほど薄い皮膚は、掴むよりも、触れて確かめることに向いていた。

けれど、生きているものを押さえつけて終わらせるには、どう見ても足りていない。


フィンが指を開いて、閉じて、また開いた。

それから輪のほうへ腕を伸ばし、自分の手首と、蔓の食い込んだ後ろ脚とを並べてみる。

杭を三本打ち直した手であり、この輪の中では力のあるほうの手でもあって、それでも、どちらが太いとは言えなかった。

ウルは自分の掌を裏返してから、比べる相手を探すみたいに隣のダンの手を覗き込み、ダンは覗かれるままにしていた。

ノアだけが手を見ていない。

彼が見ているのは自分の掌ではなく、その掌に載ったままの石の刃のほうである。


ヴェルドは並んだ掌を端から順に見ていった。

言われたから信じたのではなく、一度自分の目で確かめている——そう見えたので、彼はそれ以上何も足さずにおいた。


「腹は減ってるぞ」


輪から二歩離れたところにしゃがみ込み、兎が土を掻いた跡を指の腹でひと撫でして、掻けた深さが爪一枚ぶんにも届いていないのを確かめてから、ダンが言った。

今朝、穴蔵の底を覗いて「数えるまでもないな」と言ったとき、彼は数のほうを最後まで告げていない。

告げなかった数を、ここで出す気もないらしかった。

代わりに彼が並べたのは、別の数である。


「あれ一匹で、穴蔵の底が半日ぶん減らずに済む。半日だ。その半日のために、俺たちは輪を作るのに三日かけて、朝いちばんに見に行く番を四日ぶん回した。……言っとくが、割に合わないと言ってるんじゃない。割に合うかどうかを決めるのは、俺の役目の外にある。減る速さを言うのが、俺の役目だ」


「減ってる」


ヴェルドも認めた。

認めるより先に何か足せる言葉を探したが、腹の減り方を減らせる言葉というのは、この森にまだ一つも無い。


「じゃあ、別のやり方を探すしかないな」


引き取ったのはノアで、ヴェルドはそれに頷いた。

ノアは言いながら石の刃を掌の上でもう一度だけ裏返し、褐色の縁が朝日を跳ね返すのを、親指で撫でもせずに眺めていた。

使い道のはっきりしている道具が、いま持ち主の手の中で使い道を失っている。

そういう手つきでノアが刃を持っているのを、ヴェルドは初めて見た。


少し離れたところから、カイが言った。

輪の外の、まだ日の当たっていない下生えの中に立ったままである。


「言っとくけど、俺は反対してるんじゃない。ただ、今朝いちばんに腹が減ったって言ったのは俺で、あれは軽口じゃなかった。あれから、俺は何ひとつ食ってない。それだけは、ちゃんと言っておきたいんだ。俺は、食いたい」


誰も答えなかった。

カイのほうを見た者も、一人もいない。

見ないでいることが、この場でいちばん穏やかな返し方なのだろう、とヴェルドは思う。

輪の中のものが、さっきより弱く暴れている。

暴れ方が弱くなったぶん、蔓のほうは少しも緩まずに食い込んでいる。

後ろ脚の付け根の毛が締まったところだけ捻れて、その下の肌が薄い桃色に覗いている。


リアが蔓に指をかけた。

誰が行くとも決めていない。

決めていないのに、彼女が半歩前へ出たとき、輪のまわりの誰も動かなかった。

誰も動かなかったのを、ヴェルドは、決まったのだと受け取った。


カイがもう一度だけ口を開く。


「切るんだな」


「切る」


リアは振り返らずに答えた。

声の高さはいつもと変わらず、指のほうだけが、食い込んだ蔓と捻れた毛のあいだに入る隙間を探して止まっている。


日の当たっていない下生えのほうから、もう一度だけ声がした。


「……それ、俺の分でもあるんだけど」


リアは答えず、指に力を入れた。

跳ね兎はいっそう激しく暴れ、爪が手の甲を掠め、赤い筋が三本走る。

薄い肌の上で、その色だけが場違いなほど鮮やかだった。

それでもリアは手を離さず、食い込んだ蔓を石の欠片で少しずつ削っていって、削るあいだ、後ろ脚の震えが指の骨まで伝わってくるのを黙って受けている。

最後の一本が切れた瞬間、それは弾かれたように藪へ消えた。


草がひとしきり揺れて、それきり静かになった。


「……逃げたな」


「逃げた」


セトが平坦に確認し、ノアはそれだけ返す。

残されたのは、空の罠と、リアの手の甲の三本の傷と、ますます減った蓄えだけである。

どう考えても損な取引だ、とヴェルドは思った。

思ったが、言わずに済んだのはありがたかった。


セトは石板を取り出し、一度刻みかけて手を止め、削り直してから、たった一行だけ残した。


「逃がした」


捕まえた、でも、食べた、でもない。

どう書くべきか迷った末に、起きたことだけを書くことにしたらしい。


「なあ」


まだ諦めのつかない顔のまま、カイが口を開いた。


「押さえつけるのが無理だっていうのは、分かった。俺の手でも無理だ。……けど、もう終わってるやつはどうなんだ。動かないものを拾うのに、力は要らないだろ」


ヴェルドはすぐには答えなかった。

答えを持っていなかったからではなく、これも自分が決めて渡してしまうものではない気がしたからである。

それでも、待っていると誰も言い出さないことは、今日すでに一度学んでいた。


「要らないね」


「じゃあ、いいのか?」


「いいよ。森が終わらせたものなら、僕らが受け取っていい。……ただ、拾う手つきと、奪う手つきを、同じにしないこと。それだけは覚えておいて」


何が違うのかは、そのときのカイにはよく分からなかった。

分からないまま頷いたのは、ヴェルドの声がどこも叱る調子ではなかったからである。

頷いてから、彼は自分の掌をもう一度だけ裏返して見た。

朝に全員がそうしたときは、足りないものを数えるための手つきだったが、今度は、この手でも触っていいものがどこかにあるはずだという目で見ている。


石板を持ち直したセトが、「逃がした」の下へもう一行だけ足した。


「終わったものは、拾う」


刻んだところで、拾えるものは今のところ一つも落ちていない。


「痛い?」


ウルが覗き込んで、リアの顔ではなく手の甲のほうばかり見ていると、リアは傷を軽く舐めて笑った。


「これくらい。それより、次どうするか考えよう」


フィンが黙って近づき、リアの手を取って、汲んできた水でゆっくり洗った。

水は冷たくて、傷の縁が洗われるたびに赤い筋がいったん薄くなり、拭うとまた同じ濃さで戻ってくる。

最後まで一言も喋らなかった。



その傷がまだ塞がりきらないうちに、ノアは枝の先を削り始めていた。


次の手は、二つの方向から出てくることになる。

一つは、彼が枝を削りながら川のほうばかり見ていたことから始まった。


「冬に、これ、やってみたんだ」


「やってみた」


「これで、突くやつ」


先を尖らせた枝を掲げてみせると、フィンは川へ目をやってから言った。


「入れなかっただろ、川」


「入れなかった。縁から凍ってたし、入っても足がすぐ利かなくなる。一匹も獲れなかったよ。ただ、いるのは見えたんだ。見えてるのに獲れないっていうのが、いちばん腹が立つ」


だが雪解け水で嵩を増した川には、いま、明らかに冬より多くの影が差している。


「増えてる」


フィンが半歩ずれて水面から自分の影をどけ、それで初めて川底が見えた。

雪解け水を透かした底は薄い鉛色をしていて、その上を、色の違う影がひとつずつゆっくり横切っていく。

浅瀬に立つと、脛を刺すような冷たさが骨まで届き、しばらくすると痛みのほうが先に消えて、自分の足がどこで水に触れているのか分からなくなった。

それでも二人は半日そこに立ち続け、突いては外し、外しては影の行方を目で追い、そして三匹を持ち帰った。


「足の感覚がない」


「俺もない」


「魚、旨いか?」


「旨い」


「じゃあ、いいか?」


それで話は済んだ。


翌日は五匹。

その次は四匹。

安定しないが、ゼロではない。

銀色の腹を上にして並べられた魚は、日を追うごとに、穴蔵の中身より頼もしく見えるようになっていく。

その晩、焼いた身が全員の手にひと切れずつ渡り、赤い筋の走った手の甲がそれを受け取って口へ運ぶのを、ウルが横から見ていた。

ひと切れは、腹を満たすには足りない大きさである。


「魚は、逃げないのか?」


カイが素朴に尋ねた。


「逃げるよ。すごく逃げる。でも、こっちが下手だから、たいてい逃げ切られる」


「じゃあ、獲れたやつは?」


「よっぽど運が悪かったやつだな」


「兎は、運がよかったんだな」


ノアは答えなかった。

その質問は、それから何日か、彼の頭の隅に居座り続けることになる。


ヴェルドが少し離れて聞いているのが見えた。

何か言うだろうかと思ったが、言わなかった。



その魚が続くあいだに、もう一つの方向が、土から出てきた。


その春、斜面をいちばん多く往復したのはダンである。


雪の退いた斜面を端から歩いて、去年の落ち実を拾えるだけ拾う。

南を向いた側から先に乾いていくので、拾える場所も日の回り方に合わせて、一日ぶんずつ斜面を横へずれていった。

倒れた枯れ草を掻き分けると、その下から出てくる。

乾いて縮んだものが大半で、指で潰れるものは分けて置き、残ったものだけを袋に入れた。

一日目は袋の底が隠れるだけ、二日目はその倍、三日目は二日目より少ない。

ダンは毎日、袋の口を縛る前に中を数えた。

数を言える日の帰り道は、同じ斜面を同じだけ歩いても、いくらか短く感じられる。


穴蔵の底はそれでようやく、数える気になる高さに戻った。

戻ったといっても、覗き込んで底の土がすぐには見えないというだけの話で、手を入れれば指の先が当たる。


きっかけは、その拾い集めから戻ったときに見つかった。


「ここ、去年こぼしたところだ」


穴蔵のそばの地面から、見覚えのある形の芽が何本も伸びているのを、セトが見つけた。

石板の印と照らし合わせると、確かに秋に袋を破いた場所と一致する。


「十五」


数えたのはダンである。


「何が十五だ?」


「生えてる数だ。こぼした数のほうは、誰も数えてない」


セトは石板を膝に置き、印の並びを指で辿ってから答えた。


「人の分なら数で刻んである。去年の秋に、登ったやつと拾ったやつを一つずつ数えた。こぼれたぶんは、こぼれた場所しか刻んでない。こぼしたのは誰かのしたことじゃないから、数えるものだと思わなかった」


「書いといてくれ、そういうのは」


「次からは書く」


芽は高さが指の二本ぶんほどで、細い茎の先に葉が二枚ずつ開いている。

日に透かすと、葉のほうは緑というより黄緑に近い。


「落としたやつが、生えてる」


「……勝手に育ったのか、こいつら?」


ノアが屈み込んで土を軽く払うと、細い茎の根元には、割れた殻の名残がまだ引っかかったまま付いていた。

湿って締まった土の割れ目から伸びた芽は、袋を破いたその日にダンが横を通っていたはずの場所で、驚くほど濃い緑をしている。


ダンは屈んだまま、その一本の根元をしばらく見ていた。

知りたいのは葉の色ではなく、一粒がいくつになるのか、である。

茎はまだ何もつけていないので、いくつになるのかは、どこにも書いていない。


「じゃあ、わざと落としちゃえばいいのに」


言ったのはウルで、その場にいた全員が、一瞬黙った。

彼はなぜ黙られたのか分からずに、順に顔を見ていった。


理屈は、それだけである。

落ちたものが生えるなら、落とせば生える。


「……いや、待て」


折りかけた指が行き先を失ったまま止まり、その手を膝に落として、ダンは眉を寄せた。


「食う分を落とすってことだろ。今ある分から減らして、秋にどうなるか分からないものに賭けるってことだ。俺が数えられるのは、今ある分だけなんだ。秋の分は、数えようがない」


「今、減らす」


リアが答えた。


「そのかわり、秋に増える」


「増える保証は?」


「ない。生えるかどうかは、私にも分からない。分かってるのは、去年こぼしたところに生えてる、っていうことだけ。こぼしたのは一度きりだから、二度目も同じになるかどうかは知らない。……ただ、こぼさなかったところには、何も生えてない。それは、掘らなくても見れば分かる」


あっさり認めたので、ダンは言葉に詰まった。

言い返す用意をしていた言葉が、全部いらなくなる。

用意していたのは「増えると言い切れるのか」の一本で、言い切られないうちに出す先を失った。


「三分の一だけにしよう」


割って入ったのはノアだった。


「全部は賭けない。三分の一だけ埋めて、残りは食う。外れても、全部は失わない。当たったら、来年はもっと埋められる。どっちに転んでも、次がある」


「三分の一って、いくつだ?」


「数えてから決めればいい」


「逆だ。先に数える。三分の一と決めてから数えると、三分の一になるように数える羽目になる」


ダンはしばらく黙ってから、指を折って何かを数え、それから頷いた。


「……それなら、いい」


分けるのに半日、埋めるのに一日かかった。

穴蔵から出したぶんを地面に広げ、潰れているものと、殻に罅の入っているものと、どちらでもないものの三つに分けて、どちらでもないものだけを笊に集める。

分けているあいだ、誰も自分の口へ運ばない。

運ばないことに気づいて、ダンはそれも数えかけて、途中でやめた。


埋める深さは誰にも分からないので、指の一本ぶんに揃えると決めて、揃えた者から順に次の穴へ移る。

土は掘るというより指で押しのける程度で、押しのけた土を戻し、上から一度だけ掌で押さえた。

湿った土は押さえた形にへこんだまま、戻ってこない。


「強く押すなよ。押した分だけ、上から重くなる」


ノアが言い、フィンは言われたとおり力を抜いたが、抜きすぎて土が乗らず、結局もう一度かぶせ直している。


埋める数を先に決めるとき、ノアが言った。


「三十でいいだろ」


「三十三だ」


ダンは言い直しを譲らない。

穴の数はそれで決まった。一つの穴へ入れるのは一粒、と決めたのもダンである。ところがカイは、自分に回ってきたぶんの埋め方のほうを、自分で決めてしまっていた。


「三粒くらい、まとめていいだろ」


「一粒だ」


その三粒は、カイの開けた穴の底に、三つまとめて入っていた。

穴を三つ開けるのと、一つで済ませるのとでは、屈む回数が三倍ちがう——ダンにはそう見えたが、当人は「近いほうが心細くないだろ」と言った。

カイは三度見つかって、三度とも埋め直しをさせられた。

三度目には黙って掌で土を均していたが、均し終えてから「これ、全部おなじ深さだって、誰が確かめるんだ」と言い、ダンが「俺が確かめた」と答えると、それきり何も言わなかった。


こうして、この年の春、彼らは初めて自分たちの食べ物を土に埋めた。

食べられるものを、食べずに、埋める。

腹の減った者が、腹を満たさずに、まだ存在しない秋に賭ける。


それをのちに農耕と呼ぶのだが、この時の彼らにとっては、単に「ダンを説得できた実験」でしかなかった。


埋めてしまうと、やることがなくなった。


掘り返せば台無しになるし、早く育てる手立ては誰も思いつかない。

水をやろうかという話は一度出たが、雨のあとの土がどれくらい湿るのかを誰も測っていないので、やりすぎたときに何が起きるのかも見当がつかない。

見当のつかないほうへ手を出さないでおく、というのがその日の結論で、結論というより、単にやることが無いというだけである。


それでも翌朝、ノアは埋めた場所に立っている。

土は昨日と同じ形をしていて、同じ湿り方をしていて、何一つ変わっていない。

翌々日にはダンが並んで立ち、三日目には二人とも来ていた。


ダンのほうは、朝いちばんに穴蔵を覗いて残りを数え、数え終えてから足がそちらへ向く。

埋めたぶんは穴蔵の数から引いてあるので、地面のほうを見に行ったところで、彼に数えられるものは一つも増えない。


「見に行っても、生えてないぞ」


「知ってる」


「知ってて行くのか?」


「知ってて行く。何も変わってないことを見に行くんだ。変わってないなら、まだ間に合ってる」


その後半が、ダンにはよく飲み込めなかった。

何も起きていないというのは、彼の勘定では、良い報せでも悪い報せでもない。

飲み込めないまま、翌朝も同じころに同じところへ立っている。


そう言い合ってから、二人とも同じ場所へ歩いていく。

掘り返さずにおいた土は、覗き込まれたところで何を返すでもなく、ただ日の当たった表面から順に、白っぽく乾いていくだけだった。



二人が土を見に行くのをやめないまま三日ほど経った朝、リアが妙なものを抱えて戻ってきた。


跳ね兎だった。

別の個体で、前脚がおかしな方向に曲がっており、逃げようとするたびに横倒しになっては、また同じ向きに起き上がろうとする。


「どこかで挟まったんだと思う。前脚がこの向きに曲がるのは、自分の力じゃ無理。逃げようとして横倒しになって、また同じ向きに起き上がろうとしてた。それを、私が見てるあいだに何回もやってた」


「……それ、どうするんだ?」


「治す」


籠の縁に布を巻きつける手を止めないまま、リアは当然のように言った。


「治して、どうするの?」


籠の隙間に差し込みかけた指を払われてから、ウルが尋ねる。


「治ったら、行きたいところに行くでしょ」


「行かなかったら?」


「そのときは、ここが行きたいところだったってことでしょ」


リアは曲がった脚に添うように細い枝を当て、濁った緑の煎じかすを巻きつけてから、その上を蔓で軽く縛った。

継いだわけではなく、動かないようにしたにすぎない。


「それ、何を食わせるんだ?」


ダンが言った。

リアは答えず、自分の分の木の実をひとつ砕いて水に混ぜ、一日に何度も口元へ運ぶ。

最初の二日はまったく口をつけず、三日目にようやく舐めた。

その日の夕方だけ、彼女は妙に機嫌がよかった。


その晩、ダンが数を合わせ直して、リアの分だけ足りていないことに気づいた。


「足りてないぞ」


「足りてる」


リアは籠のほうを向いたまま答えた。

ダンはそれきり数えるのをやめ、笊を置いて先に寝た。


その頃には、跳ね兎は籠の隅で丸くなるようになっている。

近づいても、もう暴れない。


カイは籠の前で一度だけ足を止め、中を覗いて、何も言わずに離れた。

リアはその背中を見たが、呼び止めなかった。


ウルは毎朝、籠の前に座って何かを話しかけている。

内容は誰にも聞き取れず、本人も、あとで訊かれると「忘れた」と答えた。


「名前、つける?」


カイが言うと、リアは首を振った。


「つけない。つけたら、行けなくなるから」



その名前の無い籠を、ヴェルドは夜、焚き火の傍らで見ていた。


火は前より上手に扱えるようになっている。

乾いた枝の選び方も、風の避け方も、子どもたちがそれぞれ勝手に工夫して、いつのまにか誰でも熾せるようになった。

橙色の光が、丸くなった背中を照らしている。

冬毛の白はもう腹にしか残っておらず、そこから上は薄茶に入れ替わりかけていた。

火の粉が一つ、暗い青の中へ立ちのぼって消える。


「ヴェルド」


リアが膝を抱えて隣に座り、火の側の頬だけが色を持った。


「あの子、逃がしていいんだよね」


「うん」


「……『俺の分でもある』って、言われた」


「カイに?」


「……うん」


火に近いほうへ投げ出されたリアの手の甲で、三本の筋だけが黒く見えている。

ヴェルドはその三本をしばらく眺めてから答えた。


「あの子が正しかった可能性は、ちゃんとある」


「じゃあ、私が間違えたってこと?」


「正しかったかどうかは、僕にも分からない」


火から目を離す間だけ、リアの瞳の藍青が暗さに戻った。


「……分からないの?」


「分からない。それを決められる人が、この森には一人もいないんだ。僕もその一人でしかない。ただ、よくないと思えるうちは、たぶん大丈夫だと思う」


リアはしばらく火を見ていたが、やがて小さく笑って、「ずるい答えだ」と言った。


「そうかもね」


自分でもそう思ったので、ヴェルドは素直に認めた。


籠の中の丸い塊は、二人の会話には何の関心も示さず、ただ静かに息をしている。

やがて前脚が使えるようになれば、この籠から出ていくだろう。

出ていったあと、どこかで別の罠にかかるかもしれないし、かからないかもしれない。

そのどちらも、ここからは見えない。


埋めた三分の一が何を返してくるのかは、秋になるまで誰にも分からない。


今はまだ、川の水は冷たく、蓄えは心もとなく、手の甲の三本の筋は薄い桃色の線になって残っている。

それでも彼らは、この手で掴まないという一本の線を、この春に引いた。


引いたことに、大した理由はなかった。

できなかったから、というのが正直なところである。


知恵というのは、たいてい、できたことのほうから数えられる。

この春に実ったのは、できなかったことのほうだった。


セトは石板を穴蔵の壁際に立てかけ、「逃がした」と刻んだ面のほうを、雨の当たらない側へ向けておいた。

埋めた場所の土は、日に何度も踏まれた分だけ他より硬く締まって、朝のうちだけ湿った黒を保っている。


何百年も先、この日の一行を読み返す者が現れる。

石板に刻まれた「逃がした」という一行を指でなぞって、その者は長いこと動かなくなる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ