第十七話 ふたつの炎
蔓を編むのに、その春はいつもの倍の長さが要った。
八度目の春である。
支度を言い出したのはリアで、要るものを並べたのはダンである。
並べるといっても、彼のやり方は最初から数の形をしていて、要るものより先に、要る日数のほうが出てくる。
若木を二本、根ごと掘って運ぶ。
その二本を支える添え木が四本。
根を包む土を運ぶ籠が二つ。
それから、二本を並べて立てるところの草を刈って、刈ったあとを踏み固める手が、丸一日ぶん。
合わせて、二人半の手を三日ぶん。
三日ぶんの手が畑と薪から抜けるので、そのぶんはこの何日かで前倒しに済ませてある。
木枠の前に座っている者は、その一覧を聞きながら、蔓を編む手のほうを止めなかった。
編むのは飾りに使う輪である。
若葉の色をした蔓を三本ずつ組んで、組んだものをさらに二重に巻き、巻いた継ぎ目を細い蔓で縛る。
三本のうち一本を、皮を剥いで白木のまま残した蔓にすると、巻いたときに緑の中へ生成りの筋が螺旋に入る。
剥ぐのは爪でよいが、剥いだ直後は滑るので、一度乾かしてからでないと組めない。
一つ作るあいだに、日は指二本ぶん傾く。
二組ぶんなので、二つ要る。
「二つでいいの?」
ウルが聞いた。
「二つでいい」
「四つじゃなくて」
「二人で一つ。だから、二つ」
ウルはしばらく考えてから納得した顔をして、その顔のまま、囲いのほうへ戻っていった。
囲いには塩山羊が二頭いる。
母親のほうは煤けた鳶色で、この三年のあいだに背丈も胴回りも一回り増え、冬毛の抜けかけた背が斑に褪せて、そこだけ枯草色を差したように見える。
もう一頭は、雨に濡れたような栗色だったのが、この冬のあいだにすっかり褪せて、汚れた乳白に近い色をしている。
背の高さは母親の胸のあたりまでしか来ず、四本の脚のうち後ろの二本が、立っているときにわずかに内へ寄る。
寄っているのは去年からで、寄り方がひどくなっているのかどうかは、誰も測っていないので分からない。
三年前に囲いへ居着いたときも、その一頭だけは、もう一頭より頭ひとつぶん小さかった。
ウルは毎朝そこへ行って、塩の吹いた岩からいちばん離れた隅で毛を梳き、梳き終わると岩のほうへ戻す。
梳くのに使うのは、歯を五本残して折った櫛型の骨片で、これは去年フィンが魚の骨から作った。
梳いて取れる毛は、春のいちばん多い日で掌に軽く一杯、それ以外の日はその半分にも届かない。
戻すと山羊のほうは自分で岩へ寄っていき、舐めるものを舐めてから、囲いの内側のいつもの窪みへ座った。
それが三年続いている。
その朝、蔓の輪を届けに囲いの脇を通ったとき、木枠の前にいる者は、ウルが小さいほうへ向かって短く何か言うのを聞いた。
返ってきたのは二音である。
「いま、なんて」
「トト」
「それ、名前?」
「うん」
彼は梳く手を止めずに答えた。
「いつから?」
「わかんない。呼んでたら、そうなった」
木枠の前にいる者は、それについて何と言うべきかを決めかねたまま、糸のほうを見ていた。
口が動かなかった理由は、自分でもはっきりしない。
六年前、リアが前脚を折った兎について「つけない。つけたら、行けなくなるから」と言ったのを、彼女はその場で聞いている。
その場で聞いていて、いまでも覚えているのに、覚えているはずのその一言を持ち出して止める言い方が、いまの彼女には一つも出てこなかった。
出てこないまま、彼女は編み終えた蔓の輪を抱え直して、坂の下の支度の場へ戻っていった。
*
支度の場から離れて、セトは住処の奥の棚の前にいた。
棚には石板が積んである。
八年ぶんで、厚みは膝の高さを越えていた。
そのうちの何枚かを、彼はこの三日のあいだに抜き出して、別に重ねてある。
抜き出す基準は、彼の中でははっきりしていた。
彼女のことが書いてある枚だけである。
八年ぶんの石板は、月の満ち欠けを一枚の目安として積んであるので、抜くと抜いたところに隙間ができる。
隙間が空くと順番が分からなくなるので、抜いた場所には平たい小石を一つずつ挟んで、戻す位置を残した。
挟んだ小石は、全部で三十一個になった。
書いてあるといっても、そこに名前は一つも無い。
名前を持たない者について刻もうとすれば、残せるのは役と場所と行いだけになる。
――木枠の前。糸を通す手が、他の誰より速い。
――秋。骨を継いだ日から三日、寝ているあいだに節が鳴っていた。
――節。歌詞の無いものを、糸を一本通すたびに一度上げる。
――春。糸が足りなくなると節が止まり、足りたところで、また同じところから始まる。
三年で、そういう行が三十一ある。
三十一という数を、彼はこの三日で二度数え直した。
二度数えて、どちらも三十一だった。
その一致の前で、彼はこの三日のうちでいちばん長く手を止めている。
彼はその三十一枚を胸の高さまで抱え上げ、二度ほど積み直してから、木枠の前まで運んだ。
抱えた腕の内側が、坂を下りきるまでのあいだじゅう、鉛の塊を抱いているように重かった。
運んで、膝の上へ置いた。
置いてから、口は開かなかった。
言うつもりの言葉が無かったわけではない。
用意はしていて、用意した言い方を三通り並べて、そのうちのどれを口へ出しても、石板のほうが先に全部言い終えてしまうのだと分かった。
彼女は一枚目を取った。
読むのは速くない。
刻みは印であって文字ではないので、読むというより、その日を思い出す作業に近い。
刻んだ本人でも、三年前の枚は数え直さないと日付が出てこない。
一枚読むごとに、指の腹へ黒い粉がつく。
十枚も繰ると、指先が墨を差したように染まって、袖で拭っても薄い灰色が残った。
十枚を過ぎたあたりで、彼女の手が止まった。
止まった先は、行ではなかった。
石板の隅である。
そこに、丸が一つ刻んである。
線でも数でもない、小さな丸だった。
彫りが浅く、溝に溜まった粉が白く残っている。
「これ、なに?」
セトは横から覗き込んだ。
見た覚えがある。
三年前、骨を継いだ日の石板である。
負傷した者の処置と、その日の経過を刻んだあと、彼はその隅へ丸を一つ刻んだ。
なぜ刻んだのかは、そのときも説明できなかったし、いまも説明できない。
以後、同じ形の印は一度も現れていない。
「印だ」
「何の?」
「分からない」
彼女は丸を指の腹でなぞった。
なぞってから、爪の先についた白い粉を見た。
「これ、いつの?」
「三年前だ。秋の、骨を継いだ日」
彼女はそこで、しばらく黙った。
黙ってから、石板を膝へ戻して、両手を膝の上で重ねた。
「その三日、私、寝てたよね」
「寝てた」
「じゃあ、これは誰が見てたの」
セトはすぐには答えなかった。
答えられないからではない。
夜のあいだ、彼女の息が上がって下がるのを幅ごと数えていたのは彼で、四日目の朝に熱が引くまで、彼はそこにいた。そこまでは刻める。
刻めないのはその手前にあることだった。
刃ができた春に、この石はいずれ人を切ることになる、と彼は口に出した。
そのとおりのことは起きず、刃は最後まで木しか削らず、彼女を折ったのは木の側だった。
外れた言葉と、外れたおかげで起きたこととを、どういう順に並べれば一行になるのかが、そのときも分からず、いまも分からない。
分からないぶんを、彼は隅へ丸で置いた。
「分からない」
彼はもう一度そう言った。
彼女は丸のところへ指を戻して、今度はなぞらずに、指の腹をそこへ置いたままにした。
「じゃあ、そのままでいい」
置いたまま、そう言った。
それから彼女は、膝の上の三十一枚のほうへ手を移した。
「これ、全部、私のこと?」
「そうだ」
「名前、無いのに」
「無い」
セトはそこで、自分が三年ぶん何を残せずにいたのかを知った。
役と場所と行いは残った。
残らなかったのは、それを誰がしたのかという一点である。
「ミラ」
言ったのは、彼女自身だった。
「呼ぶんなら、それでいい」
「……ミラ」
「うん」
彼女はそれきり何も言わず、粉のついた指で二枚目を引き寄せた。
*
節がついたなら、繰り返される。
ヴェルドがそれに気づいたのは、婚礼の前の晩である。
セトがその日の出来事を刻み終えて、刻んだものを声に出して読み上げた。
読み上げるのは去年の秋から続いている習いで、聞く者は聞くし、聞かない者は聞かない。
その晩、読み上げが終わったあとに、ミラが節をつけた。
歌詞は二つだけだった。
「わかぎ」と「ふたつ」である。
若木を二本掘って運んだ、というその日の出来事から、名詞を二つだけ抜き出して、上がるところへ置いた。
一度目は、誰も何も言わなかった。
二度目に同じ節が鳴ったのは、日が指一本ぶん傾いたころである。
薪を割っていたフィンが、割る手を止めずに同じところで同じ高さを鳴らした。
鳴らしてから、自分で少し驚いた顔をした。
三度目は、ウルが鳴らした。
輪の外から三度目を聞いたところで、ヴェルドはこれが役になるほうへ傾いたと見当をつけた。
役というものが、この一同でどう生まれるかを彼は知っている。
誰かが決めるのではない。
二日続けて同じ者が同じことをすると、三日目には誰もその者に代わろうとしなくなる。
それだけである。
作る係、癒す係、記録する係と、そうやって三つ生まれた。
四つ目が、その晩に生えた。
婚礼は翌日の夕方に立った。
若木は一組に一本で、二組ぶんだから二本になる。
その二本を、掘った穴へ並べて入れる。
根と根が触れるほどには寄せず、枝が伸びたときに絡む程度の間を空ける。
間の広さを測ったのはリアで、両手を広げた幅より少し狭いところで杭を打った。
打った杭をノアが踏んで確かめ、少し寄せろ、と言って、言ったぶんだけ自分で寄せた。
掘り出した土を戻して足で踏み固め、編んでおいた蔓の輪を、二本の根元へ一つずつ置いた。
北側の一本へ置いたのがノアとリアで、二人とも輪から手を離すのが同じくらい遅く、離れたあとも指の形がしばらく残っていた。
南側はセトとミラで、先に手を引いたのはミラのほうだった。引いた指はそのまま下へは戻らず、隣の袖の端をつまんで止まっている。
輪を置いた四人が立ち上がったとき、火のまわりで見ていた何人かの手が、胸の前で合わさっていた。
指の組み方が隣から隣へ移っていく。
七年前の雨の夜に、ヴェルドは同じものを一度見た。
あのときと同じで、向けている先を口に出す者はいない。
言わないまま、形のほうだけが先に決まっていく。
二本のうちどちらが先に根づくかで賭けを持ちかけた者が一人いて、乗る者が出ないまま自分で引っ込めた。
緑の中へ螺旋に入った生成りの筋が、夕日を受けたところだけ薄い山吹に見える。
家は無い。
この日を境に変わるのは、大木の中の、誰と誰が同じ夜を過ごすかという一点だけである。
その一点のために若木を二本掘るというのが、傍から見れば釣り合わない話だというのは、ヴェルド自身も分かっていた。
分かったうえで、彼は祝いの言葉を述べた。
「僕が言えることは、たぶん一つだけだ」
火は薪を三段に組んであり、その日のためだけに、割ってから二冬越した乾いたものだけを選んである。
爆ぜるたびに緋の粉が渦を巻いて上がっては、二組の顔を橙に照らし、照らし終えるとまた元の暗がりへ落ちた。
「この木は、二人が植えたぶんだけ生きる。植えたところから先は、木のほうが決める。……それは、あなたたちのことでもある」
彼は少し間を置いた。
「僕にはできないことだから、羨ましいと言っておくよ」
それが祝辞のすべてで、短いという声は誰からも上がらなかった。
その夜、ミラが節をつけたのは「わかぎ」と「ふたつ」の二つのままで、詞は増えなかった。
増えなかったが、鳴らす者は五人に増えていた。
火が落ちてから、ミラは一人で杭のところへ戻ってきた。
ヴェルドはそこにいた。
埋め戻した土を掌で押して、押した先が沈むかどうかを確かめている。夕方に踏み固めたところは、夜のあいだに冷えて締まるので、朝には一度も沈まなくなる。
火のあかりが横から当たって、白い肌の輪郭だけが暗がりから抜けていた。
ミラが覚えているかぎり、この顔はどこも動いていない。
今年、彼女の側には名前が一つ増えている。
「沈む?」
「沈まないよ。……よく踏んである」
彼は手を離し、離した掌を膝で払った。
「さっきの、羨ましいっていうの」
「うん」
「あれ、途中で切ったでしょう」
ミラは杭の頭へ指を置いた。置いてから、その指を離さずに待った。
続きは、あった。
この木は二人が植えたぶんだけ生きて、二人が閉じたあとも木のほうは残る。閉じるから、残せる。閉じない者は、残すというやり方をそもそも持てない――そこまでは、口の中で出来上がっている。
出来上がっていたが、言えば、この場でいちばんあとまで残るのが誰かという話になる。今日この二本を植えた四人は、そのとき自分の側の年数を数えることになる。
彼はもう一度、同じところを押した。
「……よく踏んである、って、二回言った」
「二回でいい」
ミラは指を離し、杭の頭を掌で一度叩いてから戻っていった。
戻る途中で、彼女は「わかぎ」と「ふたつ」を口の中で鳴らしている。
残った側は、そのあとしばらく、掌の跡の残っている土のほうを見ていた。
*
祝いが済んで、朝が来た。
囲いへ行ったウルは、そこで足を止めた。
小さいほうが、横になっている。
横になること自体は珍しくなく、夜のあいだは母親と並んで伏せているし、朝も梳きに行くまで立たない日がある。
この朝と違っていたのは、柵の脇まで来ても、いつもなら先に上がるはずの頭が動かなかったという一点だった。
明けきらない藍の中で、囲いの土には、踏み跡の窪みを縁取るようにして、銀の霜が薄く回っている。
その霜が、山羊の背にも同じように降りていた。
背の霜が溶けていない。
彼はしゃがんで、首のところへ手を当てた。
毛が霜で束になっていて、押すと束のまま倒れる。
倒れた下の皮膚は、指先ほどの範囲だけ、まだ夜の温みを残していた。
冷たくはないが、指の下で動いているものが何も無い。
目のほうは開いていた。
琥珀色の、いつも塩の岩を見ているときと同じ目である。
開いたままで、その目はもうこちらを映していない。
リアが来て、診た。
脚を順に持ち上げ、腹に手を当て、口を開けて奥を見て、耳のうしろを押した。
脚は四本とも折れていない。
腹は張っても凹んでもいない。
口の奥は薄い桃色で、去年の秋に一度腫れたときのような白い膜も出ていない。
耳のうしろを押しても、逃げようとする動きが返ってこない。
一つ一つの間が長い。
長いのは、次に何を確かめるかを考えているからではなく、確かめたことが全部「悪くない」に落ちるので、次を探しているからなのだろうと、ウルには見えた。
「どこも悪くない」
一通り触り終えてから、彼女は膝の埃を払って、そう言った。
「悪くないのに、起きない。……脚も、腹も、口の中も、去年と同じ。押しても嫌がらないのが違うだけ。私に分かるのはそこまでで、そこから先は、診ても出てこない」
「去年も、同じこと言った」
ウルがそう言った。
「言った。去年は、押したら嫌がったの」
「嫌がったら、悪いのか」
「嫌がるほうが、まだ分かる。どこが痛いか、そこで分かるから。……嫌がらないと、探すところが無くなる」
「探すところが無いのは、悪くないってことじゃないの」
リアはすぐには答えなかった。
「私も、そう習いたかった」
答えたのはそれだけで、彼女は膝の土をもう一度払った。
ウルは、そのあと黙っていた。
三年前、この一頭は母親の脇について離れなかった。
そのとき既に小さかった。
去年の春も、その前の春も、ダンは「来年か、再来年に」と言って、その来年も再来年も過ぎた。
群れは二頭のままで、二頭のうち一頭が、三度目の冬の終わりに立たなくなった。
大きくならなかったから増えなかったのだと、ウルはそこで思った。
思ったのが先ではなく、起きたほうが先である。
昼までに、話は別のところへ移った。
使うかどうか、である。
ダンは笊を一度置いてから、そのことを言い出した。
「肉は、食える。骨は、たぶん針になる。腱は、糸だ。皮は……皮は、去年カイが脱いだやつの代わりになる」
彼はそこまで言って、少し黙った。
「言っとくけど、俺は数えて言ってる。数えないで言う言い方を、俺は持ってない」
火のまわりが割れた。
割れ方は、賛成と反対という形ではなかった。
「昨日、あれの脇で輪を置いたんだぞ」
フィンが言った。
「輪を置いたのは木の根元だ。あれの脇じゃない」
「近い」
「近いのと、脇なのとは違う」
ダンはそう返してから、指を三本折った。
「肉と、骨と、腱だ。埋めれば三つとも土に戻るだけで、こっちには一つも戻らない。……皮を入れれば四つになる」
「戻らなくていいものも、あるだろ」
フィンはそう言ってから、自分の言い方が理屈になっていないことに気づいて、そこで止めた。
「どっちでもいいから早く決めてくれ」
三巡目に入る手前でそう言ったのはカイで、言ってから自分で「今のはなしだ」と取り消した。
「なんで取り消した」
そう聞いたのは、フィンだった。
「早く決めろっていうのはな、決まる中身のほうに用の無いやつの言い方なんだよ。俺は用が無いわけじゃない。無いわけじゃないのに、無いように聞こえる言い方をしたから、引っ込めた」
「じゃあ、どっちなんだ」
「分からん。分からんから早く決めてほしかったんだ。決まったら、俺はそっちに乗る。……乗るほうが向いてるんだよ、俺は。言い出す役は、そこの二人でもう間に合ってる」
彼は火を挟んだ向こうの、ノアとダンの座っているあたりへ顎をやった。
「乗るやつが一人もいないと、言い出したほうは真ん中で一人きりで立ってることになるだろ。あれはあれで、誰かがやらないといけない役だと思ってる」
それに何か返した者はいない。
返さないまま、ダンは折っていた三本の指を、数え直しもせずに一度そのまま下ろした。
二巡目に、フィンがもう一度口を開いた。
「さっき、理屈になってないって自分で思って止めた。……止めたけど、やっぱり言う」
「言え」
「肉と骨と腱と皮で四つだって、あんたは言った。四つとも、あれの体から出る。……なら四つとも、あれが三年かけて作ったものだ。俺たちが作ったんじゃない」
「そうだ」
「そうだ、で終わるのか」
「終わる。俺は数えてるだけだ。誰が作ったかを勘定に入れる欄は、俺の石にも笊にも無い」
「じゃあ一行、足せよ」
ダンはそこで、初めて笊から手を離した。
「足した一行は、来年、足りるかどうかを見るときに邪魔になる。……俺の欄は、去年と今年を並べて引くためにある。あれが三年かけて作った、っていうのは、去年の欄には無い数だ。引けない数を横に置くと、足りるかどうかのほうが合わなくなる」
「今年しか使えないものを、今年のうちに言って何が悪い」
「悪くない。悪くないから、お前が言えばいい。……俺は、数えるほうをやる」
フィンは何か言いかけて、そのまま蔓を膝へ下ろした。
下ろしたが、手のほうは動かさなかった。
リアは、何も言わなかった。
六年前に「つけない。つけたら、行けなくなるから」と言った当人が、使うかどうかの話になってから、一度も口を開かない。
ウルはそれに気づいていたが、気づいたことを言う場所ではなかった。
彼が立ったのは、話が三巡目に入ったところである。
「使う」
火のまわりが静かになった。
「毛は梳いた。塩は運んだ。三年やった。それでも大きくならなかったし、俺が何をどうしても大きくはならなかったと思う。……使う。使って、余ったところをあとで埋める」
「ウル」
呼び止めたのはノアである。
「余ったところを埋めるって、どこに埋める」
「囲いの中」
「中か」
「中。……外に埋めると、囲いの内側にいたやつが、外に行くことになる。それは違うと思う」
ノアはそれ以上を聞かなかった。
聞けば理由のほうが出てくると分かっていて、その理由をこの場で言わせるのが良いことだとは思えなかったからである。
ウルは囲いのほうへ歩き出し、歩きながら一度だけ振り返って、火のところにいる全員へ向けて言った。
「名前は、埋めない。埋めるのは体のほうだけだ。残るぶんは、俺が持っとく」
それだけ言って、彼はそのまま囲いのほうへ歩いていった。
*
開いたのはリアである。
代わろうと言った者が二人いたが、二人とも刃をどこへどう当てればいいのかを知らず、知らないまま手を出せば余計なところが裂けることだけは分かっていた。
知らないという点では彼女も同じである。
それでも、外から押して硬いところと柔らかいところを見分けられるのは、五年ぶん人の腫れと骨を触ってきたこの一同で、彼女ひとりだった。
腹の皮は、上から下へ向けて引いた。
一度で切ろうとせず、浅く入れて指を差し込み、指で持ち上げたぶんだけ刃を進める。
持ち上げずに引くと、下のものまで一緒に切れる。
一度それをやって、飴色に透けたすじを一本、途中で切ってしまった。
「それ、使えたやつ?」
ノアがそう聞いた。
「たぶん」
彼女は切れた端を二本の指で押さえ、押さえたまま、しばらくそこから目を離さずにいた。
糸になるはずだったものが、いま二本になっている。
後ろの脚を持って折り曲げてみると、曲がるところは膝にあたる一箇所しかなく、そこから上も下も、押しても引いても向きを変えなかった。
その一箇所で、乳を固めたような色のものが二つ、互いの窪みへ入り込むようにして向かい合っている。
外から押して分かっていたのは、そこが硬いということひとつだった。
硬いのではなく、二つに分かれていたのだった。
セトが石板を持ってきて、彼女の言う順に刻んだ。
「名前は?」
「無い」
「無いのか、知らないのか」
「知らない。……知らないものに名前をつけると、次に別のものを見たときに、同じ名前で呼んでしまうでしょう。呼んだら、違うところを見なくなる」
「じゃあ、どう刻む」
「場所で刻んで。後ろの脚の、曲がるところ。曲がるところの上と下。上と下のあいだで向かい合っているもの。……長いけど、長いほうが間違えない」
セトは刻む手を止めずに、そこだけ石板から目を上げた。
「長い行は、石が足りなくなる」
「足りなくなったら、増やして」
「増やせるのは石で、増やせないのは刻む時間だ。……一枚に一日かかる。一日かけて刻めるのは、いまの二行ぶんだ」
彼女はしばらく黙ってから、言い直した。
「後ろの脚。曲がるところに、二つ」
「それだと、上と下が抜ける」
「抜ける。……抜けたぶんは、私が覚えてる」
セトは、その一行を刻んだ。
刻んでから、覚えている、というのは自分の側では数えられない置き場所だと気づいたが、気づいたところで刻む形を持っていないので、そのままにした。
「これ、こっちにも同じのがあるのか」
ノアが自分の膝を指しながら聞いた。
リアは膝を見て、それから山羊の脚を見て、また膝へ戻した。
戻して、何も言わずに次の関節へ手を移した。
ウルは囲いの柵へ背中を預けたまま、日が傾いて自分の影が皮のところまで伸びても、そこから動かなかった。
動かなかったが、帰りもしなかった。
*
その骨を、ノアは日の高いうちに割ろうとして、一度失敗した。
石で叩くと、骨は割れる。
割れるが、割れ方が毎回違う。
一本目は縦に長く裂けて途中から斜めへ逸れ、二本目は当てた側だけが粉になって芯が残り、三本目は端から指の幅二つぶんのところで横に折れた。
三本試して、三本とも違う形に砕けたことになる。
四本目へ手をかけたところで、彼は石を扱ったときのやり方を思い出した。
あのとき覚えたのは、狙った形を出すには、割るのではなく、同じところを同じように繰り返すという一点だった。
彼は骨の表面へ、先の尖った石で細い溝を彫った。
一度で深く彫ろうとせず、同じ線の上を三十回ほど往復させる。
往復のたびに白い粉が出て、粉を吹き飛ばすと、溝の底が前より一段暗くなっているのが見える。
一本目の溝と平行に、指の幅ぶん離してもう一本。
二本の溝を、骨の端から端まで同じ深さで通す。
通し終えてから、溝と溝のあいだへ楔の先を差し込んで、そっと起こした。
裂けた。
割れたのではなく、彫った溝に沿って細長い一片がそのまま外れてくる。
外れた片は幅が指の半分ほど、長さは掌より少し長く、断面には三十回ぶんの往復の跡が細い縞になって残っていた。
「その裂け方は、残るな」
溝の底を覗き込んでいたセトが、顔を上げずにそう言った。
「砕けた三本は、砕けた形が三つとも残ってない。刻む先が無い。……これは、形のほうが先に残った」
「もう一本、やってみる」
二本目も裂けた。
三本目は溝が浅くて途中で逸れたので、彫り直してからやり直した。
裂いた片を、川の砥石で研ぐ。
水をかけながら、片方の端を細く落としていく。
研ぐ角度が寝すぎると先が丸くなり、立てすぎると先だけが薄くなって、指で押すと折れた。
折ったのが二本、使えたのが四本である。
穴は、尖った石を当てて回して開けた。
片側から一息に貫こうとすると裏側が欠けるので、半分まで掘ったところで裏返し、裏からもう半分を掘って、真ん中で合わせる。
合わせ損なった一本は、穴が二つになった。
溝を彫りはじめてから四本目を研ぎ終わるまでに、三日と、そのあいだの二晩がかかった。
腱のほうは、五日ほど陰で乾かしてから裂いた。
乾くと縮んで飴色に硬くなり、硬くなったものを爪で裂くと、髪よりやや太い筋が何本も取れる。
一本の長さは、長いもので肘から指先ぶん。
一本では引くと切れるので、三本を同じ向きに撚って、撚ったものの端をさらに二本と結び足した。
結び目のところだけは針の穴を通らないので、縫うときはその手前で一度止めて、結び直すことになる。
皮は、リアが処理した。
内側の脂を石の縁で削ぎ落とし、灰を擦り込んで、日陰で乾かす。
削ぐ石は刃を立てず、縁の丸いほうを使う。
立てると皮のほうが裂ける。
脂は削いだそばから手にまとわりついて、水で洗っても落ちず、その日は何を持っても指が滑った。
灰は焚き跡の細かいところだけを笊で漉して、湿らせずにそのまま擦り込む。
削ぎ落とす作業のあいだ、彼女はほとんど喋らなかった。
喋らないことについて、誰も何も聞かなかった。
ノアはその横で、針の穴の大きさを三通り作りながら、一度だけ彼女のほうを見た。
見て、何も言わずに手元へ戻した。
言う言葉が無かったのではなく、言えば彼女に何かを答えさせることになる、とそこで思い当たったからである。
縫えたのは、それから五日後だった。
毛のついたままの皮を二枚、毛を外にして合わせ、縁から指一本ぶん内側を縫っていく。
針が通る。
通った穴へ腱の糸を引き、引いた糸が乾くにつれて縮み、縮んだぶんだけ縫い目が締まる。
一針ごとの間は爪の幅ほどで、広げると縫うのは早いが、引いたときに縁が波を打った。
カイがそれを羽織って、腕を上げた。
「上がる」
彼は続けて、袖の中で肘を曲げた。
「曲がる。指も、動く。……去年のは、これができなかった」
肩のところが少し狭く、腕を下ろしているぶんには分からないが、上げると脇の下がそのぶんだけ突っ張る。
カイはそれを直そうとして肩を回し、回した先で、柵のところに立っているウルと目が合った。
目が合ってから、彼は肩を回すのをやめた。
「……あったかい」
そう言い直して、腕を下ろした。
三年前の秋、彼は魚の皮で作った胴着をじきに脱いで放った。
そのとき石板に刻まれたのは、皮は暖かい、そして指が利かなくなる、という一行である。
その一行の下へ、セトは新しい一行を足した。
――皮は、縫えば曲がる。
*
その針が四本になった日に、ダンは囲いを数え直した。
山羊、一頭。
数え直す必要は、本当は無かった。
二頭が一頭になったことは、囲いを見れば分かる。
それでも彼は柵の外を一周して、内側の広さを歩数で測って、それから石板へ書き足した。
囲いの広さは変わらない。
長いほうが十七歩、短いほうが十一歩で、これは柵を跳べない高さにしたときから変わっていない。
変わらないので、一頭に対しては広すぎる。
実際、残った母親は、この三日というもの、囲いの北の隅、蔦の絡んだ杭の陰から、ほとんど動かなかった。
動かない足元の土だけが、三日で浅い臙脂色の窪みになっている。
「柵、詰めるか?」
聞いたのはフィンである。
「詰めない」
「広いままだと、あいつ、端まで行くぞ」
「行っていい」
ダンはそれきり数えるのをやめて、笊を持って戻った。
戻る途中で、彼は自分が今年から数えられなくなったものを一つ思いついた。
増える見込みである。
三年のあいだ、彼は「二頭が四頭になったら」という数え方を頭のどこかに置いてきた。
その置き場所が、この春で空いた。
空いたところへ入れるものを、彼はまだ見つけていない。
*
数える者が数えるのをやめたその年の、秋の終わりである。
刻む者のほうは、その晩も石板の前にいた。
――八年目。狼、八。水場へ来た数である。
――音。この年は、一度も聞こえなかった。
二行目を刻むかどうかで、セトは少し迷った。
聞こえなかったというのは、起きた出来事ではない。
起きなかったことを刻む先は、彼の石板のどこにも用意が無い。
彼はそれを、煤狼の数のすぐ下へ置いた。
置いた理由は、両方とも減ったからである。
一つだけ、埋まらない置き場所が残った。
風である。
これまでの二年は、聞こえた晩の風を必ず書き添えてきた。
今年は聞こえていないので、書き添える風が無い。
書くとすれば、聞こうとした晩の風を書くことになるが、聞こうとした晩がどれだったのかを、彼は決めていなかった。
決めていなかった、というより、決めておく必要があると思ったことがない。
そう思ったことがないので、そこは空いたままになった。
*
黒板の前に、男が一人いる。
板の上には数が並んでいて、数の脇には、いくつか線が引いてある。
男は白墨を持ち直して、その列のいちばん下へ、名前を一つ書いた。
誰かが銅貨を数えている。
数える音は、名前が一つ増えても速さを変えなかった。
「これは、まだ数に入らないな」
声は乾いている。
乾いてはいるが、笑ってはいなかった。
そう言ってから、彼は書いたそばを指の腹で消した。
消したところに白墨の粉が残り、粉は袖で払われて落ちる。
落ちた先には前に落としたぶんが積もっていて、どちらがどちらか、もう見分けはつかなかった。
――二千九百六十八年後の、秋の話である。




