第二十五話 深き森へ
十二年目の夏の初めに、ノエが熱を出した。
三日目の朝、リアは子を抱えたまま外へ出て、朝の日が斜めに当たるところで襟をひろげ、首の後ろから背へかけての皮を見た。
薄紅の点が肩甲骨の内側に六つ出ていて、そのうち二つは縁のあたりだけが濃い赤へ変わっている。
昨日は四つだった。
一昨日は、無かった。
「水」
彼女はそれだけ言った。
器から椀へ移して口元へ運ぶと、ノエは半分ほど飲んで、残りを吐いた。
吐いたものは澄んでいて、生成りの布へ落ちても色が残らず、乾いたあとに残るのは水のかたちに縮んだ皺だけだった。
拭いて、また注いだ。
その日、器は二つ空になった。
朝と夕の二度回しでは足りず、ウルはその日のうちに川まで二度行って、二度目は日が落ちきってから戻った。
川は、行くだけなら遠くない。
遠いのは、水を張った器を胸の前で抱えたまま、こぼさないように歩幅を半分にして戻るほうで、その半分の歩幅が、往きの倍の時間を食う。
往復二度で、彼のその日はほとんど終わっている。
夜になって、リアは橙の熾の脇でノエの体を拭きながら、口の中だけで数を数えていた。
拭く回数ではない。
昨日から今日までに飲んだ椀の数である。
数え終えて、彼女は布を絞り直した。
絞った水は濁っていて、しばらく置くと桶の底へ鼠色のものが薄く沈み、使えるのはその上へ残った澄んだぶんだけになる。
三日のあいだ彼女は畑へ出ておらず、出ていないぶんの畝は、ミラとソラが二本ずつ分けて引き受けたが、水をやる回数までは引き受けられなかった。
二日目の夜半に、ノエの息が浅くなり、浅いまま四つ数えるあいだ止まって、五つ目でまた戻った。
戻ったあと、リアはその子を膝から下ろさずに、外が藍を含みはじめるまで同じ姿勢で座っていた。
座っているあいだ、彼女は誰も起こしていない。
起こしても、起きた者にできることが一つも無い。
*
日が落ちてから、ダンが器の勘定を出した。
「器は十六。十日で一度、空にして詰め直す。それでちょうど足りてた。……この子ひとりで、そこへ二日に一つ乗る。熱が長引けば、一つが二つになる」
「川から運べば足りる」
莢を剥く手を止めないまま、フィンがそう言った。
「足りる。足りるが、運ぶのに二人を半日使う。二人を半日使うと、その日の畑は止まる。畑が止まるのが十日続けば、秋の勘定が動く」
ダンはそれを言うあいだ、指を一本も折らなかった。
「湧き口は、坂を下りて指一本ぶんだ。川は指三本ぶん。……この差は、いつまでも縮まらん」
近いほうは、春から使えない。
坂の下では、汲む者たちの列がいまも同じ長さで続いていて、汲んだあとに一人ずつ木片へ一本引く。
ウルが十日ほど前に見に行ったときも、列の長さは変わっていなかった。
言い終えて、ダンは膝の上で手を伏せた。
伏せた手の下に、この日は石板が無い。
刻むところまで来ていないからである。
「戻す話はしないんじゃなかったのか?」
そう言ったカイの左手は、薬指と小指が途中までしか曲がらず、椀を持つときは他の三本だけで挟むようになっている。
「戻す話じゃない。ここにいる限り、水がどれだけ遠いかっていう話だ」
ミラが、組んでいた脚をゆっくり解いて、片方だけを前へ伸ばした。
あの脚へ枝を四本当てたのは、七年前のリアである。
伸ばした脚は、折れてから七年経ったいまでも、寒い朝には曲がるところが半拍だけ遅れる。
「歩くのは?」
彼女が聞いた。
「行きに四日か五日だ」
「四日」
ミラはそれだけ言って、伸ばした脚をまた組み直した。
組み直すのに、去年より一拍よけいにかかっている。
その一拍を、リアは見ていた。
見ていたが、口は出さなかった。
そこで、ヴェルドが初めて口を開いた。
「動く、っていう話をしてるんだね」
誰も答えなかったが、その晩は、いつもなら先に立って寝に行く者まで熾が白く粉を吹くまで座っていた。
*
翌日から、話は毎晩続いた。
ノアが言ったのは、こういうことである。
「森の奥へ入れば、水はある。去年、煤狼と行ったとき、尾根を越えた向こうで湧いてるのを見た。あそこは低い。低いところは、たいてい湧く」
言いながら、彼は火の脇の土へ指で線を引いた。
引いた線は坂で、その先の窪みが尾根の向こうである。
引き終わってから、その線を掌で消した。
「見たのは一度きりか?」
聞いたのはダンで、聞きながら彼は指を一本も折っておらず、膝の上に伏せた掌のほうも動かなかった。
「一度きりだ」
「一度きりで、あそこは湧くと言えるのか?」
「言えん」
ノアは、そこを言い張らずに自分でそう認めた。
去年に一度見たきりの湧き口を根拠にして、この一同を動かすということの重さは、聞かれる前から彼の側にある。
「言えんが、ここは湧いていて、その湧き口には人が並んでる。並んでない湧き口が、どこかにあるはずだ」
その晩、セトは石板を出してこなかった。
毎晩の話し合いのあいだ、彼はいつも膝の上に一枚を置いているのだが、この日は膝の上に何も無い。
出してこないので、ダンが「刻まないのか?」と聞いた。
「刻む。刻むが、いま刻んでも、行った先で合うかどうかは分からん。……行った先のことは、行かないと刻めない」
「じゃあ、行くほうか?」
「そうは言ってない」
セトは、いつも石板がある膝のあたりへ手を下ろして、そこで止めた。
「刻んだものが効かなくなった、っていうのは、この春やったばかりだ。効かないことが分かっただけで、次にどうするかは出てこなかった。……今度も同じだ。ここが遠いのは分かった。だから動く、にはまだならん」
*
反対したのは、ソラである。
彼女は五日目の晩まで一言も言わなかった。
黙っていたのは、聞かれなかったためである。
毎晩、彼女は輪の外側の、熾の光がぎりぎり届かないあたりに、五晩とも同じ位置で座っていた。
膝の前には摘んできた豆の莢が籠のまま置いてあり、話が長くなる晩ほど、剥いた数が増えた。
六日目に、フィンが「どう思う」と聞いた。
去年、杭を打ち終えた夕方に坂の上の彼女へ「どうした」と聞いたのと、同じ短さの言い方である。
「せっかく囲ったのに」
ソラはそう言って、そのあと膝の前の籠へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。
黙っているあいだに莢を二つ剥いて、剥いた豆を籠へ戻してから、続きを言った。
「私の畝は、四本のうち二本が線の外なの。去年からずっとそう。外にあるから、行かなくなった。……行かなくなったのに、囲いを捨てるっていうのは、おかしいと思う」
「おかしいか?」
「おかしい。だって、あの線を引いたときに外へ出されたのは私で、そのぶんの得をしたのはみんななの。……得をしたほうが、いらないって言うのは、順番が違う」
火のところが静かになり、その静かになったあいだに、フィンは巻きかけていた蔓を膝へ下ろし、ダンは折りかけた指を開かないままにしている。
熾が一度沈んで、朱の芯だけが灰の下に残り、輪の外側にいる者の膝から先が見えなくなった。
火のほうを見た者が二人、莢の籠のほうを見た者が一人いて、そのあいだ誰も口を開かない。
「杭は百二十本ある。あれを立てるのに、三十日のうち十七日かかってる。土塁は、掘った土を寄せただけだけど、寄せる先が要ったから寄せたの。……あれを置いていくの?」
「置いていく」
ダンが答えた。
「持っていけないからな」
「持っていけないものが多いってことは、置いていくものが多いってことでしょ。……多いのに、それでも動くの?」
そこで彼女は、輪の全員に見える形で、はっきり首を振った。
「私は、反対」
ダンは何も言い返さなかった。
言い返さなかったのは、彼女の言い分に返す形のものを持っていなかったからである。
この一同が十二年かけて積み上げた勘定は、置いていく側の欄だけが、そこで初めて上回った。
「残るなら、水はどうする?」
フィンが聞いた。
「川から運ぶ。いまと同じ」
「いまと同じだと、一日に指二本ぶんだけ手が足りなくなる。それが十年続く」
「十年続けばいい」
「十年のうちに、その二本ぶんを出せなくなる年が来る」
ダンが言った。
「……先に出せなくなるのは、たぶん私」
ソラはそう言って、そこで初めて声が少し大きくなった。
「私はここの土を十二年見てるの。どこが乾きやすくて、どこが霜が遅いか、全部知ってる。向こうへ行ったら、それが全部無くなる。……無くなったぶんを取り戻すのに、また十二年かかる」
「取り戻せるか?」
「取り戻せる。取り戻せるけど、そのあいだに、取り戻せなかった年が何度か来る」
言い分は、通っていた。
通っていて、それでも器は一日に二つ空になり、空いたぶんはその日のうちに誰かが坂を下りて埋めることになる。
*
八日目に、ノエの熱が下がった。
下がったのは、リアが何かをしたからではない。
その前の三日、彼女は葉も貼らず、根も煎じず、畑の隅の一本にも手を出していない。
朝、額に当てた手の下で、熱の縁が生え際のほうへ引いていくのが分かり、指を離しても掌へうつってくるものが残らなかった。
首の後ろの点は、薄紅から鳶色へ変わって、輪郭のところから薄れはじめている。
「見たことのない出方だったの」
器を洗う手を止めずに、彼女はダンへ向けてそう言った。
器の勘定を出した当人へ返す形になったのは、たまたまである。
「知らないものに知らないことをすると、どっちが効いたのか、どっちが悪かったのかが分からなくなる。……だから、水だけにした」
「水だけで治ったのか?」
「分からない。治ったのは確かだけど、水が治したのかどうかは、分からない」
そう言って、彼女は膝の上で自分の掌を返した。
三日のあいだ、その掌がやったのは水を運んで拭いて注ぐことだけである。
「ただ、水が足りてたらどうだったかは、分かる。足りてたら、私はもっと早く、別のことを試せた」
試せたことが、良いほうへ働いたのかどうかは、彼女にも言えない。
分からないが、試せなかったということだけは、この三日ではっきりした。
*
決めたのは、その晩である。
決め方は、誰かが決めたという形ではなかった。
ヴェルドが「動くか、残るか、一人ずつ言おう」と言い、輪の順に言っていっただけである。
順は決めなかった。
座っている並びのまま、火のいちばん近い者から左へ回していく。
火は、輪を一周するあいだ一度も足されず、終わるころには芯だけが灰の下で朱く残って、順が回ってくるころには、膝の前の土のほうが背中より冷たくなっていた。
ノア——動く。
ダン——動く。
フィン——動く。
ウルは囲いのあるほうを一度見てから、動く、と言った。
セト——行った先のことは、行かないと刻めない。
それが、彼の答えということになった。
ミラ——動く。
カイ——動く。
リア——動く。
ソラ——残る、の「の」まで出たところで、口が止まった。
そのまま、彼女は膝の前を一度見た。
この晩だけ、そこに籠が無い。
「……反対のまま、行く」
言い直したことについて、その場で何かを聞き返した者はいない。
フィンは聞き返す形を一つ持っていた。
持っていたが、出さなかった。
聞き返さないでいるというのは、たいてい、聞き返したあとに返ってくるものを、もう知っているということである。
ヴェルドは最後だった。
「僕も行くよ」
彼はそう言って、それから、言うつもりでいたわけではないことを一つだけ足した。
「ソラの言ったことは、正しいと思う。順番は、違ってた。……次に何か囲うことがあったら、そのときは、外になる人から先に聞くようにしよう」
「次があるの?」
ソラが聞いた。
「分からない。でも、あるつもりで言っておかないと、忘れる」
*
出るのは秋のあとにする、と決まった。
理由は三つある。
一つ、今年の収穫を持っていくため。
二つ、夏のあいだに向こうを見に行くため。
三つ、巻き羊が夏毛のうちは動かせないから、というのがウルの言い分だった。
見に行ったのは、ノアとセトと狼である。
行きに四日、帰りは道の見当がついているのに五日かかった。
帰りが長いのは、同じ道を戻りながら、水の湧いているところと、そうでないところを一つずつ確かめたからである。
帰ってきた晩、セトが石板を出した。
出した石板は、割れ口が縦に走って青みを帯びているほうの一枚である。
四行あった。
一行目は、水が湧いていた、という行である。
湧き口は岩の割れ目から出ていて、出たぶんがそのまま浅い流れになり、二十歩ばかり先の窪みへ溜まっていた。
二行目は、その湧き口から見て日の落ちるほうに、木の疎らな土地が開けていた、という行である。
開けているのは、去年か一昨年に何かが倒れて、そこだけ日が入るようになったからだと見えた。
三行目は、その土地の土を掘ったら指の第二の関節まで柔らかかった、という行である。
ここの土は、掘って第一の関節までしか入らない。
四行目は、まだ空だった。
「四つ目は?」
ダンが聞いた。
「あそこに、人がいるかどうかだ。……四日いて、見なかった。見なかったってことは、いないってことにはならん」
「刻まないのか?」
「見なかった、と刻む形を持ってない」
セトはそう言って、四行目を空けたまま石板を伏せた。
去年、音が聞こえなくなった晩にも、彼は同じことを言っている。
去年から今年にかけて、その形は一つも出てきていない。
*
石板を分けはじめたのは、セトである。
窪みには、十二年ぶんが横にして積んである。
全部で百三十枚を越えていて、下のほうの一枚は縁まで苔が来ていた。
彼はそれを、住処の前へ端から並べた。
並べ終えるのに、日が指五本ぶん傾いた。
古いほうの石板は、指を当てても溝の底がどこか分からないほど平らになっていて、字だったところが灰白のまま残っている。
新しいほうは角がまだ立っており、割り口の層が緑を帯びて一筋見え、持ち上げると重さが手前へ寄る。
持っていくほうへ寄せたのは、年によって一枚から六枚まで、音と狼と伐った本数を刻んできた二十二枚と、規則を刻んだ二枚である。
そこへ、いちばん下から一枚だけ抜いた。
縁が丸くなるほど古い一枚で、二行しか刻んでいない。
一行目は、逃がした、とある。
合わせて二十五枚になった。
「それ、何が入ってる?」
置いていくほうの山を指したのは、ソラである。
「畑のことだ。どの畝がどの年に何を出したか。……あそこの土でしか合わん」
「向こうでも要るんじゃないのか?」
「要る。要るが、向こうの土は掘ってみたら指の第二の関節まで柔らかかった。ここは第一の関節までだ。……同じ数え方をすると、間違える」
「あと、屋根の草が鳴った晩を九本刻んだ一枚も、こっちだ。……鳴らしたものが何だったのかは、終いまで出てこなかった」
「持っていかないの」
「持っていっても、向こうの屋根で同じものが鳴るとはかぎらん」
その一枚は九本の線と、その一本の下に打った点が四つあるきりなので、置いていく山のいちばん上へ載せても、遠目には何も書いていない石にしか見えなかった。
「春に、坂の下で同じ形のものを見た」
セトはそう続けた。
「線が並んでるだけだ。あれもこれも、見た者にしか読めん。……形が同じでも、同じことが書いてあるとはかぎらないというのは、あそこで分かった。分かったぶんは、持っていく」
分かったぶんを刻んだ石板のほうは無い。
彼はそれを、口で言えるうちに一度だけ言って、置いていく山の上へは何も足さなかった。
セトは置いていくほうの山を、窪みへ戻した。
戻してから、掻き出しておいた土を端から寄せて、窪みの口をすっかり塞いだ。
塞いだ上を掌の付け根で押さえて、雨が入る隙がないところまで固めた。
持っていかないものを、彼は一枚も捨てなかった。
*
夏の終わりから、包む作業が始まった。
種は、蒔くのが大きいほうで食うのが小さいほうという決まりを袋の口の縛り方に移して、大きいほうは二重に、小さいほうは一重に縛って分けた。
器は、口の縁を指でなぞって欠けを一つずつ確かめながら、割れていないものを十二だけ選び、欠けのあった四つは置いていくほうへ回した。
刃は柄から外して刃だけを布で巻いたが、これは柄なら向こうでも作れるのに対し、刃のほうは向こうに使える石があるかどうかが分からない、というのがその理由だった。
蔓は、乾かしたぶんを束ねて、締めるときに使う長さのものだけを残した。
跳ね兎は籠へ入れると暴れるので、上へ布を一枚掛けて暗くしたところ、掛けた直後から静かになった。
この一匹が、いつかリアが脚に枝を当てて治した一匹の何代あとにあたるのかは、リアにも分からない。
名前をつけなかったので、どこで代が替わったかを誰も見ていない。
*
秋になった。
倉に入れ終えた日、朝のうちに霜が下りて、畑の枯れた茎の先が霜で縁取られた。
その日、ダンが数えたのは、持っていけるものと持っていけないものである。
持っていけるもの——種。石板が二十五枚。塩山羊が一頭。跳ね兎が一匹。割れていない器が十二。刃と、蔓。布。
持っていけないもの——柵。門。土塁。高床の倉。竪穴の家が四つ。焼き場。畑の畝が十一本。三年で植えた苗が八十二本、そのうちいまも立っているのが八十本。
そして、蜂。
数え上げの途中で、ハナが横から一つ足した。
「巣は、六つ。丈の低いほうの花に四つで、川寄りに二つ」
「持っていけるのか」
「持っていけない。巣は持てる。持っていったら、あれは巣じゃなくなるの。あの子たちが戻ってくるのは巣にじゃなくて、巣のある場所にだから。丈の低いほうの花が、川の音の届くところに寄って生えてる。あの子たちが覚えてるのは、そっちのほう」
ハナは目を細めて、門の上の空を、林の際まで一度だけ追った。
そこには何もいない。
ダンは数えかけた指を止めた。
「じゃあ、蜜のほうは」
「蜜は持っていける。壺で二つぶんある。……でも、それは今年のぶん。来年のぶんは、置いていくほうに入る」
彼はその二行を、持っていけるものと持っていけないものの、両方へ書かせた。
同じものが二つの欄に載ったのは、この日の目録でそれだけである。
そして、鳶牛。
去年の春に勝手に来て、囲ったつもりもないのに囲いの内側にいた獣である。
引いても押しても動かず、四人がかりでも同じだった。
「あれは、こっちが連れてきたわけじゃない。……だから、置いていくとも言えん」
ダンはその行を、持っていけないもののほうにも、持っていけるもののほうにも入れなかった。
入れないまま、次の行へ移った。
そして、羊。
「連れていけない」
言ったのはウルではなく、数え上げていたダンが、その行のところで手が止まっただけである。
「跳ばないからな。跳ばないから、囲いの内側で生きてる。囲いが無いところへは、置けん」
二年前、シルヴァが東の草地の在処を置いていったとき、彼女は使い方を言わなかった。
使い方は、こちらで決めた。
決めた使い方が、二年で、置いていくという形にまで来ている。
山羊は連れていける。
山羊は跳ぶし、斜面を登るし、散っても自分で戻ってくる。
二年前にウルが言った、山羊は流れない、散る、という言い方が、ここで初めて連れていける理由になった。
ウルはその晩、囲いのところへ行った。
行って、十三頭の中の一頭の前に立った。
目のまわりだけ、他より毛の抜けている一頭である。
二年前、この一頭に名前をつけるまでに六日かかっていて、つけた名前はムムという。
彼はしゃがんで、いつもどおり毛を梳いた。
梳いた毛が指のあいだに乳白の塊で残り、それを腿のところで払ってから、彼は立ち上がって、何も言わずに囲いを出た。
日は落ちきる前で、囲いの土は西日を受けて赤褐に染まっている。
出るとき、柵の際まで来た一頭が、彼の背中を見ていた。
二年前の秋、ノアが畝の端で、抜かないと決めてあった株を抜いて坂を下りていったとき、同じように柵の際まで来て見ていた一頭がいる。
あのときは、見られているほうが気づかなかった。
今度は、気づいていた。
知っていて、彼は坂の上のほうだけを見ていた。
坂を上がりきるまで、一度も歩幅を変えなかった。




