第二十一話 新しい声
倉に入れ終えて六日目の晩に、声が増えた。
十年目の秋である。この森で子が生まれるのは、これが初めてだった。
ヴェルドは東側の家の外にいて、垂れの内側から出てくるものを、外の暗がりで聞いていた。
中へは入らなかったが、入るなと言われたからではなく、入る理由のほうが思いつかなかったからである。
十年、彼はこの一同の誰かが最初に何かをする場に、必ず居合わせてきた。
火をつけた日も、種を埋めた日も、木をくり抜いた日も、頼まれてそこにいたのではない。
いないほうがおかしいのだと、彼は思っていた。
今夜は、いないほうがおかしくない。
声は、彼の知らない高さから出た。
生まれてすぐのものは、泣くというより、息の通り道が開いたことを本人が確かめているような音を出す。
一度きり長く、それから短く三度。
短い三度のあいだに、垂れの向こうで誰かが立ち上がる気配があって、内側の炉の明かりが揺れ、揺れたぶんだけ垂れの縁から橙が漏れた。
彼が最初に作った二十四人は、生まれた日に一人も声を出しておらず、泣かない子というものを彼はそのとき初めて見た。
出さなかったのではなく、出す必要のほうが無かった。
器が弾けて、彼が最初に腕へ受けたのは、想像していたよりずっと軽いものだった。
その一人が、生まれて数秒で彼の顔をまじまじと見上げ、それきり、値踏みでもするような目でこちらを見ていた。
だから彼は、いま自分が聞いているものが何なのかを、知識としては知っていて、耳としては知らなかった。
垂れが内から押し上げられて、ミラが顔だけ出した。
頬から顎にかけて、炉の側へ向いた面だけが朱く、垂れの外へ出ているほうは、輪郭の線しか見えないほど暗い。
「ヴェルド」
「うん」
「見る?」
彼は返事の前に、いま自分の足がどちらへ動きかけたかを一度確かめた。
「見る」
中へ入ると、炉の側に敷いた生成りの布が二枚と、その上に載っているものだけが明るかった。
生まれたばかりの皮膚は薄紅で、薄いところは下の色が透けて紫を帯び、指の先だけが濃い。
名は、二人が自分たちで決めていた。
十年前、ノアが地平線の際にひとすじの緑を見つけた晩がある。
その晩のことを、ヴェルドは自分が名づける側にいなかったという一点で覚えていた。
「ノエ」
言ったのはリアである。
「あの晩の色から、二つ取ったの」
「いつの晩だ」
「あなたが地平線に緑の線を見つけた晩。……四日目の朝。私はまだ立てなくて、あなたが戻ってきて、見えた、としか言わなかった」
「そんな言い方をしたか」
「した。緑だとも、線だとも言わなかった。見えた、だけ。……何が見えたのか聞いたのは、私じゃなくてセト」
ノアは頷いた。
頷き方は、いま決めるときのものではなく、とうに決め終わったあとのものである。
「じゃあ、二つとも、俺の見たやつからか」
「ううん。一つは、あなたの見たほう。もう一つは、見えたとしか言えなかったほう」
彼女はそこで一度、腕の中のものへ目を落とした。
「どっちも要ると思ったの」
見守りのほうは、三日で立った。
見守り、という言い方をしたのはミラである。
夜のあいだ誰かが起きていることを何と呼ぶかで、二晩ほど呼び名が定まらず、三晩目に彼女がそう言って、それで通った。
名前がつくと、それは仕事になる。
名前の無かった二晩のあいだ、夜のあいだ起きているというのは、まだ誰の仕事でもなく、起きていた者が翌朝それを言うこともなかった。
夜のあいだ誰かが起きていて、起きていた者は日のあるうちに寝る。
寝るぶんの仕事は、その日に手の空いている者が黙って引き取った。
順番のほうは決めず、前の晩に誰が起きたかだけを、セトが日ごとの刻みの脇へ足していく。
決めたのはリアでもノアでもない。
二晩目に自分から起きたのがフィンとダンとミラの三人で、三晩目には四人になっていた、というだけのことだった。
ヴェルドは、それを外から見ている。
「教えなかったのか?」
カイが横からそう聞いた。
「聞かれなかった」
「聞かれてたら、教えたのか?」
「たぶん、違うことを教えた」
それ以上は言わずに、その晩、彼は自分から起きている側へ回り、垂れの内側ではなく外の暗がりに座った。
回ったのに、彼の番は来なかった。
夜半に一度、セトの石板を覗いた。
前の晩に起きた者の名が四つ並んでいて、そのどれも彼のものではない。
入れ忘れたのなら、まだ順番の話である。
四つのどれも自分のものでないのは、順番が回ってこないからではなく、順番の話にすらなっていないからだと、彼はそこで思った。
外の暗がりへ戻ってから、彼は膝の上で指を組んだ。
組んだまま、垂れの内側の息の数が四つとも揃うまで待って、それから開いた。
掌には、何も滲んでいない。
組み方は、十年前の草原でやったのと、指の一本ぶんも違っていなかった。
*
その子を見に来た者が、坂の下に立ったのは、それから十一日あとである。
ウルが気づいたのは、囲いの塩山羊が三度同じほうを向いたからだった。
山羊は音のするほうへ首を向ける。
三度続けて同じほうを向いたのなら、音を出しているものが、その場から動いていないということになる。
シルヴァは、林の際から一歩だけ内側へ入ったところに、いつから立っていたのか誰にも分からない立ち方で、いた。
雨のあとで、彼女の立っている足元だけ、樹皮の色が濡れて濃い鳶色に沈んでいる。
「……生まれたと、聞きました」
「十一日前」
「……はい。十一日です」
ウルはそこで、この人がその十一日をどう過ごしたのかを、初めて考えた。
子が生まれたという知らせが林のほうへ渡るのに幾日かかったのかは、こちらから聞ける相手ではないので、分からない。
向こうは伝えるのに人を走らせない。
木の側から木の側へ、順に伝わるのを待つ。
待つだけの伝わり方でも、十一日で届いた——そう思うのと、十一日もかかったと思うのとでは、こちらの側の話が変わる。
ウルは、十一日という数を一度自分の口で言ってみるまで、どちらで思えばいいのか決められなかった。
「……見てもいいでしょうか。……遠くからで、かまいません」
見せに行ったのはミラで、シルヴァは坂を上がらずに下から見ただけだった。
見ているあいだ、彼女は何も言わない。
祝いの言葉らしいものも、数の話も、これから何が起きるかの話も出ない。
「……小さいですね」
それだけである。
「……こちらは、生まれる、という形を取りません。ですから、比べられません。……小さいというのは、私の側の言い方です。あなたたちの側では、たぶん違うでしょう」
言い終えると、彼女は坂の下の草地のほうへ顔を向けている。
「……それから、東の、日の当たる草地に、まとまって動くものがいます。……十を少し越えるくらい。二度見て、二度とも同じ形のまま動いていました。……あなたたちのところにいる、跳ぶほうとは違います。あれは跳びません」
「跳ばない」
「……跳びません。だから、散りません。……散らないものが、あなたたちの役に立つかどうかは、私には分かりません」
それきりで、彼女は帰っていく。
*
跳ばない、という言い方が、ウルの中で三日残る。
山羊は跳ぶ。
四年前、柵を高くしたときにフィンが言ったのは、これまでは山羊が自分で入っていたが、跳べない高さにすればそのぶんは人がやることになる、ということだった。
毎晩、日の落ちる前に三人が交替で坂を上がることになり、その三人のうちの一人は、それからずっとウルである。
跳ばないものなら、その坂を上がらなくていい、ということになる。
東の草地まで行くのに、丸一日かかっている。
草地は日が当たりすぎるぶん丈が短く、穂の出きらないまま枯草色へ寄りはじめていた。
いたのは十三頭で、こちらが近づいても、散らずに固まったまま少しずつ横へ動く。
毛は汚れた乳白で、腹のあたりだけが泥を吸って鼠色に変わり、その鼠色の縁から枯草の切れ端がいくつも下がっていた。
横へ動いて、止まって、また動く、というのを繰り返し、先頭の一頭が向きを変えると、残りが同じ向きへまとめて流れた。
流れるという言い方をウルが思いついたのは、山羊を五年見てきたからである。
山羊は流れない。
散る。
連れて帰るのに、囲うものも縄も要らなかった。
先頭の一頭の前へ回って歩けば、その一頭がついてきて、残りの十二頭が同じ形のままついてくる。
ただし歩く速さを上げると先頭が止まり、先頭が止まると残りの十二頭も一斉に止まる。
だから彼らは、丸一日かけて来た道を二日かけて戻った。
柵の内側へ入れると、十三頭は隅のほうへ寄って固まる。
夜になってもそこにいて、朝になっても、同じところに同じ形のまま固まっていた。
「跳ばないな」
ダンはそう言ってから柵の上から中を覗いて、それから指を折りはじめた。
「十三だ。冬に草をやるなら、山羊一頭ぶんとは桁が違う量が要る。囲いも、この高さで足りるが、下は掘り返される。……増えるなら、来年はもっと要る」
「増えるのか?」
「増えなきゃ意味がないだろ」
ウルはそれに返事をしなかった。
増えなければ意味がない、という言い方を、彼は五年前にも聞いている。
そのとき二頭だった山羊は、いま一頭である。
十三頭のうち一頭だけが、夕方になっても隅へ寄らずに柵の際まで来た。
来て、こちらを見る。
目のまわりだけが他より抜けていて、そのぶん瞳の位置がはっきりしている。
見て、それから前脚で地面を二度掻いた。
掻いたところの土が、蹄の縁の色と同じ鼈甲に見えた。
ウルはその一頭の前へしゃがみ、しばらく黙っている。
トトのときは名前をつけるまでに一日かからなかったのに、今度は六日かかっている。
「ムム」
言ってから、彼は自分の口のあたりを一度触っている。
触ってから囲いの外へ出て、その日の残りは、誰に何を聞かれても短くしか返さなかった。
*
巻き羊が隅から離れて草を食むようになったころ、煤狼が坂の三分の一まで下りてきた。
坂を下りていくノアのほうへ狼は一度だけ首を回し、それから来た側へ体を向けて、三歩ぶん進んだところで足を止めた。
首だけが、そこでこちらへ戻ってくる。
この形が出た日は、行っていい日である。
違っていたのは、行く先だった。
三歩ずつが向いている先は、水場ではなく森の奥だった。
途中で一度、狼が、傷のあるほうの前脚をこちらへ向けた形で止まった。
この春に葉を貼ったところは、煤けた鈍色の毛が生えそろっていた。
生えそろってはいるが生えかたが周りと違い、三筋のところだけ、毛の流れが横へ寄っている。
ノアはそれを見て何も言わず、言うべき相手がその場にいないことを、見てから思い出している。
奥まで来ると、狼は歩くのをやめて、鼻を上げた。
そこから先は、彼の目には何も見えなかった。
見えないものへ向かって狼は体を低くし、こちらを一度も振り返らないまま、下草の中へ入っていく。
ノアは、ついていかない。
その晩、彼は火のところでそれを話す。
「明日、行く」
「行って、どうするんだ?」
カイが聞いた。
責める調子は入っておらず、本当に分からないという顔をしていた。
「見てる」
「見てるだけか?」
「見てるだけだ。……穂先なら、俺の手の先だ。突いて、外れたら、外れたことが手に残る。五年前に一本、魚に持っていかれた。当てたのに、蔓がほどけて、柄だけが手に残った。穂先は魚と一緒に沈んでいった。あのとき残ったのは、柄と、当てたのに何も残らなかったっていう気分だ。……あれは、俺の手じゃない。俺の手の先でもない。連れて行くわけでもない。向こうが先に歩いて、俺があとをついていくだけだ。だから――」
そこで彼は止まった。
止まってから、彼は続きを言わなかった。
続きは、口の中まで来ていた。
出すと嘘になるので、出さなかった。
リアは何も言わずに、膝の上のノエを抱え直した。
*
日の出前に出た。
行ったのは四人で、カイはそのうちの一人である。
森の奥へ入ると、光の量が半分になる。
梢で一度濾されたものだけが下りてくるので、幹の色は墨に近い焦茶へ寄り、根方の苔だけが濃い青みどりで残った。
その中で、下草の露だけが明るい。
狼は、四人より三十歩ばかり先を行く。
途中から、その三十歩が縮まらなくなった。
縮まらなくなったのは、こちらの足が遅いからではなく、向こうが待たなくなったからである。
そして、いなくなった。
いなくなってから、四人はその場に立っていた。
音は、聞こえた。
聞こえたが何の音かは分からず、下草の擦れる音が二度、間を置いてもう一度あって、それから止まった。
止まったあとに、鳥が二羽、離れたところから同時に飛び立った。
カイが、自分はそのあいだ一度も足を動かしていない、と気づくのは、もう少しあとである。
四人が近づいたとき、それはもう倒れていた。
角のある獣である。
背は日の当たるところで見れば褐で、腹側だけが薄く、境のところで色が二つに分かれていた。
横倒しになった首の下では、露に濡れた下草が押し潰され、押し潰されたところだけが色を失っている。
体はまだ温かく、掌を当てると、朝の森を歩いてきたこちらの手のほうが、はっきりと冷たい。
狼は少し離れたところに座って、こちらを見ている。
近づいても退かず、退かないままで、倒れたもののほうへ戻ってくることもしなかった。
「どうする」
カイが聞いた。
「持って帰る」
ノアがそう言った。その声は、思っていたより普通だった。
カイは、自分が何を思っていたのかを、そのとき初めて言葉にしようとして、できなかった。
石は正しいよ、正しいけど俺の言いたいことは入ってない――十年前、彼はそう言ったことがある。
言ったときと同じ場所が、いま塞がっている。
塞がっているのに、今度は何が入っていないのかも分からなかった。
*
その重さを、四人は動かせなかった。
持ち上げるところまでは二人でやれば上がるが、上がった状態から一歩も進めない。
前脚と後脚が別々に垂れて、垂れたぶんが地面へ引っかかる。
カイとノアで肩へ掛けようとした。
掛けた側の肩が先に落ちて、掛けたぶんが背中を伝って腰へ来たので、二歩で下ろすことになった。
次に四人で持った。
四人だと持ち上がるが、今度は木と木の間隔が足りず、横向きに通そうとすると後脚の側が幹へ当たった。
引きずってもみた。
引きずれば皮が剝け、剝けたところから土が入って、そこはもう食えなくなる。
三十歩ぶん引いたところで、ノアがやめさせた。
日が指四本ぶん傾いた。
進んだ距離は、三十歩ばかりだった。
最初にやめたのは、フィンである。
やめて、獣の脇へしゃがみ、後脚の関節のところを掌で二度押してから、周りの若木を見上げた。
「編む」
「何を?」
「縄と、載せるやつだ。……担ぐのは無理だ。持ち上げたぶんが全部、腕の一箇所へ来る。載せて、引くしかない。引くなら、下に何か敷かないと皮が剝ける」
蔓を集めるところから始めることになる。
若木を四本、同じ長さに切って、そのうち二本を長く、二本を短く組み合わせる。
組んだところを蔓で締め、締めるときに濡らしておくと、乾くにつれて締まっていく。
締まるのを待つあいだに、日が落ちた。
火を焚いた。
焚いてから、フィンは編み続けた。
火の側の蔓だけが琥珀を含んで見え、そこから外れたところは、束のまま黒い。
編んでいる手元だけが明るく、その明るいところで、若木の切り口の青白さが夜のあいだ中ずっと残っていた。
住処へ着いたのは、翌日の日の落ちるころである。
丸一日と、それから半日。
四人が交替で引いて、引いていないほうが前へ回って下草をどけた。
着いたとき、四人とも掌の同じところが同じように破れている。
ノアが最初に言ったのは、獲れたということではなかった。
「明日、開く」
*
その枠が住処へ着いたとき、リアは外の火のところで、ノエに乳をやっていた。
翌朝、開くのは早かった。
二度目である。
一度目のときは、日が高くなるまで誰も手を出さなかった。
トトのときのことだった。
名前があって、毎日梳いて、三年ぶん大きくならないのを見ていた。
開くまでが長く、開いてからも、リアはほとんど喋らなかった。
今度は、日が上がる前に始まって、指三本ぶんの傾きも待たずに皮が外れた。
内側の脂を石の縁で削ぎ落とす。
削ぐ石は刃を立てず、縁の丸いほうを使う。
立てると皮のほうが裂ける。
灰を擦り込んで、日陰へ吊るす。
同じ手つきである。
相手が違うだけで、手のほうは同じところで同じように止まり、同じところで力を抜いた。
骨は、山羊とも違った。
後脚の、膝にあたるところの向きが逆になっている。
逆に見えるだけで、繋がり方を端からたどっていけば、曲がる向きそのものは同じだと分かる。
分かるまでに、リアは骨を三度置き直した。
三度目に置き直したとき、彼女は手を止めた。
止めて、掌のほうを上へ返し、返した形のまま、そこをしばらく見ている。
その日の夕方、空の低いところが茜から鉛へ落ちていく頃に、火のところで、彼女は言った。
「同じことだよ」
言われたほうは、誰も返さない。
「跳ね兎を押さえられなかったのは、この手なの。それから、森が倒した木を拾ったのも、この手。今日、脚を持ち上げたのも、この手。……三つとも同じ手なの。太さも変わってない。押さえられるようになったわけでもない」
熾が一度沈んで、輪の外側にいる者の膝から先が暗くなった。
「違うのは、一つだけ。……最初の二つは、向こうが先に終わってた。今日のは、こっちが連れて行ったの。連れて行って、待ってた。待ってるあいだ、私たちは何もしてない。何もしてないんだけど、何もしないでいるために、そこまで歩いていったでしょう。……ヴェルドが言ったのは、拾っていいよ、じゃなかった。拾う手つきと、奪う手つきを、同じにしないこと。私はそっちのほうを覚えてる。……今日の手つきは、どっちだったの?」
言い終わって、彼女は誰かの返事を待った。
待っているあいだ、彼女は掌を裏返したままでいた。
ダンは指を折りかけて、二本目を折らないまま手を膝へ戻した。
フィンは掌の破れたところを見ていた。
ノアは火のほうを見て、その姿勢のまま一度も動かない。
カイは口を開きかけて、開いたところで止まり、閉じるのに一拍かかった。
ヴェルドは輪の外側にいる。
熾が沈んだぶんだけ、そちらは見えなくなっていた。
名を呼べば届く距離ではあって、リアはそちらを一度見たが、呼ばなかった。
答えた者は、いない。
沈黙は、熾がもう一度沈むまで続いた。
リアはそれ以上は言わず、ノエを抱え直して、垂れの内側へ入っていった。
*
明くる朝、山羊の乳が止まった。
止まる日は、去年から見えていた。
朝いっぱいかけて絞っても、椀の底をやっと覆うところまでしか上がってこない、という状態が三年続いている。
三年目の終わりに、底も覆わなくなった。
土を焼くようになった年から数えて三度目に焼いた器のうち、乳を保たせるためのものが三つある。
三つとも口が狭く、内側だけを念入りに磨いてあり、この年の春に焼き直したばかりだった。
その三つに、入れるものが無い。
口の内側だけが焼き締まって赤褐に光っており、光っているぶん、空であることがよく分かった。
ウルは囲いへ行って、母親のほうの前に立った。
立って、いつもどおり毛を梳いた。
梳くほうは、まだできる。
「代わりに置けるものが、無いんだよな」
ダンはそう言って、そのあと指を折り直しはじめた。
「口が一つ増えて、出るものが一つ止まった。……羊のほうは、乳が出るのかどうかも分からん。分からんものは、まだ数に入れられない」
そこで彼は、指を一度も折らないまま止まった。
「森のあれは、どうする」
「入れられない」
「食ったぞ」
「食った。食ったが、あれは俺たちが増やしたぶんじゃない。……増えたのは、こっちの手じゃないんだ。手が増えてないのに数だけ増やすと、来年、その数の顔をして足りなくなる」
*
彼はノエを数に入れた。
生まれた子の分を数に入れたのは、この年が初めてだった。
増えたほうを数えるのも、初めてである。
セトはそれを二行にした。
一行目にノエの名を、二行目にその日を刻んで、二行目のほうは日付ではなく、倉に入れ終えてから何日目かで書いた。
刻んだあと、彼は一行目のほうを親指の腹で一度なぞった。
なぞったところが、ほかより浅い。
*
ノアが柵の内側へ入ったのは、その日の暮れがたである。
畝の端まで歩いて、この春先に、齧り口を残したまま抜かずにおいた株の根方で、しゃがんだ。
しゃがんで、根元のほうを二株、土から抜いた。
抜いたものを袖の内側へ入れ、それから立ち上がって、囲いの脇を通り、藍の濃くなりはじめた坂を下りていく。
囲いの内側では、十三頭が隅へ寄って固まっていた。
一頭だけが柵の際まで来て、彼が通り過ぎるのを見ている。
見られていることに、彼は最後まで気づかないまま、囲いの角を曲がっていった。
その冬にセトが刻んだのは、二行だった。
――十年目。狼、四。水場へ来た数である。傷は、無い。
――音。三つずつ。尾根を越えた先、北の岩からは、もう回りこむ必要がない。風は、朝のうちだけ川上へ。
二行目まで刻み終えたところで、彼は一行目のほうへ目を戻した。
数が減ったことを、彼はもう七度刻んでいる。
七度刻んで、減っていく理由のほうは、まだ一度も刻んでいない。
刻めるようになるまで、あと一年ある。
*
青白い灯りは天井から吊るされていて、揺れるたびに、盤面の下半分だけが明るくなる。
明るくなる側の数字は、何度も書き直された跡で下地のほうが灰めいており、消しきれずに残った白が、字と字のあいだで薄く盛り上がっている。
白墨を持った男が書いているのは、別のことである。
一つの欄に数を書き、線を一本下ろして、その下にもう一つ数を書いた。
「増えたほうと、減ったほうを、両方書いておく」
背後で、誰かが銅貨を数えている。
「あとで、どっちが効いたか分かるように」
書き終えると、男は盤の脇の棚へ手を伸ばした。
棚には器が一つ置いてある。誰が置いたのかは分からない。
彼はそれを持ち上げ、中を覗き、空であることを確かめてから、同じ場所へ戻した。
――二千九百六十六年後の、夏の話である。




