第十二話 祭りの夜
籠が重い日は、肩の骨のところへ紐が食い込む。
上りでその合図が来ることはない——坂を上るときの籠は空で、空の籠は背中で軽く跳ねるだけだから、紐が骨へ当たるのは決まって帰りのほうだった。
窪地から坂の上までは、休まずに行けば二百歩ある。
その二百歩をいちばん速く上がるのが、東へ回るその者だった。
去年の秋に脚をやった者とは、別である。
六度目の秋である。
上まで来たところで、彼女は一度だけ籠を背負い直した。
見下ろした先の畝は、刈り取ったあとの茎の切り口が乾いて並んでいて、その茎と茎のあいだから、掘り返したままの地面が透けていた。
去年までは、こんなふうに地面が透けて見えることは一度も無かった。
透けて見えるのは、抜いた株の跡が埋まりきらないからで、埋まりきらないのは、抜いた株が去年より背が低かったからである。
根の張りが浅いと、抜いたあとの穴も浅い。
それを見終えてから、彼女は下りる道へは行かずに、坂の上をそのまま東へ回っていった。
戻り道を通らずに東へ回るというのは、みんなのうちでひとりだけの癖である。
理由を聞かれれば答えられる——近いところの実は、みんなが先に手を伸ばして持っていってしまうので、みんなが行かないところまで行けば、まだ残っている。
ただ、その答えを口にしたことは、これまで一度も無かった。
聞く者がいなかったからで、聞かれずに済んでいる理由は、たぶん、いつも先に戻ってきて、いちばん重い籠を下ろすからだった。
その日、東の斜面の裏側にある窪みで、遅れて熟れる木の群れを見つけた。
十何本かが窪みを囲うように立っていて、日の当たる側の下枝には、手を伸ばしても届かない高さまで実が下がっている。
どれも、日の当たっていた側だけが濃い朱に染まっていた。
枝から捻り取って掌へ載せると、皮が内側から張りきっていて、指の腹で押したところに押した形がしばらく残る。
「間に合った」
声に出して言ってから、周りに誰もいないのだから返ってくるものは何も無いのだということが、そこで分かった。
届く高さのぶんだけ捻り取って、届かない高さのものは、そのままにした。
見上げれば、手を伸ばした先から一つぶん上に、まだ幾つも下がっている。
枝を引き下ろせば取れるが、引き下ろした枝は折れることがあり、折れた枝には来年の実がつかない。
そこまでして今日いっぺんに取るくらいなら、いま届くぶんだけ取って、残りは木に預けておいたほうがいい。
預けたぶんは、腐りさえしなければ、あとから来て取れる。
籠が満ちるまでのあいだに日が傾いて、担ぎ上げたときには紐が同じところへ食い込み、坂を下りかけるまでその痛みが抜けなかった。
枯草色に乾いた斜面へ、木の影が藍を帯びたまま長く倒れている。
遠くの梢はもう緑を落としきって、枝の先だけが錆の色に残っていた。
坂の中ほどで、下草の一箇所が鳴った。
風はまだ来ていない。
来ていないのに鳴ったので、彼女は足を止め、担いだままの籠ごと後ろへ向き直った。
背中へ風が届いたのは、向き直ったあとである。
木と木のあいだが暗くなっているだけで、動くものも、音も無い。
籠を担ぎ直すと、それきり振り返らずに坂を下りた。
*
籠が下ろされたとき、ダンは下の段を数え終えて、まだ棚の前に立っていた。
奥の壁の棚は二段に彫ってあって、上の段に種、下の段が食う分と決まっている。
彼は下の段に積んだものを、笊にして何杯ぶんになるかを、端から順に目で数えているところだった。
この春は、下の段に笊で二杯しか載っていなかった。
今年はその何倍かが載っているので、その一点だけを取れば春より良い、と言えなくもない。
東へ回る者の籠が着いて、その中身も足された。
「増えたぞ」
「増えた」
「東の裏。まだ落ちてない木が、十いくつある。届かない高さのぶんは、そのまま残してきた」
「何日ぶんだ」
「三日ぶん」
「三日ぶんは、三日ぶんだ」
「そう言うと思った」
ダンは足したぶんを数に入れ直すと、棚板の縁へ手を掛けたまま、そこからしばらく離れなかった。
上の段に置いた袋が影を落として、その影の落ちきらないところだけ、板の削り口が明るく見えている。
薄かったのは、実りである。
蒔き直した日が遅れたぶん、実がふくらみきる前に朝の冷えが来るようになり、房の下半分が小さいまま止まったのである。
リアが種の袋を床へ下ろしたあの晩に選んだ減り方が、そのまま来た。
そのとおりになったと言った者は、この秋ひとりもいない。
「どのくらい足りない?」
セトが後ろから聞いた。
「十一日だ」
ダンは、考える間を置かずに答えた。
「冬の終わりから、十一日ぶん届かない。今年は届かないと決まってる。決まってるから、あとはそれをどこから削るかって話でしかない。十一日ぶん誰かが痩せるか、痩せる前に何か見つけるか、そのどっちかだ」
「去年は、先に言っておけば冬にもう一度言わずに済む、と言ってたよな」
セトはそう続けた。
「言った。今年は、先に言っても、冬にもう一度言うことになる」
配る線は、春に下げたまま戻していない。
椀へ盛る高さを、あの春に半分まで落とした。
下げた線で数えるので、笊は一杯で二日もつ。
夏の終わりに一度、線を元へ戻そうという話が出たが、戻したときの数を並べて見せたのがダンで、その話はそれきり出ていない。
腹いっぱいという食い方をした者を、彼はこの秋ひとりも見ていない。
量が足りていた日でさえ、笊の底が見えるたびに手が一度止まる。
止まる者を、彼はこの六年で全員ぶん見てきた。
籠の毛を火のそばで梳き分けていたウルが、そこで顔を上げた。
「ねえ、一日だけさ、火をうんと大きくして、腹いっぱい食う日って、作れないの?」
「腹いっぱいって、どのくらい?」
カイが聞き返した。
「わかんない。けど、途中でやめなくていいくらい」
しばらく、誰も答えなかった。
その日が欲しいというのは、そこにいる何人もが夏の終わりから思っていたことで、思っていたことを先に他人の口から言われると、人はすぐには答えられない。
「作れる」
ダンが言った。
「作れるが、その日は誰も採りに出ない。出ない日は、入ってくるぶんがそっくり無い。火を大きくするなら、枯れ木を集める日も別にいる。合わせて二日だ。足りない日数が、十一から十三になる」
「十三でも十一でも、どっちにしろ足りないだろ」
カイがそう返した。
「足りない。足りないのは同じだが、深さが違う。二日ぶんの穴が開く。開けるかどうかは、開けたあとで冬を歩く者が決めればいい」
彼は棚の板を、指の腹で二度なぞった。
去年の秋に同じことをしたときは、一度で手を離している。
*
簾がめくれて、外の冷えが先に入ってきた。
板を二度なぞった晩のことで、入ってきた者は火を挟んだ反対側まで回って、そこへ座った。
織りの木枠の前にいる者である。
座って、床に並べてある石板の一枚を、そのまま持ち上げた。
「これ、去年のやつ」
「去年のやつだ」
「私も読める。読めるけど、何があったのかは分からない。粒が岩の肩にいた、しか書いてないから」
セトはその一枚を受け取って、火のほうへ傾けた。
去年の春に刻んだ一枚である。
一行目に霜の印がひとつ。
その下に、同じ晩の二行目として印が三つ並んでいる。
粒、岩、肩。
彼はその三つを、今でもそのまま読むことができる。
読めるのだが、なぜ書いたのかという肝心のところは、一年半経ったいまでも出てこない。
「じゃあ、書いてないほうは、いまどこにあるの?」
「頭のなか」
「誰の?」
「その晩にいた者の」
「その人が忘れたら」
セトは、すぐには返さなかった。
返せる答えが一つしか無く、その一つがあまり頼りにならないことを、彼のほうが先に知っている。
石の上に残るのは、何があったかであって、それが何だったかではない。
彼は今年の石板を膝の上へ引き寄せて、上から順に指で辿った。
畝が白くなった朝のこと。
拳三つのこと——岩の肩から拳を三つ積み上げた高さに粒があった晩、という印である。
七杯のこと。
一晩ぶん遅れたこと。
どれも、いまの彼にはそのまま読める。
辿る指が四つ目で止まり、そこから先へは進まないまま、爪の先が石の面を軽く押さえていた。
「これは、五年経っても読めるのか」
「読める。何があったかは読める」
「そっちじゃなくて」
木枠の前にいる者は、膝の上で指を二本立てた。
「刻んであるほうと、刻んでないほうと、二つあるって、そっちがさっき言った。刻んでないほうが先に消えるなら、いま持っている人に聞いておくしかないでしょう。私は誰に聞けばいいの」
セトは答えを持っていなかった。
持っていないことを言う代わりに、石板の縁を指で拭いた。
拭いても何も落ちないほど、その一枚は毎晩触られている。
紺に沈んだ簾の隙間から、外の冷えが足元へ入ってきている。
「ダンが、十三日だと言っていた」
彼はそう言った。
「十一が十三になる。刻むのはどっちだ」
「両方じゃ駄目なの?」
「両方刻めば、来年これを読む者は、十一と十三のどちらが起きた数なのかを選べない。選べない行は、無いのと同じだ」
言ってから、彼は自分がいま何を言ったのかに気づいた。
来年これを読む者、という言い方をした。
まだ来ていない年のことを、彼はいま数で指したのである。
粒が岩の肩へ来た晩から数えて、今日で百と二十一になる。
数えれば、出る。
出るということは、まだ来ていない日を、数で指せるということでもあった。
日を数で指せるようになったのは、彼にとってこの晩が初めてである。
*
返らなかった答えのことを、木枠の前にいる者は次の日も考えていた。
縦糸のあいだへ横糸を通し、通した手を戻して次の一本を拾う、その動きに合わせて、いつもの節が口の中で鳴っている。
去年の秋に木枠が据わってから、ずっと同じ節である。
糸を一本通すたびに、決まったところで一度だけ上がる。
その上がるところへ、言葉を一つ置いてみた。
「ゆき」
置いてから、次に上がるところで、もう一つ置いた。
「みず」
それだけである。
雪が水になった、という以上のところへは一歩も出ていない言葉が、節の上がるところへ二つ並んだだけだった。
出ていないのに、置いたとたん、二つが節に貼りついて剥がれなくなった。
糸を持つ手が止まって、同じところをしばらく繰り返した。
繰り返すたびに、この春の朝が一つずつ後ろからついてくる。
畝の上が一面、薄く塩を撒いたようになっていたこと。
指で摘まんだ二葉に、芯と呼べるものが一つも残っていなかったこと。
外れた一行を刻んだ石が、火のもっとも明るいあたりへ置かれていたこと。
先に来るのはいつも節のほうで、その朝の中身は、節が通り過ぎたあとから遅れてついてくる。
石には、順番が刻めない。
刻めるのは、あったことだけである。
節が持っているのは順番だけで、中身は乗せた者が覚えているあいだしか残らない。
どちらも半分ずつ欠けていて、欠けているところが互いに逆だった。
「今の、もう一回」
いつからそこにいたのか分からないが、ウルが後ろに立っていた。
一同のなかでいちばん年下の男である。
彼女はもう一度、同じところだけを鳴らしてやった。
「ゆき、みず」
「それ、なに?」
「この春」
「この春は、それだけ」
「それだけじゃない。二日も三日もあった。全部は入らない。……入らないから、入るぶんだけ選ぶの。選んだぶんは、こうやって置いておけば、たぶん残る。石に刻めない側のことが、私にはこれしかない」
「選ばなかったほうは、どうなるの」
「消える」
「消えていいの」
彼女は糸を通す手を止めて、止めた指をしばらく縦糸のあいだへ入れたままにしていた。
「よくない。……よくないけど、全部を入れようとすると、節のほうが伸びるでしょう。伸びた節は、誰も返してくれないの。返してもらえない節は、私が死んだらそこで終わり。……二つなら、あなたが返せる。返せるものだけが、残る」
「二つしか残らないってことか」
「二つは残る、っていうこと。……石は、たくさん残るけど、あれは読める人が読まないと開かない。節は、通りかかった人が勝手に覚える。どっちがいいっていう話じゃないの。どっちも半分ずつ足りてないだけ」
「セトに言った?」
「言わない」
「なんで」
「言うと、あの人はきっと、節のほうも刻もうとするから。……刻んだ節は、たぶんもう返せない」
ウルは口の中で二度なぞってから、三度目には節ごと返してきた。
返ってきたものは、彼女が鳴らしたのと同じ高さで、同じところで上がっている。
返した本人の顎の下には、煤が一筋ついたままになっている。
そのとき彼女が思ったのは、覚えたな、ということではない。
この春を、私はいまこの子へ渡した、ということのほうである。
渡したもののうち、石の上に刻んであるものは一行も無い。
*
詞の付いた節が住処の中で二度目に鳴った日の晩、ウルがもう一度、同じことを言った。
「一日だけの、あの日」
言ったのは火の前で、そこには全員がいた。
ダンは口を開きかけて、開く前に、自分が言うことになる数を先に思い出した。
「十三日だぞ」
「十三でも」
答えたのは、ウルではなかった。
木枠の前にいる者が、膝の上の糸を置かずに言った。
「十一日ぶん誰かが痩せるって、この前ダンが言ってた。痩せるのは覚えてる。でも、痩せた冬のことは、誰も覚えてない。何日ぶん足りなかったかも、誰も言えない。足りなかったぶんは残らないのに、足りなかったことだけ残るの。だったら、残るほうを一つ、こっちで選んで作っておきたい」
ダンは、開きかけた口を閉じた。
閉じてから、膝の上の手を一度握って、開いた。
数のほうは一つも動いておらず、賛成できる数は最後まで彼の手元に無かった。
それでも、その晩に反対の言葉を出さなかったのは彼で、出さなかったことが、この輪では決まったのと同じである。
日取りを決めたのはセトだった。
粒が岩の肩へ来た晩から数えて、この晩で百と二十三。
枯れ木を集めるのに三日、東の裏へ登って残してきた実を取るのにもう一日、乾かして揃えるのにさらに幾日か。
足していくと十日になったので、そこから十日を足したところを指して、彼はそこだと言った。
刻んでいるのは夜のあいだ起きている者なので、一晩も抜けていないはずだった。
言われた者は、指された日がいつなのかを、初めて言葉の形で受け取っている。
ダンは、これまでの決め方を頭のなかで並べてみた。
できるようになったらやる、である。
削り終わったらやる、乾いたらやる、雪が消えたらやる。
決めた日にやる、という言われ方をされたことは、彼の覚えているかぎり一度も無い。
ダンは枯れ木を集める組へ自分から入った。
近場の枯れ木は去年のうちにあらかた片づいているので、組は外れの斜面まで出る。
日の出に発って、暗くなってから三度目の籠を下ろした。
その三度目を下ろすとき、彼は籠の重さを量る手つきをして、量ってから、量った数を言わなかった。
東の裏へは、前の日に二人で登っている。
届かない高さの実は、幹を揺すっても落ちなかった。
「届くか」
「肩を貸してくれれば」
フィンが幹の根方で膝を落とし、東へ回る者がその肩へ乗って、枝を折らないように一つずつ捻り取った。
落とすと潰れるので、一つずつ懐へ入れて下りる。
下りきったところで数えると、二十四より三つ多い。
三つ多いのは、途中で潰れるぶんを見込んだからで、結局その日は一つも潰れなかった。
*
三度ぶんの枯れ木が揃った日の夕方、火を組んだのは住処の中ではなく、外だった。
幹の中の火は、背中を温めるためのものである。
大きくすれば煙は上の裂け目からしか抜けず、抜けきらないぶんは天井の内側に溜まって、下りてくる。
外の平らなところへ石を輪に並べ、その内側へ、三度ぶんの枯れ木を入れた。
火がつくと、まず匂いが変わった。
いつもの火は、細い煙が細いまま上がっていく。
この日の火は、根元で一度ふくらんでから、中ほどで橙、上で黄へと色を変え、いちばん上で粉のようになって散った。
散った粉は上がりきる手前で消えるので、消える高さのあたりに、見えない天井が一枚張ってあるように見える。
熱の届く輪の内側へ、全員が入った。
入って、しばらくは誰も口をきかなかった。
気まずかったからではなく、正面から顔へ当たってくる熱というものを、この輪はほとんど知らなかったからである。
「熱い」
ウルが言って、それで全員が笑った。
「熱いのは火だ。文句なら火に言え」
カイがそう返して、二度目の笑いが起きる。
ノアは石の輪をもう一巡見て回り、外側へ転がりかけていた一つを爪先で戻した。
フィンは何も言わずに、三度目の籠から一本を足している。
ヴェルドは輪の外の暗がりに立っていたが、ウルが手招きすると、二歩だけ内側へ入って、そこで止まった。
熱の届くところと届かないところの境目で、彼はそのまま座らずにいる。
食う分は、笊に一杯ぶんを出した。
出したのはダンである。
一杯は、線を下げた数え方でいえば二日ぶんにあたる。
それを一晩で出すと決めたのは彼で、決めたことを口では言わなかった。
数える口を開きかけて、開いてから、その晩に限っては開いた意味が無いことに気づいた。
一杯ぶんはもう外へ出てしまっていて、いくら数えても棚へは戻らない。
彼は口を閉じ、輪の石へもう一度座り直した。
ウルは、二つ目に手を伸ばした。
伸ばしてから、いつもの癖で一度止まった。
止まって、周りを見た。
誰の目もこちらへ来ていないと分かってから、止めたはずの手をそのまま前へ出す。
三つ目のときには、止まらなかった。
四つ目のあたりで、ウルは自分が止まらなくなっていることに気づいたらしい。
気づいた顔のまま、口を動かすのはやめず、火のほうへ目を戻した。
汁が指の付け根まで垂れて、そこで光っている。
ダンはその手が何度目かを数えかけて、四つ目まで来たところで、勘定の途中でやめた。
朱い実は、東へ回る者の籠から出た。
坂の上を東へ回ったやつが持って帰ったぶんだ、と誰かが言い、その言い方が二人目、三人目と回っていくうちに削れて、最後には「東へ回るやつ」だけが残った。
「東へ回るやつ、もう一つよこせ」
「私の籠だぞ」
「じゃあ東へ回るやつの籠から、もう一つ」
実は手から手へ渡り、火に近づくたびに濡れた面が明るくなって、遠ざかると暗い葡萄の色に沈んだ。
そのやりとりが三度あって、四度目に、カイが手を出しかけて、出しかけた手を止めた。
渡す側が、こちらを見ていなかったためである。
東へ回るやつは顎を上げて、火の粉が消えるあたりへ目を向けていた。
粉の消えた先には、目を留めるものが一つも無い。
無いところへ目を置いたまま、彼女はしばらくそうしている。
「ソラ、もう一つ」
言ったカイのほうが、言ってから止まった。
去年の春、セトが石板を床いっぱいに並べた晩に、地面と空を並べて話したことがある。
地面のほうは年ごとに違うことを言うが、空のほうは何年たっても同じことしか言わない、と。
そこにはカイもいて、聞いていた。
その晩の言葉がどこを通っていま口まで来たのかは、言った本人にも分からなかったらしい。
止まって、自分の口のあたりを一度触ってから、何も言わずに火の側へ体ごと向き直った。
なぜ止まったのかを、その場の誰も聞かなかった。
ソラは実をもう一つ渡した。
渡す手が、途中で一度止まっている。
踊りは、誰が始めたのか分からない。
はじめは、熱くなった者が輪の外へ出て、冷えたらまた戻ってくるだけだった。
出て戻るのを何度か繰り返しているうちに、出る足と戻る足の間隔が、いつのまにか揃い始めた。
揃うと、揃っていない者が気になる。
気になった者が合わせにいって、合わせにいった先で、ついでに腕も上がった。
上がった腕の影が、幹の樹皮を大きく回っていく。
足の裏は、踏むたびに地面の冷たいところと熱いところを交互に拾った。
そのころには、あの節が鳴っている。
「ゆき、みず」
二つきりだった詞に、その晩、いくつか足された。
足したのは鳴らしている本人ではない。
輪の中の誰かが上がるところへ勝手に言葉を置き、置いた言葉が合わなければ次の周で落ちた。
落ちずに残ったのは、三つである。
「ゆき、みず」
「つぶ、かた」
「ひとばん、おくれた」
三つとも、石板の印をそのまま口へ移したものだった。
三つ目が入ったところで、輪が一度崩れた。
崩れたのは笑い声のせいで、笑ったのは全員がセトのほうを見たからである。
セトは輪の端に座ったまま、笑われているあいだ、石板を膝から下ろさなかった。
下ろさないまま、口の端を一度だけ動かしている。
汗の浮いた額へ火の金が回って、笑っている者の顔が、みな同じ色になっている。
「この日、名前がいるでしょ」
輪の内側から、リアが言った。
「名前が無いと、来年またやろうって言うときに、どの日のことか誰にも言えない」
「何にする?」
セトが石板から顔を上げずに聞いた。
「実った夜」
「実りきってない」
と、ダンが引き取った。
そこを言うのは、いつも彼である。
リアは引かなかった。
「実りきってなくても、実ったことは実った。実らなかったぶんまで入れて、実りの夜でいい」
言い切ったあとで、その言い方を一度も直そうとしなかった。
直さなかったので、その言い方のまま次の周で節に乗り、乗ったところで名前になった。
ダンは輪の外側の石に座って、それを見ていた。
膝の上に置いた手が、いつもの数える形になっていない。
輪の内側で腕の影が回っているあいだ、彼は何ひとつ数えていなかった。
*
炎が低くなって、声だけが残った。
語りは、そこから始まっている。
セトが石板を膝に載せ、今年ぶんを頭から順に読み上げていった。
読み上げるといっても、印はもともと言葉ではないので、印を目で追いながら、そのとき何があったかを自分の口で言い直していく、という形になる。
「七杯は、俺が数えた」
「数えた」
「あと一杯だったのも、俺が言った」
「言った。それも刻んである」
ダンはそれで満足したらしく、そのあとは口を挟まなかった。
蒔き直した日の行まで来たとき、彼は一度切った。
「その前の日の昼だ。蒔けって言ったのはフィンで、リアが止めて、そのあとでノアが言った」
「違う」
止めに入ったのはリアの声である。
「私が止める前に、ノアが先に言ってる。どっちにしても減るんだから選ぶのは減り方だけだ、って。あれが先」
セトは石板へ目を落とした。
フィンが籠を足元へ下ろしたのは、覚えている。
その前に誰が何を言ったかも、覚えているつもりでいる。
彼の頭のなかの順番では、ノアが言ったのはリアのあとである。
リアの頭のなかでは、逆になっている。
覚えているつもりでいることと、刻んであることとは、別である。
その日の行に載っているのは、霜と、蒔き直した日と、遅れた一晩ぶんの三つきりで、昼に誰が先に喋ったかを刻むための印を、彼は持っていなかった。
持っていないので、どちらが先だったかを確かめる道は、この石板の上には一つも無い。
「そうかもしれない」
返した。
返してしまってから、自分がいまこの場で何を手放したことになるのかが、遅れて届いた。
これまで、その日に何があったかを最後に決めるのは彼だった。
決めていたというより、ほかに決められる者がいなかった。
今夜、口へ移したことで、決める者は一人ではなくなった。
移さなければよかったとは思わない。
思わないということを自分で確かめるのに、彼は灰をかぶった熾を二度掻き回すぶんの時間を使った。
その夜、名前が一つ増えている。
呼び方が返事を連れてきた一往復を、セトはその晩のうちに刻んだ。
刻んでから、その行を見下ろしたまま、しばらく次を刻まずにいた。
呼び方が名前になるのであれば、名前にならない呼び方もあるということになる。
織りの木枠の前にいる者は、この一年、脛を折った者と呼ばれてきた。
それは呼び方ではあるが、その者が自分でした事の名前ではない。
脛が折れたというのは、された事のほうに入る。
その者は今夜、輪の中でいちばん多く鳴っていた。
鳴っていた節へ詞を乗せたのもその者で、乗せた詞だけは全員が持って帰った。
それでいて、新しい呼び方で呼んだ者は、ひとりもいない。
火の残りの側に、まだその者は座っている。
膝の上の糸は昼のうちに置いてきたはずなのに、両手はその形のまま組まれていた。
セトはそちらへ声を掛けようとした。
掛けようとして、掛けるための呼び方が自分の手元に一つも無いことに気づいた。
脛を折った者、と呼べば届く。
届くが、名前が一つ増えた夜に、それを輪の中で言うのは、彼にはできなかった。
「いいよ」
先に言ったのは、掛けられなかったほうである。
「呼ぼうとして、やめたでしょ。呼び方が無いのは、私がいちばんよく知ってる。無いものは、今日は無いままでいい」
そう言うと、その者は立ち、火のいちばん遠い側を回って住処へ戻った。
戻っていく背中へ、セトは声を出さずにいた。
言えなかったのではない。
いま言えば、無いままでいいと言った側の言葉を、こちらの都合で取り消すことになる。
石板の隅にある去年の丸へ、そこで目を落とした。
灰をかぶった熾の琥珀が、その隅のところだけを下から照らしている。
見ただけである。
名前にならない呼び方を掛けておくための新しい印は、一つも刻まないまま、彼はその石板を膝の上へ伏せて置いた。
この夜をのちに祭りと呼ぶことになるのだが、そう呼ぶための言い方を、この一同はまだ知らない。
知らないので、彼らは実りの夜と呼んだ。
*
セトが石板を伏せた夜が明けて、誰より先に外へ出たのはソラだった。
坂の上へ行くためで、そのつもりは前の晩、火が熾に落ちるより前から決まっていた。
昨日の火で三度ぶんを使い切ってしまったので、日が高くなる前に、次の枯れ木がどこに立っているかを見ておきたい。
昨日、笊から出した一杯は、ダンの二日には入っていない。
ダンが数えた二日は、採りに出ない日と枯れ木を集める日で、どちらも入ってこないほうの数である。
出ていったほうは、数えられていない。
昨日出した一杯は、線を下げた数え方でいえば二日ぶんにあたる。
そのうちの一日ぶんは、昨日みんなが食うはずだった日にあたるので、余分に出たのは残りの一日ぶんである。
足せば、十三日は十四日になる。
言おうかどうかを、坂を上りながら決めかねている。
言えば彼は必ず数え直すが、数え直したところで一杯は戻らないし、戻らないものを二度数える彼を、昨日の夜のあとで見たくはなかった。
外は、吐いた息がそのまま形になって残るほど冷えていた。
東の際はまだ紫のまま明るくなりきらず、下の畝は霜をかぶって鈍い鉛の色をしており、その向こうの川べりだけが、枯れ残った蔓の赤茶で縁取られている。
下草には乳白の霧が腰の高さまで溜まっていて、その中を歩くと、足首から下だけが露で濡れる。
斜面の途中で立ち止まったのは、濡れたからではない。
風が、川下から吹き上がってきて、いったん止んだ。
止んだところに、音があった。
低い音である。
人の声ではないし、木の折れる音でも、獣が下草を分ける音でもない。
何かを続けて叩いている音で、叩く間隔が同じ幅で揃っていた。
間隔が揃っているということは、叩いているものが向こうにあって、それを叩いている者もいる、ということになる。
ソラは籠を背中へ回したまま、音の来るほうへ——北の岩のほうへ、体ごと向き直った。
岩の肩は、日の出る側だけが銀に光り、その下の斜面はまだ濡れた石の色のまま沈んでいる。
音が来ているのは、その銀に光っているほうからで、風の上ではなく、風が止んだ隙間のほうだった。
四つ叩いて、間があく。
また四つ叩いて、間があく。
三度目の四つを数えたところで、風がまた吹き始めた。
音は、聞こえなくなった。
誰かを呼びに戻っても、戻ってくるまでには風がとうに吹いている。
風が止むのを二人で待つという手はあるが、いつ止むかは風のほうしか知らない。
ソラはもう一度だけそちらを向いてから、籠を持ち直して坂を下りた。
下りるあいだに二度、坂の上へ首が向いた。
戻ってから、彼女はセトのところへ行って、聞いたとおりに言った。
十四のほうは、言わなかった。
その朝のことを、セトは刻んでいる。
去年から、行の頭には数を一つ置くようになった。
初めての冬から数えて、何度目の年かという数である。
粒の並びで年の変わり目が言えるようになるまでは、置きたくても置く数のほうが無かった。
――六年目。音。四つずつ。北の岩の、日の出る側。風は、日の出のあいだ川下から。




