第二十六話 移ろいの日
出る日は、霜が三度下りたあとの朝と決まった。
十二年目の秋である。
三度と決めたのはダンで、一度目と二度目のあいだに畑の枯れ方が変わり、三度目で土の表が朝のうちだけ固くなるので、そこまで待てば荷を引いても引き跡が深く残らないからである。
去年、倉へ運ぶときに引き跡が踝の上まで抉れて、埋め戻すのに二日かかったことがある。
その朝、坂の上には風が無く、東の空は雲一つ挟まないまま、朱から山吹へゆっくり変わっていった。
門のところに全員が集まり、荷を下ろさないまま、そこから内側を一度だけ見た。
見ろと言った者はいない。
出るには門を通るしかなく、通るときには一度こちらを向く形になる、というだけのことである。
刈り終えた茎が、枯草色のまま畝の列の形になって、根のところから折れて伏せている。
高床の倉は空で、床下へ手を入れると、この朝もまだ乾いていた。
焼き場の灰は去年のぶんまで残してあり、その上へ霜が薄く乗って、灰白の層のように見えた。
去年の秋に焼いて割れた器の破片が、灰の脇へ薄紅のまま寄せてある。
三年前に植えて、いまも残っている二十九本のうちでいちばん伸びた一本は、春にはまだ屋根の縁へ届いていなかった。
いまは、越している。
石板を積んだ窪みは、昨日のうちに塞がれて、平たい土の面になっている。
畑がどの年に何を出したか、どの畝が乾きやすくてどの畝に霜が遅いか、十二年ぶんの土のことが全部そこにあった。
どれも、この土の上でしか合わない数である。
窪みの口は、昨日のうちにセトが土で塞いだ。
塞いだ上には、いま風で飛ばないだけの重さの平たい石が二枚、向きを揃えて重ねて置いてある。
出しなに、彼はその石を一度だけ踏んで、動かないのを確かめた。
「誰か、掘り返すか?」
ダンが聞いた。
「掘り返さん。……ここへ戻ってくる者がいるとして、その者は俺たちじゃない。俺たちじゃない者が、俺たちの数え方を知ってるとは思えん。知らん数え方で読まれるくらいなら、読まれんほうがいい」
「じゃあ、なぜ濡らさない?」
「読まれんのと、消えるのは、別の話だ」
*
囲いの中には、巻き羊が十三頭いる。
柵の内側の草は、この秋のうちに根の際まで食い尽くされ、土の色が二年前より白っぽくなっている。
食い尽くされてから、彼らは柵の際まで来て外の草のほうを見る日が増えた。
見るが、跳ばない。
跳ばないので、柵から一歩外にある緑は、この秋のあいだ一本も減らないままそこにある。
ウルは門を出る前に、囲いの戸を開けた。
逃がすために開けたのではなく、逃げたければその戸から出ればいいのだが、出ないということを、この二年のあいだ毎朝そこへ通ってきた彼がいちばんよく知っている。
戸を開けたまま、彼は柵の隅へ束を置いた。
冬のあいだに食わせるつもりで、夏の終わりから刈って干しておいたものである。
乾いた茎は生成りに近い色まで抜けていて、束ねた蔓のところだけが褐に濃い。
量は、十三頭なら二十日ぶんになる。
「二十日ぶんだ」
束を置きながら、ウルはそう言った。
置いた束の脇に、目のまわりだけ毛の抜けている一頭が来ている。
二年前に六日かけて名前をつけた、その一頭である。
聞いた者はいない。
二十日のあとのことを、彼は数えなかった。
数えないまま干し草の束の上へ手を置いて、その手をしばらく離さずにいる。
離してから、彼は門のほうへ歩いた。
二歩か三歩で、足が止まった。
そこで二度、まだ白くならない息を吐いてから、彼はまた同じ歩幅で歩き出した。
今度は、門を出るまで一度も止まらなかった。
*
鳶牛は、畑の東の草の厚いところにいた。
去年の春に勝手に来て、水を飲みに行くほかは動かない獣である。
角に縄を掛けて引いても頭がわずかに下がるだけで、四人で引いても同じだった。
ノアは縄を持っていかなかった。
近くまで行って、鳶色の毛の上から掌を横腹へ当てると、皮の下で熱がゆっくり動いているのが、塩山羊のときよりはるかに遅い速さで伝わってきた。
去年の秋に初めて触ったときと、離れていく速さも、離れきったところで止まる場所も、同じままだった。
「ここにいろ」
そう言って、すぐに言い直した。
「……いろ、じゃないな。いる、だ」
「連れていけないのか?」
後ろから追いついたカイが聞いた。
「連れていけないんじゃない。あれは、来ない」
「同じことじゃないのか?」
「違う。……連れていけないっていうのは、こっちの都合だ。来ないっていうのは、向こうの話だ」
言い直したことに意味があるかどうかは、彼にも分からなかった。
分からないまま掌を離して、二人は坂を下りた。
*
フィンは門の横木へ一度だけ掌を当て、それから石の先で、端のほうに浅い刻みを一つ入れた。
二度作り直した横木であり、三度目を作る機会は、この土地にいるあいだにはもう来ない。
何のための刻みかは、彼も言わなかった。
ミラは織りの木枠を二つとも壁際へ寄せ、それから家の垂れを一つずつ下ろしていった。
枠は運べないので、布は織り上がったぶんだけを持っていくことになる。
織りかけの一枚は、枠に掛かったまま残った。
上げたままにしておくと、雨が内側へ入って、そこから先に朽ちるからである。
四つの家の垂れを全部下ろし、下ろした端を鼠色の平石で押さえてから、彼女は坂を下りた。
脚を伸ばして立ち上がるまでに、去年は要らなかった間が一つ挟まる。
坂の途中で、彼女は一度だけ節を上げた。
粉を挽くときのものである。
挽く者はもうおらず、石皿は倉の壁際に伏せて置いてきた。
それでも、押して戻すまでの長さは、まだ体のほうに残っている。
上げたのは一つきりで、二つ目は上げなかった。
持っていける物と持っていけない物を、ダンは秋のうちに全部数え上げている。
その目録に、これは載っていない。
載らなかったのは忘れられたからではなく、置いていく側にも書きようが無かったからである。
リアは、畝の端の株を抜かなかった。
二年前、齧り口を残したまま抜かずにおいた、薄い黄の穂をつける一本である。
抜いてしまえば、次にここへ来た誰かがそれを知らずに済む。
抜かずに残せば、次に来た誰かが、あのとき畑の縁で死んだ小さい獣と同じことになる。
彼女はそこにしばらく立って、それから株のまわりの土へ、掌ほどの平たい石を三つ、指二本ぶんずつ間を空けて並べて置いた。
三つ並べた石が何を意味するかは、彼女にも言えない。
言えないなりに、何も置かないよりはましだと思った。
カイは、焼き場の脇に置いてある鈍色の石皿を一枚だけ持ち上げて、また下ろした。
途中で止まったきりの二本の指を避けて、右手だけで持ち上げている。
持てる重さではあったが、持っていく荷の五つに、それが入る場所は無かった。
下ろしてから、彼はその石皿の縁を、動かない二本の指の背で一度撫でたが、撫でた側の指には何も伝わってこなかった。
伝わってこないことを確かめるために撫でたのだということに、彼は撫でてから気づいた。
*
ダンは、門の内側で最後に一度、数え直した。
数えたのは荷ではない。
荷は昨日のうちに五つへ分けて、五つとも紐の掛け方まで確かめてある。
彼が数えたのは、門を出る者のほうだった。
一人ずつ、名前を口の中で言いながら指を折っていき、折り終えたところで二十四まで来た。
そこへリアの背で眠っているぶんを足すと、二十五になる。
十二年前、この坂を上ったのは、彼の数え方で二十四人である。
増えたのは、一人。
減ったのは、無い。
彼はその二つの数をしばらく並べたまま持っていたが、どちらも刻まなかった。
刻むのはセトの仕事で、そのセトの石板は、もう枠に載って紐まで掛かっている。
置いていくものの数だけは、昨日ぜんぶ数え終えていた。
*
荷は、五つに分けた。
一つ目は種で、二重に縛った袋と一重の袋を、去年の実りと一昨年の実りが混ざらないように二人で分けて持つ。
二つ目は器と刃と布で、器は割れていない十二だけを藁で包んだが、包んでも焼けの薄紅が藁の隙間からのぞいている。
三つ目は石板の二十五枚で、これは枠に載せて引く。削った面を上へ揃えて重ねたので、遠目には灰白の平たい石を積んだだけに見える。
四つ目は食い物で、倉から出したぶんが全部そこにある。
五つ目は、山羊と跳ね兎。
山羊は、綱で引くと止まる。
前へ回って歩くと、ついてくる。
これは二年前に羊で覚えたやり方で、羊には使えるが山羊には効かないというのが、そのときからの見立てだった。
綱を外して前へ回ると、山羊は一頭きりのまま、三歩遅れてついてきた。
効いた。
「同じなのか?」
フィンが聞いた。
「同じみたいだ」
ウルは自分で試して、自分で驚いた顔をしている。
二年前に羊で手に入れたやり方が、二年たって、その相手ではないほうで役に立った。
置いていく側から教わったものを、連れていく側へ使っていることになる。
覚えたやり方というのは、覚えさせた相手がいなくなってから、初めてどこまで使えるものだったかが分かる。
そのことを彼はしばらく考えていたが、考えている時間は、もう無かった。
*
煤狼は、坂の下で待っていた。
連れていく、という話は一度も出ていない。
連れていくという言い方そのものが、あの相手には最初から当てはまらないままだった。
綱を掛けたことも、囲いへ入れたことも、名前をつけたこともない。
三頭になったのは去年で、水場へ来る数を刻むのを、セトはこの春でやめている。
刻んでいないのは坂の下へ行かなくなったからで、行かなくなってから、あれが何頭になったかを知る者はいない。
ノアが坂を下りきると、狼は立ち上がって来た側へ体を向け、それから三十歩ぶん先へ歩いて、そこで止まった。
煤けた鈍色の毛は、二年前の春に葉を貼ったところだけ、いまも生え方の向きが横へ寄っている。
止まって、こちらを見た。
二年前、森の奥で同じことをした日がある。
あの日は、ついてこいという意味だった。
今日がそうなのかどうかは、ノアには分からない。
分からないまま、彼はそちらへ歩いた。
狼は、また三十歩ぶん先へ行った。
*
結びの大樹の下に、シルヴァが立っていた。
知らせに行った者は一人もいないのに、彼女は幹の東側の、朝の日が回りこんでくるほうへ、こちらが着く前から立っていた。
「……行くのですね」
「行く」
ノアが答えた。
「……水のことは、聞きました。木の側から、順に伝わってきます。……こちらは、遅いので。あなたたちが決めたころには、まだ届いていませんでした」
「じゃあ、なぜここに?」
「……この木が、下のほうの根で、いつもより深く水を引いています。……去年の同じ日と比べて、そうです。上のほうまでは、まだ来ていません」
彼女はそこで、苔の乗った幹へ掌を当てた。
幹の北側は日が当たらず、苔の緑が朝の光でわずかに青みを含んで見える。
「……水の場所が変わると、木は先にそれを知ります。人が動くのは、そのあとです。……ですから、私はここへ来ました。あなたたちより先に、この木が知っていました」
「行った先に、あんたたちはいるか?」
「……いません」
シルヴァは、その一言だけをこちらと同じ短さで言い、短く言ったあとで、いつもの長さへ戻った。
この一同の言い方に合わせられるのだということを、彼女はこれまで一度も見せていない。
「……私たちの林は、ここから東です。あなたたちが行くのは、尾根の向こうです。……あちら側の木のことは、私は知りません。知らないので、地図は渡せません」
「知らないことを、教えてくれるのか?」
「……知らない、というのを、教えます。……あなたたちは、それを刻むでしょう」
セトが、そこで初めて口を開いた。
「刻む形を、持ってない」
「……では、作ってください。……こちらは、作りませんでした。作らずに、そのままにしています。……そのままにしたので、林の外のことは、いまも何も分かりません」
シルヴァはそこで一度、掌を幹のほうへ戻した。
「……ただ、さっきの伝わり方は、私たちのところで止まりません。……ときどき、こちらの誰も行ったことのない遠さから来ます。……送っているのが誰なのかは、私も知りません」
別れの言葉は、無かった。
シルヴァは掌を幹から離して、それから、根方の土を少しだけ掌に取った。
取った土を、リアのほうへ差し出した。
「……これは、この木の下の土です。……向こうの土と混ぜてください。混ぜても、この木は増えません。増えませんが、あなたたちが最初に蒔くところが、どこだったかは残ります」
リアは両手で受け取って、生成りの布に包んだ。
土は湿っていて、包んだ布の内側にすぐ薄い染みが出た。
包んでから、一つだけ聞いた。
「あなたの木は、まだ枯れてない?」
「……上のほうの枝で、葉を出さないところが、前に見たときより増えました」
前に聞いたときは、二本だった。
いくつ増えたのかを、リアは聞かなかった。
聞けば、彼女はきっと、見た回数で答えたはずである。
「また来る」
ウルが言った。
「……来ません」
シルヴァは、それを言い切った。
「……そちらが一度来るあいだに、こちらは、まだ一度も動きません。……そちらが来るつもりでいるうちに、そちらの一度のほうが、先に終わります」
「じゃあ、なんて言えばいい?」
「……行きます、で足ります。……こちらは、行かれます、と受けます」
「それ、こっちは一度しか言えないってこと?」
「……そうです」
「じゃあ、まだ言わない」
ウルはそう言って、一歩下がった。
下がってから、また戻った。
「ここに俺たちがいたこと、その木は覚えてる?」
「……木は、覚えません。……覚えるのは、私たちです。……私たちも、そのうち動かなくなります」
「動かなくなったら?」
「……そのときは、この木が、私の代わりにここに立っています。……立っているだけです。何も言いません」
ウルはうなずかなかった。
うなずかずに、行きます、とだけ言った。
言ってから、少し間をおいて、もう一度同じ四字を言い直している。
二度目のほうが、遅かった。
シルヴァはそれ以上を言わず、こちらが歩き出すまで、その場に立っていた。
歩き出してからも、林の際で見えなくなるまで、動かなかった。
*
坂の半ばで足が止まって、ヴェルドはそこから門のほうを見上げた。
坂の上に、門が見える。
横木の下は朝の影で藍を含んでいて、扉は、とうとう付かなかった。
囲いの戸も、開いたままである。
十二年前、彼はこの坂を上る側にいた。
腕に一人を抱えていて、抱えた重みは、想像していたよりずっと軽かった。
軽すぎて、少し不安になるくらいだった。
いま、その者たちは自分の足で歩き、荷を引き、子を抱え、置いていくものの数を、一つ残らず数え終えている。
火も、種も、木も、囲いも、記録も、この者たちが自分の手で見つけて、自分の言い方で名前をつけた。
彼が先に口を出したことはあるが、始めたのは、いつもこの者たちのほうである。
そのことを、去年まで彼は誇りだと思っていた。
彼のほうから始めたものは、生涯に一つきりである。
草原の器から二十四人が立った日のことで、あれから十二年、その一度きりで止まっている。
二度目の水は湧かないと、あの晩のうちに彼は知った。
十二年、彼は種を蒔き、知らないものを先に舐めてきた。
水を担いだのは、去年の秋が最初だった。
そのどれも、今年の春に坂の下へ並んだ列を、一人ぶんも動かさなかった。
足りなかったのは、水でも種でも記録でもない。
それを全部持っていてもなお取り上げられる、ということを止めるための、何か別のものである。
彼はその何かに、名前を持っていない。
指を組んで、開いた。
十二年前の草原で二度やって、二度とも何も滲まなかったのと、同じ組み方である。
そのあとも彼は、年に一度か二度、誰も見ていないところで同じことをしてきた。
滲まないと分かっていて確かめるのは、確かめるあいだだけは、まだ何か持っているほうの側に立てるからだった。
この朝も、滲まなかった。
滲まない代わりに、組んだところが痛んだ。
秋に十六の器を担いだとき、掌の付け根の同じところが両手とも裂けて、あのとき下の皮はまだ繋がっていた。
繋がっていたぶんは、そのあと乾いて閉じ、閉じた縁だけが硬く盛り上がっている。
組めば、その硬いところどうしが合わさる。
十二年、この組み方で確かめてきたのは、何も出てこないということだった。
今年から、出てこない代わりに痛むほうへ変わっている。
ヴェルドは開いた手をそのまま下ろして、以後この組み方をしないことに決めた。
決めてから、ようやく一つ思い当たった。
森の奥でシルヴァに何も返せなかったとき、浮かんだ言葉がどれも通っていったのは、自分だけが死なない、という同じ一点である。
十二年前、いなくなるまでずっとだ、と彼はあの子たちに言っている。
言ったときには、その「いなくなるまで」の先に終わりがあるつもりでいた。差し出したのは終わりのあるほうのつもりで、実際に差し出していたのは、終わらないほうだった。
持っていないものを探しにいくには、あそこを通らずに済む相手が要る。
この森の中に、そういう相手は一人もいない。
十二年前、同じように腕の中の軽さを量りながら、彼はひとつ決めている。
あのときは、何と戦うでもなく、何から守るでもなかった。
いまは、両方ある。
言わずに、誰にも聞こえないところで、彼はもうひとつ決めた。
二度と、この者たちの取り分を、外から数えられたままにはしない。
今年の春、坂の下の列を数えたのは向こうである。
何人ぶんを残すかを決めたのも向こうで、こちらが持っていたのは、決められた数を受け取る手だけだった。
戦う相手は、その数え方である。守るのは、数えられている側だった。
どうやるのかは、一つも出てこない。
出てこないまま決めるのは、十二年で二度目である。一度目は腕の中が軽かったから決めて、今度は、腕の中が軽いままで十二年が過ぎたから決めている。
*
坂の下では、ダンが列の後ろをもう一度数えていた。
顔を上げたとき、坂の途中に立っている背中が見えた。
後ろで一つに束ねた銀灰色の髪が、朝の風に揺れている。
束ね方も、髪の色も、十二年前にこの坂を上ったときのままである。
そのことに、ダンはこの朝まで一度も目を留めていない。
何の数にもならないので、彼はすぐ目を戻した。
手を組んで、それから開いたところである。
朝が冷えるので指を温めているのだろうと、ダンは思った。
思って、数のほうへ戻った。
二十五という数は、その朝、二度数えても同じだった。
*
一行が森へ入ったのは、その日の昼過ぎである。
前を歩くのはノアで、その三十歩ほど先を狼が行く。
次にセトが、石板を載せた枠を引いた。
枠は、二年前の秋に運べなかった獣を引くために、フィンがその場で組んだものである。
そのとき四人がかりで日が指四本ぶん動くあいだに三十歩しか進めなかったものが、いまは一人で引けている。
中身が違うからだが、それでも、進めていることに変わりはない。
ノエは、リアの背で眠っている。
夏に熱を出した子が、秋には自分で歩き、いまは歩き疲れて背にいる。
この子が生まれた年に倉ができ、その次の年に線が引かれ、その次の年に水場を失った。
数え方を覚える前に、この子は三つとも見ている。
ソラは、列のいちばん後ろを歩いた。
反対のまま行く、と彼女は言った。
言ったとおり、彼女は最後まで賛成しなかった。
坂を下りきってから、フィンが一度だけ振り返って、彼女に聞いた。
「そっちの畝、採ってきたのか」
「採ってない」
「置いてきたのか」
「置いてきた。……採ったら、あそこがもう畑じゃなくなるから」
フィンは前へ向き直りかけて、向き直らずに止まった。
「畑じゃなくなると、困るのか」
「困らない。……誰も困らないの。そこがいちばん嫌なところ」
「言ってる意味が分からん」
「あの二本は、私が線の外に置かれたから外にあるの。置いたのは私じゃない。……それでも十二年、あそこの土がどこから乾くかを見てきたのは私だけなのよ。私が採らなければ、あそこは今年も畑のまま冬になる。採ったら、ただの草の生えてるところになる」
「誰も見てないのにか」
「誰も見てないから。……見てる人がいるうちは、畑かどうかは見てる人が決めるでしょう。いなくなったら、決める人がいなくなる。決める人がいないなら、私が決めたままにしておきたいの」
フィンは、それを聞き終えるまで前を向かなかった。
「分かった」
「分かってないでしょう」
「分かってない。……分かってないが、そう決めたことは、分かった」
彼はそこで前へ向き直り、担ぎ直した荷の紐を肩の上で一度だけ寄せた。
寄せてから、歩く速さを落としている。
落としたことに、彼女は気づかなかった。
向き直ってから、聞かなければよかったとも、聞いてよかったとも思わなかった。
歩きながら、彼女は一度も振り返らなかった。
後ろに誰もいないので、振り返っても止まるのは自分だけである。
その自分の足を、彼女はまだ止めていない。
坂を下りきってから森の入り口までは、丸半日かかった。
荷を引く枠が途中で二度ひっかかり、一度目は張り出した木の根で、二度目は去年の風で倒れた木だった。
どちらも四人がかりで持ち上げて越え、越えるのに合わせて日が指一本ぶんずつ傾いていく。
越えるたびに、セトは石板の並びを直した。
二十五枚のうち、いちばん上へ置いてあるのは角が丸くすり減った最初の一枚で、その一枚だけは紐の下から角がはみ出している。
二つ目の倒木を越えたところで、列の脇の岩の上に、岩山羊がいた。
春に北の岩の筋で見たのと同じ大きさで、角の捻れ方も同じだが、同じ個体かどうかを言える者は、この一同に一人もいない。
一同が止まると、それも止まって、歩き出すとまた同じだけ離れてついてくる。
その離れ方は、坂の下で狼がやっていた三十歩より、いくらか近い。
尾根の手前で、道が岩の段に変わった。
段は膝より高いところが三つ続き、荷を引く枠はそこで通らなくなる。
枠は担ぐことにしたが、担ぐと両手が塞がる。
リアの背で眠っているぶんを、誰が持つかという話になった。
「乗せてみるか」
言ったのはウルで、誰も本気にしなかった。
本気にしないまま彼が岩の段のところへ寄っていくと、岩山羊は逃げる素振りを見せずにそこにいて、背へ掌を置いても、置かれた場所の毛が一度動いただけだった。
ウルはノエを持ち上げて、その背へ乗せた。
背は、乗せたぶんだけ沈んで、そこで止まった。
自分も乗ろうとして片脚を掛けたところで、四本の脚が揃って一度たわみ、たわんだ音のほうが先に足の裏へ返ってきたので、彼は掛けた脚を下ろした。
「俺は駄目だ」
たわんだところを見ていた者たちが、そこで声を出して笑った。
坂を上がりはじめて、声を出して笑ったのはここが最初である。
「私も無理」
リアが横から言って、それきり誰も試さなかった。
岩山羊は三つの段を、一度も跳ばずに上がっていった。
二つに割れた蹄の外側が段の縁を掴み、掴んだあとで内側の柔らかいほうが遅れて沈むのが、下から見ているとよく分かる。
一段ごとに背の子は揺れて、揺れるたびに毛を掴み直した。
「たかい」
その三文字が、この子の口から出た最初のものだったかどうかを、下にいた者は誰も知らない。
知らないので、誰も刻まなかった。
尾根の上まで来ると、それは横腹を岩へ寄せて止まり、リアが追いついて子を下ろすまで、そのままでいた。
下ろしたあと、岩山羊は上がってきたのと同じ道を戻っていく。
ウルが二度呼んで、二度とも、向こうは首の向きさえ変えなかった。
「ついてこないな」
「下は、あれの歩くところじゃない」
ノアがそう言って、それ以上は言わなかった。
ヴェルドは、その一部始終を尾根の下から見ていた。
自分の足を掛けてみるという考えは、一度も浮かばずに済んだ。
掛けるまでもなく結果の分かっていることを確かめにいく者を、彼はこの十二年でずいぶん見てきたが、そのたびに止めずにいたのは、確かめたい側の理屈のほうがいつも正しかったからである。
森の入り口で、道が下りに変わった。
入り口に立つ木は、坂のものより幹が太い。
樹皮は褐に乾いて縦へ裂け、裂け目の奥だけが緑青のまま湿っている。
見上げると、葉の切れ目から出ている空は、坂の上で見ていたのより一段濃い藍だった。
下りに変わったところで、風が背中から来た。
ソラは足を止めた。
止めて、風がいったん止むのを待ち、止んだ隙間へ耳を差し入れた。
何も無い。
去年の秋にも、彼女は同じことをして、同じ言葉が出た。
あのときは、それが悪いことだった。
彼女は六年やってきたその手順を最後までやり、何も無いことを確かめてから歩き出した。
歩き出したとき、前を行く者たちとの間は十歩ぶん開いていた。
去年の秋、彼女はこの十歩を詰めないまま、坂の上に一人で立っていたことがある。
彼女は、十歩のまま歩いた。




