第二十話 倉と粉
穴蔵の蓋が開いた。畑の土が指の第二の関節まで柔らかくなった日である。
開けたのはダンで、手を掛ける前から中の見当はついている。
この蓋は、いちど閉まったことがある。
下へ置くものを凍って困らないぶんだけに絞った冬で、そのときは隙のひとつも空いていない。
また浮きはじめたのは、それから何年かして、上の段まで詰めるようになった頃である。
閉まりきる大きさに作り直すという話は、毎年一度は出て、毎年ほかの何かに順番を譲ってきた。
三年、そのままである。
蓋のほうは三年でも、この一同のほうは十年目に入っていた。
毎年ひとつずつ増えていった中身に押されて、閉まらなくなったのは蓋のほうが先だった。
底のほうは、掘ったままの土がまだ半分凍てついていて、踏むと表だけが柔らかく、その下で靴の裏が滑った。
冬のあいだに隙間から落ちた冷えは、抜ける道が無いので底へ溜まる。
溜まったところで実を凍らせ、日の長くなった頃に一度緩ませ、夜になるとまた凍らせる。
それを幾度も繰り返された実は、春に開けると黒褐に潰れて、潰れた面から染み出したものが隣の実の腹まで回り、回ったところに鼠色がかった黴が薄く貼りついていた。
上の段のいくつかは、形だけは残っている。
残っているものを指で押すと、皮の下がすでに空で、押した指のかたちに凹んだまま戻らなかった。
「十四杯入れて」
ダンは笊を積み直してから、言った。
「七杯だ」
食えるほうと食えないほうを分けなければ、どちらの数も出ない。
そこで一同は蓋を脇へどけ、底のものを両手で掬い上げては、日の当たる側の地面へ端から並べていった。
濡れた土へ置くと、無事なほうの皮まで湿りを吸って、選り分けた意味が無くなる。
だから、並べる場所は乾いた土の上にした。
広げたところへ、ヴェルドが手を伸ばした。
伸ばした先は、潰れたのと潰れていないのの境あたりで、指がその一つへ触れるより早く、リアの手が横から入って先に取った。
「私が」
それだけである。
ヴェルドは伸ばしかけた手を引いた。
引くのが早く、言われてから引いたようには見えなかった。
彼は一つ後ろへ下がり、下がったところから、分けられていく実のほうを見ている。
ダンはそれを見ていた。
十年のあいだ一度も入れ替わらなかった順番が、この朝、誰の申し出も裁定も経ずに入れ替わっている。
手続きとしては、あまりに簡略だった。
数えているのは実の数であって、誰が先に口へ入れるかではない。
ではないのだが、順番というものは数える者の目によく映る。
知らないものの一口目は、ウルが見慣れない実を口へ入れて二日寝込んだ夜から、リアが舐めることに決め直されている。
だが、知っているものが駄目になったときの一口目には、決まりが無い。
決まりの無いところを、十年のあいだ埋めてきたのがヴェルドだった。
その順番だけは一度も動かず、動かないので数えたことも無かった。
彼は口を開かず、セトのほうも見なかった。
リアがそれを口へ入れ、噛み、それから吐かずに飲み込むまで、誰も動かなかった。
「これは、いい」
言ったのは彼女である。
分け終えた実を、ダンはもう一度、笊へ移しながら数えた。
移しながら数えると、目で数えるより遅いが、あとの一度が先の一度と合う。
「二度目だ」
彼が言ったのは、その四字だけである。
そのあとは笊を抱えて、屋根の下へ運びはじめた。
*
その、数え直した実を運び終えた午後に、シルヴァが林の際まで来た。
来るときはいつも音がしない。
ノアが気づいたのは、下生えの一箇所だけが、風の向きと違う揺れ方をしたためである。
若葉はまだ開ききっておらず、開いていないぶん、その一箇所の緑だけが濃く見えた。
「……冬のあいだに、三本、倒れました」
言い終えるまでに、ノアがひと呼吸する、その三つぶんがかかっている。
こちらの三つで向こうの一つが済むという速さの差は、三年前に一度覚えて、覚えてからは待てるようになった。
「……あなたたちの畑から、日の沈むほうへ。……歩いて、途中で二度、休みました。数えたのではありません。二度休んだ、というだけです。……倒れたのは、去年より前に、内側が終わっていた木です。外からは、まだ立っているように見えていました。……三本とも、根が浮いています。根が浮いた木は、次の風で動きます。動く前のほうが、運びやすいでしょう」
ノアは、その場ですぐには返さなかった。
倒れた木というのは、伐っていない木である。
去年、規則を作った日に、枯れてるやつは、その数に入るのか、とダンが聞いた。
入れない、伐ってないからだ、と答えたのは彼自身である。
そのとき勘定の外に置かれたのは五本で、五本しか無いから外に置けたのだと、彼はそのつもりでいた。
いま、外に置ける木が三本、日の沈むほうにある。
来年も同じだけあるのかどうかは、向こうにしか分からない。
「行くのに、どれくらいだ?」
「……朝に出て、日の落ちるころに着きます。私の足で、です。……戻りは、荷があるので、あなたたちの足なら三日でしょう」
「三日」
「……三日です。それから、もう一つ。……日の出るほうの、水の細くなったあたりに、角のある獣が終わっています。冬の終わりからそこにあって、まだ誰も持っていきません。……骨と、皮と、角は残っています。肉のほうは、もう他のものが済ませました」
ノアはそこで初めて、彼女のほうへ体を向けた。
「終わったものは、拾う」
その言い方は、八年前にセトが石板へ刻んだ一行である。
刻んだときには、拾えるものが一つも落ちていなかった。
「……拾ってください。私たちは、拾いません。……そのままにしておくと、木が使います。木が使うのも、悪いことではありません。ただ、あなたたちのほうが、速い。……それから、川の曲がったところの内側に、実の生る低い木が固まっています。実は、赤くなってから二度目に雨が降ると落ちます。落ちてからでは、地面のものが先に来ます。……こちらは、赤くなるのを見ています。見ているだけで、採りません。採る手を持たないので」
シルヴァはそれから、使い方を一言も言わなかった。
三年前、境の木のところで六本抜いた話をしたときもそうだった。
私たちは、場所を、空けただけです――そう言って、空けたあとどうなるかは言わなかった。
どこにあるかだけを置いて、そこから先を置かないというやり方が物惜しみから来ていないことは、三年見ていれば分かる。
分からないから置かないのだ、としか彼には思えない。
ノアが礼にあたる言葉を探しているあいだに、向こうは林の際から一歩だけ内へ入り、入ったところで幹の苔へ掌を当てて、当てたままでいた。
「……前に、境が無い、と言いました。……あれは、まだそうです。……ここが痩せると、こちらの林も痩せます。だから、教えます。あなたたちのためではありません、と言うと、冷たく聞こえるでしょうか。……冷たいのだと思います。ただ、冷たいほうが、長くもちます」
苔は雨のあとで、当てた掌のかたちに濃い緑が残った。
その跡がもとの色へ戻るのを、ノアは戻りきるまで見ていた。
*
戻るのに三日かかると分かってから、フィンは丸二日、何も言わなかった。
二日目の夕方、彼は屋根の下の梁を見上げて、それから指の腹で梁の下側を触っている。
触ったところに、指の腹が貼りついた。
水が来ているのは梁の下側だけで、上側は乾いている。
指を戻して爪の際を見ると、煤の黒が水に溶けて、薄く伸びていた。
火を焚けば煙が抜けきらずに天井の裏へ溜まり、溜まった煙が夜のうちに水へ変わる。
屋根の下がそうであることは、フィンでなくても知っている。
知ってはいたが、それは寝床の話であって、置き場の話として誰かが持ち出したことは一度も無い。
「大木の棚は乾く。あそこは乾くんだ」
フィンは、棚の高さを示すのに、自分の肘と膝を順に叩いた。
二段きりである。
その二段へ、三日ぶん歩いて持って帰るものが載るとは、フィンには思えなかった。
穴蔵しか無いなら、置いた端から今日と同じことになる。
「じゃあ、どこへ入れる?」
「屋根の下は濡れる。穴は凍る」
試したのはその二つと、大木の中だけである。
火から離れていて、地面からも離れていて、しかも中身のぶんだけ大きくできる場所は、この森のどこにも無い。
「無いなら、そこだけ作る」
セトが石板を膝から下ろして、顔を上げた。
「作るって、何を?」
「床を上げた小屋だ。柱を四本立てて、その上に床を組む。屋根はいる。壁もいる。ただ、中で火は焚かない」
「火を焚かないと、冬に凍らないか?」
「凍る。凍ったって、腐らないほうがましだ。去年だめになった七杯は、凍って割れたんじゃない。凍って、緩んで、そこから腐ったんだ。緩ませないなら、地面から離すしかない」
そこで一度、誰も何も言わなくなった。
乾いたまま物を置ける場所が、この暮らしにはひとつも無い——七年前の冬に、ダンが火の脇でそう言葉にしている。
言葉にしたその次の冬に、彼らは大木の中へ棚を彫った。
上の段が肘の高さ、下の段が膝の高さで、上には種、下には食う分。
六年、その二段で足りてきた。
足りなくなったのは、置きたいものが増えたからではなく、取りに行ける先が増えたからである。
行きは丸一日、帰りは荷を担いで三日である。
出たのは翌朝で、丸一日ぶん外へ出るのは、この十年で数えるほどしかない。
日が梢のあたりまで下りて、下生えの緑がどれも同じ鈍い色に沈んだころ、ダンが誰にともなく、春に見た狼の前脚のことを言った。
「あれをつけたのは獣だ。もう一匹いて、やり合ったんだろう」
春の晩に彼が笊の縁へかけた指は一本で、二本目は立たないまま下りている。
下ろしたぶんを、彼はここまで持ってきていた。
歩く速さを変えた者はなく、返した者もいない。
ダンも、二度は言わなかった。
着いて、ノアが三本とも根元を蹴った。
二本は蹴っただけで内へ落ち、落ちた先から出てきたものが炭に近い色をしていて、五年前にそれと同じものが人の脚を折っている。
あのときの決まりには外から分かることしか入っておらず、中まで見る手のほうは、決まりについていなかった。
残った一本だけが、蹴っても音を返す。
「これは、外だけだ。中まで来てない」
崩れた二本は床板と薪のほうへ回し、柱は音を返した一本を四つに割って取った。
倒れて根の浮いた木は、立っている木より切り分けるのに手がかかる。
幹が地面に触れている側は湿って重く、離れている側だけが軽い。
同じ一本のなかで重さが二通りあるので、担ぐ順番を先に決めておかないと、途中で肩を替える羽目になった。
かかったが、伐った数には入らない。
床を組むのに十一日、屋根を葺くのに四日。
柱は皮を剝いだばかりで、剝いだ下が濡れた白木のまま、四本とも同じ向きに立った。
剝いだ皮の汁は乾くと指にこびりつき、四日目には掌の皮のほうが先に厚くなった。
床は人が屈んで通れるだけ地面から離してあり、四本の柱の根元には、地面と柱のあいだへ平たい石を一枚ずつ挟んである。
挟んだ理由は、鼠が登ってきたときに、その石の縁で爪が掛からなくなることにある。
掛からなくなるかどうかは、まだ誰も見ていない。
日が傾くと、床の下だけが先に藍を含んだ影になり、上の面はまだ明るいままだった。
影と木の色が同じになるまで、フィンはその下から出てこなかった。
*
倉へ入れる前に、実をどうするかという話が出た。
出したのはウルで、彼は去年の冬に自分の奥歯が痛んだことを言いたかったのだが、話しているうちに別の話になっている。
「固いまま煮ると、真ん中が残るんだよ。残ったところを噛むと、こっちが負ける」
「割ればいい」
「割ると、割った先がまた固いんだ。割るだけじゃ足りない。潰さないと」
「歯が音を上げたんで、石に代わってもらうわけだ。……頼むほうの言い草としちゃ、ずいぶん虫がいいけどな」
カイが言った。
誰も笑わなかったが、ウルだけが奥歯のあたりを舌で一度探った。
そこで石を探すことになった。
刃を作った年に、彼らは石を割れるものと割れないものに分けている。
今度は割る側ではなく、潰す側が要る。
割るのに向いた石は縁が鋭く、面が滑らかで、実を載せると刃のほうが先に食い込んで、そのまま真ん中を弾き飛ばした。
川原へ下りたのはウルとフィンで、三日かけて六つ持ち帰り、六つとも試した。
「これ、跳ねた」
「三つ目だ」
「跳ねるやつは、面が滑ってる。滑ってるのは割るのに向いてるやつだ」
当てた実を弾き飛ばしたのが二つ、こちらのほうが先に削れて粉へ混じったのが二つで、残った二つのうち、砂の混じった枯草色のほうだけが実を逃がさなかった。
表面がざらついていて、手で撫でると指の腹に粉がつく。
その粗さが実を掴む。
平たいほうを地面へ据えて皿にし、掌に収まるほうを磨り石にした。
膝をついて、腰から上をかぶせるようにして前後へ動かす。
前へ押すときに力が要り、引くときは石の重さだけで戻る。
三十を数えるあいだに一掴みぶんが粉になり、百を数えるころには、額の生え際から顎まで汗が一本になって落ちた。
粉は、木の器へ落とすと薄い金の色をしている。
落とすときに細かいほうが先に舞い上がるので、しばらくは器の上に薄い煙のようなものが立っていた。
同じ実である。
潰しただけで、量が増えたわけではない。
それでも、水と一緒に煮て練ると、粒のまま煮たときの半分の量で、同じ数の腹が張った。
真ん中の固いところが無くなったからだ、というのがウルの言い分で、そこは彼の言うとおりだった。
塩のことは、そのあとで出た。
窪地から川へ下りる途中に、塩の吹いた岩がある。
塩山羊が朝ごとに来て舐める岩で、掻き集めても指の腹に薄く残る程度しか取れず、舐めれば苦い。
食い物に使えるものではない、というのが五年前からの決まりごとだった。
ウルはその苦いのを、焼いた器へ水と一緒に入れて、火にかけた。
かけた理由は、彼が塩を運ぶ役をもともと持っていたことにある。
「毛は梳いた。塩は運んだ。三年やった」——二年前の冬の終わりに、彼は自分でそう言っている。
運んだ先はいつも山羊のところで、人の口へ入れたことは一度も無かった。
水が減っていくにつれて、器の縁のほうから乾いて、乾いた縁に細かいものが吹いた。
底のほうには、鳶色に濁ったものが沈んで残る。
縁に吹いたほうを爪の先で掻き取って舐めると、苦みがほとんど無い。
底に沈んだほうを舐めると、苦みだけが濃く残った。
「分けられるじゃないか」
「上のと下のと、どっちが塩だ」
「上。舐めてみろ」
フィンは舐めた。
舐めてから、何も言わずにもう一度舐めた。
「苦くない」
「だろ」
「……もう一回」
三度目に舌を出したところで、脇で見ていたカイが声を上げて笑った。
つられて、砂を運んでいた二人も笑った。
フィンは笑われながら、器の縁を指でひと回りなぞって、指についたものを目の高さまで持ち上げた。
「これ、下のとは別のものか」
「別だ」
「同じ水から出てるのに、別なのか」
「別だよ。先に乾いたほうと、あとまで残ったほうだ。……同じ水から、二つ出てくる」
フィンは指を下ろして、そのあとは口を開かなかった。
言わないまま、その日のうちに川原から石を二つ運んできて、器を据える台にした。
同じことを三度やってみて、三度とも縁のほうが先に乾いたので、偶然ではないと決めた。
四度目からは、縁のものを取ってから残りをもう一度火にかけ、二度目の縁も取るようにしている。
二度目のほうは量が少なく、苦みは一度目より強い。
一日かけて、掌に二つぶんである。
その二つぶんで漬けられた魚は、その日に上がったうちの三尾だけである。
残りは、いつもどおり背から開いて煙の上へ吊るした。
吊るすほうは八年やっている。
生木を混ぜて煙を重くする割合も、火からの距離も、いまは指の幅で測れる。
分からないのは、漬けたほうである。
漬けたほうと吊るしたほうを、ダンは別の数として書かせている。
どちらが何日もつかを、まだ誰も知らないからである。
塩を取ったぶんだけ、岩の面は薄くなった。
翌朝、山羊が舐めに来て、舐める時間が去年より明らかに短く、その短いのをウルは離れたところから最後まで見ていた。
見終えてから、その日は岩へ行っていない。
塩の岩へ行くのに、この年から少し遠回りをするようになっていた。
北の岩の見えるほうへは出ない道を選んでいる。
ウルがその道を通るのを、ダンは二度見て、二度とも何も言わなかった。
*
塩を削る音が川原からまだ聞こえているうちに、ハナは丈の低いほうの花へ戻った。
三日前に七匹いたのが昨日は二匹しかいなかったので、数が減ったのだとはじめは思った。
思ってから向こうの薄紫を見に行くと、そちらに十匹以上いて、減ったのではなく行き先が変わっただけだと分かった。
甘蜂、と彼女はそれを呼んでいる。
刺されたことのある者はそう呼ばず、名前のほうは、この夏はまだ彼女の口の中にしかない。
花が変わったのだと、そこでもう一度思った。
それも違っていて、どちらの花から飛ぶものも、腹が重くなったやつは全部、同じほうへ抜けていった。
同じほうへ抜けるのなら、その先に何かある。
四日かけて、彼女はそれを見た。
実の生る木を追う者と、花だけを見ている者とは、いつからか分かれている。
花のほうを見ている者、という呼び方は長い。
長いので、後ろのほうから先に落ちた。
残った二字が、この頃はもう名前として使われている。
川原へ下りると、ウルが四度目の器を火から下ろしたところだった。
「見つけた」
「なにを」
「言うと長いよ」
「長いのは知ってる」
ウルは器を地面へ据えて、蓋の代わりの平石を上へ載せてから、そのまま座った。
「三日前は、あそこの白いのに七匹。昨日は同じところに二匹しかいなくて、代わりに向こうの薄紫のほうへ十匹以上いたの。花が変わったのかと思ったんだけど、そうじゃなかった。……帰る向きが揃ってるのよ。白いのから飛ぶのも、薄紫から飛ぶのも、腹が重くなったやつはみんな同じほうへ行く。日の出るほうへ、少し高く上がって、それから林の上を越えていく。……四日、目で追いかけて、越えていく先が三度とも同じ木だった。太いやつ。根元が二つに割れてる。あそこの、上のほうの洞」
ウルは口を開けたまま、しばらく何も言わなかった。
「ハナ、四日って?」
「四日。雨の日は数えてない。あの日は出てこないから」
「なんで出てこないんだ?」
「濡れると出てこないの。三日前がそうだったから。……出てこない日に近づけば、こっちも刺されにくいと思う。思うだけ。刺されない日があるかどうかは、行ってみないと分からないけど」
「刺されるぞ」
いつのまにか後ろに立っていたカイが、そう言った。
「刺される」
「刺されるって分かってて行くのか」
「行く。……行かないと、来年も同じところを四日かけて見ることになるでしょう」
「四日で済むなら安いもんじゃないか」
「四日は、毎年要るの。洞のほうは、一度覚えれば済む」
カイは何か返そうとして、口を開いたところで止めた。
止めたまま川原の石を一つ蹴って、その石が水へ入るところまで目で追っている。
「……何人で行く」
「三人。煙を焚く人と、登る人と、下で受ける人」
「四人だな」
「四人?」
「刺された分を数えるやつが要る」
洞は、地面から見上げて背丈の二つぶん上にあった。
割れた根元へ足を掛けて登ると、樹皮の裂け目が指の腹へ食い込んで、登りきるまでに両手とも同じところが赤くなった。
洞の口へ煙を入れてから、片腕だけを差し込んで掻き出す。
腕の入る深さは肘までで、その先は指の届く範囲を手探りで剝がすことになった。
掻き出したものは、外の空気に触れたところから順に色が変わっていく。
出した巣は、蝋の乳白と、中に詰まった琥珀とに分かれていた。
蝋のほうは指で押すとへこんで戻らず、中身のほうは器を傾けても、傾けた形のまま、しばらく落ちてこない。
刺された者は四人である。
彼女も刺されたが、刺されながら、どこを何度やられたかを数えている。
腕に三つ、首の後ろに一つ。
数えておかないと、腫れが引くまでの日数と突き合わせられない。
リアが冷やす葉を当てようとしたので、断った。
葉を当てたら、引く速さが葉のぶんなのか自分のぶんなのかが分からなくなる。
腫れたところは翌朝には朱が引いて、引いたあとに硬い芯だけが残った。
その晩、リアが先に舐めた。
舐めてから器を回し、回ってきたものを全員が指で一度ずつ舐めた。
甘いというより、喉の奥が熱くなる。
舐めた指を火へ寄せると、指の腹に残ったぶんが、下から灯したように橙を透かした。
残りは器の底へ落として、器ごと倉の隅へ置いた。
干した葉は湿気れば負け、埋めた実は鼠に負け、塩漬けも燻しも、負けるまでの日数を稼いでいるだけである。
蜜だけは、置き去りにされることに慣れているらしい。
こちらが何もしないでいるあいだ、向こうも何ひとつ急がない。
*
その琥珀を舐めた指が、翌朝には粉の中にあった。
挽く役は、はじめは順番に回していた。
回していたのが、夏の終わりごろから、決まった者たちのところへ寄りはじめる。
速い者と、そうでない者がいたからで、速いほうへ寄せたのは誰か一人の判断ではない。
一日に器一つぶんを挽くのに、速い者で日が指四本ぶん傾き、そうでない者だと倍かかる。
倍かかれば、そのぶん誰かが畑へ回れなくなった。
そのころ、節がついた。
ミラは挽く三人のうちに入っていない。
入っていないのに、日に一度は石皿のところへ来て、少し離れたところへ座り、しばらく手元を見てから帰っていく。
見ていたのは手ではなく、押す間隔のほうだった。
磨り石を前へ押して、戻して、また押す。
その戻すところに、どの者にも必ず一拍ぶんの空きがある。
空きの長さは押す者によって違い、同じ者でも、日が高くなるにつれて少しずつ延びた。
彼女は、その空きのところへ上がる音を一つ置いた。
詞は無い。
婚礼の晩に二つついた詞は、ここでは要らなかった——押して戻すまでの動きのほうが、詞より短いからである。
置くと、押す間隔が揃った。
揃ったのは速い者が遅くなったからではなく、遅い者のほうが空きを詰めたからである。
三日目に、ウルがそれを拾った。
拾った高さは彼女が上げたのと同じで、拾いながら、手のほうは止めていない。
「それ、あとに残るのか」
聞いたのはセトである。
「数えられる。押して戻すたびに一つ上がる。十五上がれば、一掴み」
「数えられるかを聞いたんじゃない。……音は、鳴っているあいだしか無い」
「挽いた量は、あとから出る」
セトは石板を出して、出したまま何も刻まなかった。
刻む形が無いからではない。
数えられるものが増えたときに刻むのが彼の役で、この数え方は彼のところを一度も通っていない、というだけである。
リアがそれに気づいたのは、膝である。
挽く者の膝は、地面につく側だけが硬くなる。
硬くなった皮は水を弾いて鈍く浮き、その内側の、指で押すと沈むあたりが痛む。
痛むと言った者はいない。
言わないので、彼女は言われるのを待たずに膝のほうを見た。
三人とも、右のほうが硬い。
右が硬いのは、磨り石を前へ押すときに右へ体重を送るからで、そうしろと決めた者はいなかった。
三人のうち一人はウルである。
言い出した者が、いちばん多く挽いている。
膝を見てから、同じ三人の足の指を順に見た。
親指の付け根が、内側へ向いて張り出しているのが二人。
張り出した側の皮は厚く、厚いところだけが土の色をしていた。
腰を伸ばすときに、一度に伸ばさずに二段で伸ばす者が一人。
二段目で息を止め、止めてから、止めたことに自分で気づいて笑った。
「口を開けて」
そう言われた者は、口を開けた。
奥歯の噛み合わせの面が、山も谷も無く平らになりかけている。
二人はまだ浅い。
ウルのほうは、去年の冬から痛んでいた側が、噛み合わせごと平らになっていた。
固いまま煮た真ん中に負けた歯である。
負けた歯が、負けないための粉で削れている。
石皿を撫でると指の腹につく、あの石のほうの粉が、実の粉と一緒に口へ入っている。
一度そう分かってしまえば、器の底の薄い金のなかに、混じっているほうも見えるようになった。
「骨は継げるの。折れたところは、繋がる。切れたところは、塞がる。熱は、下げられる。……毎日やってることが理由のやつだけは、どうにもならない。やめれば治るけど、やめたら食べるものが減るの」
聞いていたのはセトで、彼はその晩、何も刻まなかった。
膝が硬い、指が曲がっている、歯が平らだ。
三行で足りることを、彼女は数えながら言わなかった。
言わなくても足りると分かるくらいには、彼の書き方を見てきている。
刻まない理由を彼は言わず、彼女も聞かなかった。
リアはそのあとで、三人の膝へ順に葉を当てた。
当てても硬いところは戻らない。
戻らないと知りながら当てているのを、彼女は途中から隠さなくなった。
*
その秋、セトは三行を刻んだ。
――十年目。狼、五。水場へ来た数である。傷は、無い。
――音。五つずつ。北の岩の向こう、回りこんだ先にある尾根の、そのまた東の腹。風は、暮れてから止んだ。
――伐った、二十六。植えた、二十六。
三行目を刻み終えてから彼は二行目へ指を戻したが、風の止んだ晩は遠いものがよく聞こえるので、拍の数も、どのあたりから来るかも、去年より細かく書けている。
細かく書けたことを、彼はまだ、良いことだと思っている。
*
同じ晩、リアは挽く場所の脇に座って、その日いちばん長く挽いた者の掌を、指の腹で端から端まで押していった。
押されているあいだ、向こうは痛いとも痛くないとも言わなかった。
昼に彼女が言ったことを、ウルはそこでもう一度持ち出した。
「やめたら、減るって言ったよな」
「言った」
「どれくらい」
彼女は押していた指を止めて、止めた指のところをしばらく見ていた。
止めたところは、掌のいちばん厚い部分で、押しても沈まないほうへ変わりかけている。
「……そこは、数えるほうの仕事」
そう言って、彼女は手を離した。
離した掌は、開いたままである。
*
挽いた粉は、秋の終わりに倉の中で山吹の色をして積まれていた。
ダンは床の下へもぐって、柱を四本とも下から見て、平たい石の上に鼠の爪の跡が二つついているのを見つけた。
石より上のところには、爪の跡はひとつも見当たらない。
彼はそれから床へ上がって、器と籠と束を、端から数えていった。
「粉が九つ、籠が十一、束が六つ。塩に漬けたのが、小さいので三つだ。……角と骨と皮は、まだ数に入れてない。使い道が決まってないものを入れると、来年の数がその形のまま増える」
枯れ木で得た薪が、屋根の下へは入りきらないので、倉の脇へ積んである。
角は、柄を継ぐぶんだけ数に入れた。
去年、裂けた柄の断面に根元の太さが合って、一本ぶんは実際に持っている。
骨と皮は、まだ使い道が決まっていない。
決まっていないものを、彼は数の外へ置いた。
数え上げているあいだ、ヴェルドは梯子の下に立っていた。
数えられていく列へは手を出さないまま、上げるでも下ろすでもなく、梯子の脇の同じところにずっといる。
春に手を引いたのと同じ立ち方だと、ダンは思わなかった。
思わないまま、数を続けた。
倉を下りるとき、彼は梯子の三段目で一度止まった。
止まった理由は、下りながら数えていた数が、頭の中で一度も足りない側へ倒れなかったからである。
そういうことは、十年で初めてだった。
下りきってから、彼は大木のほうへ回っている。
新しい床の上へ何を移すかを決めるには、あちらの二段に何が載っているかを先に見ておかなければならない。
肘の高さの段が種で、膝の高さの段が食う分と、六年前からそう決まっている。
肘の高さの段の、いちばん奥に、口を結んだ袋が一つある。
七年前の冬に割れて食えなくなった実で、捨てずに袋の底へ戻したのは彼だった。
棚のいちばん奥へ運んだのはリアで、運んだとき彼女は、食べるためではない、とだけ言った。
理由のほうは、そのとき聞かなかった。
彼は結び目へ指を掛けて、掛けただけで、ほどかずに手を下ろした。
角と骨と皮は、使い道が決まっていないから数の外にある。
こちらは、決まっていないのではなく、決まる見込みが最初から無い。
数の外という一つきりの欄に、この日、別々の理由が二つ入った。
入ったことを、彼は口に出さなかった。
倉へ戻ると、ヴェルドはまだそこにいた。
梯子の口から入る日は、粉の器の列の半ばまでしか届かない。
届かない奥のほうは、匂いが先に立っている。
挽いたばかりの粉と、塩と、乾かした魚と、去年の秋にはひとつも嗅がなかったものが、そこで順に混じっていた。
去年、同じ日に数えたのは、器が四つと籠が七つだった。
魚の束と、塩に漬けたものは、去年は数のうちに無い。
冬はこれから来る。越すかどうかが決まるのは、越したあとである。
決まる前に数えておくことを、彼は今年もやめなかった。
ダンは床の端まで戻って、下にいる相手へ、数のほうだけを言った。
「去年より、まだ残っている」




