第二十三話 遠い太鼓
音は、風に乗ってこない。
その年——十一年目の秋、風は暮れがたになると決まって川下へ吹き、坂の上の畑では枯れかけた豆の茎が、みな同じほうへ倒れかけたまま乾いていった。
ソラは畑の東の端に立って、吹いてくるほうの頬を風に当てている。
五年のあいだ、彼女が音を数えるときの手順はいつも同じだった——吹いているあいだは何も聞かず、風がいったん止むのを待ち、止んだ隙間へ耳を差し入れて、また吹き始めるまでに数えられるだけを数える。
乗ってこないどころか、吹いているあいだは風のほうが音を上から潰してしまうので、聞き取れる時間は隙間の長さで決まってしまう。
去年までのいちばん長い隙間でも、途切れる前に数えられたのは三度ぶんが精一杯だった。
今年は、待つ必要がなかった。
風は薄鼠の雲を川下へ押しやりながら吹いたままで、その吹いている音の上を、叩く音のほうが越えてくる。
越えてくるというより、風の音が下に敷かれていて、そのぶん叩く音の輪郭だけが硬く残った。
三つ。
間。
三つ。
間。
彼女は肩から籠を下ろさないまま、莢の裂けかけた茎の列に立って数え続けた。
四度目まで数えたところで風がひときわ強くなり、藍を含みはじめた東の空へ土埃が斜めに流れたが、それでも音は途切れなかった。
途切れないので、彼女は数えるのをやめた。
やめたのは数えられなくなったからではなく、待たずに聞こえるということが、待っていたころとはまるで別のことを意味しているのに気づいたからである。
籠を担ぎ直して坂を下りるあいだ、彼女は一度も足を止めなかった。
*
待たずに聞こえた、とソラが伝えてから、セトが十枚の石板を住処の前の平たいところへ並べ終えるまでに、日は指一本ぶん傾いた。
古いほうの三枚は表の面がすっかり擦れていて、指で撫でると刻んだ溝より周りのほうが低く、削れて残った字のところだけが灰白に浮いて見える。
新しいほうの二枚はまだ縁が角ばっていて、割り口に緑を帯びた層が一筋通っており、置くと石と石が触れて硬い音を立てる。
彼は並べる順を一度も間違えず、五枚目のところにだけ、他より指二本ぶん広い間を空けている。
「方角だけ、読む」
そう言って、彼は端から順に読み上げていった。
「北の岩の、日の出る側」
「北の岩の、日の沈むほうの側」
「北の岩の、日の出る側より、さらに東」
「北の岩の、日の出る側へ戻った」
間を空けた一枚を、彼は読まずに指で叩いた。
その一枚には、この年は一度も聞こえなかった、とだけ刻んである。
「北の岩の、東の裾を回りこんだあたり」
「北の岩を回りこんだ先の、さらに東」
「北の岩の向こう、回りこんだ先にある尾根の、そのまた東の腹」
「尾根を越えた先。北の岩からは、もう回りこむ必要がない」
「尾根のこちら側」
読み終えてからも、彼は膝をついたまま列の脇にいる。
最初に口を開いたのはダンで、彼は端の一枚の前にしゃがみ、そこから列に沿って一枚ずつ前へ移りながら、止まるたびに指を一本ずつ折っていく。
「西へは、戻ってない」
ダンはそう言って、もう一度同じ言葉を言った。
「一回も戻ってないのか?」
「二枚目だけだ。日の沈むほうへ寄ったのは、十枚で一度きりだ」
ダンは列の端まで行ってから、折ったままにしていた指を、膝の上で一本ずつ開き直した。
「北の岩を回りこむのに、石板で四枚ぶんかかってる。そのあと尾根を越えるのに、二枚だ。……同じだけ歩いてるなら、こっちへ来るほど速くなってることになる」
「そうだ」
「速くなってるのは、向こうが急いでるからか。それとも、近いから細かく聞こえるようになっただけか」
「分からん」
セトはそれ以上を言わなかった。
言わなかったのは続きが無かったからではなく、続きを口に出せば、五年ぶん刻んできたものが全部この日のためだったことになる気がしたからである。
*
方角を読み終えた晩、ダンは火の脇へ石板を三枚重ねて、拍のほうを数え直した。
刻んであるのは、四つ、三つ、五つ、四つ、なし、四つ、三つ、五つ、三つ、四つ。
並べても増えも減りもせず、三つと四つと五つのあいだを行き来するだけで、十枚を見渡しても向きというものが出てこない。
「揃わんな」
重ねた石板のいちばん上を裏返して、彼は焦茶に煤けた裏面を火のほうへ向けた。
「揃わんが、三つが下にある」
火の向こうからソラが顔を上げた。
「下?」
「三つのときは三つしか無い。四つのときも五つのときも、三つは必ず入ってる。……三つ叩いて間があく、っていうのが一つぶんなんじゃないか。一つぶんが三つで、それが二つ重なると、片方の間のところへもう片方の頭が入る。だから四つに聞こえる」
「三つ重なると、五つ」
「五つだ。六つにはならん。三つ目の頭が、二つ目の間へ入るからだ」
橙の熾が一度爆ぜて、そのあとは薪の縁が白く粉を吹いていくのを、全員が黙って見ていた。
黙ってはいたが、十枚の列のうち五つと刻んだ年が二枚あることに、ダンはさっきから指を戻している。
「二枚とも、風が止んでた年だよ」
ソラが言った。
「止んでた年は、よく聞こえるの。私が聞いてるのはいつも風が止んだ隙間で、隙間が長い晩ほど、たくさん数えられる。……よく聞こえたから多かったんじゃなくて、多いのが全部聞こえたんだと思う」
セトは、その言葉を十枚目の石板の裏へ刻んだ。
「確かめてない」
刻みながら、彼はそれだけ言った。
*
見に行くと言ったのはノアで、煤狼が先に立った。
尾根を越えるところまで三日かかっている。
そのあいだ狼は三十歩ほど先を歩き続け、越えたあたりで一度止まって、そこから先へは進まなくなった。
ノアもそこで足を止めた。
止めているあいだ、狼は同じ場所で耳だけを動かしており、その耳の向きが四度、同じところへ戻った。
四度目のあとで、狼は伏せた。
ノアは腹這いで斜面の縁まで進み、苔の乗った岩の陰から下を見た。
窪地に、火が七つある。
七つは輪でも列でもなく、水の流れているほうへ口を開けた弧の形に置かれていて、弧の内側だけが草を踏み分けてあった。
火のまわりに人がいて、坂の上から見下ろしても背の高さが分かり、肩から先が横へ張り出している。
山吹に灼けた腕へ革を巻き、その革の外へはみ出したところに、赤黒く盛り上がった筋が何本も走っていた。
いちばん近い火の脇では、二人が向かい合って何かを分けていて、分けた片方は、そのまま火の外へ置かれた。
分ける手つきは速く、分け終わるまでに数を数える者はいなかった。
弧の要にあたるところに胴の太い物が一つ伏せて置いてあり、上を張った革の縁だけが、掌でこすられた形に光っている。
置いてあるだけで、ノアが見ているあいだ、そこへ手を伸ばす者は一人もいなかった。
ノアはそれを、この五年ずっと聞いてきたものと結びつけるのに、しばらくかかった。
そして火のいちばん端のところに、枝を二本渡した上へ、皮が一枚干してあった。
煤けた鼠色の皮で、四隅を杭に留めて広げてあり、留めた側の縁が三筋、平行に裂けている。
三筋の間隔は指の幅ほどで、上の一本だけが他の二本より短く、途中で止まっていた。
去年の春、リアがそれと同じ形の三筋を見て、これは獣がつけた傷じゃない、と言った。
言ったあと、彼女はその傷へ葉を貼り、貼ったところにはいま、周りより短い毛が隙間なく詰まっている。
干してある皮のほうは、そこまで届かなかった側である。
ノアはそれから、火のあいだを歩いている者の足元を見た。
七つのうち三つの火の脇に、同じ鼠色のものが敷いてある。
敷いてあるものの大きさは、どれも坂の下の水場へ来る一頭ぶんと、ほとんど同じだった。
九つ刻んで、十一から三になった。
数えてきたのはセトで、理由のほうは、九つとも空欄のままである。
その空欄が、いま火のまわりに敷いてあった。
ノアは日が指二本ぶん傾くまで、苔の乗った岩の陰にいた。
そのうち、下りていくかどうかで迷っていた時間は、最初の指一本ぶんだけだった。
残りの一本ぶんで彼が考えていたのは、下りていったところで返してもらえるものが一つも無い、ということのほうだった。
帰り道、狼はずっと彼の左側を歩いた。
左側は、皮の干してあったほうの側である。
*
四日あとに、向こうから来た。
十一人が坂の下まで上がってきて、そこで止まった。
止められたわけでも坂の下に何かがあるわけでもなく、坂の上から見ているぶんには、ただそこで足が止まったようにしか見えない。
柵は、その二十歩ばかり先にあった。
十一人のうち、柵のほうへ目を向けた者は一人もいない。
先頭の一人が、いちばん大きかった。
肩から毛皮と骨のかけらを綴った束を垂らしていて、歩くたびにその束が鳴る。
鳴る音は太鼓とはまるで違う、乾いて軽い、数珠を振ったような音だった。
顔の左半分に古い傷が三本走り、盛り上がった縁のところだけが灼けずに白く抜けていて、そのうちの一本は目の縁を横切っている。
横切っているのに、目のほうは潰れていなかった。
ヴェルドが坂を下りていった。
中ほどで草が途切れて赭い土が出ており、その土は前の日の雨をまだ含んでいて、下りる足が二度、浅く滑っている。
止める者はいたが、止まる者はいなかった。
彼が下りていくと、後ろから四人がついていった。
四人のうちの一人が、セトである。
「こんにちは」
ヴェルドが言った。
言ってから、自分の声がいつもより半音高いことに気づいている。
大きいほうは答えなかった。
答えずにヴェルドの頭のてっぺんから足元までを一度眺め、それから坂の上のほうへ視線を移した。
坂の上には畑があり、その向こうに家がある。
「水」
大きいほうが言った。
「水だ。ここ、水」
「あります」
「使う」
そこで彼は、初めてヴェルドの顔をまともに見た。
見てから、言葉を一つ足した。
「使う。それだけ」
ヴェルドはうなずかなかった。
うなずかずに、一つ聞いた。
「どれくらい、いますか?」
「知らん」
「……いつ、出ていきますか?」
「知らん」
大きいほうは、それを隠すつもりもはぐらかすつもりも無い調子で言った。
分からないことを分からないと言うときの言い方であり、そこに嘘の匂いは一つも混じっていない。
この森で最初に交わされた他人との折衝は、双方が誠実であるというその一点においてのみ、完全に噛み合っていた。
ヴェルドはしばらく黙って、それからもう一つだけ聞いた。
「約束は、できますか」
大きいほうの顔が、そこで初めて動いた。
動いたのは眉のあたりで、笑ったのでも怒ったのでもなく、聞こえた音に見合う中身を自分の中に探している顔だった。
「そんなもの、俺は知らん」
彼はそう答え、答えてから肩の束を掌で一度押さえて、鳴るのを止めた。
「知らんが、水は使う。使って、行く」
ヴェルドは、そのあと何も言わなかった。
言うべきことが無くなったからではない。
言うべきことは頭の中にいくつも残っていて、そのどれを出しても、相手の側に置ける場所が無いのだと分かったからである。
そのとき、セトが前へ出た。
「五年前にも、この森の際で叩いてたな」
大きいほうがセトを見た。
「北の岩の東にいた。次の年は西へ寄って、その次の年からはずっと東だ。岩を回りこんで、尾根を越えて、今年はもうこっちの側にいる」
セトは石板を持ってきていない。
持ってきていないのに、順番を一つも違えずに言った。
大きいほうは、最後まで聞いた。
聞き終えてから、言った。
「知らん」
「知らんのか?」
「知らん」
セトはもう一度聞いた。
「前に来た者は、どうした」
「知らん」
セトへ返した三度目の知らんは、前の二つとまったく同じ調子だった。
同じ調子だったので、はぐらかしているのではないと分かった。
分かったところで、セトは黙った。
十一人はそれきり待たず、向きを変えて坂の下の水場のほうへ歩いていく。
歩いていく十一人のうち、その途中で柵のほうを見た者は、やはり一人もいなかった。
*
十一人が水場のほうへ下りていった晩、セトは石板を並べ直した。
順番は変えず、昼と同じ並びのまま、端からもう一度見るために置き直したのである。
「言い当てられる理由が、分かった」
彼はそう言い、輪の全員が彼を見たが、そこから先を続けるまでに間があった。
「あの人たちは、前のことを知らない。去年こっちの側で叩いてた者がどこを通ったかを、誰も知らないんだ」
「聞いてないだけじゃないのか」
カイが言った。
「聞いてないんじゃない。無いんだ。……去年どこまで来たかを、あの人たちは持って帰らない。持って帰らないから、毎年、その場でいちばん歩きやすいほうを選ぶ」
「歩きやすいほうの選び方は、いつも同じだ」
ダンが言った。
「同じだ。選び方が同じなら、選んだ先も同じ順に並ぶ」
セトはうなずいた。
「だから、当たる」
火のところが、そのあとしばらく静かになった。
ダンは膝の上で指を開いたが、その手は何も数えないまま下ろされ、ノアは熾の山吹が灰の下へ沈んでいくほうを見たまま、その姿勢から動かない。
良い知らせなのかそうでないのかを、セトは自分でも決められずにいた。
決められないまま、彼は十枚を端から端まで一度見渡した。
十枚とも、刻んであるのは音のことである。
叩いているほうのことを刻んだ行は、五年やって一行も無い。
「呼び名が要る」
セトは言った。
「刻むのに、要る。……音、とだけ書いてきたが、音は出ているほうであって、出しているほうじゃない」
「向こうの名を知らんだろう」
ダンが言った。
「知らん。聞いても、たぶん知らんと返ってくる」
セトは削る石を取り、十枚目の余った端へ、短く刻んだ。
「太鼓の者、と書いておく」
誰も反対しなかった。
反対しなかったのは、それが正しい名だと思ったからではない。
名前の無いものを、この一同はもう五年ぶん数えてしまっていて、数えたもののほうに名前が無いというのは、据わりが悪いというだけの理由である。
こうしてこの森で最初に名前のついた他人は、こちらが勝手に決めた二字で呼ばれることになった。
向こうがそう名乗ったわけではない。
名乗る気も、たぶん無い。
「次はどこだ」
ノアが聞いた。
セトは十枚目の石板へ指を置き、置いてからその先の、石板の無い平たいところへ指を滑らせた。
「水場だ」
滑らせた指の止まったところに、石板は無い。
「尾根のこちら側まで来た。こっちの側で水が湧いてるのは、一つきりだ。……そこは、柵の外にある」
「いつまでだ」
ノアが聞いた。
セトは石板の列を端まで戻って、五枚目のところで指を止めた。
聞こえなかった年の一枚である。
「あの人たちは知らんと言った。……こっちは、知ってる。五つと刻んだ二枚は、どっちも穫り終えたあとの晩だ。四つと刻んだ四枚も、一つを除いてそっちにある。三つしか聞こえなかった三枚は、逆に一つも秋じゃない。……多く聞こえた晩ほど、この時季に寄っている」
「だから」
「霜が下りるまでだ。それまでの水を、こっちで持っておけばいい」
ダンは指を折らなかった。
折らずに、並べてある石板の列へ目を落とし、端の一枚から順に指で追ってから、聞いた。
「それ、どの一枚に刻んである」
「刻んでない」
「刻んでないことを言ったな」
「言った」
セトは削る石を持ったまま、その手を膝の上へ下ろした。
「十枚に載ってるのは、聞こえた晩のことだけだ。霜が下りるまでだというのは、十枚から出したものであって、十枚に載っているものじゃない」
「その二つは、同じ石の上に並ぶのか」
「並ばん」
ダンはそこで、ようやく指を折りはじめた。
日数のほうを折っている。
彼が折ったのは、納得したからではない。
起きたことしか刻まない男が、まだ起きていないことを口に出した。
それが本当に起きるかどうかは、こちらが日数を出してみるまでは決まらない。
言ったのはセトだが、その数を出したのはダンである。
囲いきるには、まだ杭が四十本足りない。
その四十を数えたのは、この秋のダンである。
*
汲み置くと決まるまでに、日は指三本ぶん傾いた。
決まってからは速い。
器は十九あり、そのうち三つは口が狭くて、入れた水を出すのに難儀するので外した。
残る十六へ、朝のうちから運ぶ。
フィンはその日の午前で、天秤に使う棒を二本作った。
若木を肩幅より少し長く切り、両端へ浅い切り込みを入れて、蔓を掛けたときに滑らないようにしただけのものである。
「一度に二つだ。三つ掛けると、真ん中が撓む」
ウルは塩山羊と巻き羊を先に囲いへ入れてから、運ぶ側へ回った。
先に入れたのは、水を担いだ列が坂を上がってくると、十四頭が全部そちらへ寄って、柵の際へ固まってしまうためである。
坂を八往復した。
一度に運べるのは二つで、満たした器は片手では持ち上がらないので、棒の両端へ蔓で吊るして二人で担ぐ。
担いだまま坂を上がると、途中の二箇所で水が縁から跳ねるので、そこだけは歩幅を半分にして越えた。
その八往復のあいだ、下では十一人が水を汲んでいる。
汲むほうと運ぶほうが同じ時刻に水場へ出たのは、二度あった。
二度とも、何も起きなかった。
一度目は向こうが先に汲み終えて、岸の乾いたほうへ寄って場所を空けた。
二度目はこちらが十歩手前で足を止めて、向こうが済むまでそこにいた。
そのあいだに大きいほうが一度こちらを見て、それから何も言わずに視線を外している。
外されたとき、ノアは担いだ棒を肩の上で持ち替えただけだった。
ヴェルドが棒の端を持ったのは、十六のうち九つ目からである。
持つと言ったわけではない。
岸へ下りて、置いてあった二本目の棒の端を拾い上げ、そのまま前の組の後ろへついた。
組む相手はウルになった。
なったというより、ほかの組がもう出たあとで、岸に残っていたのが彼だったというだけである。
坂を上がるあいだ、彼は一度も持ち替えなかった。
持ち替えれば水が振れ、振れさせないためには、肩へ食い込んだ棒をそのままにしておくしかない。
そのままにしておく時間が、坂を上がるたびに少しずつ長くなった。
四度目の坂で、ウルが歩幅を落とした。
落としたところは水の跳ねる二箇所より手前で、跳ねる心配は無い。
落としたぶん後ろの端が下がり、下がったぶんの重さが前へ寄った。
前はウルである。
ヴェルドはそれに気づいていた。
気づいて、何も言わなかった。
言えばウルは元の歩幅へ戻し、戻せば遅れるのは彼のほうだからである。
十五と十六を壁際へ据えてから、彼は棒を下ろし、掌のほうを返した。
掌の付け根から指の付け根までのあいだが、両手とも同じところで白く浮いている。
浮いたところの真ん中が一本、縦に裂けていて、裂け目の縁だけが薄い臙脂に上がっていた。
血は出ていない。
出ないのは浅いからではなく、下の皮がまだ繋がっているからで、繋がっているものは、あと一往復あれば切れる。
十一年のあいだ、彼はこの坂を空の手で上がってきた。
上がる側を選んだ覚えは、彼のほうには無い。
担ぐ側へ回ろうとするたび、誰かが先に棒を取っていって、取られたことを彼はそのつど「そうか」で済ませてきた。
済ませてきた十一年ぶんが、いま掌の一本になっている。
日が朱から鈍色へ落ちるころ、十六の器はすべていっぱいになった。
いっぱいになった器を、フィンは家の北の壁際へ二列に並べた。
北にしたのは、そこがいちばん日の当たらない面だからだった。
「何日もつ」
ノアが聞いた。
ダンは並んだ器を端から見て、口の中で一度数え直した。
「十六だ。飲むだけなら十日。畑にやるなら、四日でなくなる」
「畑は」
「やらん」
そう言ったとき、彼は指を一本も折らなかった。
折らないまま、彼は北の壁際から少し離れて立っている者のほうを見た。
「八往復のうち、四つはあんたが担いだ」
「数えてたのか」
「数える。……担いだのに、器は十六のままだ。あんたが入る前も十六で、入ったあとも十六だ。増えても減ってもいない」
ヴェルドは掌を開いたままにしていた。
開いたままにしていたのは、閉じると裂けたところが合わさって、合わさるときに痛むからである。
「増やしたくて入ったわけじゃないんだ」
「知ってる」
ダンは笊を持ち直した。
「知ってるが、俺に数えられるのは、増えたか減ったかだけなんだ。増えも減りもしなかったものを入れる欄が、俺の勘定には無い。……無いから入れない。入れないが、無かったことにもしない」
ダンは、その先を続けなかった。
火のほうへ寄らずにいたヴェルドは、二列に並べた器の端の一つへ、掌のほうを当てた。
器は冷たい。
冷たいのは、そこがいちばん日の当たらない面だからである。
*
翌朝、ソラは籠を持って坂を上がりかけ、途中で止まった。
線の外に、彼女の畝が二本ある。
去年いちばん採れたのは、その二本のほうである。
行くなと言った者は一人もおらず、坂の上には彼女のほかに誰もいないまま、彼女は自分の足でそこに止まった。
それから、しばらく外の畝を見ていた。
莢はもう薄い焦茶に変わっていて、朝の日が低いうちは中の豆の影が透けて琥珀に見え、二日か三日のうちに採らなければ、乾いた縫い目から裂けて弾ける。
弾けたぶんは地面へ落ち、来年そこから芽を出す。
出しても、線の外である。
彼女は籠を下ろして、内側の畝のほうへ回った。
内側の二本は東向きで、霜が来るのが外の二本より六日早く、去年はそのぶん採れる量が三分の二に届かなかった。
今年もそうなる。
そうなることを、彼女は去年のうちにもう数え終えている。
回るとき、外の二本を横目に入れなかった。
見ても見なくても採りに行かない理由は同じだけあると分かっていたので、彼女は籠の紐を握り直しただけだった。
杭を数えた日、彼女は、その数の正しさまでは自分には請け合えない、と言った。
この秋になって、その数が正しかったことになる。
正しかったことになったが、正しかったのは杭の数のほうであって、線の引き方ではない。
その違いを、彼女は誰にも言わなかった。
*
十一人が水場を離れたのは、それから三日たった朝である。
離れるところを見た者はいない。
朝になってノアが狼を連れて坂を下り、戻ってきてから、七つあった火のあとのうち黒く残っていたのは四つで、灰へ指を入れてもどれも冷たかった、と言った。
汲み口のまわりの土は幅四歩ぶん踏み固められ、岸の草は根の際まで削り取られている。
水そのものは薄く濁っていたが、量は減っていなかった。
その晩、ソラは畑の東の端に立った。
風は暮れがたから川下へ吹いている。
この秋、彼女が数えてきたのと同じ向きである。
彼女は吹いてくるほうの頬を風に当てた。
今年はもう、待たずに聞こえる距離まで来ていたはずである。
風が、いったん止んだ。
止んだ隙間へ、彼女は耳を差し入れた。
差し入れて、数えられるだけ数えようとした。
何も無い。
風がまた吹き始めて、それでも何も無い。
彼女は空が藍から墨へ沈みきるまでそこに立っていたが、聞こえないものは最後まで聞こえなかった。
坂を下りて、彼女はセトのところへ行き、聞いたままの形で伝えた。
「今日は、無かった」
セトは削る石を手に取り、取ったところで手を止めた。
聞こえた晩を刻む形なら、十枚ぶんある。
聞こえなかった晩を刻む形は、五年やって一つも出てきていない。
去年までは、聞こえた晩に刻めばよかった。
一度だけ、一年を通して聞こえなかった年があり、そのときは年が終わってから一行にした。
今年は、まだ終わっていない。
彼は石板を裏返して、拍のことを刻んだ面を出し、そこへは何も足さずに、また表へ返した。
「明日、もう一回聞いてくれ」
「うん」
ソラはそれだけ言って、火のほうへ戻りかけた。
戻りかけたところで、坂の上の枯れ木の、低いあたりから声がした。
彼女は足を止めて、同じ高さの音を口で一度返した。
返すと、また向こうから来た。
答え梟、と彼女はその鳥を呼んでいる。
呼べば返ってくるからで、呼んで返ってくるものは、この六年でほかに一つも無い。
三度目は、返さずに歩き出した。
戻る途中で一度だけ、坂の下のほうを振り返っている。
振り返った先は、坂の下から順に墨へ沈んでいくところだった。
*
翌朝、水は家の中から出た。
フィンは北の壁際の列の、端から三つ目の器を傾けて、椀へ注いだ。
注いだ水は、汲んだ日の冷たさのまま出てきた。
十六のうち、口まで満ちているのは十ある。
残りの六つは、使ったぶんだけ高さが下がって止まっていた。
朝いちばんに水を飲むのに、誰も坂を下りずに済んだのは、この秋が初めてだった。




