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Ether World —神々の使徒の物語—  作者: 九十九 蒼一
第一幕 芽吹きの森
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第十六話 焼く土

十一ある椀のうち、縁が黒く焦げているものが六つあった。


焦げているのは、火のそばへ寄せすぎたからではない。

水を入れたまま熾のそばへ置くと、器のほうがゆっくり炭になっていく。

飴色に磨き上げた木肌が、縁のところだけ先に灰を吹いて、押すとその一片が指の下で落ちる。


冬支度の数え上げに木の器の欠けた数が入るようになったのは、この年からである。

七年目の冬だった。

焦げるのは決まって、水を張ったまま置いた側の縁である。

乾いた木は焦げても炭が浅く、指で払えば下から白い木肌が出てくるのに、濡れた木は縁の内側まで色が回って、押すと厚みごと崩れる。

木の器は、水を入れられるところまでは引き受ける。

入れられたまま火の脇へ置かれる筋合いまでは、聞いていないという顔をする。


その違いに気づいたのはこの秋で、気づいたところで、水を入れずに湯を作る方法があるわけでもなかった。


薬を煮出すぶんには、それでも足りていた。

焼いた石を三つ水へ入れれば、椀一杯ぶんの湯は起きる。

起きるが、椀は一杯きりで、二杯目のために石を焼き直しているあいだに、一杯目のほうはとうに冷めている。

石は三つで一度きりしか使えない。

一度水へ入れた石は表面が細かく罅割れて、二度目に火へ戻すと、割れたところから欠けて湯の底へ落ちるのである。

つまり湯を一杯作るたびに、焼くための石を三つ、川原から拾い直さなければならない。


「二十四人ぶんを、この作り方でやろうとすると」


ノアが焦げた縁を指でなぞりながら言った。


「石を焼くのに半日、その半日のあいだに冷めるほうが早い」


作り直せばいい、という話ではある。

実際この三年、器は割れるたび、欠けるたびに作り直してきた。

一つくり抜くのに丸二日かかり、そのうちの一日半は内側を掘る作業に取られる。

外側を丸く削るのは半日で済むのだが、内側は刃を寝かせて少しずつ攫うしかなく、深くなるにつれて手首の角度のほうが先に限界へ来る。

二日という日数は、器一つの値段としては、この一同にとって決して安くない。

その二日を四人ぶん出すと、その日は薪も水も畑も止まる。


ノアはその日、十一の椀を全部ひっくり返して、内側の焦げ方を並べて見た。

六つのうち四つは縁だけで、残る二つは底まで炭が回っている。

残る五つはまだ無事だが、無事なのは水を入れて火にかけたことが一度も無いからで、要するにその五つは湯を作れない器である。


火にかけられる器は、この森に一つも無い。


「作り直す手を、そっちへ回すって話か」


ダンは焦げた椀の一つを取り上げ、縁の炭を親指で払い落としながらそう言った。


「そこまでは口にしてない」


「口にしなくても、手は一つしかない。手の数のほうなら、俺が出せる。……二日を四人ぶんで八日。八日を土へ回して、それが割れたら、木のほうも土のほうも残らない」


「割れるか割れないかは、やってみるまで誰にも言えない」


「言えないものへ八日を出すな、という話をしてるんじゃない。出したあとで俺が何を数え直すことになるかを、先に置いておくだけだ」


払い落とした炭が指の腹で灰になったのを、彼はいったん膝で拭ってから付け足した。


「先に言っておく。俺はこれに乗ってない」


「乗らないのに、手は出すのか」


「出す。……乗る乗らないと、手を出す出さないは、別の話だ」


「どう別なんだ」


ダンは椀を伏せて地面へ置いた。


「俺が乗らないっていうのは、割れたときに、そら見たことか、と言う権利を先に買っておくって意味じゃない。……割れたときに、次はどうする、と聞かれる側に俺がいるってことだ」


「乗ってたら聞かれないのか」


「聞かれん。乗ってたやつは、自分が乗ったぶんを取り返そうとして、もう一回やろうと言う。……俺は、それを言わずに済む側にいたい」


ノアは黙って、それから頷いた。


「割れたら、聞く」


「聞け」



翌朝、ノアは川縁の窪みの土のほうを思い出した。


その春、シルヴァは川縁の窪みを指で示しただけで、それが何に使えるのかは最後まで口にしなかった。

リアが袋へ移して住処へ持ち帰った分は、そのまま棚の下に置かれて冬を越しかけている。


ノアは袋を開けて、中の塊を掌へ出した。

灰へ薄墨を落としたような鈍い鼠色をしていて、乾いた縁のところが放射に細くひび割れている。

水を垂らして揉むと、割れたところが閉じて、また一つの塊に戻った。


戻るのか、と彼は思った。


木は戻らない。

削ったところは削ったままだし、割れたところは接がない。

この三年、彼が触ってきた材はどれも一方通行で、間違えたら間違えた形のまま残った。


彼は塊を二つに千切って、千切った断面を合わせて押した。

継ぎ目が消えた。


もう一度千切って、もう一度合わせた。

また消えた。


三度目は、わざと乱暴に千切ってから合わせてみた。

それでも消えた。

消えるまでに要る力は、指の腹で二度押すぶんである。


木を削るときの手つきは、いつも取り返しのつかなさと隣り合っていた。

削りすぎた面は戻らないから、彼は必ず線を引いてから刃を当てるし、線を引く前には必ず一晩置く。

この土には、その一晩が要らない。

要らないということの意味を、彼はそこでしばらく考えていた。


考えてから、その日のうちに一度だけ、それを口に出している。


「これは、間違えても戻る」


「木は戻らないだろ」


「戻らない。だから俺は線を引く前に一晩置く。これは、置かなくていい」



鼠色の土を捏ねる係は、ウルになった。


理由は誰も説明しなかったが、彼が朝いちばんに川縁へ行って、聞かれてもいないのに掬ってきたからだった。

掬った土には小石と枯れた根が混じっていて、指で一つずつ拾って除けるのに、掬ってくるのに要した時間の三倍がかかった。

小石は目で見えるので早い。

厄介なのは根のほうで、細いものは土と同じ色をしているうえ、指のあいだで千切れると片方が中へ残る。

細いものは拾って除け、千切れて中へ残ったものは、指で探れるところまで探ってから諦めた。


「砂、入れたほうがいい」


リアが横から言った。


「なんで?」


「乾かしたとき、砂の入ってるほうが割れにくかった。焚き火の跡の土で、去年」


「なんで割れにくいの?」


「わかんない。……理屈のほうは、私にも出てこない。出てこないまま、二度そうだった」


ウルは言われたとおり、川砂を掌に二杯ぶん混ぜ込んだ。

混ぜると粘りが少し落ちて、そのぶん手に貼りつかなくなる。

貼りつかないと、捏ねる速さが倍ほど上がる。

捏ねるのは、掌の付け根で押しては折り返し、押しては折り返す動きで、五十を数えるあいだ続けると、中に噛んでいた空気が抜けて、切ったときの断面に穴が見えなくなる。

穴が見えなくなったところを一つの目安にしたのは、手を止める頃合いを決める目印が、ほかに何一つ見当たらなかったためである。


形の作り方は、三日かけて三通り試された。


一つ目は塊をそのまま親指で押し広げる方法で、これは底が厚くなりすぎて、縁のほうが先に薄くなった。

二つ目は板の上で伸ばして曲げる方法で、曲げたところが必ず割れた。

三つ目が残った。

残ったというより、二つが落ちたので、消去でそこへ行き着いた。


紐を作るのである。


掌のあいだで転がして、指の太さの紐を長く伸ばす。

それを底の縁へ沿って一巻きし、その上へもう一巻き載せ、載せた継ぎ目を濡らした指で上から下へ均していく。

一段積むごとに、器の高さが指の幅ぶんだけ増える。

均すときに力を入れすぎると、下の段まで一緒に潰れて壁が外へ膨らむので、指は当てるだけにして、動かすのは手首のほうにする。

一つ積み上げるのに、日の高さが指四本ぶん動いた。


「これ、どこまで積むの?」


「深さは、このくらいまでだ」


ノアが自分の掌を横にして見せた。


「浅いと湯がすぐ噴くし、深いと下のほうが煮えない。木の椀で煮ようとして焦がしたときの深さを覚えてるだろ。あれの倍でいい。粥が入って、掻き混ぜる棒が底へ届く深さだ」


ウルは積んだ。

十二段積んだところで縁が内側へ倒れかけて、慌てて外から支えたら、支えた指の形が壁に残った。

残った形は、上から均せば消える。

消えるということが、彼にはまだ少し面白かったらしく、その日は用も無いのに三度ばかり指を押しつけては均していた。


六つできた。


大きいのが二つ、中くらいが三つ、掌に乗るのが一つ。

並べると、六つとも高さが違い、口の形もそれぞれ少しずつ歪んでいる。

歪みの出方には癖があって、どれも積み終わりのあたり——最後の二段か三段——で外へ倒れかけていた。

手が疲れる場所が同じだからだろうと、ノアは並びを眺めながら見当をつけた。


「歪んでるけど、いいの?」


「入ればいい」


窪地の南の平らなところで、その六つを囲むように薪を組んだ。

組んだのはノアで、薪の量は住処ひと晩ぶんの倍を積んだ。

倍にした理由は、足りなくなってから足すより、余らせて残すほうが安いと考えたからである。

実際には七度足しに行くことになるので、この見積もりは外れている。

火をつけたのは日の出のすぐあとで、その火は日が傾くまで落とさずに焚き続けられた。


一日仕事だ、というのは誰も言わなかった。

言わなくても、途中で薪を足しに行った回数が七度になったところで、全員が分かっていた。


日が落ちてから、熾は橙から鈍い朱へ、朱から灰へと順に色を落としていった。

灰の下から器の縁が覗いたのは、空の藍がすっかり黒へ沈んでからである。


ウルが灰を掻いた。

掻いて、手を止めた。


「割れた」


その一言で、火のまわりにいた者の顔が順に変わっていった。

変わり方に段があったのを、ウルはあとになって思い返す。

一つ目の顔が動いて、二つ目が動いて、三つ目が動くまでに、ひと呼吸ずつ間があった。


六つとも割れていた。

大きいのは三つに、中くらいのは二つずつに、掌に乗るのだけが真ん中から縦に裂けて、裂けた片方がさらに欠けている。

裂け目の縁は角が立っていて、指を滑らせると引っかかる。

土へ八日ぶんの手を預けて、返ってきたのが破片である。

預けた側にしてみれば、利息のつき方としては、いささか一方的だった。


誰も、その晩は破片を片づけなかった。

片づけないまま火のそばへ座って、灰が完全に冷えるまでそこにいた者が、数えて五人いる。



割れた六つのぶんの破片を、セトは翌朝、地面へ並べ直した。


順番に意味を持たせて並べたのではない。

どう並べれば意味が出るのかが分からなかったので、とりあえず割れ口を上へ向けて、六つぶんを一列にした。

並べてみると、破片の数は十五ある。

六つの器から十五になったのだから、平均して二つ半に割れた計算になるが、その半端な数え方をどう書けばよいのかが分からず、彼は「十五」とだけ刻んだ。


ノアが来て、しゃがんだ。

しゃがんでから、しばらく何も言わずに破片を一つずつ持ち上げて、持ち上げるたびに指を割れ口へ入れている。


「割れ口が、全部おんなじ向きだ」


彼が最初に言ったのはそれだった。


「縦だ。六つとも縦に割れてる。横に割れたのは一つも無い」


セトは石板を出して、まだ何も刻まずに持っていた。


「それから、外と中で色が違う」


ノアは破片の断面をこちらへ向けた。


「外側は灰みたいに白いんだ。触るとかさかさしてる。ところが割れ口から二本指ぶん内側に入ると、そこは黒い。黒くて、指を当てると外側より冷たい。……濡れてる。外は乾いてたのに」


そこで彼は口を閉じた。


閉じてから、破片を地面へ戻して、戻した破片をもう一度持ち上げた。

言いかけた続きがあったのだろうとセトは思ったが、続きは出てこなかった。


「乾かす」


出てきたのはその一語だけである。


「どれだけ?」


「分かんない。外が乾いてから、中が乾くまで」


セトは刻んだ。


――割れ口は縦。外は乾き、内は濡れていた。焼く前に、内まで乾かす。


刻んでから、彼はその行を見て、これは起きたことではないと気づいた。

起きたことは「割れた」までである。

その先は、割れ口を見て考えたことのほうだった。


考えたことを刻むのは、教わったことを刻んだ秋の次に、二つ目である。

彼はその行を消さずに、下へ小さく線を一本引いた。

線の意味は、まだ決めていない。


乾くのを待つあいだ、することは無かった。


作り直した六つを日陰へ並べて、雨の日は屋根の下へ入れ、晴れの日は外へ出す。

それだけである。

朝に出して夕に入れる役を、その期間は日ごとに交代した。


何もしない日というのは、思ったよりも長い。

畑は雪の下で、川は縁から凍り、薪は足りていて、繕う布も切れていない。

手が空くと、空いた手のほうが先に落ち着かなくなるらしく、器を並べ直しに行く者が日に何度も出た。

乾く速さが並べ直しで変わらないことは承知のうえで、それでも足のほうが向く。


三日目に、フィンが一つを指で弾いた。

音が鈍い。


「鈍い」


「三日で乾くわけないだろ」


カイがそう言った。


「知ってる」


「知ってて弾くのか」


「弾かないと、鈍いかどうか分からん」


七日目に、また弾いた。


「まだ鈍い」


「四日ぶん鈍いのか、それとも三日目とおんなじ鈍さか」


フィンは指を止め、答えるまでにひと呼吸ぶんの間を置いた。


「……分からん」


「じゃあ覚えとけよ。おんなじ鈍さなら、四日ぶんはどこへも行ってないってことになる」


言ってから、カイは自分の言い方に自分で引っかかったらしく、指の腹を器の縁へ当ててみている。

当ててみたが、弾きはしなかった。


十日目、十四日目と続けて、二十日を過ぎたあたりから、弾いた音が少しずつ高くなっていった。

高くなっていることに気づいたのはフィンで、気づいたことをセトに言い、セトは弾いた日と音の高さを刻むようになった。


石板へ書き足す欄が一つ増えたところで、乾くまでの日数のほうは一日も縮まらない。



乾くのを待つあいだの、なかばである。

ダンは薪の列を数え直している。


数え直す気になったのは、朝に器を外へ運び出す途中で、いちばん奥の列の天端が自分の肩より下にあるのを見たからだった。

冬に入った日には、その列だけが目の高さにあった。

高さで覚えていたのは、そのほうが数えるより早いからである。


薪は屋根の下へ六列に積んである。

一列が十一段で、一段が六本、その六本がちょうど一日ぶんになるように割ってあるので、一列で十一日ぶん、六列で六十六日ぶんになる。

彼は冬を六十日と見込み、外れる側へ六日ぶんを足した。

去年は四日ぶん足して四日とも使い切っているから、足す量のほうを毎年少しずつ増やしていることになる。


取るのは端の列からで、端が尽きてから次へ移る。

その順番は誰かが決めたというより、いちばん手前が取りやすいというだけの理由で三年続いてきた。


彼は笊を足元へ置いてから、端の列に手を当てて、そこから順に数えていった。

一列目は空、二列目も空、三列目が四段残っている。

ここまでで二十九日ぶんを焚いた勘定になり、そこまでは日の数と合った。

四列目と五列目は、積んだ日から一本も抜かれていないので、段の角がまだ割ったときのまま立っている。

六列目——いちばん奥——が、天端で二段ぶん低い。


十二本である。


「二日ぶんだな」


口に出してから、彼はもう一度端まで戻って数え直した。

二度目も十二だった。

三度目には、段の途中に隙間ができていないかを見た。

下から抜いてあれば上の段が沈んで厚みのほうが変わるはずで、変わっていないのなら、天端から順に持っていかれたことになる。

変わっていなかった。


「数え間違いだろ」


薪を抱えて通りかかったカイが、抱えたまま止まってそう言った。


「三度数えた」


「三度目で合ったんじゃないのか」


「三度とも合わなかった。合わないほうで、三度そろった」


カイは抱えていたぶんを下ろし、奥の列を覗き込んで、しばらく黙っていた。


「奥から取ったやつがいるんだろ。誰だよ、そんな遠回りするのは」


「奥は、取りにくいほうだ」


「……そうか。そうだな。取りにくいほうから取る理由が、こっち側には無いな」


二人は屋根の下から出て、坂のほうへ回りこみながら、雪の面を端から目でなぞった。


その三日、雪は降っていない。

降っていないのだから、三日前についた跡はそのまま残っているはずだった。

残っているのは彼ら自身のもので、器を出す者と入れる者が日に二度ずつ通る道が、雪を踏み固めて、坂の縁まで硬く光る帯になっている。

その道から外れたところに、跡は一つも無い。


「入ってこられないだろ、ここ」


カイは屋根の下の低いほうの端へ掌をかざした。

端は彼の腰より下にある。


「入るとしたら、俺たちが通ってるところを通ることになる。……通ったんなら、そいつは俺たちの足跡の上を歩いたことになるぞ。それ、けっこう手間だ。十二本のために」


カイはそこで口を閉じた。

口の端が下がっているので、自分の言い草のほうが気に食わなかったのだと分かる。


ダンがその日のうちにしたことは、勘定の話をしにいくことではなく、手を動かす側の二つだった。


一つは、六列目の残りを五列目の脇へ全部移したことである。

移すのに二人がかりで、日が指二本ぶん動いた。

奥へ置いておく理由は、この朝までは「手前から取るから」だったのが、この朝からは一つも無くなった。


もう一つは、見込みのほうを直したことである。

外れる側へ足しておいた六日ぶんのうち、二日ぶんが焚かれもせずに消えた。

残る四日ぶんで冬の終わりまでを持たせる形になり、彼はその数を笊の縁へ爪で刻んだ。

石板のほうへは持っていかなかった。


「セトに言うか」


「言う。……言うが、あれが刻む形は『薪、十二本、無い』だ。無いということしか刻めない」


「足りるだろ、それで」


「足りない。俺が知りたいのは、来年いくつ足しておけばいいかのほうだ。それは『無い』からは出てこない」


翌年の秋、彼が外れる側へ足したのは十日ぶんである。


その冬のうちに、彼は同じ列をもう一度だけ端から数え直している。

二度目に減っていたのは五本で、減った本数のほうよりも、雪の上に跡が一つも増えていないことのほうを、彼はその朝しばらく見ていた。



跡の増えない雪の上を、その数日あとにフィンが歩いている。


乾くのを待つあいだに、彼は森の南の斜面で角を拾った。


枝角鹿の角である。

落ち葉と同じ枯葉色をしていて、根元のところだけが乳白に近い。

先が二股に分かれ、その先がまた分かれていて、分かれ目のところだけ濡れた土の色に汚れている。

最初は枝だと思って蹴った。

蹴った感触が枝ではなかったので、拾い上げた。


死体は無い。

まわりを二十歩ばかり探して、血の跡も骨も見つからなかった。


彼は角を持って帰り、火のそばへ置いた。


「なんだそれ」


「落ちてた。鹿の」


「殺したのか?」


「落ちてた」


カイがそれを持ち上げて、根元の断面を覗き込んだ。

断面は滑らかで、折れたところの形をしていない。


「抜けたのか、これ」


「知らない。けど、まわりに何にも無かった」


「落としものにしては、ずいぶん重いな」


カイはそう言って、断面を親指でこすった。


「持ち主が取りに来たら、返すことにしよう。……来ないほうに賭けるけど」


その日はそれで終わった。

角は住処の壁の、乾かした器を置いてある棚の下へ立てかけられて、そのまま何にも使われずに冬を越すことになる。


拾ったこと自体は、セトが刻んだ。


――角、一つ。落ちていた。使い道は無い。



乾いたなら、次は焼き方のほうだ、とノアは考えた。


一度目と同じに焚けば、一度目と同じところまでしか行かない。

違えるところが要る。

違えられるのは、薪の組み方と、火の当て方と、どちらの二つかである。


彼が選んだのは、火を弱くすることではなかった。


「上から、土をかける」


「かけたら消えるだろ」


「消えない程度にかける。灰が上まで来てから、そのうえへ載せるんだ。土は火を消すが、抜けようとしてる熱のほうは押し戻す。冬に屋根の隙間を塞いだとき、火を大きくしないで暖かくなったのと、たぶん同じ話だ」


薪を組んで火をつけ、器のまわりへ熾が回ったところで、掘っておいた土を上から少しずつ被せていく。

被せると煙の抜け道が細くなり、乳白の煙が土の隙間から幾筋にも分かれて立ち上った。

筋の一本ずつが、上へ行くにつれて青みを帯びて、そのまま暮れかけた空の色へ紛れていく。

その筋が細くなるまで、誰も薪を足さなかった。


土の下は、朝まで温かかった。


翌朝、まだ湯気の立っている土を、ノアは棒の先で崩した。


崩す前から、まわりには人が立っている。

割れた晩に灰の冷えるまで座っていた五人が、そのうちの四人まで来ていた。

残る一人は、二十日以上のあいだ器を弾き続けたフィンで、彼は最後まで来ずに、少し離れたところから見ている。


出てきた器は、一度目とは似ても似つかない色をしていた。


覆いが最後まで保ったところは煙を吸ったような暗い鉛色に沈み、土が割れて風の入ったところだけが錆に近い赤褐に上がっている。

熟れた実のような明るさは、その境目にひと筋あるきりだった。

持ち上げると、一度目より薄い。


「弾いてみろ」


ノアがそう言って、離れたところへ差し出した。

フィンが来て、爪ではなく指の関節で、二十日ぶんと同じ場所を弾いた。


「高い」


高いというより、澄んでいる。

そう言い直す言葉を彼は持っていなかったので、もう一度だけ弾いて、それきり黙った。


割れていない。


六つとも割れていなかったが、そのうち二つは口の縁が歪んで、置くと座りが悪い。

座りが悪いだけである。


彼はその一つに水を汲んで、火にかけた。


かけたまま、しばらく手を離さずにいた。

離さずにいたのは、いつ縁が焦げるかを見ていたからで、焦げなかったので、そのうち手を離した。


水は沸いた。


縁のところから小さい粒が並んで上がり、粒が大きくなり、やがて面のほうが動きはじめる。

木の椀では一度も見たことのない動き方だった。

見たことのない動き方をしているものを、彼はそれからしばらく、薪を足しもせず、退けもせずに見ていた。



その器に、ウルが初めて粥をよそったのは、その日の夕方である。


よそう前に、ダンが勘定を済ませた。


「この冬に作り直せなかった木の器が、六つ。土のほうで割れたのが、六つ。数に出せるのは消えたほうの手だけで、合わせて十二ぶん、この冬まるごと消えてる」


彼は棚の下を指した。


「そのぶんを何に使ったかっていうと、待つのに使った。二十六日、乾くのを待って、何にもしてない」


火の周りの誰も、それに何も言わなかった。


「そのうえで言うけどな」


ダンは笊を下ろした。


「足りた」


粥は、最初の一杯を分けるのに手間取った。


熱いのである。

木の椀は熱いものを入れても持てたが、赤褐色の器は中身と同じ温度になり、両手で抱えると掌が耐えられない。

ウルは布を巻いて持ち上げて、巻いてもまだ熱かったので、置いて、少し待ってからもう一度持ち上げた。


待つというやり方をこの冬で覚えたのは、たぶん自分ひとりではないだろう、とウルは湯気の向こうを見ながら考えた。

考えただけで、それを誰かへ向けて言うことはしなかった。


二十四人ぶんの粥が、一つの器から順に配られた。


配りながら、ウルは器の縁を三度持ち替えた。

持ち替えるたびに湯気が顔へ上がってきて、その湯気が眉のあたりで白く散る。

持ち替えたのは熱いからで、木の椀では、掌のいちばん厚いところまで熱が来たことがない。

木のほうは守ってくれていたのだと、彼はそこで初めて思った。

守られていたぶん、熱いという感じのほうも彼のところまでは届いていなかったことになる。

受け取る側は、みな両手を先に出して待っていた。


全員、というのは二十四人のことである。

ウルは掬う手を一度止めて、二十五人めのぶんを数えかけた自分に気づいた。

ヴェルドは、この冬まだ一度もこの火のところで食べていない。

いつからそうなのかは、思い出せなかった。


棚の下では、使い道の無い角が壁に立てかけられたまま、湯気の届かないところで冷えている。


椀は、朝までに全部戻ってきた。


同じ鍋から同じものを、全員が同じ夕方に受け取ったのは、この森に来てから初めてである。

初めてであることを、誰も口に出さなかった。

出さなかったが、受け取ったあとに立ち上がって二杯目を待つ者が一人もいなかったので、たぶん皆それに気づいてはいた。



前の晩に刻んだ二行を、セトは翌朝もう一度読み返した。


数のほうは、また一つ減っている。

減った数のとなりへ、彼はこの冬に増えた項目を書き足していた——弾いた日と、そのときの音の高さである。

音の高さを刻む形はまだ無いので、短い線を鈍い音、長い線を澄んだ音として、線の長さで書き分けることにした。


――七年目。狼、九。水場へ来た数である。

――音。四つずつ。北の岩の、日の出る側へ戻った。風は、夜半から川下へ。


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