第四話 はじめての冬
薄暗い食堂の壁に、黒板が一枚かかっている。
盤面には見慣れない国の名がいくつも並び、その横の数字は書き足されては消され、消された上からまた書き足されて、拭い残った白がうっすらと層になっていた。
数字のいくつかには、線が引かれていた。
線を引かれた数字は、もう動かない。
白墨を持った男が、二つの名前の間に線を一本引いた。
背後で、誰かが笑った。
誰かが銅貨を数えている。
青白い灯りの下で、その乾いた音だけが、妙にはっきりと響いた。
「さて」
男は振り返らずに言う。
「今日はどちらが先に音を上げるかな」
白墨を持つその指は、白墨よりもさらに白い。
細く、骨の形がそのまま浮いて見えるほどの指である。
――二千九百七十五年後の、冬の話である。
どうしてこんな夜が来ることになったのか、その場にいた者は誰も、正確には説明できなかった。
この年、彼らはまだ、冬というものを知らなかった。
*
知らないままでも、季節のほうは勝手に進んだ。
木々の梢が萌黄から橙、そして深い緋色へと色を変えていくのを、ダンは蓄えを数えに行く道すがら、毎日少しずつ見ている。
穴蔵へ寄るのは誰かに頼まれたからではない。
数えないまま歩き出すと、その日じゅう落ち着かないのだと、彼は自分で気づいている。
空の色も変わった。
夏のあいだ薄い水色だったものが、日を追うごとに鉛の混じった灰青へ沈んでいく。
風は朝と夕にだけ質が変わって、深く吸い込むと喉の奥が少し痛んだ。
頭上を渡る鳥の群れは日に日に数を増し、いつも同じ方角へ、こちらへ何の断りも無く抜けていく。
数えられるものは全部数えているつもりだったが、鳥の数までは数えていなかった、とダンは思った。
数えたところで、どうにもならない気もする。
「……そろそろ、一年か」
石板に刻んだ印を指でなぞりながら、セトが呟いた。
黒ずんだ石の面には引っ掻き傷が幾筋も並んでおり、端のほうの古い傷は、彼が数えるたびに撫でるせいで、新しいものより浅くなっている。
「一年だ」
とヴェルドは頷いた。
「長かった?」
「比べるものがない」
セトは平坦に答えた。
「去年の今頃を知らないからな」
セトは石に刻んで残し、ダンは指を折って数える。同じ一年を扱っていても、手に持っているものが違う。
そういう言い方をされると、ダンは自分の数え方が急に頼りなく思えてくる。
知らないものに備えるというのは、名前を知らない相手に手紙を書くようなものである。
この森に来てから誰一人として「冬」という区切りを経験しておらず、何をどれだけ備えればいいのかは、備えるという言葉の意味からして見当がつかなかった。
初めての霜が下りたのは、それから幾日も経たない朝である。
子どもたちは銀色に縁取られた草の葉を珍しがり、我先にと触れては「冷たい!」「痛い!」と忙しない歓声を上げた。
若草色だった葉の縁だけが、一晩で別の生き物のように変わっている。
指で触れたところだけが溶けて下の葉の色が戻り、戻った跡をもう一度触ろうとする頃には日が上がって、朝のうちに全部が消えてしまった。
ウルが霜の縁ごと葉を口に入れようとして、リアに止められている。
「食べ物じゃないよ、それ」
「白いから、甘いと思った」
理屈になっていないが、本人はいたって真剣で、取り上げられた葉は手のひらの上でもう水になっていた。
ダンだけが、その輪に加わらなかった。
彼はその朝も蓄えの山を数え直していて、数え終えたときには、言わないという選択がもう自分に無いことが分かっていた。
「……このままだと、まずいぞ」
「何が?」
「減り方が、思ったより早い。実の高さは目で測れる。一日にどれだけ減るかは、指で数えられる。その二つを並べただけで、雪が本降りになる前に底をつくと出た。俺は、それ以上のことは何もしてない」
指を折りながら告げるダンの物言いに、周りの空気が一瞬冷えた。
冷えたのは分かったが、どこをどう言い直せば冷えずに済んだのかは、ダンには思いつかなかった。
「大袈裟だろ」
ノアが半信半疑に返した。
ダンは表情も変えずに、穴蔵の中身を指差す。
高さと日数を並べる以上のことは、本当にしていない。
ノアはそれ以上続けなかった。
話を聞いたリアは、少し考えてから口を開いた。
「じゃあ、大きい子は我慢しよう。小さい子には、今まで通り分ける。大きいほうは、減らされたことを分かってて減らされる。小さいほうは、たぶん分からない。分からないまま減らされるのは、いちばんきついと思う」
強い者が損をし、弱い者が守られる。
道理としては単純だが、口にするのは誰にとっても簡単ではないはずだ、とダンは思った。
それでも異を唱える者はいなかった。
「それなら、俺の分から削っていい」
ダンがそう言うと、フィンが黙って頷いた。
自分の分から削ると言えば、数の話が人の話に戻らずに済む。
そこまで考えて言ったわけではなかったが、言ってしまうと、そういうことだったような気がした。
*
その決まりを支えるための備えは、あらかた失敗から始まった、とリアは思っている。
最初の穴蔵は浅すぎて、一晩で野鼠に食い荒らされた。
掘った当人たちが朝いちばんに見つけたのは、蓋の際に散った殻の破片と、土の上を放射状に伸びていく細い掘り跡である。
二つ目は深く掘りすぎて、掘った本人が抜け出せなくなった。
「……次は、浅く掘れ」
引き上げてやったフィンが、それだけ言った。
三つ目でようやく、深さも蓋の重さも程よい穴蔵ができる。
ヴェルドも手伝おうとしたが、渡された石の道具で自分の指を挟み、掘った土を運ぶ係に収まった。
神から授かった肩書というものは、力仕事の前ではいっこうに効き目を現さないらしい。
リアのほうは、体を温める薬草を探していた。
いくつもの葉を噛んでは味を確かめ、確かめた端から覚えていったが、覚え方の順序が正しいのかどうかは自分でも分からない。
赤い茎の草を潰して水に浸し、その水を飲んだ子どもの顔が腫れ上がり、半日つきっきりで冷やす羽目になったこともある。
冷やす布の代わりに使えるものは湿らせた葉しかなく、それが体温ですぐ乾くので、彼女は水場と屋根の下を何度も往復した。
「ごめん、その葉は匂いだけで見当をつけた」
「もう平気。でも、次からは浸ける前にリアが確かめてくれ」
「それ、私が先に腫れたらどうするの?」
「その時はその時」
雑な理屈で場は和んだが、その夜、絞りかすを捨てる手が一度だけ止まった。
治すというのは、間違えることでもあるらしい。
そのことに、彼女はこの日初めて気づいた。
備えが一通り済んでしまうと、やることが一つもない日が、たまたま一日だけ生まれた。
蓄えの計算はもう終わっていて、屋根も直し終わっていて、川は冷たすぎて入れない。
子どもたちは日当たりのいい斜面に寝転がった。
枯れ草の匂いがする。
黄褐色の草の間から見上げる空は驚くほど高く、そこを鳥が渡っていったあとには、雲とも呼べない薄い筋だけが残った。
「暇だな」
「暇だ」
カイとノアが並んで同じことを言った。
それだけの会話だった。
ヴェルドは斜面の端の、日の当たらない木の根元に座っている。
ウルがやってきて、何も言わずにその隣に座り、しばらくして寝てしまった。
「重くない?」
リアが小声で聞いた。
「重いよ」
「どかす?」
「いや」
そのあと、二人とも黙っていた。
どこかで鳥が鳴き、風が枯れ草を撫でていく音がして、その音が通り過ぎるたびに、膝の上の重さの位置がわずかに変わる。
この人は重いと言ったのにどかさないのだな、とリアは思い、そう思ったことも口には出さなかった。
のちに彼らは、この冬のことを何度も思い返すことになる。
だが思い返されたのは、火でも屋根でもなく、たいていこういう午後のほうだった。
*
その午後の三日後に、冬は一度で来た。
最初は遠くで鳴る雷鳴だけだったものが、みるみるうちに近づき、森全体を揺らす唸りに変わっていく。
雨に混じって、鈍色の粒が横殴りに飛び始めた。
木々がしなり、葉という葉が一斉に悲鳴のような音を立てる。
屋根が軋み、隅の一角がめくれ上がりかけた。
「まずい、飛ばされる!」
誰かが叫ぶと同時に、ノアは屋根に取りついていた。
考えて取りついたのではなく、気づいたら梁を握っていた。
ダンが体重の乗せ方を叫んで指示し、フィンが一番負荷のかかる隅を両腕で押さえ込む。
カイでさえこの時ばかりは軽口を忘れ、無言で持ち場にしがみついていた。
雨粒が容赦なく頬を打ち、握った梁の樹皮が濡れて滑るので、指はそれを掴み直すたびに少しずつ感覚を失っていく。
屋根の下では、小さい子たちが身を寄せ合って、こちらを見上げていた。
見上げられている、というそれだけのことが、ノアの指の力になる。
稲光が走るたび、泥にまみれた顔が紫がかって浮かび上がり、また闇に沈んだ。
三度目の屋根はまだ、これほどの夜を経験したことがない。
「……こんなとき、火があればな」
彼は、雨音に紛れそうなほど小さくそう漏らした。
何の役に立つのかは自分でも分からない。
ただ、この真っ暗な冷たさの中に、何か一つだけでも明るいものが欲しかった。
「……怖い」
続けて漏れた声は、さっきよりもさらに小さかった。
言ってから、言うつもりのなかったことを言ったと気づく。
「怖いと言っていいんだよ」
返ってくると思っていなかった言葉が返ってきた。
「……お前もか」
「僕も、怖い。みんなを守れるか、今もわからない」
ノアは何か言おうとして、やめた。
言葉の代わりに、同じ梁を握る手の位置が、少しだけ近くなった。
屋根は、最後まで持ちこたえた。
*
その屋根の下で過ごしたそこからの一月が、本当の冬だった。
雪は降り止まず、川は縁から凍りついた。
世界から色が抜けていく、とリアは思った。
緋色だった梢は骨のような灰白に変わり、地面も空も、境目の分からない鈍い乳白に沈んだ。
火のない屋根の下で、彼らは身を寄せ合って震えるだけになる。
外へ出るのは水を汲むときだけで、汲みに行く者は行きと帰りで別人のような顔をして戻ってきた。
吐く息だけが、かろうじて動いている色だった。
ダンの見立ては、腹立たしいほど正確だった。
本人はそのことを一度も自慢しなかったし、誰も褒めなかった。
当たってほしくない見立てというものが世の中にはあり、それを当てた者は、たいてい何ももらえない。
穴蔵の底が見えたのは、雪が最も深い時期である。
「あと、七日分」
ダンが告げた。
「大きい子は、今日から半分だ」
リアが決めた通りに配られた。
半分の量は、手のひらに乗せてしまうと、もう食事という形をしていない。
握り込めば指の隙間から落ちるほどで、落とした者はそれを枯れ草の中から探すことになった。
ノアは黙って受け取り、黙って食べ終え、それから何も言わずに横になる。
ウルとその下の子たちの分だけは、これまで通りである。
何も知らないウルが「今日のは大きいね」と言ったとき、誰も返事をしなかった。
返事をしないという返事の仕方があるのだと、リアはそのとき知った。
三日目の夜、穴蔵の前に立っているカイを見つけたのも、彼女である。
「……何してるの?」
「何も」
カイは振り返らなかった。
蓋の上には手が置かれていて、その手は蓋を持ち上げるでも下ろすでもなく、ただ載っている。
「腹が減った」
「知ってる」
「ウルが、今日、俺に自分の分を分けようとした」
そう言って、ようやく振り返った。
その顔が、笑っているようにも泣いているようにも見える。
「断ったよ。断ったけど、断るまでのあいだに、一回、受け取ろうとした。一番小さいやつに恵んでもらう側になるとは思わなかったな。そういうのが自分にあるって、腹が減るまで知らなかった」
リアは何も言わずに隣へ立ち、二人でしばらく、蓋の閉まった穴蔵を見ていた。
それだけで、カイは戻っていった。
翌朝、蓄えの数は合っていた。
ダンが数え、何も言わなかった。
数が合っていたことを、リアは誰にも言わなかった。
*
その数が合っていた朝から二日後の夜、ノアが枝を擦り始めるのを、ヴェルドは輪の外から見ていた。
嵐の夜にこぼした言葉が頭から離れないのだろう、と彼は思う。
乾いた枝同士を来る日も来る日も擦り合わせるが、手のひらに水ぶくれができるばかりで、いっこうに火は起きない。
潰れた水ぶくれの上をまた擦るので、皮の剥けたところが枝と同じ色に汚れていった。
「無理なんじゃないか、これ」
「もう百回は聞いたぞ、その台詞」
カイの茶々にも構わず、ノアは黙々と枝を擦り続ける。
諦めろと言われるほど意固地になるらしい、というのは、ヴェルドがこの一年で覚えたことの一つだった。
「乾いた枝と、濡れた枝は、触った感じが違う」
セトがふと漏らした。
「凍りかけた川に手を突っ込んだときに気づいた。濡れてるほうは重くて、指に貼りつく。乾いてるほうは軽くて、かさかさしてる。それだけの違いだから、言うほどのことでもないと思ってた」
「……なんで先に言わない?」
「聞かれなかったからな」
二人は森中の枝を一本ずつ確かめて回った。
湿った重みのある枝は端から除外し、軽くかさついた感触の枝だけを選び抜いて、選んだものは屋根の下の一番乾いた隅へ積み上げる。
選び出した枝の先端に小さな窪みを彫り、そこに別の棒を押し当てて擦り合わせを繰り返した。
空腹のせいで、腕はすぐに上がらなくなる。
それでもノアは手を止めず、セトが交代を申し出ても「もう少しだけ」と譲らない。
いつの間にか、他の子どもたちまで集まって、固唾を呑んで見守っていた。
何十回目かの擦り合わせの末、窪みの奥にほんのりと赤い色が灯った。
炭のような黒の中に、点ほどの緋が生まれ、消えかけ、また息を吹き返す。
やがて、細い煙が立ち上った。
「……ついた」
「ついたな」
小さな炎が、二人の手の中で頼りなく揺れている。
種族史上、初めての火だった。
集まってきた子どもたちの顔が、揺れる橙色の光に照らされて、次々と歓声を上げる。
青みがかった肌が、生まれて初めて暖かい色を帯びた。
ヴェルドは、輪の外からその光を見つめたまま動かなかった。
魂の器に水を注ぐことも、指先に光を宿すことも、彼にとっては神から授かった力でしかない。
生まれながらに持っていたものであって、自分で編み出したものは一つもない。
だが今、目の前で揺れているこの炎は、誰にも授けられたものではなかった。
幾晩もの失敗と工夫を積み重ねた末に、子どもたちが自分の手だけでつかみ取ったものだった。
――僕が与えられるものより、彼らが自分の手でつかむものの方が、よほど確かなのかもしれない。
そんなことを思いながら、彼は輪の中に加わり、暖かさを分けてもらうように両手をかざした。
その夜、初めて火で炙った木の実は、これまでとは比べ物にならないほど香ばしかった。
焦げ目のついた実の、飴色に光る割れ目から湯気が細く立ちのぼる。
火を通した実は腹持ちがいい。
残り二日分の蓄えが、四日もった。
*
その四日を越えたあたりから、雪が緩み始めた。
屋根を補修していたフィンが、凍りついた褐色の地面に小さな緑の芽を見つけたのを、セトは石板を抱えたまま見ている。
「……こんな寒いのに、芽が出てる」
屋根の上からノアが首を伸ばした。
「こいつ、しぶといな」
「僕らみたいだ」
運び上げる枝を抱えたまま、ヴェルドが呟いた。
「芽吹きの森、か」
セトはその名を口にして、石板に刻みつけた。
誰が決めたわけでもなく、その一言だけが残って、二日のうちに全員がそう呼ぶようになった。
「僕らもいつか、あの芽みたいに」
「大きくなるってこと?」
ウルが聞き返した。
「うん。もっと、ずっと。土が凍ってても出てくるくらい、しぶとく。誰にも踏み荒らされないくらいに」
子どもたちは何も答えず、そろって芽のほうを見ていた。
セトはその冬の記録を、そこまで刻んで一度手を止めた。
「火を得た日」
「半分にした日」
「カイが穴蔵の前に立っていた日」
最後の一行を見つけたリアが、無言でこちらを見た。
何を言われるかは、書いているときから分かっている。
「書くよ」
セトは平坦に言った。
「起きたことだからな」
リアは何か言いかけて、結局何も言わなかった。
引っ掻き傷が、また幾筋か増えている。
失わずに済んだもののほうを数えるやり方を、彼らはこの先の年で覚えることになる。




