第十九話 傷
坂の下の、まだ雪の残っているあたりに、足跡が四つ続いていた。
人のものではない。
縁が溶けて崩れているぶんだけ、昨日今日のものでもなく、少なくとも三日は前のものに見える。
雪はまだ坂の上のほうに残っていて、下からさきに土が出はじめている。
出たところは表の指一本ぶんだけが乾いており、そこを踏むと下の層がまだ汚れた灰のままで、足を上げたあとに指の跡が長いこと残る。
二戸の家は屋根の北側にだけ雪を残していて、日の当たる側は葺いた草の枯草色が先に出てきた。
中の炉を絶やさずにいたぶん、家のまわりの雪だけが早く消えている。
薪は、屋根の下に積んであるぶんで、あと十六日ぶん残っていた。
数えたのはダンで、彼は冬に入る前に六十日ぶんと見込んで、七十四日ぶん積んでいる。
外れる側へ十四日足しておいたのが今年で、去年は十日だった。
十年目の冬が、そこで終わろうとしている。
「余ったな」
カイがそう言った。
「余ってない。十六のうち十四は、外れたときのために積んだぶんだ。使わずに済んだから、まだそこに立ってる。立ってるうちは余ったって言わない。春に一度でも雨が続けば、屋根があっても下から湿気が上がって、下の段は使いものにならなくなる」
ダンはそう返し、膝の前の笊を一度持ち上げて、置き直した。
水場の氷は、縁のほうから解けていた。
真ん中に薄い板が一枚だけ残っていて、その下を水が動いているのは、腹這いになって上から覗けば透けて見える。
乗れるかどうかまでは、上から覗いたところで見当がつかず、下りてみるしかない。
見当のつかないものへは乗らない、というのが去年の秋に決まった言い方で、そう言い出したのもダンである。
煤狼が来るのは、たいてい水場のあたりである。
冬のあいだも五度か六度は来ている。
来ても、ノアのほうから近づいたためしは一度も無い。
向こうが坂の三分の一あたりまで下りてきて、そこで三歩進んで止まり、振り返る——あの形になった日にだけ、彼はついていく。
形にならない日は、氷の縁で水を飲んで、飲み終えるとそのまま奥へ帰っていった。
この日は、形になった。
形にはなったのだが、止まる位置が、いつもの年のどの日よりも遠い。
いつもの場所のさらに半分ほど手前で止まり、そこから振り返って、待っている。
そこまでの雪を目で数えれば、十歩ある。
待っているのだから来いということなのだが、ノアが枯草を踏んで一歩進むと、向こうも同じだけ下がった。
下がってから、また止まる。
下がった先の雪は踏み固められておらず、向こうの脚が沈んで、沈んだぶんだけ肩の位置が低くなった。
彼は足を止めて、袖の内側で指を三度握り直した。
煤けた鼠色の毛が、右の前脚の付け根から肩へかけて、幾筋にも分かれている。
分かれているのは濡れているからで、濡れているものの色は、雪解けの水の色と違った。
乾きかけの黒褐が、毛の流れに沿って三筋、上から下へ細く伸びている。
「おい」
呼んでも、来ない。
耳は動いたので、聞こえていないわけではなかった。
呼べば来る間柄ではなかったことを、彼はそのとき思い出した。
思い出したうえで、もう一度呼んだ。
狼は耳だけをこちらへ向けたが、体のほうは向けなかった。
彼はしゃがんで、朝に氷の縁で取った魚を一尾、雪へ置いた。
置いた場所は、自分の足元から三歩ぶん先である。
置いてから、五歩下がった。十歩あった距離が、それで十五歩になる。
狼は魚を見て、それから彼を見た。
見て、そのままでいる。
「食え」
三年前、あれが脚を折って動けずにいたときは、腹を裂いた魚の頭と背を回して、それでも足りなかった。
足りないと分かっていて、それ以上は出せなかった。ダンの勘定では、二尾ぶんが二日だったからである。
それでも、置いたそばから無くなった。
いまは、一尾が雪の上に残ったままになっている。
彼はそこから、日が指二本ぶん傾くまで動かずにいた。
そのあいだ狼も同じ場所にいたが、右の前脚だけは、地面につけたり浮かせたりを繰り返している。
浮かせているほうの時間が、日の傾くにつれて少しずつ長くなった。
坂を上がるとき、彼は結局その距離を詰めていない。
上まで来ると、フィンが割った薪を運ぶ手を止めて、坂の下のほうへ顎をやった。
「いたのか」
「いた」
「近くまで来たか」
「来ない」
フィンはそれ以上聞かずに、抱えていた薪を三本、山の上へ横に置いた。
置いてから、置いた三本の向きを揃え直している。
揃え直す必要のある置き方をしたわけではなかった。
詰めなかったのが自分の判断なのか向こうの判断なのかを、ノアは上がりながら考えて、考えるまでもなく後者だと分かった。
分かったところで、手元で動かせるものが一つ増えるわけでもない。
*
その距離のまま、リアは坂を下りた。
下りたというより、下りて座った。
狼から十歩ほど離れたところで膝を折り、そこから先へは行かずに、薬の袋を膝の上へ置いて見ている。
膝の下の土が体温で湿るころから、狼のほうが少しずつ近づきはじめた。
近づいて、また止まる。
その繰り返しで、日が指一本ぶん動くあいだに、向こうとのあいだは五歩になった。
五歩というのは、傷が幾筋あるかを、目だけで数えられる距離である。
三年前に見たのは、後ろの脚だった。
あのときは骨のあたりまで腫れていて、腫れの色が皮の上からでも分かるほど濃く、傷そのものの形は腫れに埋もれて見えなかった。
今度は、腫れていない。
腫れていないぶん、形のほうがそのまま出ている。
前脚の付け根に、三筋。
一本ずつの幅が指の腹より狭く、長さは掌ほどで、三本の間隔がほとんど同じだった。
深さも三本とも似ていて、どれも毛と皮を裂いた先で止まっている。
肉まで届いているのは真ん中の一本だけで、その一本にしても、底が見えるところまでは開いていない。
縁は臙脂に盛り上がり、盛り上がった内側だけが、押せば動きそうなほど柔らかく見えた。
彼女は袋の紐を解いて、干した葉を三枚取り出した。
畑の隅の一本から、去年の夏のうちに採って干しておいたものである。
一昨年の夏には、同じ株から生のまま二度採っていて、貼った翌朝にはどちらも腫れが引いている。
「近づくから」
そう断ってから、彼女は膝で残りを詰めた。
狼は下がらなかった。
下がらずに首を伸ばし、彼女の手のほうへ鼻を寄せて葉の匂いを一度だけ嗅ぎ、嗅いでからまた引いた。
引いたが、立ちはせずに、前脚をもう一度浮かせた。
掌のなかで揉んだ葉は、指の股から濃い藍緑の汁を垂らして、垂れたぶんが手首まで伝った。
彼女はそれを傷の上へ置き、置いた上から掌の付け根で軽く押さえる。
押さえているあいだ、狼は喉の奥で低く鳴っていたが、噛みにも来なければ立ち上がりもしなかった。
話がついた結果の静けさというより、双方が別々の理由で黙っていることにした、という種類の静けさである。
三つ数えて離し、離してからもう一度、同じ長さだけ押さえた。
葉を置き終えてから、彼女は布を巻かなかった。
三年前は巻いている。
生成りの布を巻いて、七日目に一度緩めて、九日目に解いた。
今度は巻かないほうを選び、選んだ理由を、彼女は自分でも半分しか言葉にできない。
半分のほうだけを言えば、こうなる——巻けば、外すまで向こうがこちらを待つことになる。
坂の上まで戻ると、積み直した薪の脇にノアが立っていた。
「近づけた?」
「五歩」
「俺は十だ」
「そっちは立ってたでしょう。私は座ってた。座ってると、向こうが決められるの。……近づいてくるかどうかを向こうが決められる形にしておかないと、あれは動かない。三年前もそうだった」
「覚えてる」
「覚えてるなら、明日は座って」
「巻かなかったのか」
「巻かなかった」
「三年前は巻いてた」
「巻いてた。……七日目に緩めて、九日目に解いたの。そのあいだ、あれはここにいた。いるしかなかったから」
「今度は」
「今度は、いつ行ってもいいの。……布を巻くとね、外すまでこっちが要るってことになるでしょう。要るってことにすると、向こうはそのぶん待つの。待たせたぶんだけ、こっちは何かを返してもらったつもりになる」
「返してもらったつもりになると、まずいのか」
「まずい。……三年前、返ってきたって言った人がいたでしょう」
ノアはそう言われて、薪を一本抜き、抜いたものを同じところへ置き直した。
日が傾いてから、狼は坂の途中まで上がってきて、そこで一度伏せた。
坂の上から見ていると、伏せた場所は、いつも止まる場所より、なお三歩ぶん下である。
彼女は袋の紐を結び直しながら、手首に藍緑の跡がまだ残っているのを見て、それを擦らずに置いた。
指を動かしているあいだも、頭のなかでは傷の形を並べ替えている。
*
その傷の形を、セトは聞いてから石板を出した。
出したのは、この冬に刻んだ二枚のほうではない。
壁際の窪みには、九年ぶんの石板が横にして積んである。
古いものほど下になるので、上の束を一度どけて、そこから四枚を順に抜いた。
抜くと、上に載っていた乳白の粉が指の腹についた。
刻むときに出る粉で、払っても爪のあいだに残る。
四枚を、端から膝の前へ並べた。
――七年目。狼、十一。
――七年目。狼、十。
――七年目。狼、九。
――八年目。狼、八。
四枚の先へ、この秋に刻んだ一枚を、間隔を揃えて置く。
――九年目。狼、七。
並べた間隔は揃えたが、あいだの長さは揃っていない。
頭の数が三枚とも同じで、あとの二枚が一年ずつ離れている。
刻むのを年に一度と決めたことは、彼には一度も無い。数が動いた晩に刻むので、動いた年は枚数のほうが増える。
それでも間隔を揃えて置いたのは、そうしないと並びが出ないからだった。
「一つずつだ」
隣で覗いていたウルが、そう言った。
「一つずつ減ってる。三年ぶん、ずっとだ」
「そうだ」
「増えた年は」
「無い」
「一度も」
「一度も無い。……ただ、その前は刻んでない。刻んでない年のことは、無かったとは言えない」
セトはそれだけ返して、五枚をもう一度端から見た。
「数えてるのは水場へ来た数で、森にいる数じゃない。来なくなっただけのやつと、いなくなったやつを、この数は分けてない。……分けられないのは、刻みはじめた年から承知してる。承知したまま、動いた晩ごとに刻んでる」
分けられない数でも、五つ並べれば並びになる。
並びになったからといって、その並びが何によってできたのかは、五枚のどこにも書かれていなかった。
「これ、誰かに聞けば分かるのか」
「誰に」
「知ってるやつ」
「知ってるやつが、この森のどこにいるかを、俺は知らない。……石は起きたことしか書けないんだ。起きた理由は、起きたことの外にある。外にあるものを刻む形を、俺はまだ持ってない」
ウルは口を閉じ、それきり石板の縁を親指の腹でなぞりはじめた。
なぞる先が欠けているところへ来るたびに、指が引っかかって、そこで一度止まる。
その日の午後、畝の端で小さい獣が一匹死んでいた。
見つけたのはウルで、呼ばれて来たのはリアだった。
セトは石板を膝へ載せたまま、二人の後ろから覗き込んだ。
鼠より少し大きい。
毛の流れは乱れておらず、体を押さえた跡も、どこかを噛み切られた跡も見当たらない。
そして、口の周りだけが濡れていた。
濡れている口の先に、蒔いた覚えのない株の、去年の残りがある。
枯れて倒れた茎の、根元へ寄ったあたりが齧られていて、齧り口の断面はまだ白かった。
リアはしゃがんで、その断面を見た。
見ただけで、手は出さずにいる。
朝に葉を揉んだ跡が、手首のところにまだ薄く残っている。
「これ、うちのだよね」
ウルがそう聞いた。
「うちの」
「食べたんだよね」
「食べた」
彼女はそこで一度、口を閉じた。
閉じてから、開いた。
「私たちは、痺れただけだった」
言ったのは、それだけである。
なぜ自分たちは痺れただけで済み、なぜこの獣は済まなかったのかを、彼女は続けなかった。
続きが出てこないという顔でもなかった。
「毒だ」
そう言ったのはウルである。
二日ぶん屋根の下で丸くなっていたことのある口が、二日ぶんだけ早くその語を出した。
セトの石板に、その語は無い。
噛むと青く、飲み込むと喉の奥が痺れるものと痺れないものを分けた年に、痺れるほうをそう呼びはした。
呼びはしたが、刻む先が無かった。
リアは肯定も否定もせずに、齧り口のほうを見ていた。
セトは石板の面を上へ返したが、この日は何も刻まなかった。
狼の行に傷のことを足すと決めたのは、坂の上で話を聞いた時点である。
足せば一行が長くなり、長くなったぶん、この日の獣を入れる隙間が同じ面に残らない。
どちらを先の面に置くかを決めるまで、彼は削りはじめられなかった。
獣は、畑の縁から十歩ほど外れたところへ埋めた。
地面がまだ半分凍っていたので、浅い穴を掘るのにも思ったより手がかかった。
埋めるかどうかで少し迷ったのはウルのほうで、迷っていた時間は、掌についた土が乾く程度である。
株は抜かなかった。
抜こうと言い出した者は、この日は出ていない。
*
あの傷は、獣なら、こうはならない。
リアがそう言ったのは、その晩、東側の家の火のところである。
二戸のうち炉が大きいほうで、この冬は寄合いのたびにこちらへ集まっていた。
入りきらないぶんは入口の垂れを上げて、外の土の上へ座る。
「三本だった。爪なら、四本か五本ある。三本のもいるけど、そういうのは間が揃わない。爪は開くから、三本の間が、根元のほうで広くて、先へいくほど狭くなるの。……あれは、三本とも同じ幅で、同じ深さで、同じところで止まってた。抜けた向きも三本とも揃ってる。獣は引っ掛けてから振るから、抜ける向きがばらけるはずなの」
熾が一度沈んで、垂れの内側から入ってくる風のほうが、火より先に膝へ届いた。
彼女はそこで手を裏返し、甲を上へ向けた。
「前に、兎に掻かれた。あれも三本」
甲の、小指の側から中ほどへ斜めに、薄い筋が三本ある。
消えないまま七年ぶん薄くなったもので、火に近づけると、そこだけ影が浅い。
「あのときのは、間がばらばらだった。だから、揃わないほうが普通なんだと思ってる。……思ってるだけ。私が見たのは、自分のこの一回きり」
揃ったものなら、彼女は自分の手で作ったことがある。
撚った糸を張るとき、間を同じにしておかないと、織り上がったところで目が寄る。
この日見た三筋は、あの張り方に似ている。
彼女はもう一度手を裏返して、掌のほうを見た。
「だから、これは獣がつけた傷じゃない」
「じゃあ、何が」
そう言いかけたのはウルである。
言いかけて、最後まで言わずに口を閉じた。
誰かに止められた様子は、火のこちら側からは見えなかった。
誰も、その先を言わない。
ダンが膝の前の笊の縁へ指を一本かけ、二本目を立てないまま下ろしたのが一度。
フィンが枝を火へ入れて、入れたあとしばらく火のほうを見ていたのが一度。
カイは鼻の頭を掻き、掻いた指を膝へ下ろして、そのまま膝を掴んでいた。
ミラは組んでいた脚を解いて、片方だけを前へ伸ばし、伸ばしたほうの脛を掌で一度だけ包んだ。
五年前にそこへ枝を四本当てたのはリアである。
そこが芯から冷えるのは霜の来る晩だと、あとになって聞いた。雪が緩んでこのかた、朝の土は凍らずにいる。
ウルが、火の向こう側へ一度だけ目をやった。
そこは空いたままである。
ヴェルドがこの冬に輪へ加わった晩を、ダンなら数えられる。
数えても、片手で足りる。
彼がこの森にいるのは十年になる。そのうち輪の内側へ入った晩が、それだけしか無い。
いたところで、聞くことは一つしか無い。
その一つに彼が答えられたことは、この十年、一度も無い。
代わりに、しばらくして別の話が始まった。
始めたのはカイで、話の中身は薪だった。
「今夜は下から冷える。二日ぶん、焚いていいことにならないか」
「なる」
ダンがそう返したので、カイは膝を掴んでいた手を離した。
「なるのかよ」
「十六のうち十四は外れる側だ。残りの二日は、備えじゃない。俺の見込みが二日ぶん長かった、そのぶんだよ。見込み違いの側は焚いていい」
「昼はそう言わなかっただろ」
「昼に聞かれたのは、余ったかどうかだ。余ってはいない」
カイは肩を落とす仕草をして、落とした肩をそのままにして立ち上がった。
負けた顔ではなかった。
外へ薪を取りに出るカイについて、ノアも垂れの外へ出た。
戻ってきた二人が抱えていたのは、合わせて四本である。
カイが二本を火へ入れ、入れたぶんだけ火が伸びて、伸びた先が垂れの内側の草を琥珀に照らし、照らされたところだけ影の位置が変わる。
その影が元の位置へ戻るまでのあいだ、口を開いた者はいない。
北の岩の向こうで音が鳴りはじめてから、もう何年か経っている。
その音のことを持ち出した者は、この晩、一人もいなかった。
「狼、いた?」
ミラがそう聞いた。
「いない」
ノアは短くそう返し、それから両手を火のほうへ向けたまま、しばらく動かなかった。
火に近いほうの指先だけが橙に染まり、その色は、手を返すたびに掌の側へ移っていく。
昼のことを、彼はこの晩、一度も口に出さない。
言わずにおいたのか、口にできなかったのかは、リアの側からは見分けがつかなかった。
*
翌朝、狼は坂の途中にいた。
空はまだ暗く、東の縁のところだけが薄く割れて、割れ目の底に鈍い紅がある。
冬のあいだ、形になった日に必ず止まっていた場所である。
ノアが下りていくと、狼は立ち上がって、来た側へ体を向け、三歩だけ歩いて止まった。
止まって、振り返る。
いつもの形だった。
前脚の付け根は、葉を貼ったところだけ毛が寝ていて、その周りの黒褐が乾いて剥がれかけている。
剥がれた縁の下は、もう濡れていない。
右の脚は、地面についている。
昨日置いた魚は、雪の窪みだけを残して無くなっていた。
窪みの底に鱗が二枚、貼りついたまま凍っている。
「食ったのか」
返事は無い。
返事の無いことを確かめるのに、雪の上で息が二度ぶん曇るだけの間があって、彼はそのあいだ動かずにいた。
十歩でも五歩でもなく、三歩ぶんの距離を保ったまま、森の縁までついていく。
縁まで来ると、狼は坂を下りずに、下生えのいちばん低いところを選んで、そのまま奥へ引き返していく。
引き返していく背中を、彼は苔の上へ影が溶けるまで目で追い、追っているあいだに、足元の雪が靴の縁から溶けて中まで来た。
森の中は、外の明るさが梢のあたりで止まるので、下まで届くのは葉を一度通したぶんだけである。
その光のなかでは、鼠色の背も灰白に近く見えて、輪郭のほうが先に消えた。
三年前、返ってきたと言った者に、リアはこう答えている。
「返ってこないよ。魚は魚で、あれはあれ。ぜんぶ一つの数にしちゃうと、次に払えなくなる」
治ったことと、来た理由が分からないままであることも、たぶん別々の数である。
一つにまとめてしまいたくなるのを、彼は坂を上がりながら自分で押さえた。
セトが二行を刻んだのは、その日の夜である。
――十年目。狼、六。水場へ来た数である。この冬から、傷の有無も見る。
――音。三つずつ。北の岩を回りこんだ先の、さらに東。風は、明け方のうちに川下へ。
一行目が長くなったぶん、二行目は二枚目の石板へ回し、回した石板の余りの面へ、彼は指の腹を一度置いてから離した。
七を刻んだのはこの秋で、五枚を並べたときには、一つ減るのに一年かかっていた。
*
その晩、ノアは家へ入る前に、坂の下のほうへ一度だけ声を出した。
出したあとで、呼べば来る間柄ではなかったことを、彼はもう一度思い出した。
思い出してからも、しばらくそこに立っていた。
雪の残っているところだけが、日の落ちたあともしばらく藍を含んだまま明るく、下生えの低いほうはそのぶん先に暗くなる。
暗くなりきってから、彼は垂れをくぐった。
中では、火の脇に濡れたものが二足、先に並べてある。
並べた者はもう横になっていて、二足は端へ寄せてあり、空いた側は彼の足の幅ぶんだけ空いていた。
彼は自分のを、その空いたところへ並べた。
並べてから、坂の下へ出した声のことを、ここでもう一度、口の中だけで言った。




