第十三話 森の奥の隣人
棚の下の段が、端から端まで見えるようになった。
奥の壁の、いちばん低いところの段である。
雪がいちばん深くなった時期の、外がまだ薄墨の色をしている朝だった。
七度目の冬で、この段がこうなったのは初めてである。
冬が明ければ、七年目の春になる。
ダンは棚の前に膝をつき、日の当たらない側だけ黴の緑がかった板の、奥の隅まで指を這わせていった。
指の先に触れてくるのは、踏めば鳴りそうな殻の欠片と、乾いて板に貼りついたままの実の皮だけである。
上の段には袋が残っているが、あれは種であって、種というのは食う分ではないのだから、この下の段の勘定には最初から入ってこない。
彼は膝をついたまま、これから足りなくなる日を頭のなかで端から並べていった。
秋のうちに、彼はこの冬の足りない日数として十三という数を出している。
出したときの勘定には、実りの夜に棚から外へ出した笊の一杯ぶんが入っていない。
一杯は、盛らずに縁の半ばで止めて量るものなので、二日もつ。
ただしその二日のうちの一日は、はじめから食う予定に入っていた日なので、足りない側へ新しく乗ってくるのは、残った一日のほうだけである。
入れ直せば、十三は十四になる。
十四だ、と彼は口の中だけで言った。
言ってから、その数を渡す相手を探して、彼は幹の中の火のほうへ顔を向けた。
簾のそばで誰かが咳をして、その音がひとつ、洞の抜けている高いところへ吸い上げられていく。
熾へ掌をかざしても、返ってくるものが去年の同じ時期より薄い。
外では薪の当番が枯れ枝を膝で折っていて、その乾いた音だけが、朝のあいだじゅう雪の上に等間隔で続いている。
口に出すのは、そのときはあとに回した。
言うのをあとにするというのは、この男が去年までしなかったことである。
先に出しておかなければ寒くなってから同じ口を開く羽目になる、というのが彼の言い分で、実際そのとおりになってきたのだから、早いほうが得だと彼は思ってきた。
ところが今年の十四は、早く出したところで、寒くなってからもう一度出すことになる種類の数である。
去年までの数とは、そこが違っていた。
*
十四という数は、それから四日ほど彼の口の中に留まった。
留まっているあいだも、彼は毎朝、下の段から出す量を自分の手で量り続けている。
量って配る役は、去年の秋からずっと彼のものだった。
配り終えたあとに残りが何日ぶんになるかを数え直すところまでが、一続きの仕事である。
その数え直した数が、秋に組んだ見立てと合わない。
残りのほうが、多いのである。
幅にして二日ぶん。
冬の初めから毎朝わずかずつ開いてきたもので、一日のうちに開く量は指の関節ひとつぶんにも届かない。
届かないので、彼はこの冬のあいだずっと、それを喜んでいた。
思ったより残っている——この冬に彼が渡せる知らせで、それより良いものは一つも無かった。
疑い始めたのは、十四を口の中へ入れた日からである。
二日目までは自分の量り方のせいだと思っていたし、三日目は笊の縁ではなく関節の皺まで当てて量り直した。
それでも残りは同じだけ多く、四日目になって、彼はようやく数えている対象のほうを疑った。
その朝は、配りながら数えた。
渡した相手を、指を一本ずつ折って追っていく。
追っていって、最後まで来て、指が一本余った。
余った一本は、彼だった。
いつからそうしていたのかを、彼は思い出せなかった。
たぶん最初の一度は、その日かぎりのつもりだったのだろうと思う。
一度で済ませたつもりの量が、そのまま次の日の目安になり、目安になってしまったものは、数えなくても手のほうが覚えてしまう。
彼の手はこの冬のあいだ、自分の分を、配る前にどこか別のところへ寄せていた。
寄せた先は、下の段である。
つまり彼は、自分の食う分を棚へ戻し続けていて、そのぶんだけ残りの日数が伸びていた。
伸びた側の数のほうを、彼は毎朝、正しい数として読み上げていた。
「なあ」
後ろから声がして、振り返ると、リアが入口の簾を押さえたまま立っていた。
彼女は彼の顔を見て、それから彼の手元の笊を見た。
「どのくらい合わない?」
「二日ぶんだ」
「多いほう」
「多いほうだ」
リアはしばらく黙って、それから幹の中へ入ってきて、彼の向かいへ座った。
座るときに膝の上で両手を組み、そこへ上体の重さの半分ばかりを預けている。
「顔を見れば分かる。頬のところが落ちてる。落ちる速さが、ほかの誰よりも早い。雪がいちばん深くなるより前から、もうそうだった。……数を言わなくなったのは、そのあと。順番が逆なの。痩せたから黙ったんじゃなくて、黙るより先に痩せてた。痩せる理由が食う量のほかに無いのは、この冬は誰も外で怪我をしてないから。それは私が毎日見てる」
「言ってない」
「言ってないから見てた。数の話は、言わない日だけ私が引き受けることになってる。誰かが決めたわけじゃないけど、去年からずっとそう。……戻して。戻さないなら、明日から私が量る」
ダンは笊を持ったまま、動かずにいた。
戻せば、彼が一人ぶん増える。
土から食えるものが顔を出すまで、あと四十と幾つ日ある。
一同は二十四人だから、一人が四十と幾つ日ぶん食う量を二十四で割れば、二日ばかりになる。
その二日は、しかし、これから新しく足りなくなる二日ではなかった。
すでに、食わずに済ませたぶんとして棚に載っている。
秋に組んだ十四は、はじめから彼も食う勘定で出した数である。
彼が食わずにいたぶんだけ、蓄えはその見立ての二日ぶん先を行っている。
先を行っているぶんは、いまも下の段に物として載っているのだから、彼が今日から食い始めたところで、そこへ帰ってはこない。
十四ではない。
十二である。
そして、明日も十二である。
そのことが、彼にはいちばん応えた。
数が悪くなるのなら、まだ話は早かった。
悪くならないのである。
毎朝みんなへ読み上げてきた十二は、はじめから正しい数だった。
正しくしていたのが寒さでも実りでもなく、彼の肋のあたりだった、というにすぎない。
数える者は、数の外にあるものを数に入れられない。
入れられないので、二日ぶんの良い知らせだけが棚に残り、それを買った代金のほうは、どこにも記されないままになる。
彼は笊を持ち直し、自分の分をそこへ入れた。
入れても、数は一つも動かない。
動かないと分かっているものへ手を使うのは、この男には初めてのことだった。
入れてから、盛り上がった中身を指の腹で押して平らにした。
ならす手つきそのものは、秋に上の段から下の段へ移していたときと寸分変わらない。
動かした向きだけが、逆になっている。
その晩、火の前で、彼は数を口の外へ出した。
「十二だ」
「増えたのか、減ったのか」
カイが聞いた。
「どっちでもない。十二で合ってる。ずっと合ってた。……秋に十四って出したのは、俺も食う勘定で出したからだ。俺が食わなかったから、十二になった。今日から食っても十二のままだ。数のほうは良くなってる。良くした二日ぶんを、俺は棚から出さないで、自分の腹から出してた。それだけの話だ。それだけの話を言うのに、四日かかった」
火の周りで、聞き返した者はいなかった。
聞き返す声が上がらないのは、この一同では、たいてい届いたという意味である。
*
十二という数を聞いた晩、ソラは簾のそばにいた。
十三が十四になるという勘定を、彼女は実りの夜の明けた朝に一人で済ませている。
済ませて、言わずにおいた。
その十四が、いま、十二になって戻ってきた。
二日ぶん良くなっており、良くなった出所まで、言った当人が並べて言ってしまった。
自分が黙っていた秋からこちらのあいだに何が減ったのかを、彼女は数えようとして、それが数える形にならないことに気づいた。
十二、と彼女も唇だけで形をつくった。
音のほうは、出さなかった。
雪の上に赤いものが落ちていたのは、その翌る朝である。
見つけたのは彼女で、水を汲みに坂を下りる途中だった。
去年の夏に柵を組んだあたりで、雪が三歩ぶんほど濡れて黒ずんでおり、その黒ずみの縁だけが、朝の斜めの光を受けて暗い赤に染まっている。
染みは点々と続いていて、辿っていくと水場の岩の陰で終わっている。
岩の陰の、雪の吹き溜まりを背にしたところに、いた。
煤けた鼠色の毛が濡れて幾筋にも分かれ、後ろの脚を一本、体の下へ折り込むようにして引いている。
煤狼、とウルが言った。
言ってから、灰でも鼠でもなく煤だと思った理由を聞かれて、答えられずにいる。
まだ若い。
背丈が親の半分ほどまでしか無いし、口の周りの毛も短いままである。
目だけがこちらへ向いていて、逃げようとする気配がまるで無いのは、逃げられないからだった。
ソラは足を止めた。
足を止めたその場所からは、坂を挟んだ向こう側に塩山羊の柵が見えている。
去年の夏にフィンが二日かけて組んだ柵である。
腕の太さの枯れ枝を三十七本、二本を地面へ挿しては一本を渡して蔓で締めるやり方で、塩の吹いた岩をぐるりと囲ってある。
高さはフィンの腰から少し上までで、上は開けたまま、下の隙間だけを石で塞いだ。
組んだ日に、低いだろこれ、と言った者がいる。
低い、とフィンも答えている。
飛び越える理由が向こうに無ければ、それで足りる、という考え方の柵だった。
彼女は籠を下ろさないまま、岩の陰から柵の端までを目で測った。
目で測っただけでは足りないので、坂を引き返しながら、歩数のほうでもう一度測った。
二十歩と少しである。
その二十歩と少しの向こう、柵の内側では、山羊が二頭、朝の塩を舐めている。
飛び越える理由が向こうに無ければ、それで足りる。
去年の夏にフィンが組んだのは、そういう柵である。
いま、その理由のほうが、二十歩と少しのところで脚を引いて動けずにいた。
住処に着いて、最初に言ったのは煤狼のことではなかった。
「柵、低い」
聞いたのはリアで、何のことだか分からない顔で見返してきた。
「水場に狼がいる。脚が折れてて、動けない。柵まで二十歩と少し。……脚の折れたのが、そこまで来られたってこと。折れてないのは、もっと近くまで来る。だから、あの柵は低い」
*
柵が低いという話を、リアはその日のうちに自分の目で見に行った。
見に行って、そのついでに狼のほうも見た。
脚は付け根から少し下がったところで折れていて、そこの皮が内側から押し破られている。
破れた口は膿んでおり、周りの毛が濁った蜜の色に濡れて固まっていた。
放っておけば、あと二日か三日というところである。
戻ってきて、彼女は火の前で言った。
「治せる。折れ方は、脛を折った者のときと同じ。だから添え木も同じでいい。四本、同じ長さに削って、四方から当てる。ただ、治すのに七日か十日、そばに置くことになる。そのあいだと、そのあとが問題」
「そのあと」
ノアが聞いた。
その問いのあいだ、ヴェルドは輪の外にいた。
リアのところからは横顔の側しか見えず、その横顔が一度、何か言いかけた形のまま止まったのが見えた。
言いかけて閉じるまでに、息が二つぶん入っている。
二つぶんのあいだに彼が引っ込めたものが何なのかは、彼女の側からは分からない。
分からないが、跳ね兎を逃がした春にも、彼は同じ長さだけ黙ってから、結局こちらへ決めさせた。
決めたあとでその件を彼が持ち出したことは、六年のあいだ一度も無い。
持ち出さないことのほうに理由があるのだろうとは思っていて、その理由の見当は、たぶん半分しかついていない。
「治ったら行くでしょ。でも、行った先が近い。ここで肉を食べさせて、ここで痛いのが引いたら、この辺りは危なくないところだって覚える。覚えて、そのまま戻る。戻った先には群れがいる。群れっていうのは、先に行ったものの跡を辿って動くものだから、覚えたのが一頭でも、来るのは一頭じゃない」
「来たら」
「山羊」
その一言で、火の周りが静かになった。
「餌はどこから出す?」
ダンが聞いた。
「淵の魚。七日か十日なら、二尾。多くて三尾」
「淵のは大魚だ」
ダンはそう言って、指を一本、火のほうへ立てた。
「淵へ入れるのは、縁の氷が割れる日だけだ。割れる日はこの冬あと数えるほどしか来ないし、腰まで浸かって数えていられるのは、春でも百かそこら、いまならその半分ももたない。……その数えるほどの日は、もう俺の勘定に入れてある。狼に食わせるぶんを獲るなら、その日を先に使うことになる。使えば、俺たちのぶんが後ろへずれる。ずれた先に春が来たら、そのぶんは獲れずに終わりだ。二尾ぶん、俺たちの二日だ。十二が十四になる」
そこまで言って、彼の目は自分の膝のあたりへ落ちた。
数を出すのは彼の役目だが、その数を自分の腹で良くしていたのもこの冬の彼である。
言う資格が自分には無い、という言い方を口の中で一度組み立てて、そのまま飲み込んだ。
飲み込んだのは顎の動きだけで外へ出て、それを見ていたのはリアだった。
二頭いて、乳を出すほうは母親だけだ。
子は雄だから、母に付ければいつか増えるかもしれない——という話が、去年の夏から一度も先へ動いていない。
朝いっぱいかけて絞っても、乳は椀の底をやっと覆うところまでしか上がってこない。
その、底をやっと覆うだけのものが消えたとき、代わりに置けるものが、この一同の手元には何ひとつ無かった。
「追えばいいだろ」
カイが言った。
言ってから、引く気配を見せずに続けた。
「追って、治らなければ死ぬ。死ねば来ない」
そこまで並べて、カイはそこで止まった。
「……薄情なことを言ってるつもりはない。ここには足りない日が十二ある。十二のところへ二を足して十四にするのを、俺は誰の顔を見て言えばいいのか分からないってだけだ。言える相手がいるなら教えてくれ。その相手に言う」
それは違う、と言い返した者はいなかった。
リアも黙っていた。
黙るしかなかったのは、彼女がこの冬に数えているものが自分の腹ではないからである。
五年前の兎のときは、自分の分を砕いて水に混ぜればそれで済んだ。
今度は、椀の底をやっと覆うだけのものを、飲むのが彼女ではない。
他人の分を賭ける言い方を、彼女はまだ一つも手にしていなかった。
無いまま、彼女は言った。
「治す」
言ってから、誰の返事も待たずに立ち上がった。
「柵を高くする」
フィンが言った。
柵を組んだ本人である。
低くしたのは彼で、低くて足りる理由を口に出したのも、去年の夏の彼だった。
「飛び越える理由が無いから低くていい、って言ったのは俺だ。理由ができたなら、高くする。それだけだ」
「どのくらい?」
「跳んでみないと分からない。分からないから、跳べない高さまで上げる。上げるのに、俺の枝を全部使う。使ったら、春に道具の柄が足りなくなる。足りなくなるぶんは、俺が夏まで我慢する」
言ってから、彼はもう外へ出ようとしていた。
出ぎわに、一度だけ振り返って付け足した。
「あと、これまでは山羊が自分で入ってた。暗くなれば向こうから跳んで戻ってきてたんだ。跳べない高さにすれば、そのぶんは人がやることになる。毎晩、日が落ちる前にだ。……誰か、やる」
*
やる、と言った者は三人いて、その三人が交替で、日の落ちるころに坂を上がることになった。
柵は、削り口の白い枝を継ぎ足しながら、三日かけて跳べない高さまで積み上がった。
継ぎ足した枝は、上へ行くほど細くなっている。
細くなったぶん、上のほうは押せば撓むが、撓むだけで隙間は開かない。
山羊は、初めの晩に入らなかった。
入口の隙間まで来て、そこで首を下げたまま止まる。
母親のほうを押すと子が離れ、子を抱えると母親が戻る。
リアは狼のそばに膝をついたまま、その坂の上を三度見上げた。
三度目に見上げたときはもう日が落ちきっていて、二人が暗いなかを回り込んでいく足音だけが、坂の上を右へ左へ動いている。
三晩目からは、掌に塩を少し乗せて先に立つ者が出て、それでいくらか短くなった。
短くなっても、無くなりはしない。
淵のほうへ、彼女は一度も下りていない。
下りた者の話でだけ、そこを知っている。
川がひとつ大きく曲がる先で川底が急に落ち込んでいて、上から覗くと、底の見えない濃藍がゆっくり回っているのが分かるだけだという。
この冬はその濃藍の上に、岸から二歩ぶんほど氷が張った。
真ん中は流れが速いので開いたままだが、そこへ届くには縁の氷を割って渡らなければならず、割れる厚みかどうかは行ってみるまで分からない。
一尾目は、割って腰まで入った三日目の昼に、下流の岩の上から突いて上がった。
二尾目は、その三日あとである。
「三日ぶん待って一尾か」
カイが聞き、ノアが答えた。
「待ってない。三日のうち二日は、縁が割れなかった。割れなきゃ真ん中まで行けない。待ってたのは氷のほうだ」
ノアはそう言って、腕を火のそばへ入れた。
肘の上まで朱を刷いたようになっていて、水から上げてしばらく経つのに、指のほうはまだ戻ってこない。
腹を裂いて、頭と背を狼へ回し、残りは棚へ上げた。
上げるところを、リアは見ていない。
見ていなくても、その二尾を獲るために使った二日が、どこの二日だったかは分かっている。
彼女は狼のところへ、添え木を四本、同じ長さに削ったものを持っていった。
近づくと、狼は歯を見せた。
見せはしたが、噛みはしなかった。
噛むためには体を起こさなければならず、体を起こすには、折れているほうの脚を使わなければならない。
彼女はそれが分かるまで動かずに待ち、分かってから、折れた側と反対の肩を膝で押さえた。
引くときに、音がした。
短くて、乾いていて、去年の秋に人の脛で一度だけ聞いた音とよく似ていた。
そのあとに続いた悲鳴のほうは獣のもので、そちらは何にも似ていない。
生成りの布を巻き終えてから、彼女は名前をつけなかった。
つけないことにしている理由を、彼女は五年前に一度だけ口に出したことがある。
つけたら、行けなくなるから、である。
行けなくなるのは狼のほうではない。
名前のあるものを森へ帰す手が、こちらの側から無くなる、という意味だった。
七日目に布を緩め、内側の腫れが指の腹で押して沈まなくなったのを見てから、九日目に解いた。
解いたとき、狼は立って、三歩だけ歩いて、それから座った。
座った先が、ちょうど坂の下りはじめるところである。
次の朝には、もういなかった。
*
いなくなったあとの雪が坂から消えるまでに、さらに半月ばかりかかった。
その半月のあいだに、セトは上着の合わせが余るようになっている。
坂を一度上がるのに、去年より息継ぎが二つ多い。
十四日ぶん足りないというのは、そういう形で来るのだと、この一同はこの冬に覚えた。
知ったからといって、知ったぶんが腹に入るわけではない。
狼のほうは、それきり姿を見せていない。
布を解いた朝からずっとそうなので、脚は使えるようになったのだろう、というのが全員の理解だった。
それきりだと、セトも思っていた。
思っていたところへ、足跡が出た。
雪解けでぬかるんだ鳶色の土の上に、朝ごとについている。
柵のほうへは、坂を上がりかけた跡さえ一度も残っていない。
寄らずに、水場から森の奥へ抜ける同じ道筋を、夜のうちに通っていくのだった。
はじめの二日、彼はそれを、治った一頭が律儀に通っているのだと思っていた。
三日目に、その考えをやめた。
一頭ぶんにしては、跡が重なりすぎている。
前の晩の跡の上に新しい跡が乗り、その上にもう一つ乗って、朝には水場の泥が幾重にも捏ねられていた。
セトはその足跡を、数えることにした。
数えるといっても、足跡の数ではない。
泥の上で重なっている筋を、太さで分け、爪の欠けたところで分け、歩幅でもう一度分ける。
分けられるのは水場に来た数だけで、来なかったものは数に入らない。
入らないと承知のうえで、彼は数えた。
同じ爪の欠けが四晩とも出てくるものが二つあって、それはそれぞれ一つに数えた。
分けきってみると、十一である。
数えた日と、十一というその数を、彼はその日のうちに石板へ刻んだ。
刻んでから、なぜそれを刻んだのかを自分でしばらく考えて、出てこなかったので、そのままにしてある。
答えの出ないものを刻むのは、彼にとってもう怖いことではない。
十一という数のほうは、その晩に火の前で一度だけ言った。
「柵の向こうに、十一か」
フィンがそう言って、自分の掌を見た。
枝を全部使った掌である。
「跳べない高さにしたのは、一頭ぶんのつもりだった。一頭が跳べないなら十一頭でも跳べない、っていう話にはならないよな。……上へは行けなくても、十一もいれば、下を掘るやつが一頭くらいは出る」
リアは、そこでは口を開かなかった。
開かないまま立って、外へ出て、柵のところまで行って、戻ってきた。
戻ってきてからも、まだ開かなかった。
十一を刻んだ次の朝、水場の平たい石の上に、並べたものが置いてあった。
艶の残った栗色の実が三つ、どれも同じ大きさで、軸の向きまで揃えてある。
枝から落ちて転がったものが、偶然そうなる並び方ではない。
セトはそれを取らずに、そのまま住処へ戻った。
もう一度見に行くと、三つとも無くなっていて、代わりに蔓を編んだ輪が一つ、同じ石の同じところへ置いてあった。
編み目には、切り口が無かった。
*
切り口の無い輪を、ノアは半日ほど掌の上で裏返していた。
裏返しながら、彼が探していたのは端である。
端が、どこにも無い。
蔓は途中で切られておらず、両方の先が生えているほうへ向かって細くなっていて、細くなった先が輪の内側へ回り込んでいる。
どこかで結んだ跡も無い。
「切らずに、これになったってことだ」
ノアはそう言った。
「切らずにこの形にする手が、俺には一つも思いつかない。編むなら、まず切る。切ってから曲げる。切らないで編めるものがあるとしたら、それは編んだんじゃなくて、そう伸びたんだ。……伸びるほうを待てるやつがいる」
次の朝、彼はセトと二人で、足跡の抜けていく道を辿った。
森の奥は、明るさが違う。
外の光は梢のあたりで止まってしまい、下まで届くのは葉を一度通り抜けたぶんに限られる。
その一度濾された光が濃くなるほど、幹と幹の間隔は狭くなり、下草が減って、代わりに深い青みどりの苔が地面を覆っていく。
足の裏へ返ってくるものが、土の硬さから、押せば沈むものへ変わった。
二人が最初に気づいたのは、枝である。
一本の若木の枝が、四方へ同じ間隔で伸びていた。
同じ間隔で伸びる木というものが無いわけではないが、その隣の木も、そのまた隣の木も、同じ間隔だった。
そして、どの枝にも折り跡が無い。
「切ってない」
セトが言った。
「切ってないのに、揃ってる」
さらに進むと、花が並んでいた。
地面から同じ高さで、道の左右に、一つおきに。
歩いていくと、右、左、右、左と、こちらの視線のほうが規則正しく振られていく。
「これ、道だ」
ノアはそう言って、足を止めた。
「誰の?」
「知らない。けど、通る側が決まってるものは、道だ」
止めてから、いま来たほうを振り返った。
来た道が、どれだか分からない。
踏んだ跡は苔の上ですぐに戻ってしまうし、幹には目印を一つもつけていない。
つけようとしなかったのは、生きている木には手を出さないという決まりが、木を六本枯らしたあの秋に、自分の口から出て以来ずっと彼の中にあったからである。
決まりが正しかったかどうかを考える前に、前のほうで何かが動いた。
はじめは、木だと思った。
灰褐の、乾いた樹皮とそっくり同じ色をしたものが、幹の脇に立っている。
立っているものの上のほうに、湿った草を寄せたようなものが乗っている。
それが動いたので、髪だと分かった。
顔があった。
目は、この森のどの葉よりも薄い、浅葱がかった色をしている。
体には蔓が巻きついていて、その途中に淡い紅の花が、切り取られたのではなく生きたまま咲いていた。
着ているのではない。
生えている。
ノアはその場から動かずにいた。
怖かったからでも、礼儀を考えたからでもなく、この向かい合いでどうするのが正しいのかという心当たりが、頭の中に一つも浮かんでこなかったためである。
先に動いたのは、向こうだった。
樹皮の色をした手が上がって、掌が開いて、そこに木の実が三つ載っていた。
水場の石の上にあったのと、同じ実である。
ノアは腰の袋から、磨いた石を一つ出した。
刃を仕込んだ冬に川砂で縁を擦り上げたやつで、いま腰の袋に入っている中ではいちばん形が整っている。
それを、同じように掌へ載せて差し出した。
交換に、言葉は要らなかった。
要らなかったというより、はじめのうちは、どちらの側にも渡せる言葉が見つからなかった。
実が三つ渡って、石が一つ渡る。
それが一度目である。
二度目は木の皮を裂いた紐と、三度目は乾いた蔓の束と、四度目にセトが端に臙脂の差した布の切れ端を出して、蔓を編んだ輪と換えた。
その輪は、水場の石の上に置いてあったものより一回り小さい。
掌に載せて差し出し、向こうも掌に載せて差し出す。
その一往復を、そこまでで四度である。
四度目が終わったところで、向こうが口を開いた。
開いてから、声が出るまでに間があった。
息を吸う音が先にして、そのあとで音が来る。
急いでいないのではなく、そういう速さなのだと、ノアはそのとき理解した。
「……む、かし」
そこで、また間があいた。
「この森に、私たちも、いました。……いまも、います。……あなたたちが来たところから、日の出るほうへ谷を一つ越えたあたりに、こちらの木が固まって立っています。……近くはありません。近くはありませんが、遠くもありません」
ノアは返事をしなかった。
返事の言葉を探しているうちに、向こうが先を続けた。
「あなたたちの音は、いつも、走っています。……石を打つ音も、木を削る音も。速いので、遠くからでも、どこにいるかが分かります。……こわくは、ありません。速いだけです。……はじめの年は、鳥が逃げるので、そのたびに見に行きました。三年ほどで、見に行かなくなりました。……いつ行っても、音は同じ場所から来ていたので。……動かないものなら、しばらく置いておけます」
「速いと、まずいのか?」
「まずくは、ありません。……ただ、速いものは、あとを残しません。あなたたちのつけた道は、二年たてば、消えます。……踏んだところの草が起きるのに、一年。起きた草が、まわりと同じ丈になるのに、もう一年。……二年です。数えたのではありません。二度、見ました」
「消える」
「消えます。……私たちの道は、消えません。……こちらは、道になるまでに長くかかります。木が枝を伸ばす向きを、こちらへ寄せてもらうので。……頼むのではありません。抜くほうを決めるだけです。抜けば、空いた側へ伸びます。……伸びたころには、頼んだ者のほうがいなくなっています」
「叩く音は、あんたたちか?」
「……いいえ」
間があいた。
「私たちは、音を、立てません。……立てないのではなく、立てるものを持っていません。石を打ちませんし、木も削りません。……叩いているのが誰かは、こちらも知りたいと思っています。……ずいぶん前から鳴っていますが、近づいたことは、まだ一度もありません」
そこで彼女は、自分の胸のあたりへ掌を当てた。
「シルヴァ」
「……シルヴァ」
ノアが繰り返すと、彼女は少しだけ首を傾けた。
首を傾けただけで、頷きのほうは返ってこなかった。
帰り道が分からない、と口に出したのはセトである。
分からないことには、ノアのほうが先に気づいていた。
気づいて、言わずにいた。
言えば、目印をつけなかったのは自分の決まりのせいだと認めることになるからで、認めるのが厭だったわけではなく、認めたところで道が出てくるわけではないと踏んだためだった。
言われた向こうは、少し待った。
待ってから、道の脇のほうへ目をやった。
そこに、狼がいた。
いつから座っていたのかを、二人とも見ていない。
後ろの脚に、布の跡が薄く残っている。
狼は二人のほうを見て、それから来た側へ体を向けて、三歩だけ歩いて止まった。
止まって、また振り返った。
ノアが歩き出すと、狼はまた三歩進んで止まる。
その繰り返しで、二人は森の縁まで戻った。
縁まで来ると、狼は坂を下りずに、そのまま奥へ引き返していった。
*
坂を下りきってから、セトはまっすぐリアのところへ行った。
「布の跡があった。後ろの脚に、薄く残ってた」
「歩けてた?」
「歩けてた。……あれが先に立たなかったら、俺たちは戻ってない」
リアはそれを聞いて、しばらく手元の蔓を見ていた。
「二尾ぶん、返ってきたな」
セトはそう言ってみた。
「返ってこないよ。魚は魚で、あれはあれ。ぜんぶ一つの数にしちゃうと、次に払えなくなる」
それだけ言うと、彼女は柵のほうへ目を向け、そのまま蔓を巻く手つきへ戻っていった。
その日の暮れがた、空の低いところが橙から鉛へ落ちていく頃に、風が向きを変えて川上から吹いてきた。
セトは幹の外の、削り屑を捨てるあたりに立っていた。
音は、その風の切れ目に混じっていた。
叩く音が三つ続いて、そこで途切れる。
途切れたあとに同じ幅の間があいて、また三つ来る。
秋の朝に聞いたときは四つで揃っていたし、来ていた方角も反対側だった。
今度は、北の岩の日の沈む側である。
坂の途中に、ソラが立ち止まっているのが下から見えた。
彼女は山の端に残った茜が消えて風がまた変わるまで動かず、それから坂を下りてきて、まっすぐこちらへ来た。
その晩、セトは三行を刻んだ。
――七年目。狼、十一。水場へ来た数である。
――音。三つずつ。北の岩の、日の沈むほうの側。風は、暮れがた川上から。
――名を、一つ聞いた。
三つ目の行だけは、石板のどこへ刻むかを先に決めてから刻んだ。
数の行と数の行のあいだではなく、いちばん上の、まだ何も入っていない縁のところである。
数は、増えたり減ったりする。
名前は、そうならない。
そうならないものを、彼はこの日はじめて、数の並びの外側へ置いた。
刻み終えたところへ、ソラがもう一度来た。
「さっき、言い間違えた」
「どこを」
「方角。……秋のは、日の出る側だったでしょう。今度のは、その反対」
セトは石板を膝へ戻して、二行目の刻んだところへ指を当てた。
当てただけで、削り直しはしなかった。
「合ってる。刻んだのは、反対のほうだ」
「じゃあ、なんで言いに来たと思う?」
彼女はそう聞いて、返事を待たずに続けた。
「言い間違えたのが、私だからよ。……間違えたほうも、いつか要るかもしれないでしょう」
セトは、その言い方をしばらく口の中で繰り返した。
繰り返してから、石板をもう一度膝から上げた。
上げたが、削る場所が、この一枚のどこにも無い。
「明日、もう一枚拾ってくる」
セトはそう言った。
「何を刻むの」
「おまえが今日、わざわざ言いに来たことだ。間違えたほうを置く場所は、こっちで一枚ぶん空ける」
ソラは石板の縁を指で一度なぞった。
なぞった指を見てから、彼女は火の側へ戻る。
その背中を見ながら、セトは明日拾う石の大きさを、掌のあいだで先に決めている。




