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Ether World —神々の使徒の物語—  作者: 九十九 蒼一
第一幕 芽吹きの森
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第十八話 木を植える日

婚礼から一年経っても、家はまだ一戸も建っていない。

九年目の春に入っている。


木が足りないからで、足りない理由のほうは、冬のあいだ誰の口にも上らなかった。


雪が坂の下から順に緩んで、地面の色が若草と枯草色の斑に戻った日、ノアは斧を提げて森の北へ入った。

二戸ぶんに要る本数は、雪の下にいるあいだに何度も数え直してある。

柱になる太さのものが十二本、垂木にする細いものがその倍、それに壁の下地と屋根を葺くまでの何やかやを足すと、数え方をどう変えても、四十本の前後から動かない。

四十本のうち何本が枯れているかを、彼はこの日はじめて自分の足で確かめに行った。


半日歩いて、七本あった。


七本のうち二本は、幹の外側が白茶に乾いて見えているだけで、根元へ回って蹴ると、蹴った側から音も立てずに崩れた。

崩れて出てきたものは炭に近い色で、掌へ載せると湿った土の匂いがして、指をこすり合わせても指紋の溝から抜けない。

残る五本を頭の中で並べてみても、二戸には遠かった。

遠いという言い方では甘く、正しくは、半日で回れる範囲の枯れ木を全部集めても届かない。

五本は柱の下のほうへ回せば使える。

使ってなお、三十五は生きた木から出すことになる。


彼は五本目の幹へ手をついたまま、しばらくそこを動かなかった。


外から見て枯れていると分かる木は、外から見て分かるぶんだけ、内側で何年ぶんが進んでいるかが分からない。

それを彼は四年前に一度、掌へ載せた粉を見ながら考えている。

考えたきり、決まりのほうは変えずに来た。


決まりを最初に言ったのは、五年前の秋である。

その決まりは、五年ぶん効いてきた。

効いたぶんだけ、半日で回れるところの枯れ木が尽きた。

理由のほうは、言ったのが一つきりである。


二度目が、無いからだ。


五年ぶん経って、彼はその一言の前に立っている。

二度目が無いのは木のほうだと、あのときは思っていた。

思っていたが、内側の見えない木を選び続けた結果として折れたのは、木ではなく人の脚だった。


帰りに、彼は枯れていない若木の前を三本ぶん通った。

三本とも幹は腕の太さほどで、枝先には去年の葉のあとに新しい葉が出はじめており、光を透かすと葉脈のところだけが黄緑に濁って見える。

どれも、伐れば柱になる。

なるが、伐ってしまえば二度目は来ない。


「来ないなら、作るしかないだろ」


聞く者のいないところで、彼は一度だけそう口に出した。

出してみると、思っていたより短い話だった。



その決まりの話を、ダンは火の前で聞いた。


ノアが座り直したのは、七本しか無いと報告した晩である。

報告そのものは短く、実際に長かったのは、報告のあとで彼が何も言わずにいた時間である。


黙っているあいだ、彼は膝の上で両手を組んでいた。

組んだ指の節と爪のあいだに、朝に蹴り崩した木の粉がまだ残っていて、火のほうへ傾けると、そこだけ光を返さない。

洗えば落ちるものを昼のあいだずっと持ち歩いていたのだと、ダンはそのとき気づいた。


「決まりを、変えたい」


彼はそう切り出した。

切り出してから、誰かが口を開くより先に、続きのほうを自分で置いた。


「間違ってたとは思ってない。いまも思ってない。……足りなかっただけだ。枯れた木だけにするっていうのは、内側の見えない木だけにする、っていうことでもある。四年前にあの脚が折れたのは、俺が選んだ木の内側が見えなかったからだ。決まりが人を折ったんじゃない。決まりに、見えないものを見る手がついてなかった」


炉の熾が一度沈んで、輪の外側にいた者の顔から順に暗くなった。

言い終えたあと、ノアは輪のどこか一点へ目をやって、そこから戻すのに一拍かかった。

どこを見たのかは、ダンの側からは見えない。

暗くなった側に、片膝を伸ばしたまま座っている者がいる。

座り直す音は、この晩は一度もしなかった。


「で、どうする?」


聞いたのはダンだった。


「生きてる木も伐る。ただし、伐った本数ぶん、その年のうちに植える。植えた本数より多く伐らない」


ダンは指を折らなかった。

折らないまま、膝の前の笊の縁を親指で押さえて、押さえた指の関節が白くなるまでそのままでいた。


火の向こうで、ヴェルドが顔を上げた。

上げてから、口を開くまでに、熾がもう一度沈むだけの間があった。


「太さで、決められないかな」


彼は両手の親指と中指を合わせて、これくらい、という太さを一つ作り、火の明かりのほうへ差し出した。


「これより太いのは伐る。細いのは残す。……そうすれば、内側が見えなくても、選ぶところで迷わない。四年前みたいなことも、たぶん無くなる」


合わせた指はそのまま、しばらく火のほうへ向けられていた。


答えたのはノアではなく、ダンである。


「それより太いやつは、いま何本ある」


「……数えてない」


「半日で回れるところに、二十七だ。今年ぜんぶ伐れば、来年その指のあいだは空を測ることになる。俺の欄には、空を書く場所が無い」


指が離れた。

離れたのは彼が離したからではなく、指の力のほうが先に抜けたからである。


彼が思いついていたのは、その場で測れる形だった。

測れるものは揉めない、というのは、この九年で彼が自分の側から出せた、たぶん唯一の考え方である。


いま出てきたほうは、測るのが翌年になる。

翌年まで待たなければ正しいかどうか分からない規則を、彼は自分では思いつかなかった。


自分では思いつかなかったという事実のほうを、彼はそのあとも手放さずにいる。


ダンがそのあいだ黙っていたのは、反対する側の言い分が出てこないからではない。

探すまでもなく二つ出ていて、二つのうちどちらから言うかを決めかねていた。


「枯れてるやつは、その数に入るのか?」


「入れない。伐ってないからだ」


「じゃあ五本は、勘定の外だな」


「外だ」


ダンはそこで指を一本立てた。


「一つ目な」


「その苗が柱になるのは、何年後だ?」


「分からない。十年か、それより先だ」


「じゃあ、俺たちのぶんじゃない」


「ぶんじゃない」


ノアはそれを認めた。

認めたうえで、言い直さなかった。


「じゃあ、誰のぶんだ」


そう聞いたのはカイである。


ノアは、答えるまでに間を置いた。

答えが無かったからではなく、口に出したときにそれがどう聞こえるかを、先に一度だけ通してみたからである。


「知らんやつのぶんだ」


「知らんやつ」


「顔も名前も知らん。いるかどうかも分からん。……ただ、十年経ってここに立って、柱になる木を探すやつがいるとする。そいつが探して、見つかるか見つからないかを決めるのは、今年の俺だ」


「そんなやつのために、今年の手を出すのか」


「出す」


「なんでだ」


ノアは掌の粉を膝で払った。


「五年前に枯れ木だけにするって決めたとき、俺は今年の俺のことしか考えてなかった。枯れ木を選べば今年は誰も減らん。そう思って決めて、そのとおりになった。……そのとおりになったぶん、半日で回れるところの枯れ木が尽きた」


払った膝のところに、粉が薄く残っている。


「今年の俺が決めたことで、今年の俺が困ってる。……なら、今年の俺は、今年の俺のために決めないほうがいいってことだ」


カイは何か言おうとして、言う前に一度、火の向こうのダンを見た。

ダンは指を折っていない。


「二つ目な」


ダンは二本目の指を立てた。


「数えるものが増える。伐った本数と、植えた本数と、その二つが合ってるかどうかを、毎年見なきゃならん。……秋に足りるかどうかを数えるのは、その年で終わるんだ。終わるから数えられる。これは終わらない。俺が数えられなくなっても終わらないやつだ」


「そうだ」


「そうだ、で済ませるな。誰が数える?」


「お前が嫌なら、俺が数える」


「お前は取り違える。取り違えられるくらいなら、俺が数える」


そう言ってから、ダンは自分で短く笑った。

笑ってから、彼は笊の縁へ指を戻した。

戻した指は、そのまま数えるほうへ動いた。


反対したままである。



苗を植えたのは、雪解けの水が引ききって、掘った穴に翌朝まで湿りが残るようになってからだった。


穴は、大人の膝から下ほどの深さで、間を三歩ずつ空けて掘る。

掘り上げた土は上のほうが黒く、下へ行くにつれて錆に近い赤へ変わっていき、赤いところまで届いた穴だけが翌朝も湿っていた。

湿っていない穴には水を運ぶことになるので、ダンは掘った深さを一つずつ確かめて回った。


三十五と見込んだが、見込みは外れるものだと彼はこの九年で覚えている。

外れる側へ四本足して、三十九まで掘った。


苗のほうは、伐る木の生えている斜面ではなく、川縁の下生えの中から抜いてきた。

あそこは日が当たりすぎるので、どれも背の低いまま何年も伸びずにいる。

抜いても伸びない場所から抜いて、伸びる場所へ据える、というのがノアの言い分で、それなら数のうちに入らないのかとダンは一度だけ聞き、入らないと言われてそれきりにした。


抜けるものは、しかし幾らでもあるわけではない。

日の当たりすぎる帯は川縁に沿って三十歩ばかりで、その内側で背の伸びずにいるものを、ダンは膝を折って一本ずつ指の腹で押さえながら数えていった。


三十一本だった。


生きた木から出さなければならないのは三十五である。

掘った穴のほうは三十九あるから、据え終えてなお、八つは空いたまま残る。


「四本、足りない」


「伸びるほうから抜けば足りる」


「そっちは、数のうちに入るんだろう」


ノアは入ると答えた。


「じゃあ、伐るのは三十一だ」


「三十五要る」


「要っても、三十一だ。植えた数より多くは伐らないっていうのは、そっちが言ったんだ」


ノアはそこで何か言いかけて、言わずに、そうだ、とだけ返した。

返された側は、笊を持ち上げて川縁の帯から先に出た。

反対している決まりを、反対している当人が守らせる形になったが、そのことを口にする言い方は、この日も浮かばなかった。


三十一のうち四本は、据えたそばから傾いたので掘り直している。

掘り直しても傾く一本は、根が片側にしか出ていなかったので、傾いたままにして脇へ石を置いた。

石を置いたのは支えるためではなく、来年これを見つけるためである。


「それ、枯れるぞ」


通りかかったフィンがそう言った。


「枯れたら、枯れたと数える」


ダンはそう返した。


「植え直さないのか?」


「植え直す。ただし、植え直したぶんは今年の数には足さない。……足したら、来年の俺が引くときに、一本ぶん多く持ってることになる」


数え終えて立ち上がったところで、彼は自分がこの春もう一つ、同じ形の数を抱えていることに行き当たった。


畝である。


二年前の春に六本を三本ずつに割ると決めて、去年寝かせた三本には、この春から蒔いている。

代わりに寝ているのは残りの三本のほうで、どちらが寝ているかは年ごとに入れ替わる。

入れ替わりを覚えていられるのは、覚えている者がいるあいだだけだった。

寝ているほうの草は抜いていない。

抜くとまた出させることになる、と教わったからで、教わったとおりにしているだけなら、それは数えるうちに入らないはずだった。


入らないはずのものを、彼は毎年数えることになる。


苗も、畝も、この秋には一粒も戻ってこない。


「三本と、三十一か」


口に出してみたところで、二つを並べて何になるのかは出てこない。

出ないまま置いておくと消えるので、そのまま石板のところへ行って、セトに二つとも刻ませた。


寝ている畝には、日が高くなる頃から塩山羊が来るようになっている。

来るのは草があるからで、来させているわけではない。

ウルが夕方に囲いへ戻して回るのがひと手間で、増えた手間はそれだけである。

減ったほうは、寝ている三本の草の丈だった。

枯れてそこへ落ちるはずだったものが、落ちる前に減っている。


減ったぶんの代わりに、残るものがある。


戻したあとの畝を歩くと、乾いて固まったものが三つ四つ、いくつも足の下にある。

踏むと崩れて、崩れたところだけ土の色が濃い。

草は食われて畝の外へ出ていくのに、これは出ていかずにそこへ残る、ということでもある。


ダンはそれを二度ばかり見て、二度とも足を止めただけで通り過ぎた。

口に出す言い方が浮かばず、浮かばないうちは石板へ持っていけない。



苗を植え終えた翌日から、伐るほうが始まった。


伐るほうで最初に分かったのは、生きている木は重いということである。


水を含んでいるぶん重く、重いぶんだけ、刃が食い込んだところで止まる。

枯れた木なら当てたところから素直に割れたのが、生きている木では割れずに、粘る繊維が刃を挟んで離さない。

フィンが最初の一本に取りかかって、日が指三本ぶん傾いても、切り口はまだ幹の半ばへも届いていなかった。

削り出た木屑は、枯れ木のときの粉と違って乳色に湿っており、握ると掌の中で潰れて水が滲む。


「これ、一本に一日かかるぞ」


フィンがそう言った。


「一日で済むならいい」


少し離れたところで倒した木の枝を落としながら、ダンがそう返した。


フィンは切り口へ人差し指を差し込んで、第二の関節まで入れてから抜いてみせた。


「半日で、ここまでだ」


「済まないよ。三十一本ある」


彼がそう言ったところへ、ノアが棒を一本抱えて戻ってきた。


長さは若木ほどあるが、枝も先も落としてある、ただの棒である。

ノアはそれを、垂木にするほうの細い木の枝分かれへ掛け、フィンと二人がかりで体重を預けて、幹を横へ倒した。

倒したまま押さえていると、押さえられた側の繊維が張る。

張ったところへ刃を入れると、刃のほうが木に迎え入れられるようにして沈んでいく。


同じ太さの木を、フィンは前の日に一人で伐っている。

そのときは打ち込み十七で通した。

この日は、五つで通った。


「曲げると、こんなに違うのか?」


「違う。押さえてるほうが、伐ってるのと同じだけ働いてる」


ただし、掛けられるのは細いほうだけである。

柱になる太さのものは枝分かれが高すぎて棒が掛からず、そちらは相変わらず、一本に一日ずつかかった。

三十一のうち二十四本が細いほうなので、それでも足しにはなる。


曲げるほうは、力の要る仕事ではない。

腕の細い者でも、体重を掛ける場所さえ合っていれば足りる。

足りるので、この日から伐りに出る顔ぶれが入れ替わった。


ヴェルドも、その日から棒の側へ回っている。


掛ける場所は自分では決められないので、フィンが顎で示したところへ体重を預け、預けたまま、刃の入る音が乾いたほうへ変わるまで動かずにいた。一本目で掌の皮が二箇所むけ、二本目からは布を巻いて掛けている。


四本目のあたりで、彼は自分が押さえている幹の太さに気づいた。


あの晩に指で作った太さより、細い。

細いほうから先に伐っているのは棒が掛かるからであって、彼の作った太さのせいではない。


それでも、この春はまだ誰の脚も折れていない。

折れていないのは内側の見えない木を選ばずに済んでいるからで、選ばずに済んでいるのは、伐る本数のほうを先に決めたからである。

決めたのは、彼ではない。


彼はそのことを、押さえている腕の側で承知した。

承知したうえで、次に掛ける場所を訊きに、もう一度フィンのところへ行った。


柄が折れたのは、その三日目である。


太いほうへ回ったフィンが、大きく振りかぶって打ち込んだ。

大きく振れば刃は深く入るが、深く入ったぶんだけ抜くのに力が要り、抜くたびに柄のほうが手の中で捻れる。

捻れが根元へ溜まっていくのを、彼は掌で感じてはいた。

感じてはいたが、振りを小さくすれば一日ぶん遅れるという勘定のほうが、掌より先に立った。


五度目の打ち込みで、柄は根元から裂けた。


裂け口は削りたての木肌のままで、割れた繊維が糸のようにささくれて立っている。

そのささくれの一本が、握り直した右の親指の付け根へ入った。


血は、しばらく出なかった。

出ないので彼はそのまま二度打ち、二度目のあとで手を開いたら、親指の付け根から手首へ向けて臙脂の細い筋が引かれている。


「短くしろ」


見ていたノアがそう言った。


「短くすると入らない」


「入る。肘から先だけで打て。肩から振るから抜けなくなる」


言われたとおりに、肘と手首だけで短く速く打った。

刃は浅くしか入らないが、抜くのに力が要らないので、次の一打がすぐ来る。

すぐ来るぶん、同じところへ何度も当たった。


同じところへ何度も当てると、深くなる。


柄のほうは、その晩に継いだ。


まっすぐな棒はこの春もやはり足りず、足りないのでフィンは棚の下を探した。

探して出てきたのが、二冬前、器の乾くのを待っていた頃に森の南の斜面で拾った角である。


拾ったときは使い道が無かった。

無いまま壁に立てかけてあり、立てかけてあること自体を、この春まで彼も忘れていた。

褪せて艶の失せた表面には埃が層になって乗っていて、袖で拭うと、下から琥珀に近い艶が出てきた。


根元の太いところの太さが、裂けた柄の断面とちょうど合う。


ノアが針を作ったときと同じやり方で、彼は角の根元へ尖った石を回して穴を掘った。

違っているのは大きさだけで、掘り進めた先どうしを内側で出会わせるところまで同じである。


穴へ折れた柄の先を差し込むと、少しだけ緩い。

緩いところへ濡らした腱を巻いて差し直したら、乾くにつれて締まって、指で回しても動かなくなった。


枯葉色の角の先から、白木の柄が出ている。


「これ、角のほうが持つんじゃないか?」


カイが横からそう言った。


「柄のほうが先に折れたら、角だけが残る。角だけ残っても、それはもう斧じゃない。……だから俺は、これを角って呼ぶのをやめる。柄って呼んでおけば、先に柄を見る」

笑い声が二つ上がって、笊のところからは上がらなかった。


伐るほうは、それから十日あまり続いた。


三十一本目を倒した日、伐らずに残ったのは四本だった。

フィンはその前へ、斧を提げたまま立った。

どれも棒を掛けられる細さで、掛ければ半日で足りる。

足りるが、川縁の帯には、もう抜けるものが無い。


「あと四本だ」


「四本ぶんは、植わってない」


ダンはそう言っただけで、フィンの手から斧を取ろうとはしなかった。

取らずに、自分の笊を提げて先に坂を下りていった。

下りていく背中を見てから、フィンは刃の泥を落とし、四本には触れずに斧を肩へ担いだ。



手のほうは、リアが見た。


親指の付け根の傷は、二日目に縁が腫れて、三日目には押すと熱を持つようになった。

彼女は畑の隅の、穂の先だけ錆を帯びた薄い黄をつけている一本から葉を三枚採ってきて、揉んでから貼り、上を生成りの布で留めた。


一昨年の夏に、同じ株から二度採っている。

一度は柵の石を組み直して手の甲を裂いたときで、もう一度は、虫に刺されて肘まで腫らした者へ貼った。

どちらも翌朝には引いていた。


翌朝、布を外した。


腫れは引いていた。


「効く」


彼女はそう言った。

言ってから、その二文字を自分が口へ出したことに、一拍遅れて行き当たったような顔をした。


「言っていいのか、それ?」


聞いてきたのは、貼られている当の手の持ち主だった。

一回目、と返したのは、まだ葉を探して歩き回っていた頃、その同じ手の指の関節へ貼ったときである。

返してから二度目がいつ来るのかを、彼は一度も聞いてこなかった。


「言っていい。同じ株から、年をまたいで二度目だから」


彼女は布を巻き直しながら答えた。


「探して回ってた頃は、二度目が来なかったの。似た葉が三つあって、去年のがどれだったかを私は決められないんだから、来るわけがない。二度目が来ないうちは、効くって言わないことにしてた。……植えたから、来た。木と、同じ」



打つ側が一人で足り、曲げる側が二人で足りるので、残りは運ぶまで手が空く。


セトが石板を膝へ置いて座っていたのは、そういう待ち時間のうちの一つである。

その日は刻むことが何も起きていなかった。

起きていないので、彼は空のほうを見ていた。


遠見鷹は、ほとんど毎日いる。


薄青の高いところを、翼をほとんど動かさずに大きく回っている。

回りながら少しずつ下りてくるのだが、下りきらない。

木の高さの倍ほどのところまで来ると、そこで一度止まり、腹の焦茶をこちらへ見せてから、また上がっていく。

見せる腹は、下から見上げるかぎり毎日おなじ薄さの縞である。


止まる高さが、日によって違わない。


セトはそれを四日ぶん、石板の隅へ短い線で書き分けた。

長い線が高く、短い線が低い。

四日とも、線は同じ長さになった。


「餌を探してるんじゃないんだな」


火のそばで、彼はそう言った。


「餌なら、いるところといないところで高さが変わるはずだ。変わらないってことは、あれが見てるのは獲物じゃなくて、こっちの動きのほうだ。……木を倒すと下生えが揺れる。揺れたところから何か出てくるのを、あれは何度か見てる。だから、倒す音のするところの上へ来る」


言ってから、彼はそれ以上のことを言わなかった。

言えることが無かったからで、その縞が薄青の奥へ小さくなっていくのを、その日も見えなくなるまで見ていた。


夜蝙蝠のほうは、ミラが数えていた。


夕方、空がまだ鈍色を残しているうちに、決まって北の岩の側から来る。

来る刻が、日ごとにほんの少しずつ早くなる。

早くなる幅は指の幅にも足りないが、十日ぶんを並べると、はっきり傾いていた。


「日の落ちるのに合わせてるんだよ、たぶん」


ミラが指を三本立てて、三日ぶんだけ指を折ってみせた。


「そっちも数えてるのか?」


「数えてる。けど、石には置けない」


「置けないなら、どこに置く?」


彼女はそれには答えず、膝の織りかけを持ち上げて、端の目のところをセトのほうへ向けた。

何を見せられているのかは、その場では分からなかった。

分からないまま、彼は自分の石板の隅へ、彼女が指を折った数だけ短い線を並べておいた。


鷹の高さも蝙蝠の刻も、線にすると同じ長さで並ぶ。


その並びに三本目が加わったのは、竪穴を掘りはじめてからである。


家のぶんの穴は、大人が両手を広げた幅の二倍ほどを丸く取って、膝の高さまで掘り下げる。

掘り下げた土は外へ盛って、周りをひと回り高くする。

その土を運んでいたウルが、盛り土の裏側で足を止めた。


地面に、蓋がある。


蓋は掌より少し小さく、まわりの土とほとんど同じ灰色をしていて、縁のところにだけ銀に光るものが張られていた。

爪の先で持ち上げると、下に縦の穴がある。

穴の中は暗く、どこまで続いているのかは見えない。


その蓋の脇に、鼠ほどの獣が一匹、横になっている。


「これ、どうなってる?」


呼ばれて来たセトが、しゃがんで覗き込んだ。


毛は乱れていない。

押さえつけられた跡も、噛み千切られた跡も無い。

腹は膨れておらず、口の周りも汚れていない。

どこにも傷が無いのに、動かない。


「触るなよ」


「触ってない」


ウルはそう答えた。


「触ってないのに、止まってる」


「じゃあ、何が止めたんだ?」


「知らない」


ウルは蓋のほうを指さした。


「これが開いてた。閉まってたのを、俺が開けた」


「開ける前は?」


「閉まってた」


セトは石板を取りに戻らなかった。

戻らないまま蓋を元の向きへ置き直し、その場所を盛り土の端から歩数で数えて覚えて帰った。


刻むかどうかを決めるには、何を刻めばいいのかが分からなすぎた。


盛り土をひと回り高くしておいたことの意味は、その翌々日に分かった。

夜のうちに降って、朝、底に水が溜まっているものと思ってセトが覗きに行くと、底は湿っているだけで、水は外側の低いところを回って流れていた。

高くしたのは掘った土の置き場に困ったからで、雨のためではない。

ためではなかったものが役に立ったので、ダンはそれも数に入れておくと言った。



盛り土の内側へ垂木を渡し、その上へ夏に刈って干した草を葺き終えたのが、秋の入口である。


その屋根の下で最初の晩を過ごしたとき、ミラは壁際の土へ背を預けて、天井の低さに目が慣れるまでしばらくそのままでいた。


二戸とも、掘り下げた床の中央に炉を切ってある。

炉のまわりだけ土が橙に灼けて、灼けたところから外へ向かって、色が鳶色、褐、それから掘ったばかりの黒へと順に落ちていく。

真ん中に立てば頭が垂木に触れ、壁際で座れば拳二つぶん余る。

四人が横になれば端から端までが埋まり、五人目は入口の垂れの内側へ足を向けて寝ることになった。

二戸で十人である。

残りは大木のままで、次の二戸をどの順で建てるかは、ダンが先に決めて刻ませてある。

垂木の上には、川縁の枯茎の灰白を残したままの干し草が、何層にも重ねてあった。


ただし、二戸目の壁は一面だけ下地が入っていない。

四本ぶん足りなかったので、その面は掘り上げた土を高いまま残して塞いである。

雨は外を回って流れていくが、風のほうはそこから入ってくる。

ミラが背を預けているのが、その面だった。


大木の内側で寝ていたときは、肩がいつも誰かに触れていた。

触れていることに不足を言ったことは無いし、触れていないことに何かを期待したこともない。

ただ、いま肩の先にあるのは土で、土は動かない。


動かないものに背を預けると、寝る前に頭の中を通っていくものの中身が変わる。


大木の中では、隣の肩がいつ動くかを待っていた。

待つものが無くなると、先に喋るのは脛のほうである。

四年前からこちら、霜の来る前の晩には決まって、骨のくっついたあたりが芯から冷える。


今夜は霜が来ない。

来ないのに、痛い。


背中の土は掘ったばかりで冷たく、冷たいだけで、こちらへ何かを言ってくるわけではない。


外で、屋根の草が鳴った。


一度きり、少し重いものが乗ったような鳴り方をした。


セトが起き上がって、入口の垂れを持ち上げた。

持ち上げたまま、外の暗がりへ首だけ出して、しばらくそのままでいた。

戻ってきたとき、彼は何も言わずに垂れを下ろした。


「なに?」


「いた」


「なにが?」


「上に」


彼はそれだけ言って横になり、天井の草のほうを向いたまま、しばらく目を開けていた。



その秋、彼が刻んだ二行はこうである。


――九年目。狼、七。水場へ来た数である。

――音。四つずつ。北の岩の、東の裾を回りこんだあたり。風は、日の暮れから川上へ。


去年は、この行の後ろにいつも書き添えていた風の置き場所だけが、埋まらないまま残った。


その一年を挟んで、音は前に聞いたときよりさらに東へ寄っている。

東へ寄るというのは岩を回りこんだぶんこちらへ近いということだが、近いということが何を意味するのかを書き表す印を、彼はまだ持っていない。


持っていないので、方角のほうだけを刻んだ。


そのすぐ下へ、彼はもう一行足した。


――伐った、三十一。植えた、三十一。


この一行だけは、来年も同じ形で刻むことになる。

そう決めたのは彼ではなく、取り違えられるくらいなら自分が数えると言った側の男である。


屋根の草が鳴ったのは、その後も何度かある。


二度目からは、セトは起き上がらなくなった。

起き上がらずに、鳴った晩にだけ、寝床の脇の石板へ短い線を一本ずつ足していった。


線は、季節が変わるまでのあいだに九本たまった。



その九本のうちの四本目の晩に起きていたのは、カイである。


起きていた理由を、彼は翌朝に三度聞かれて、三度とも違う答え方をした。

一度目は「寝つけなかった」で、二度目は「腹が減ってた」で、最後にもう一度、聞いたのがフィンだったからか、彼はこう言っている。


「鳴ってから起きるんじゃ、遅いだろ」


遅いというのが何に対して遅いのかを、言った本人も説明できずにいる。

説明できないまま、その晩から彼は炉の縁へ背を向け、入口の垂れのほうを見て座るようになった。

座る場所は、垂れの合わせ目の隙間から、外の暗がりが指の幅ぶんだけ見えるところである。


九本のうち、彼が起きていた晩に鳴ったのは二度だった。


一度目は、鳴ってから垂れを持ち上げるまでに、息を二つ吸うぶんかかっている。

外は暗く、屋根の草の上に何かが載っていた跡も、押しのけられて筋になったところも無かった。

二度目は、鳴る前から見ていた。


見ていたのに、何も見えなかった。


鳴ったのは彼の座っているところのちょうど頭上で、草の押される音が、右から左へ、四つぶん動いてから止まっている。

四つぶん動いたということだけを、彼は翌朝セトへ言った。

セトは短い線をもう一本足し、その線の下へ、小さく点を四つ打った。


その翌日、彼は垂木を担ぐ列で数を二度間違えている。


六本ずつ運ぶと決めてあるところを、一度目は五本で上げ、二度目は七本担いで、途中で肩から落とした。

落ちた一本が斜面を三歩ぶん転がり、拾いに下りるのにフィンが手を止めた。


「寝てないだろ」


「寝た」


「何刻」


「……数えてない」


「数えてないのは、寝てないほうだ」


フィンはそれ以上言わずに落ちた一本を担ぎ上げ、自分の六本の上へ七本目として載せた。

載せたまま坂を上がり、上まで来ても下ろさなかった。


その晩、ダンが笊を膝の前へ置いた。


「三日で、垂木の上がりが二割落ちてる」


「俺のせいか」


「お前だけじゃない。だが、お前がいちばん落ちてる」


カイは言い返さなかった。

言い返さずに火のほうへ掌を向けて、指と指のあいだから熾を見た。


「起きてるのは、勘定に入らないんだよな」


「入らない」


「入らないけど、要るだろ」


「要るかどうかを、俺は決められない。俺に言えるのは、手が一人ぶん減ってるってことだけだ。……起きてるやつを一人置くと、次の日、その一人ぶんは無いものとして割り振らなきゃならない。二十四人だと思って割ると、毎日どこかが一人ぶん足りなくなる」


「じゃあ、二十三で割ればいいだろ」


ダンは笊の縁へ爪を当てて、そこで止めた。


「そうだな」


止めたまま、しばらく動かさなかった。


「そうやって割ると、置いた一人は、寝てるほうへ数え直せなくなる。……いっぺん外へ出した数を戻すには、戻す理由が要る。その理由のほうを、俺はまだ用意できてない」


その冬までのあいだ、起きている者を置くかどうかは決まらなかった。


決まらないまま、カイは鳴った晩に目を覚ますようになり、覚ますだけで起き上がらなくなった。

起き上がらないのは、起き上がったところで見えないことが、二度で分かったからである。


分かったことのほうは、どこの石板にも無い。



その分かったことを刻まないまま、歩数で覚えておいた場所へは、雪の来る前に一度だけ行った。

蓋は閉まっていて、脇にいた獣は無くなっていた。


九本を鳴らせたものと、蓋を閉めたものが同じかどうかは、まだどこにも刻んでいない。

刻まれていないあいだ、その二つを別々に数えるのはカイの側である。


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