第十五話 結びの大樹
「これ、何年やった?」
セトが石板を火のほうへ向けて、そう聞いた。
――蒔くのは、大きいほうの種。食うのは、小さいほう。
昼に刻み終えたばかりの二行目で、溝には削った粉がまだ白く残っている。
彼はそれを親指の腹で払ってから、顔を上げた。
こちらの数え方でいえば、七年目である。
その七年ぶんなら、彼は石板の枚数で言える。
シルヴァは明るみの届く手前の下生えにいて、日が落ちてもまだ林へ帰っていない。
熾の割れ目から漏れる緋が届くのは褐色の腕の半ばまでで、その先は暗がりに沈んでいる。
刻んでいるあいだ、いつもより手が速く動いている。
そのことに途中で思い当たって、彼は一度止めて、それから同じ速さで続けた。
「……私たちは、年を数えません。……数えると、いつからか、が要ります。いつからか、を決めた者が、私たちの側にはいません。……見た回数なら、言えます。ただ、これは、私が見はじめるより前からのことです」
シルヴァはそう答えてから、林の奥を見た。
「あの木より、前です。……あの木が、あの太さになるより前から、私たちはそうしています。……あなたたちの言い方だと、たぶん、あなたたちが生まれるより前です」
彼女が見た先には、下生えの上へ頭ひとつぶん抜けて、この森でいちばん太い木が立っている。
根元をぐるりと回れば三十四歩ある。
住処にしている木の幹のほうは二十六歩で、その二十六歩が、十人で手を広げてようやく指の先の触れる太さである。
八歩多い、というのが、去年カイが数えながら歩いて持ち帰った数のすべてである。
*
あの木の話が出た日の翌朝、シルヴァは川縁のほうを指した。
指しただけである。
言葉は一つも添えられなかった。
リアが立って、指された先まで歩いていった。
雪解けの水が引いたあとの窪みで、そこの土だけが、まわりの土に対して鉛を混ぜたような鈍い鼠色に沈んでいる。
しゃがんで、掬った。
掬った土は、畑のものとまるで違う手触りをしていた。
指のあいだで潰そうとしても潰れず、押せば押した跡のままそこに残り、握って開いても崩れずに掌の上へ座っている。
「これ、なんの土?」
シルヴァは川縁まで下りてこなかった。
畝の側に立ったまま、こちらを見ている。
「……分かりません」
「分からないのに指したのか?」
「畑の土とは、違うので。……違うものを見つけたら、見せることにしています。何に使うかは、見つけた者が決めることではありません。……私たちの側でも、そうしています。誰かが、いつか、使い方のほうを持ってきます」
リアはもう一度、その土を握った。
握った跡が、掌の上へきちんと残っている。
畑の土が握れないことに雪の引けた朝から悩んでいたのだから、これは良い土なのだろうと考えるほうが自然だった。
「これ、畑に混ぜたら」
「……やめたほうが」
シルヴァの返事は、この日いちばん早く来た。
「そこには、何も、生えていません。……何年も見ていますが、一度もありません。……あなたたちの畑は、握れなくなって困っているのでしょう。あそこは、握れて、何も出ません。……握れることと、出ることは、別のことです」
言われてから、リアは窪みのまわりを見回した。
言われたとおりだった。
黒土のところには去年の茎が枯れたまま残っているのに、鼠色の窪みには、枯れた茎の一本すら立っていない。
何も生えていない土を良い土だと思ったのは、握れたからである。
握れることと育つことが別々だという見方を、彼女はその日まで一度も持ったことがなかった。
これまで手に取ってきた土は、握れるものがよく育ち、握れないものが育たず、二つが離れる場面に一度も出会わなかった。
握れて、それでいて要らない土。
そんなものがこの世にあるとは、この日まで一度も考えたことがない。
彼女はもう一度その土を握って、開いた掌の上に残った形を、親指で崩した。
崩した粉を膝で払ってから、彼女は袋の口を膝のあいだで挟んで開き、掬った分だけをそこへ移した。
移してから、何に使うつもりなのかを自分に聞いてみて、答えのほうは一つも出てこない。
答えが出ないので、彼女は袋の口だけを結んだ。
結んだ袋を住処の隅へ置いて、彼女が次にそれを開けたのは三日たった朝である。
袋の中の土は、掬ったときの形のまま固まっていた。
掌で握った跡が、指の一本ずつまで残っている。
爪を立てると白い筋がつき、その筋は指の腹で撫でても、掌の付け根で押さえても消えなかった。
袋の口を締め直して、彼女はそれを棚の下へ押し込んだ。
押し込んだ場所は覚えておくことにして、覚えておく理由のほうは、やはり出てこない。
*
握れる土の袋が棚の下へ入って何日かしてからのことである。
育てるというなら、あの木は誰が育てたのか、というのがヴェルドの問いだった。
その日、彼はカイが三十四歩を数えた木の下まで歩いていった。
実りの夜に輪の熱の届く境目で座らずにいたときと同じ立ち方で、彼は幹の手前に立った。
着いたのは日が茜に傾いてからで、東の空はもう濃紺の底へ沈みかけ、シルヴァはそのときにはとうに根方へ座っている。
近づいてまず目に入ったのは、木そのものではなく、その周りだった。
幹から十歩ばかりのあいだには、指の太さのものまで含めて、他の木が一本も立っていない。
下生えは膝の高さまであるのに、そこから先は落ち葉と、その下の湿ったものだけになり、頭上も同じ幅で開けていて、その開けた分だけ光が真っ直ぐ下りてくる。
地面には、腕ほどの太さの根が抜けたあとの窪みが、落ち葉に半分埋もれて残っていた。
数えれば六つある。
森というのは、空けられた場所のことをずいぶん長く覚えている質らしい、とヴェルドは思った。
幹の北側に苔が回っていて、その苔が、樹皮の裂け目から滲んだ琥珀の樹液に触れるところだけ、濁った金へ色を変えていた。
「これは、あなたたちが植えたものですか?」
「いいえ。……植えるという言い方を、私たちはしません。……どこに落ちるかを決めるのは、こちらではないので。……落ちたものが、そこに残りました。それだけです」
「では、勝手に生えたということですか」
「……勝手に、というのは?」
シルヴァは同じ言葉をもう一度、初めて聞いたものとして受け取り直した。
「……勝手に。……その言い方だと、こちらが何もしなかったことになります。していないわけでは、ないのですが」
シルヴァはそこで長く止まった。
止まっているあいだ、ヴェルドは急かさなかった。
急かさないでいられるのは、彼が時間を持て余している側の存在だからだった。
「私たちは、抜くほうを、決めました。……植えるほうは、決められません。どこに落ちるかは、こちらの手の外です。……落ちたあとのことなら、少し、決められます」
「抜くほう」
「……ここに、同じくらいの木が、七本ありました。七本のうち、六本を、抜きました。……残した一本が、これです。……抜いたのは、一度ではありません。抜いてから葉の落ちるのを、六度、見ました。そのあいだ、どれを残すかは決めていません。……葉をいちばん先に落としたものを、そのたびに抜きました。残ったのが、これです」
ヴェルドは幹を見上げた。
見上げたところで、梢は葉の重なりに隠れて見えない。
見えない代わりに、幹の太さのほうが目に入る。
地面の近くで一度大きく張り出し、そこから上は捻れながら細くなっていて、捻れの向きは日の当たる側へ向いていた。
捻れるだけの年月があったということでもある、と彼は思った。
六つの窪みがその隙を空けた、ということでもあった。
「それは、育てたと言うんじゃないですか?」
「言いません。……育てる、というのは、そうなってほしい形が先にある言い方でしょう。……こちらには、それがありませんでした」
「なぜ?」
「私たちは、この木を、こうしたかったわけでは、ないからです。……こうなってほしいと思っていたら、たぶん、こうはなりませんでした。……思ったとおりになる木を、私たちはまだ一本も見ていません」
風が梢の上を通って、葉のこすれる音だけが、風の過ぎたあとから遅れて降りてきた。
音が止むまで、シルヴァは続きを言わなかった。
待つあいだ、ヴェルドは彼女の話し方の速さのほうを測ろうとしていた。
一つの区切りから次の区切りまでが、こちらの三つぶんにあたる。
それでいて、同じ長さの時間に置かれていく中身の量は、こちらより明らかに多い。
遅くて、しかも多いという喋り方を、彼はこれまで一度も聞いたことがなかった。
速さの違うものが、同じ森で、別々の知恵を持っている。
どちらが先に正しいかを決めるのは、たぶん自分ではない、とヴェルドはそこで思った。
思ってから、ではそれを決める者がどこにいるのかを探してみて、探した先には誰もいなかった。
「……六本を抜いたら、残った一本が、こうなりました。こうなったのは、この木が、そうしたからです。私たちは、場所を、空けただけです」
ヴェルドは、自分の指先を見た。
彼はかつて、魂の器へ水を注いだことがある。
二十四人が、その水から立ち上がってきた。
注いだのは彼で、注げと言ったのは彼ではない。
そして注いだあとに何が起きるかを、あのとき彼は一つも知らずにいた。
「僕らは、作るほうです」
彼はそう言った。
「石を割って刃にします。木をくり抜いて家にします。形のほうを先に決めて、そこへ向かって手を動かす。決めた形にならなかったら、それは失敗と呼ぶことになっています」
「はい」
「あなたたちは、決めないんですね」
「決められません。……決めても、木のほうが、聞きません。……失敗、というのは、怒っている言い方に聞こえます。決めた形にならなかったものに、名前を付けて、脇へ寄せる言い方です。……あなたたちの怒り方は、速いですね。……その怒りも、あと十年もすれば枝ぶりが変わるでしょう。私たちは、そのくらいで見ています」
ヴェルドは笑った。
笑い声のほうが、思っていたより短く切れた。
「それは羨ましい話なのか、そうでないのか、どちらなんでしょうね」
「……分かりません。……羨ましいというのは、こちらが持っていないものを見たときの言い方でしょう。……あなたたちは、決めたものを見られます。私たちは、見られません。私が抜いた六本のあとを見るのは、私ではない誰かです」
シルヴァは幹に背を預けて、そこで初めて、こちらを正面から見た。
「ただ、あなたたちの作ったものは、あなたたちがいなくなると、止まります。……私たちの空けた場所は、こちらが閉じても、木が使います」
ヴェルドは何も返さなかった。
返す言葉が浮かばなかったからではない。
閉じる、という言い方を、彼はそのとき初めて聞いた。
終わる、とは言わないのだと、聞いてから分かった。
返せる言葉はいくつも浮かんだが、そのどれもが、自分だけが閉じない、というところを通らずには言えなかった。
見上げた梢はやはり葉の重なりに隠れて見えず、幹の北側の濁った金だけが、着いたときより色を沈めていた。
彼は幹のほうへ話を移した。
「この木に、名前をつけていいですか?」
「名前は、つけません。……名前をつけると、そのものだけが要ることになります。要るものと要らないものが分かれると、要らないほうを抜くときに、手が速くなります。……速いのは、こわいので」
「そちらはそうなんでしょう。僕らはつけるんです」
「……止めません」
「結びの大樹、というのはどうでしょう?」
シルヴァは幹の裂け目を、指の背で一度だけ撫でた。
「結ぶ、というのは?」
「境、と言わないためです」
「……境、というのは、線を引くことでしょう。線を引けば、どちらの側かを決めることになります。……こちらは、引きません」
「引かないんですか」
「引きません。……私たちは、動きませんので」
「こちらは動きます。動くほうが線を引くと、引いた線のほうが先に古くなる。……だから、線ではなく、一度ここで会ったということのほうを名前にしておきたいんです」
撫でただけで、承知したという合図は何も返ってこなかった。
*
承知の合図が返らないまま夏が過ぎて、その秋の実は、ダンが割り出したとおりに減った。
六本ぶんの畝から戻ってきたものを、彼は日を置いて三度数え直した。
三度とも同じ数だった。
去年の秋、最後の一杯は縁のすぐ下まで来て、そこから運ぶ者の肩が二度替わっている。
今年は縁より指二本ぶん下で止まり、肩は替わらずに済んだ。
肩が替わらずに済んだぶん、笊は軽い。
山吹に乾いた実の並びは、去年より六日ぶん短い。
「六日だ」
口から出たのは、それだけだった。
カイが内訳を聞いた。
「二日は畝だ。リアへ渡した一本ぶん。あとの四日は、土のほうだ。……去年より軽いって言われたぶんが、そのまま四日で出てきた」
「合わせて六日」
「合わせて六日。それに、去年からの足りない日数が乗る」
「で、いくつになる?」
「言わない」
彼は笊の縁を親指で挟んで、挟んだまま一度、内側へ押した。
「言えば、その数を持って冬まで歩くことになる。……去年それをやって、俺は自分の腹から二日ぶん出した。今年は、冬に入ってから数える」
去年の彼は、言わずにおいた数を四日かけて口の外へ出した。
今年は、出せる数を持っていて、出さない。
冬に向けて数え直したものを、彼はそのあと、去年と同じ順で棚へ置いた。
下の段の奥から、日持ちのしない順に並べる。
手前の三袋は年内に空く見込みのもので、奥の二袋が、空の粒が岩の肩へ来る頃まで残す分にあたる。
去年は奥の二袋のうしろに、拳一つぶんの隙間があった。
今年は、そこへ拳を入れても壁に当たらない。
袋が痩せたぶんだけ、うしろが広くなっている。
その隙間を、カイが覗きに来た。
「壁、見えてるぞ」
「見えてる」
「去年は見えてなかった」
「見えてなかった」
「……で、いくつだ」
「冬に入ってからだ」
カイは拳を隙間へ差し入れ、差し入れたまま少し動かしてから抜いた。
抜いた手の甲には、棚を彫ったときの削り口の粉が、薄い生成りのまま筋になってついている。
「聞いたら答えるやつだと思ってたよ、あんたのことは」
「去年まではな」
置き方まで同じにしたのは、去年との差がどこで出るかを、来年の自分に分かるようにしておくためだった。
差が出るとしたら、袋の並びではなく、いちばん奥の袋がいつ軽くなるかである。
*
いちばん奥の袋が軽くなるより先に、畑の隅の一本が穂を落とした。
薬草は、根付いていた。
リアは春のうちに三種を植えて、そのうち二種は夏を待たずに枯れ、残った一種だけが、穂の先に錆を帯びた薄い黄をつけた。
残った株から、彼女は夏のあいだに二度、葉を採っている。
一度目は柵の石を組み直していて手の甲を裂いたフィンへ、二度目は虫に刺されて肘まで臙脂に腫らした者へ。
どちらも、貼った翌朝には腫れが引いていた。
「効いたな」
横で見ていたカイがそう言った。
「まだ」
「二回やって、二回とも効いたんだろ」
「同じ株から二回。だから、来年もう一回」
「二回続けてって言ったのは、お前だろ」
「同じ年の二回は、一回だと思う」
カイは口を開いて、そのまま閉じた。
閉じてから掌で自分の膝を一度叩き、何も言わないまま立っていった。
効いた、と言ってしまいたい側にいるのは、彼女のほうである。
言ってしまえば、次に腫れた者が出たときに迷わず貼れる。
迷わず貼って、それで引かなかったときに、何を疑えばいいのかが分からなくなる——去年の斜面で似た葉を三枚掌に並べたとき、欠けていたのはまさにそこだった。
彼女は摘んだ葉を二枚だけ残して、あとは日陰へ吊るした。
吊るした二枚は、乾くにつれて縁から先に丸まり、錆のところだけが赤紫へ濃くなっていく。
*
日陰の葉が縁から丸まりはじめた頃に、水場の泥から足跡が一つぶん消えた。
泥を読んだのはセトである。
出た数は十で、春に分けきったのは十一だった。
フィンはその話を、薪を抱えたまま坂の途中で聞いた。
抱えたぶんを下ろさずに、彼が先に確かめたのは数のほうではない。
「爪の欠けてるのは、二頭だったな」
「二頭だ」
「どっちが来てない」
「右のほうだ」
右の前足の、外から二本目。
半分から先が無いので、泥へ落ちる形がそこだけ丸く潰れる。
もう一頭の欠けは左の後ろ足で、こちらは浅く、爪の先が短く止まるだけである。
四晩続けて見て、左のほうは四晩とも出た。
右のほうは、四晩とも出なかった。
「掘りかけたやつだ」
そう言って、フィンは薪を抱え直した。
春の掘り跡は、柵の裾の石を外から四度ばかり掻いた深さで止まっている。
見つけたのも、掻かれた石を戻したのも彼である。
十一もいるなら下を掘るやつが一頭は出る、と言ったのも彼だった。
言ったとおりのものが出て、出たきり、来なくなった。
「一頭減ったんなら、こっちは楽になったってことだろ」
そう言ったのはカイである。
言ってから、彼は自分の言い方を自分の耳で聞き直したらしく、口の端を一度だけ引いた。
「……減らしたのが、こっちじゃないんだよな」
「こっちじゃない」
ダンが笊を提げて坂を下りてきたのは、そのあとである。
泥のところまで来て、彼は跡を一度も見ずに、坂の上のほうを見た。
「十一が十だ。何日ぶんだ」
「日にはならん」
「ならんな。……食う口が一つ減ったわけでもないし、獲る手が一つ増えたわけでもない。あれは俺の勘定に一度も入ってない。……入ってないものが減ったから、俺は何も書き直さなくていい」
言ってから、彼は指を一本折って、折ったまましばらく開かなかった。
「書き直さなくていいっていうのは、いいことじゃないぞ」
「柵の外だぞ」
セトが言った。
「知ってる」
「柵の外で減ったなら、こっちの柵は関係ない」
「関係ない」
そう返してから、フィンは薪を運び終えるまでのあいだ、関係ないという言葉を口の中で二度ばかり置き直している。
置き直しても、形は変わらなかった。
彼が三日かけて継ぎ足したのは跳べなくするためであって、掘る側を締め出すために足した石は、柵のどこにも一つも無い。
三日ぶんの石は、跳ぶ側にだけ宛てて積んである。
掘る側から見れば、宛て先の違う荷が三日ぶん届いていたことになる。
翌朝、彼は水場へ下りた。
泥は前の晩の雨で緩んで、雪の解けたころと同じ鳶色に戻っており、跡は前の日よりよく残る。
爪が四本とも揃って落ちた跡は、底の砂を透かして鈍い錫色に光っている。
端から順に見ていって、丸く潰れたものは出てこなかった。
四日続けて下りて、五日目からは行かなくなった。
行かないと決めた朝、彼は柵の下の石をもう一度並べ直している。
掘りかけの跡はもう埋まっていて、埋めたのは彼ではなく、夏のあいだの雨だった。
彼は埋まったところを掌で押した。
押しているあいだ、掌の付け根の皮は血の気が抜けて蝋の色になり、離すとゆっくり戻る。
押した跡が残らなくなるまで押してから、手を離した。
その晩、セトが坂の上から下りてきて、数を一つ言った。
「五つだ」
「五つ?」
「五つずつ鳴った。……前は三つだった」
石へ乗せたままにしていた手を、フィンはそこで初めて膝へ下ろした。
「四つを飛ばしたのか」
「飛ばした。鳴ってる場所も、去年より東だ」
「東ってのは、こっちか」
「こっちと言えば、こっちだ」
フィンは、あの一頭が来なくなった理由を二つ数えた。
一つは、自分で死んだということである。
もう一つは、口へ出さずに止めた。
止めたのは、言えばセトが刻むことになるからで、刻んでしまえばその一行は、確かめようの無いまま石の上に残る。
*
フィンが二つ目を言わずに済ませた三日あとに、セトが石板を抱えて畑の隅へ来た。
刻む項目が一つ増えたので、その置き場所を決めに来た。
そのとき彼は、一本の畝の端に、蒔いた覚えのない株が立っているのを見た。
「これ、なんだ?」
「勝手に生えたやつ」
リアは畝の反対側から答えた。
「去年、最後まで試した葉。舌が痺れるのと痺れないのを、どうしても分けられなかったやつ。……春に持ってきた株の根に、土ごとくっついてきたんだと思う」
「抜かないのか?」
「抜かない」
セトはその株の高さを目で測った。
測ったところで、石に刻むほどのことでもない。
「効かないんだろう」
「効かない。効かないって、もう分かってる」
彼女はそう言って、そのまま隣の株の葉を裏返した。
「駄目だったものを伏せるのは、そっちだって、しないでしょ」
セトは石板の隅へ目を落とした。
そこには、二度と採らないと決めた若芽のことが、決めた年のまま残っている。
上へ石を載せて伏せてしまえば、読む者はそこを飛ばして通る。
伏せる理由を、彼はいまだに思いついたことがなかった。
彼は畝の端の株について、結局なにも刻まなかった。
刻まないまま、その場所だけを覚えて帰った。
その晩、彼は二行を刻んでいる。
分け方は春から変えていない。
変えてしまうと、春の十一と並べられなくなる。
太さで大きく三つに分け、そのうえで歩幅の広い順に並べ、最後に爪の欠けで抜き出す。
それでも同じに見える二頭が残るので、その二頭には印をつけず、翌朝もう一度見て、間が空いているほうを先に置き直す。
音は、泥を数えに行った四日のうちの二晩、風の落ちた時間に外へ出て、坂の上で数えた。
――七年目。狼、十。水場へ来た数である。
――音。五つずつ。北の岩の、日の出る側より、さらに東。風は、夜のあいだ止んでいた。
煤狼のほうは、この春より一つ少ない。
少ないことは刻んだが、少なくなった理由を刻む印を、彼はまだ一つも持っていなかった。
数の並びの外側に、彼はもう一行だけ足した。
これまでこの縁へ置いたのは、向こうから受け取った語だけだった。
こちらが向こうへ付けたものを置くのは、今度が最初になる。
――森でいちばん太い木を、結びの大樹と呼ぶことにした。呼ぶと決めたのは、こちらだけである。
*
名前が名前になったのは、三日たってからである。
カイが川へ下りるときに、結びの大樹の下を回っていく、と言った。
言われたフィンは、どこのことかを聞き返さなかった。
聞き返さずに通じたので、二人はそのまま坂を下りていった。
坂の上に、ヴェルドがいた。
自分の置いた名を自分以外の口が使うところを、彼はこの森ではじめて聞いている。
聞いてから、二人の背中が木の陰へ入るまで、そこから離れなかった。




