第二十四話 奪われた泉
坂の下まで来て、ウルは足を止めた。
湧き口のまわりに、人がいる。
その朝、彼は天秤の棒を担いで坂を下りていた。
十二年目の春で、器の底に張っていた薄い氷が、朝のうちに融けるようになった日である。雪はもう坂の上のほうにしか残っておらず、残っている側も、日の当たる面から先に灰白の斑へ抜けていた。
冬のあいだ、水は家の北の壁際に並べた器で回してきて、氷の張る晩だけは炉の側へ寄せ直している。
十六の器は、飲むぶんだけに絞っても十日で空になり、そのたびに囲いの陰へ吹き溜まった雪を掻き集めて、火の脇の平たい石の上で融かした。
融かした水は薄く土の匂いがして、しばらく置くと灰白の粉のようなものが底へ沈むので、掬うときはその上だけを取ることになる。
塩山羊は最初の三日、その水に口をつけず、四日目にようやく、鼻先で表を割ってから飲むようになった。
だから、湧き口から直に汲めるようになるというのは、この冬いちばん待たれていたことで、坂の雪が藍を残したまま薄くなっていく日を、皆が別々の場所から見ていた。
その湧き口の縁に、いま人が立っている。
背は低く、坂の上から見下ろすと、この一同でいちばん背の低い者より、まだ頭ひとつぶん低い。
泥が乾いて鼠色の筋になり、その筋の上へさらに新しい泥が乗って、乾ききらないところだけが褐に濡れている。
泥の下がどうなっているかは、坂の上から見下ろしているかぎり分からず、分からないまま数のほうだけが増えていく。
秋に坂の下へ来た太鼓の者は、ヴェルドを見下ろす背丈だった。
肩は横へ張り出していて、腕のほうは、革を巻いた上から見てもなお太いと分かる。
これは、違う。
違うということだけが、坂の上からでも分かった。
数は、十を少し越えるあたりに見えた。
数えようとして、ウルは途中でやめた。
並んでいる列と、列から離れて草の上にいる者と、坂の裏から新しく来る者とが、境目のないまま入り混じっていたからである。
彼らは列を作って水を汲んでいた。
汲む器は、鞣しの浅い革を袋の形に縫って、口のところだけ木の輪で開かせたものである。
一人が袋を満たすと後ろの者と代わり、代わった者は前の者が膝をついていたのと同じ窪みへしゃがむ。
窪みは踏まれて黒く光っており、そこだけ草が一本も残らず、去年まで縁に生えていた背の低いものまで根ごと無くなっている。
そこには順番があり、押しのける者も割りこむ者も、見ているあいだに一人も出なかった。
ウルは棒を担いだまま、日が指四本ぶん傾くあいだ、坂の上のその場所から動かずにいた。
立って見ているあいだじゅう、列の長さは一度も変わらず、前と後ろで同じだけ入れ替わり続けていた。
先頭から抜けた数と、いちばん後ろへ新しく着いた数とが、そのつど同じだけ揃っているためである。
担いだ棒の両端に空の器が下がったまま、彼はそれを一度も下ろさずに坂を戻った。
住処へ着いて、いつもなら満杯の器を置く北の壁際へ、汲めなかったぶんの空の器をそのまま並べた。
リアが片方を持ち上げて、持ち上げてから、軽いことに手のほうが先に気づいている。
*
セトが数えはじめたのは、その翌日である。
坂の中ほどの、去年の枯れ草が雪の重みで伏せたままになっているところへ腹這いになり、膝の上へ石板を載せて、湧き口へ来る頭の数を刻んだ。
刻む位置は、来た順に左から右である。
右の端まで行ったら裏へ返して、また左から刻む。
日の出から日の落ちるまで、その姿勢を崩さなかった。
一日目は、日の出から日の落ちるまでで二十二だった。
二日目は、同じだけ見て十七。
三日目は、三十一である。
「合わんな」
ダンが石板を覗きこんだ。
「三日で三回、違う数になってる。……減ったり増えたりするなら、そのあいだにどこかへ行って、どこかから来てるはずだ。行き先と来た先を数えれば、足し引きは合う」
「合わない」
セトは石板の縁を親指でなぞりながら、二日目と三日目のあいだへ引いた線のところで爪を立てた。
「同じ顔が来ない。昨日いた者が、今日いない。今日いる者を明日探しても、見つからん」
「見分けがついてないだけじゃないのか?」
「そうかもしれん。……そうかもしれんが、見分けがつかないなら、数えても同じことだ」
見分けようとはした。
二日目に、セトは肩の高さと歩き方で三人ぶんの覚え書きを刻んでいる——右の肩だけ下がっている者、袋を左で提げる者、水際でいつも二度足踏みする者。
三日目、その三つはどれも列の中に無かった。
代わりに、右の肩だけ下がっている者が、前の日にはいなかったところへ新しく二人いた。
方角のほうは、もっと悪かった。
音のときは、北の岩から尾根へ、尾根からこちらの側へと、一行と次の行のあいだに順番が立ち、並べれば線になった。
今度は、どの方角からも来る。
森の側からも、川下からも、坂の裏の枯草色のままの草地からも来て、来た者は同じところへ並び、並んだ順に汲んで、来たのとは違う方角へ散っていく。
セトは三日目の終わりに、方角の置き場所を空けたまま石板を伏せ、その日は起こさなかった。
*
水がほかに無いかを、四日目にダンが数え上げた。
川は、行くだけで指三本ぶん。雪はもう無い。窪地の南に湿るところが二箇所あるが、掘っても底が濁るだけで、二日で止まる。
数え終えてから、彼は北の岩を見上げた。
岩の中ほど、人の背丈の十いくつぶんのところに、濡れて色の濃くなっている筋が一本、上から下へ走っている。
十二年、あそこは濡れている。
十二年、誰も行っていない。
「登れんのか」
聞いたのはウルで、聞いてから自分で上を見て、聞くまでもなかったという顔をした。
その筋のところに、獣がいた。
塩山羊よりずっと大きい。角が二本、後ろへ向かって太い弧を描き、先のほうで内側へ捻れている。
足を掛けているところは、坂の上から見るかぎり、掛かるようなものが何も無い。
掛かるもののないところに立ったまま岩の筋を舐め、舐め終えてから、横へ二歩ぶん跳んだ。
跳んだ先にも、掛かるようなものは何も無かった。
「岩山羊だ」
そう言ったのはノアで、その日の石板には、その一行だけが増えた。
方角の置き場所は、空いたままである。
空けたところに何を書けばいいかが出てこないのは、これで三度目である。
彼は窪みから去年の一枚を出してきて、裏まで見た。
去年、川下のほうで鳴った晩のことは、そこにも無い。
あの秋も入れられず、この春も入れられない。
同じ空白が、二年ぶん並んだ。
呼び名のほうだけは、その晩のうちに決まった。
「汲む者、と書く」
セトはそう言って、刻んだ二字を自分で見下ろした。
太鼓の者のときは、音が先にあって、名前はあとから足りなくなった。
今度は、名前のほうが先に要った。
数えそこねたということを刻むには、まず何を数えそこねたのかを呼べなければならない。
呼び名というのは、手の届く相手にはなかなか付かないもので、名前を要らなくさせているのは近さのほうである。
届かなくなった途端、向こうから催促してくる。
*
呼び名がまだ無かった日に、ヴェルドは一人で坂を下りている。
黙って出たのではない。
言えば四人になり、四人で行けば、着いた時点で四人ぶんの話になる。
水場の手前で足を止め、列の後ろについて、順が回ってくるのを待った。
待つあいだに、言うことを三度組み直した。
組み直すたびに短くなって、最後には二つだけ残った。
順が回って、彼は水を汲んでいる男の横へ立った。
「ここは、前から僕らが使っている場所です。……取り上げに来たのではありません。分けてもらえないかと言いに来ました。数はこちらのほうが多い。多いほうが黙って遠慮すると、あとで残るのはたいてい恨みのほうです。だから、先に言っておきます」
言葉が通じるものであることを、彼はこの日まで一度も疑ったことがない。
十二年のあいだ、彼が口を開けば、相手はいつも動いた。
男は最後まで聞いた。
それから、汲んだばかりの器を差し出した。
差し出された器の中で、水は縁のところまで来て揺れずに止まり、底のほうへ細かい砂が鈍色に沈んでいる。
それは、彼の言った二つのどちらへの返事でもない。
彼は、その器へ手を出さなかった。
受け取れば、分けてもらう側になる。
男はもう一度差し出し、それから手を引いた。
引いた手で、後ろの者へ短く何か言う。
その言い方の速さは、腹を立てた者のものではなく、説明をやめた者のものだった。
坂を戻りながら、彼は同じ二つを口の中でもう一度言ってみた。
音は同じように出る。
出るが、坂の下へ置いてきたときの形には、もう戻らない。
*
押してみると分かる、とノアが言った。
四人で行き、斧も削った棒も持たずに行った。
持っていくと使うことになる、とダンが言い、その言い分に誰も返さなかった。
坂を下りきったところで、ノアは並んでいる列の脇へ、向こうから見て正面にはならない角度で立った。
立っただけで、手は下げたままである。
先頭の一人が顔を上げ、ノアの背丈を目で測ってから、後ろの者へ何か短く言った。
言葉は聞こえたが、どれも二つか三つの音でできていて、切れ目がどこにあるのかは分からなかった。
列が退いた。
退いたのは、湧き口から八歩ぶんである。
ノアは八歩ぶん前へ出て、そこで足を止めた。
そのまま、待った。
待っているあいだ、退いた者たちは草の上へしゃがんで、こちらを見ていた。
見ているだけで、声を出す者はいない。
日が指四本ぶん傾いたころには、列は戻ってきていた。
戻った先は退く前と同じ場所で、膝をつく窪みも、袋を置く草の上のくぼみも、前と同じだった。
翌日、ノアはまた同じところへ立った。
立つ位置も、立っている長さも、前の日と揃えている。
今度は退いたのが十五歩で、戻るのに丸一日かかった。
三日目は、六歩しか退かなかった。
そして空が茜に変わる前に、もう戻っていた。
四人はそのつど、退いたぶんの歩数を数えて帰った。
八、十五、六。
セトはその三つを一行に並べて、並べたあとで、その行の下へ何も書かなかった。
三つ並べても、三つのままである。
数というのは、並べさえすれば何かになるものだと、この一同は十二年のあいだ疑わずにきた。
並べても何にもならない数が、十二年やってきて初めて、この日、石板の並びの中へそのまま載った。
「読めん」
三度目から戻った晩、ノアは火のところで、掌の土を落とさないままそう言った。
「押した力は毎回おなじだ。こっちは何も変えてない。なのに、退く量が毎回違う」
「怯えてる量が違うんじゃないのか?」
カイが言った。
「怯えてるなら、二度目は一度目より退かないはずだ。人は同じ相手に二度は驚かん。……あれは、怯えてるんじゃない。何かを量って、そのぶんだけ退いてる」
ノアはそこで、自分の掌を見た。
「何を量ってるのかが、分からん」
*
刻んでいる、とソラが先に気づいた。
彼女は坂の上の畑の端から、日が指二本ぶん傾くあいだ湧き口のほうを見ていて、汲み終わった者が列を離れるときに必ず同じ動きをするのに気づいた。
離れる者は、みな同じ場所で足を止める。
止まるのは湧き口から七歩、藍を含んだ影が朝のあいだだけ落ちる、平たい石のところである。
腰から掌ほどの木片を出し、片手で握り込んでから、その面へ尖った石の先を当てる。
当てて、手前へ一度だけ引く。
引いた跡は木の色より薄く、離れて見ると生成りの筋が幾筋も並んでいるように見えた。
引いてから、木片を腰へ戻す。
「一人が一回。私が見てたあいだは、二回引く人はいなかった。……汲んだら一回、必ず」
「数えてるのか?」
セトが聞いた。
「数えてる。汲んだ数だと思う。……袋の大きさは同じだから、汲んだ数と、運んだ量は、たぶん同じことになる」
セトは、それを石板へ刻んだ。
刻んでから、続きを刻もうとして、止まった。
石板の上では、刻んだばかりのその一行だけが、周りの擦れた面より深く残っている。
ソラは坂を下りるまで、その溝のところを見ていた。
*
その溝を見た晩に、セトは窪みから古い二枚を出してきた。
一枚は、屋根の草が鳴った晩のものである。
縦に九本、線が並んでいるほかは、その一本の下に点が四つ打ってあるきりで、字らしいものは一つも無い。
鳴った晩に一本ずつ足した。
二度目から先は起き上がらずに刻んだので、九本のうち八本は、寝床の脇へ手を伸ばしただけで増えている。
もう一枚には、薪、十二本、無い、とある。
「奥の列から消えたやつだ」
ダンが言った。
「三度数えて、三度とも十二だった。……端から取る決まりなのに、いちばん奥の天端から二段ぶん抜けてる。雪の上に、跡は一つも増えてない」
「あの冬、それきりか」
「それきりじゃない。同じ冬にもう五本だ。そっちは、お前に言ってない」
「なぜ黙ってた」
「言えば、お前は『薪、五本、無い』と刻む。……無いという行が二つ並んだところで、来年いくつ足せばいいかは、どっちの行からも出てこない」
セトは二枚を並べて置いた。
並べると、九本の線と、薪の一行と、坂の下の木片へ引かれた筋とが、どれも同じことをしている。
起きたことを一つ、線一本に換える。
換えたものは、換えた者の側でしか読めない。
「向こうも刻んでる」
ダンは並んだ二枚のあいだへ指を置いて、置いたところを二度なぞった。
「刻んでる」
「じゃあ、あの十二本は、向こうの木片にも十二本ぶん入ってるのか」
セトは答えなかった。
出せないのは、確かめる手が無いからではない。
向こうの筋が十二本ぶんあったとして、それをこちらの十二本と並べて置く場所が、この石板のどこにも無いからである。
数えた先が同じものであっても、二つの帳面は、いつまでも別々に正しい。
*
彼らが何を数えているかは、分かった。
なぜ数えているかが分からないうちは、その数から次に何をするかは出てこない。
七日目に、セトは坂の中ほどへ行かなくなった。
やめると言ったわけではない。
朝、坂の中ほどへ行かなかった。
行かずに住処の前へ座り、冬のあいだに削った石板を膝へ載せて、一枚ずつ裏を返しては戻していた。
返すたびに、指の腹が縁の欠けたところへ当たる。
当たるところは決まっていて、その一枚だけ、右下の角が去年の秋から欠けたままになっていた。
「数えないのか?」
ダンが聞いた。
「数えてる。数えても、次に効かん」
「同じことだろう」
「違う」
セトは膝の上で石板を立てて、擦れていないほうの、刻んだ面を火のほうへ向けた。
向けると、溝のところだけが橙を溜めて、字が浮き上がって見える。
「音のときは、十枚ぶん刻んで、次がどこかを言えた。あれは、こっちが先に知りたかったからだ。知れば、汲み置ける。当てたぶんが、こっちの手で何かに変わった」
「今度は?」
「今度は、もう出てる」
セトはそこで、膝の上へ両手を伏せた。
「あの列は、読める。順番がある。割りこむ者もいない。三日見れば、次の一人がどこへ膝をつくかまで言える。……言えて、それでどうなる」
「どうもならんな」
「どうもならん。……音のときは、終わる日があった。秋のあいだだけだ、と刻んであった。今度は、終わる日が無い。刻んでも、その先に何も置けん」
ダンは何も言わなかった。
代わりに、自分の指を端から折っていって、また開いた。
三本まで折って、四本目を折る前に開き直す。
それを二度やって、二度目の途中で手を膝へ下ろした。
三度目である。
前の二度も、二本目のところで止まっていた。
「数えられないんじゃない」
セトはもう一度言った。
「数えられる。数えたところで、こっちに打つ手が無いだけだ」
*
その晩、ノアが言った。
「知恵じゃ、数には勝てないのか」
言ってから、彼は口を閉じるのが一拍だけ遅れた。
遅れたまま、しばらく火のほうを見ている。
十二年、この一同はそういう言い方をしたことがない。
罠にかけた獣を逃がした年も、三十三埋めて二十二しか返らなかった年も、脚を折った者を運んだ冬も、誰かが「できない」と言うことはあった。
できない、という言い方は、明日できるかもしれないという含みを、言った本人が気づかないまま持っている。
勝てないには、それが無い。
勝ち負けというものが、これまで無かったのである。
相手がいなかったからではない。
獣も、川も、霜も、相手ではあった。
ただ、そのどれもこちらの取り分を数えてはいなかった。
ヴェルドは火の向こうで、口を開かなかった。
開きかけて、火のほうへ枝を一本足しただけである。
リアが乳をやりながら、火のほうを見ずに言った。
「勝つって、何をすることなの?」
「水場が、こっちのものに戻ることだ」
ノアはそう答えて、答えてから、自分でその答えを裏返した。
「……戻ったとして、それは向こうから取り上げたことになる。あの人たちが今やってることと、形は同じだ」
リアは乳をやる手を止めなかった。
「同じじゃないよ」
ウルが言った。
「先にいたのは、こっち」
「先にいたっていうのは、こっちが数えてることだ。向こうが同じ数え方をしてなかったら、通らん」
そこで話は止まった。
熾が二度沈むぶんの時間が過ぎて、それからダンが立ち上がり、器を数えに行った。
*
カイが左の手をやられたのは、それから三日目のことである。
湧き口の脇に、去年まで山羊を繋いでいた石がある。
その石を動かして水路を作れば、湧き口の下手にもう一つ溜まりを作れる、というのがカイの言い分だった。
言い分としては通っていたが、石を動かしているあいだに、向こうの列がこちらへ寄ってきた。
押し合いになった。
殴り合いではない。
どちらも武器を持たず、拳を固めた者も一人もいない。
ただ、押した側と押された側があって、押された側の足元に、動かしかけの石が据わりの悪いまま乗っていた。
石が戻ったとき、カイの左手はその下にあった。
石を持ち上げるのに三人がかりで、持ち上げているあいだ、彼は声を出さなかった。
胸が締まって、息が入っていかなかったからである。
リアが見たときには、薬指と小指の付け根のあたりが、すでに薄い紫に変わっていた。
押すと、押した跡が血の気を失ったまま残り、そこが薄紅へ戻るのに、息を二つ数えるだけかかった。
「折れてるかどうかは、分からないの」
彼女はそう言って、二本の指の両側へ細く削った枝を当て、湿らせた布で巻いた。
巻くのは緩めにする。
腫れが引くまでは、締めると内側で行き止まりになる。
「骨は継いだことがある。潰れたのは、初めて」
言ってから、彼女は巻いた布の端を指で押さえて、押さえたまましばらく離さなかった。
四日目に紫は退いて、代わりに黄と褐の入りまじった色が皮の下へ広がった。
色は日ごとに薄くなったが、二本の指は曲がる途中で止まったままである。
言われれば握る形にはなり、その形が途中で止まる場所も、六日たって変わらなかった。
去年、噛まれた右手は六日で戻った。
戻ったその手は、まだ何も掴んでいない。
今度は、左が戻らない。
*
水を諦めよう、とダンが言った。
決めたと言うより、勘定のほうが先に出て、決めるという形はあとから付いた。
「湧き口まで、行けば行ける。行ければ汲める。……ただし、行くたびに四人要る。四人が半日いなくなると、その日の畝は一本ぶん遅れる」
「雨は?」
「屋根から落ちるぶんを受ければ、器四つぶんになる。飲むだけなら、それで足りる年もある」
「足りない年は?」
「足りない年は、足りない」
ダンは指を折り終えて、膝の上でその手を伏せた。
「畑にやる水は、川から運ぶ。遠いが、川には誰も並んでない」
「戻せないのか?」
ウルが聞いた。
「戻すには、あそこから動いてもらう。動いてもらうには、こっちが押す。押せば、向こうも押す。……押し合いで一人やられた。二人目が出たら、俺は数えられなくなる」
「一人やられたのは、俺だけどな」
言ったのはカイである。
言ってから、彼は自分の左手を火のほうへ出した。
曲がりきらない二本は出した形のまま動かず、火の光がその背でだけ止まっている。
「言っとくけど、痛くはない。痛いのはとっくに済んでる。……済んでるのに、まだ言いたいことがあるんだよ」
「言え」
「あの日、俺の手の下にあった石を戻したのは、向こうの誰かだ。誰かは分からん。列のどこにいたやつかも見当がつかん。……分からんから、誰にも言えん」
彼はそこで黙った。
黙ってから続きを出すまでに、息が二つぶん要っている。
「分からんっていうのがな、こんなに」
そこで止まった。
止まったまま、彼は出していた左手を膝の上へ戻して、右手をその上へ載せた。
載せてから、載せたことに自分で気づいて、また離した。
「……今のは、なしだ」
誰も、それを受け取らなかった。
受け取らなかったが、フィンが火へ枝を一本くべ、くべたぶんだけ伸びた光が、カイの膝を琥珀に照らした。
「なしにしなくていい」
そう言ったのはリアである。
「なしにすると、あなたが二本ぶん損したことまで、勘定の外へ出ることになるでしょう。……ダンが数えられるのは人の数だけなの。手の数は、誰も数えてない」
「数えたら、どうなる」
「どうにもならない。……どうにもならないけど、数えなかったことにはならない」
カイは何か言いかけて、今度は口を開く前に自分で止めた。
止めたぶんの息を、火のほうへ吐いた。
それきり、誰も戻す話をしなかった。
その日から、水は坂の下から来なくなった。
十六の器から朝と夕の二度、順に配る。雨の日は屋根の下の水の落ちる筋へ、全部を口を上にして並べる。
並べるとき、カイは器の縁へ左手を掛けて、二本の指が縁を回りきらないので、途中で右へ持ち替えた。
持ち替えるところを、見ている者はいない。
一度の雨で満ちるのは、よく降って七つ、少なければ二つか三つである。
洗うのは川で、飲むのは器で、山羊と巻き羊には川から運んだぶんを分ける。
鳶牛だけは、その勘定に入らなかった。
一頭でいくつ要るかをダンが指を折りながら数えていくと、折る指が途中で足りなくなり、足りなくなったところで、その数の器がそもそも無いことに行き当たる。
だから牛は、日に二度、誰に追われるでもなく自分で門を出て、坂を回りこんで川まで下り、水面へ首を伸ばして飲んでから、同じ道を戻ってくる。
囲いの内側にいるものが、囲いの外の水で生きている。
人のほうは、そうはいかない。
川までは行きが指三本ぶん、帰りは荷があるので指五本ぶんかかった。
暮らしは回った。
回ったが、回すのに一日あたり指二本ぶんの手が余分に要り、その二本ぶんは畑から出ている。
三日目に、山羊が川から運んだ水に口をつけなかった。
冬に雪を融かした水のときと、同じ立ち方をしている。
ウルはその前へ椀を置き直して、置き直してから、そこにしばらくしゃがんでいた。
春になれば直る、と冬のあいだ彼は思っていた。
春になっている。
*
日が落ちてから、ヴェルドは門のところに立っていた。
門には扉が付いていない。
付けるという話が出て、流れたのは去年である。
彼は横木の下から、内側を見た。
畑がある。
畝の数は十一で、そのうち九本が線の内側にある。
外の二本は、去年もっとも採れたほうである。
三年で八十二本植えた苗のうち、いちばん古い二十九本の、いちばん背の高い一本は、屋根の低いほうの縁まで、あと拳ひとつぶんのところへ来ている。
高床の倉があり、床の下へ手を入れると、この時期でも乾いている。
竪穴の家が四つ並び、そのどれもが去年、屋根を葺き直した。
囲いの中には山羊が一頭と羊が十三頭いる。
動かせない獣のほうは、囲いの外にいる。
畑の東で草の厚くなっているあたりに、去年から同じ場所に立ったままである。
焼き場があり、灰は掻き出さずに積んである。
石板を積んだ窪みがあり、そこだけは雨が入らないように庇が張り出して、下の一枚は苔が縁まで来ている。
全部、線の内側である。
それから、彼は横木の下で体の向きを変えて、外を見た。
坂の下で、泉が湧いている。
十二年、そこから汲んできた。
最初の冬、湯を沸かすということを覚える前に、彼らはあの水を掌で掬って飲んだ。
五年目に山羊が居着いたのも、あの水があったためだった。
今日、汲みに行った者はいない。
線を引いた年に、彼らは杭が四十本足りないことを知った。
足りない四十本が何を外に置くことになるのかを知ったのは、その次の年である。
囲うと、囲えなかったものが決まる。
決まったことに気づくまでには、一年かかった。
彼はそのことを言葉にしないまま、横木の下から一歩だけ内側へ入って、そこで足を止めた。
一歩で内と外が分かれるということ自体が、この一年で新しく生まれたものである。
去年までは、どこにも一歩ぶんの境目は無かった。
止めてから、もう一度だけ外を見た。
坂の下では、湧き口のあたりで明かりが幾つか動いている。
動き方は速くなく、朱の点が水際を行ったり来たりしているようにしか見えなかった。
数えようと思えば数えられる明かりである。
彼は数えなかった。
*
坂の下で明かりを起こしたのは、その晩いちばん遅く着いた者である。
乾いた草を掌で揉んでから、革の袋を膝の脇へ置いて、火口の欠片へ息を三度吹いた。
点いた火を細い枝へ移し、枝を束ねたものの先へ移し替えると、明かりは腕の長さぶん先までしか届かない。
届く範囲の外には、水の音だけがある。
音のほうは明かりの届かなくなるあたりから急に増えて、どこで湧いてどこへ落ちているのかは、立って聞いているかぎり分からない。
窪みの底は、膝の形に黒く光っていた。
彼はそこへ膝をついた。
誰の膝でできた窪みかを考えなかったのは、考えるようなことではないからで、前の者が抜けたから自分が入り、自分が抜ければ後ろの者が入る。
袋の口を木の輪で開かせて水面へ沈めると、輪の内側から泡が二度上がって、それきり上がらなくなった。
満ちた袋は、水の中にあるあいだ重さを持たず、水から抜いて肩へ掛けたときに初めて重い。
彼は水際から七歩離れた平たい石のところまで歩いた。
石の面は雨に洗われていて、縁のところだけが錆の色に残っている。
腰に括った革紐の輪から、木片を抜いて出す。
掌ほどの板で、片面はもう筋で埋まっており、埋まっていないほうの端へ尖った石の先を当てて、手前へ一度だけ引いた。
引いた跡は、木の色より薄い。
薄いが、指の腹で撫でると、そこだけ引っかかる。
引っかかることを指で確かめてから、彼は木片を革紐の輪へ戻し、戻したあとで輪の締まり具合をもう一度だけ引いて直した。
それから、彼は木片の埋まったほうの面を、明かりのそばへ返した。
筋は、端から追っていくと片面で百に近い。
そのうち、いつ引いたのかを言える筋がどれだけあるかを数えはじめて、途中で止まった。
止まったのは思い出せなくなったからではなく、一本を思い出したそばから次の一本が先に出てきて、数えるほうが追いつかなくなったからである。
彼は数えるのをやめ、面を裏へ返して、埋まっていないほうを上にした。
去年、自分がこの坂を下りたかどうかは、出てこない。
去年の秋に前を歩いていた者から何を受け取って何を渡したかなら、順番まで出てくる。
その者は、冬の途中で焼いた。
焼いたとき、木片も一緒にくべた。
くべる前に筋がいくつあったかを、誰も数えなかった。
数えるものだと、誰も言わなかった。
坂の上に、明かりがある。
赤銅の点が四つ、横に並んで、夜のあいだ場所を変えない。
動かない明かりは、彼の側の勘定に入らない。
入らないので、彼はそれを見たまま、袋を担ぎ直した。
担ぎ直してから、彼は来たのとは違う方角へ歩き出した。
そちらは、行きに通った側より草が低く刈られたように薄い。
草の少ないほうを選ぶのは、満ちた袋を提げていると脚のまわりへ草が絡み、絡んだところで一度体を捻ることになり、捻れば必ず口のところから水がこぼれるからである。
こぼれたぶんは、さっき引いた一本と合わなくなる。
歩きながら、彼は木片の上の新しい一本を、指の腹でもう一度だけ確かめた。
*
――二千九百六十四年後の、春の話である。
盤面のいちばん上の隅にだけ、拭かれずに残っている数が一つある。
その下に並ぶ見慣れない国の名は、どれも一度は拭われたことがあるらしく、名と名のあいだの余白のほうが、書かれている字よりも白い。
白墨を持った男が、名前を一つ、袖で消した。
消したところへ、別の名前を書き直す。
書き直したほうの横には、数字がまだ入っていない。
背後で、誰かが笑った。
誰かが銅貨を数えている。
盤の脇の棚の器には、いつのまにか水が入っている。
水は縁のところまで来て揺れずに止まり、底のほうへ細かい砂が鈍色に沈んでいる。
男はそれを持ち上げて、一口だけ飲んだ。
器の中の水の縁は、飲んだぶんだけ下がっている。下がった縁より上に、前は一度そこまで入っていたらしい白い筋が、一本だけ残っていた。
「ここは、もういい」
男は振り返らずにそう言って、白墨を置いた。
置いた指は、白墨よりもさらに白い。




