第三話 小さな手で
雨は、明け方に来た。
薄雲が急に色を濃くして灰紫に沈み、ぽつり、ぽつりと大きな粒が落ちてきたあと、枝葉の隙間を縫った冷たい筋が、寝ている者の背中へ順に届いた。
ノアは最初、体を丸めて場所を移せば済む話だと思っていた。
三度移って、三度濡れた。
三度目に移った先はいちばん葉の厚いあたりのはずだったのに、鉛色に垂れてきた空から落ちるものは、律儀に肩の同じところを探し当ててくる。
「屋根がない」
誰が言ったのかは分からない。
無いものに名前がついたのは、この日が初めてだった。
名前というのは、必要になってから遅れて届くものらしい。
頭上を覆うものといえば、手で掲げる大きな葉が一枚あるきりだった。
ノアは試しに一枚を広げてみて、掲げているあいだだけは濡れないことと、掲げている手がもう何も持てないことを、同時に知った。
握った葉の縁から水が伝って、青白い腕の肘のあたりで一度溜まってから落ちていく。
「なら、作ればいい」
自分の声が思ったより大きく出たので、少し照れた。
掲げたまま眠れないなら、置いておける形にすればいい――言ってから、それが理屈になっていることに自分で気づいた。
「葉の傘は、持ってるあいだだけだ。手が塞がる。寝てるあいだは誰も持てない。だから、手を離しても落ちてこない形にする」
ヴェルドが見よう見まねで枝を運ぼうとして、細いのを三本抱えただけで体勢を崩し、あっさり取り上げられた。
枝が腕から抜けたあとも、抱えていたときの形のまま指が開かないでいるのを、ノアは見なかったことにした。
力が無いのではなく、重いものの持ち方を知らないのだと、ノアには見えた。
草原の窪みで水を分けて回っていたときの手つきは、あれで案外しっかりしていた。
「ヴェルドはいいから、そこで見ててくれ」
「僕も、役に立ちたいんだけどな」
「気持ちだけで十分だ」
愛想のない返し方をしたのは自分でも分かっていたが、言い直す文句が浮かばなかった。
枝を渡してやったところで、渡した枝の重さのぶんだけこの人は困る。
最初に立てかけたのは、この森に着いた日から掌の中で回していた、使い道の決まらない枝だった。
使い道は、こうして向こうから来た。
集めた枝は、太いもの細いもの合わせて数え切れないほどになり、四隅に長いものを立て、その上へ横に渡し、渡した枝のあいだへ深い草色の葉を上から重ねていく。
組み方の順序を決めた者はいない。
立てた枝が倒れなければ正しいことにする、というのが唯一の決め方で、朝から日暮れまでかかった。
日暮れの時点では、確かに一本も倒れていなかった。
夜半、風が強くなった。
最初に鳴ったのは葉ではなく枝で、鳴ってから崩れるまでのあいだが、ノアには思ったより短く感じられた。
「痛っ……何、今の?」
「屋根。だったもの」
セトの平坦な訂正が、枝葉の下のどこかから聞こえた。
這い出してきた者たちの間には、被害の割に呑気な笑い声が広がっていく。
怪我らしい怪我が無かったのは運が良かったのであって、組み方が良かったからではない。
ただ、濡れたまま朝を迎えた子が二人、日が高くなっても震えが止まらず、その日はずっと誰かの背中に貼りついていた。
ノアは崩れた枝の山を、その場から動かさずに朝まで置いておくことにした。
どこがどう倒れたのかを、明るくなってから見たかった。
その夜から、誰かが順番に起きて枝の鳴り方を聞くことになった。
鳴ってから崩れるまでが短いのなら、鳴った音を聞き逃さない者が起きていなければ間に合わない――という理屈だけで決まった当番で、獣を見張るためではない。
*
その枝の山を、翌朝いちばんに引っ掻き回したのはカイだった。
倒れた向きなどはどうでもよかった。使えるものが何本残っているかのほうが、カイには先だった。
握って撓むものと、芯まで焦茶に朽ちているものを脇へ放り、撓まず折れもしないものだけを手元へ寄せていった。
「もうちょっと丈夫な木、選んだほうがいいんじゃないか。俺が見た感じ、あの枝は最初から怪しかったぞ」
「じゃあ最初に言えよ」
「今気づいたんだよ、今」
ノアの返しが早かったので、笑いのほうが先に来た。
気が合っているのかどうかは怪しいところだが、返す速さだけは合っている。
二度目は、太い枝を選んだ。
立てる四本も、上へ渡す四本も、握って撓まないものだけにして、継ぎ目には蔓を幾重にも巻いて締め上げた。
巻き終わりを引くと、指の腹に細い線の跡が残るくらいには締まっている。
フィンが幹を一人で担いできたときには、さすがに全員の手が止まった。
担いだ幹の褐色の樹皮を肩に食い込ませ、誰よりも先に汗の玉を光らせて、置くまで一言も言わない。
「力はあるんだから、それでいいだろ」
その日フィンが発した言葉としては、いちばん長かった。
返事は、たいてい返ってこない。
返ってこないぶんは、重い方から手に取っていく背中が代わりに置いてある――と、カイは勝手に決めている。
形になった二度目の屋根の下で、カイは一晩寝てみて、蒸れると思った。
下にいる者の息が上に溜まって、朝には髪が湿っている。
だから片側の枝を四本だけ抜いた。
抜いた枝は捨てずに脇へ寄せておいた。何かの役に立つからだ、と聞かれたら言うつもりでいた。
三日と経たずに、屋根は片側へ傾いた。
「カイ」
呼ばれ方だけで、何を呼ばれたのかは分かった。
それでも、言うべきことは言っておきたかった。
「間引いたのは俺だ。だけど、あそこは風の通りが悪くて、下にいる奴が朝まで蒸れてただろ。涼しくすれば息のぶんだけ軽くなる。軽くなれば長持ちする。……しないのか、それは?」
誰も答えなかった。
答えが返らないというのは、たいてい、こちらの言い分がどこかで途切れているときである。
どこで途切れているのかは、自分では見つけられなかった。
傾いた側を支えていた枝が、抜いた四本のぶんだけ受ける重さを増やしていた、というのが後で分かったことのすべてである。
どちらから押されても歪む、という弱点のほうは元からあった。
自分が抜いたのは、その弱点を四本ぶん早く呼んだだけである。
それでもカイは、その日のうちに「あれは改良だった」と言い切った。
言い切ってしまえば、そういうことになる。
認めるという言い方は、まだ一つも手元に無かった。
*
押されて終わるのが形のせいなら、終わらない形もあるのだろうか。
リアがそれを言葉にしたわけではない。
傾いたほうの下から出て、地面に落ちていた蔓の切れ端を三本拾ったとき、拾った理由は本人にも説明できていない。
崩れた形と傾いた形を続けて二つ見たあとで、手のほうが何かを試したがっていた、というのがいちばん近い。
二本を斜めに合わせ、余った一本を足元に渡してみると、勝手に閉じた形へ収まった。
押しても引いても、思ったより崩れない。
指を離しても、離した形のままそこにある。
「ねえ、これ」
呼ばれて振り返ったノアが、合わせた三本を上から覗き込む。
「三角……?」
「四角は、押されたらそのまま倒れる。横からでも、上からでも。二回とも、たぶんそう。これは押しても引いても、形のほうが押し返してくる。……なんでそうなるのかは、わかんない。でも、二回壊れた形と、これが手の中で違うのは、わかる」
三角という言葉がどこから出てきたのかは、言った本人にも分かっていないようだった。
無いものの名前は、今日で二つ増えた。
説明としては素っ気なかったが、二回の失敗の急所は、その素っ気なさでちょうど言い当てられていた。
ノアが疑うより先に手を動かしたので、答えを言い足す必要も無くなった。
三度目の骨組みは、三角を並べて継ぐ形になった。
その上に艶のある濃緑の葉を重ね、隙間へ乾いた樹皮を差し込んでいく。
リアは葉を渡す側に回り、渡しながら、上にいる者の手が届く高さと届かない高さを覚えていった。
届かない高さのぶんだけ、葉が薄くなる。
薄いところは、あとで下から見上げれば明るく見えるはずだった。
足首は、掌で押しても形が残らなくなっていた。
治ったと言っていいのかは分からないが、渡す側に立っているぶんには、もう痛まない。
その夜も雨が降り、朝まで形を保った。
「……勝った」
ノアの呟きは低かったが、聞こえた範囲の全員に届いていた。
フィンが黙って梁を一度だけ叩き、叩いてから、確かめたのか労ったのかよく分からない顔で手を下ろす。
カイは「三回目でやっと、な」と混ぜっ返しながら、誰より早く屋根の下へ潜り込んで寝転がっていた。
いちばん幼いウルが、組み上がったばかりの骨組みを下から見上げていた。
手伝うと言って蔓を運んだはずが、途中から振り回して遊び、結局は誰かに拾われる側に回っていた子である。
膝から下が泥で、髪には切れ端が一本、朝からそのまま挟まっている。
「できた!」
「お前、何もしてないだろ」
「見てたよ!」
自分が作ったわけでもない屋根を指差して胸を張るのを、リアは黙って見ていた。
役に立ったかどうかより、そこにいて騒いでいたという事実のほうが、ウルには大事らしい。
「俺たちの家だ」
誰かがそう言うと、合言葉のように広がっていった。
草原で先に同じことを言ったのはヴェルドで、そのときは「僕ら」だった。言い方だけが変わって、中身は残っている。
朝の光が薄いところから斜めに入って、屋根の下の地面に金と苔色のまだらを落としている。
薄くなると分かっていた場所が、思ったとおりに明るい。
全員が入るには肩を詰めて三列に並ばなければならず、端に寝た者の足はまだ外に出ている。
リアはその明るさを見上げて、あとで葉を足す場所を三つ覚えた。
*
その明るい三箇所を、セトは石の端へ刻もうとして、うまくいかなかった。
葉を足す場所を覚えておくのはリアの役目だが、覚えておくと言った本人が忘れたときに困る、というのが彼の言い分である。
黒ずんだ平たい石を選んで、尖った石で線を引く。
最初の一枚は強く押しすぎて、途中から音の質が変わり、そのまま二つに割れた。
二枚目は弱すぎて、翌朝には自分でも読めなくなっていた。
三枚目は途中でやめた。
やめて顔を上げると、ヴェルドが一人で立っているのが見えた。
運ぶ列にも、渡す列にも入っていない。
四枚目で、ようやく引ける線になった。
引いた跡だけが細かな粉を吹いて、石の面よりひとつぶん明るく残っている。
「浅く、まっすぐ、同じ深さで引く。強く押すと石のほうが割れる。弱いと、次の日に読めない。同じ深さなら、あとから何本あるか数えられる。数えられれば、いつのことか言える」
日を数える線とは別に、彼はもう一枚を持ち歩くようになった。
誰が何をしたかを引いておく石で、屋根の下に座っているあいだも、森から戻ってくる者の手元をだいたい見ている。
「何のためにやってるんだ、それ?」
ノアの声は、面倒がっているというより単に不思議そうだった。
セトは石を裏返しながら答えた。
「忘れるから。俺も、お前も」
「俺は忘れないけどな」
「三日前の見張りの順番、覚えてるか?」
「……ちょっと待て、記録は大事だな」
手のひらの返し方が早いのは、前から知っている。
その頃には、同じ名前が同じ場所に並び始めていた。
枝を組む列の先頭にはいつもノアの印があって、その隣に、重い方を持つフィンの印がある。
擦り傷や打ち身を診るのはリアで、診てもらいに来る者の列が日に何人か決まって並ぶ。
石に線を引く者の欄だけは、セトが自分で引いた。
決めた日を探しても、どの石にも見つからない。
役目というのは、誰かが決めるより先に、二日続けて同じ人がやったという事実のほうから生えてくるものらしい。
「お前は何係なんだ?」
カイに聞かれたウルは、少し考えてから胸を張った。
「見てる係!」
「それ、係か?」
得意げな顔だけは、誰よりも堂々としていた。
セトはその返事を石へ刻まなかった。
刻む形が思いつかなかったのと、刻まなくても忘れない気がしたのが、半分ずつである。
*
日を数える石の列が二枚目の端まで届く頃、フィンは森の奥へ入る側にいた。
木々の隙間を縫って細い沢が流れ、苔むした岩の割れ目からは、薄紅を透かした名も知らぬ花が顔を出している。
踏み込むたびに匂いが変わり、変わった匂いのほうへ足が向く。
その日、カイと連れ立って入った茂みの奥で、丸い毛玉のような生き物と鉢合わせした。
琥珀色の目でこちらを見上げるだけで、逃げも威嚇もしない。
「……敵意、なさそうだな」
「食えそうか?」
「カイ、お前は本当にそれしか考えてないのか?」
言ったそばから、カイの指差した先に赤茶色の実がなっているのが見えた。
房に十いくつ、どれも硬い殻に包まれていて、そのうち上のほうの三つか四つだけが朱を刷いたように色を深くしている。
案の定、カイは殻ごと確かめもせずにかじって、次の瞬間には顔をしかめて地面に転がった。
「渋っ……! フィン、水、水!」
「自分で汲んでこい」
そう言いながら、フィンは沢まで走った。
掬った水は指の隙間から半分落ちたので、二度往復した。
口だけは、最後まで素っ気ないままにしておいた。
その帰りに、枝を握り直した指の関節から皮が剥けているのに気づかれた。
リアが藍を沈めたような分厚い葉を選んで貼り、貼ってから、はみ出した縁を指で折り込んで押さえた。
「苦いのは腫れを引かせる。甘い汁のほうは、傷を悪くする。……なんで違うのかは、わかんない。舐めた順に覚えてるだけ。だから、同じ葉が二回続けて効くまでは、効くって言わないことにしてる」
「効いてる」
「一回目」
フィンは葉の下の熱が引くのを黙って待った。
後ろで順番を待っていた子は虫に刺されて赤く腫れていて、そちらへ回されたのは、もっと薄くて銀灰を帯びた別の葉だった。
同じ効くでも、傷によって選ぶ葉が違うらしい――というところまでは、見ていれば分かる。
そのぶんの見分けをリアがどこで手に入れたのかは、フィンには分からない。
戻ったときには、屋根の下でセトが石へ線を足していた。
何を数えているのかは聞かなかった。
持ち帰った実は、渋みの浅い下のほうだけを選び、殻の合わせ目を岩の角に当てて割った。
割れると乳白の中身が出てきて、噛めばほんのり甘い。
甘いのに、いくつ食べても腹の底のほうは埋まらなかった。
房をいくつ割っても、一人あたり二つか三つにしかならない。
それでもこの森は、まだ底を見せていない。
*
殻を割る音が屋根の下に散り始めた頃だった。
ヴェルドの耳へ届いたのは、数の勘定でもつれた声である。
カイとフィンである。
拾い集めた実の取り分の話で、背は同じくらいなのに、肩の幅だけがはっきり違う二人が向かい合っている。
「俺の方が、木に登って落とした数、多いだろ」
「拾ってたのは俺だぞ」
「拾うだけなら誰でもできる」
「登るだけの方が偉いのか、それ」
売り言葉に買い言葉で、声だけが大きくなっていく。
周りの者はどちらの肩を持つでもなく、困った顔で見守るばかりだった。
ヴェルドは、こういう場面で自分が言えることを探して、結局何も見つけられずにいた。
腕力でも足の速さでもなく、正しさで割るしかない揉め事のはずなのに、正しさのほうがどこにも置かれていない。
間に入ったのはセトだった。
差し出したのは、日を数えるのとは別の、誰が何をしたかを引いておくほうの石である。
どちらが何粒ぶん持ってきたか――その数だけが、余計な言葉を付けずに並んでいた。
「これで数えれば、早い」
登って落とした実が十一、下で拾って持ち帰った実が十四。
差は三である。
落ちているものには風で落ちたぶんも混じるから、拾う側の数のほうが増えることはある。
それでも、争っていたのは「どちらが多く持ってきたか」の一点だけで、そこだけは、どう数えても届かなかった。
力でも感情でもなく、十一と十四という二つの数だけを見せられて、言い争いはあっけなく収まった。
「……お前、そんなの、いつの間に?」
「暇な時にな」
セトは表情も変えずに答えた。
ヴェルドはその一往復を、少し離れた場所から黙って見ていた。
教えた覚えは無い。
数えれば揉め事が終わるという発見を、彼らは誰にも習わずに手に入れたのだった。
それでも、三粒ぶん少なかったと分かった側は、しばらく口を尖らせていた。
一人で木の根元に座り込んだカイの隣へ、ヴェルドは腰を下ろした。
枝一本まともに運べない者にできるのは、隣に座って話を聞くことくらいである。
それは今日一日、彼が誰の手からも取り上げられなかった唯一の仕事だった。
「別に、実の数が惜しいわけじゃないんだよな」
「うん」
「登るのは、落ちたら痛いんだよ。拾うのは痛くない。そこの違いを、数のほうは書かないだろ」
「書かないね」
「あいつが十四で、俺が十一だ。三つ足りない。足りないのは本当だよ。数えたんだから本当だ。……本当なんだけど、俺のほうは、あそこまで登って取ってる」
「うん」
「登った数は、どこにも無い。手が滑りかけた数も無い。……無いなら、無かったことになるのか」
ヴェルドは、答えの代わりに枝を一本、指で立ててみせた。
立ててみせたところで何かが分かるわけでもなく、しばらくして、また倒した。
「なあ。あれ、増やせないのか。登った数も刻む、とか」
「増やせると思うよ」
「じゃあ増やして……いや」
彼はそこで、自分で止めた。
「増やすと、次は、手が滑りかけた数も刻めって言うやつが出るな。その次は、どれくらい怖かったかを刻めって言うやつが出る。……そのたびに、刻むやつが一人ずつ要る」
「うん」
「面倒くさいな、それ」
カイは膝の土を払い、払い終えた掌を、そのまま膝へ伏せた。
「石は正しいよ。正しいけど、俺の言いたいことは入ってない」
「入ってないね」
肯定しかしていないのに、ぽつりぽつりとこぼれる愚痴のほうは、そのうちに険が抜けていった。
「……ヴェルドと話すと、なんか、落ち着く」
そう呟かれたので、思わず頬が緩んだ。
役に立てたのかどうかは分からない。
それでも、胸のどこかに溜まっていたものが、掌に載る石ひとつぶんくらいは軽くなった気がした。
*
その夜、屋根の下で体を寄せ合いながら、誰からともなく手を合わせる子が現れた。
教えたわけでも、促したわけでもない。
誰に向けているのかを、ヴェルドは聞かなかった。
組んだ指の形が、隣の子から隣の子へ、少しずつ揃っていくのが見えただけである。
それはやがて、囁くような声に変わっていった。
外は雨で、月も星も出ていない。
屋根の下では顔もほとんど見分けがつかない。
葉の薄い三箇所からわずかに入る明るさが、組んだ指の輪郭だけを縁取っている。
青みがかった皮膚の下で、藍色の血管が細く透けていた。
草原の夜には、遮るもののない空いっぱいの星明かりだけを頼りに眠っていた。
今この屋根の下から見上げる夜空は、葉の隙間からこぼれる粒に限られている。
狭くなったはずのその眺めを、誰も窮屈だとは言わなかった。
「終わった?」
不意に聞こえた無邪気な声に、苦笑がこぼれた。
声の主はやはりウルだった。
あの日、砂嵐の輪の中心で同じ台詞を口にしていたときから、呑気さの度合いが少しも変わっていない。
「まだだよ、ウル。今からだよ」
リアがそう言って笑うと、ウルはよく分からないままへらりと笑い返した。
緊張感のかけらもないその笑顔が、なぜかその場の空気を少しだけ和らげた。
いつか自分がいなくてもこの子たちだけで立っていけるように――そう願って見てきたはずなのに、隣に座っただけで落ち着くと言われると、どこかで安堵している自分に気づく。
屋根の外では、静かな雨がまだ降り続いていた。
三度目にしてようやく形を保ったこの屋根の下で、幾つの祈りと、幾つの言い争いと、幾つの笑い声が積み重なっていくのか、数えることはまだ誰にもできない。
「作る係」も「癒す係」も、まだ誰ひとり声に出して呼んではいない。
声に出して名乗ったのは、役に立つかどうかも怪しい「見てる係」の一つだけである。
夜気が、ひやりと重さを増していた。
一枚に三十ほど並べると端に届く。
屋根が立った日から数えて、日を刻む石は三枚目に移っている。
その三枚ぶんのあいだに、夜のほうが静かに質を変えていた。
森に来た頃は、雨が上がれば体温だけで足りていた。
今夜は上がってからも足りず、寄り合う輪が寝ているあいだに一回り縮んでいる。
ヴェルドが最後に見たのは、セトが石の端へ短い線を一本足しているところだった。
線を引き終えて、セトはこちらを見ずに聞いた。
「なあ。これ、毎晩こうなるのか?」
知らないことを知らないと答えるのは、この夜で何度目になるのか分からない。
「わからない」
セトは石を裏返して、膝の横へ置いた。
「じゃあ、数えておく」




