第十一話 星を読む
その春は、来るのが早かった。
この森で六度目の春になる。これまでの五度ぶんは、すべてセトの石板の上にある。
窪地の南の畝を覆っていた雪は、日の当たる縁から先に融け始め、融けた跡から現れた土は、去年の同じ頃に見たものよりも黒く、湿って、握れば掌の形がそのまま残るほどにやわらかい。
リアは畝の端にしゃがみ、人差し指を第二の関節まで差し込んだ。
指の先に当たってきたのは冷たさではなく、水を含んだもの特有の、ぬるい重さだった。
畝は南向きに七本あり、端から端まで歩けば四十歩になる。
去年の秋に二本足したので、足したぶんの土はまだ荒く、雪の融け方も先の五本より半日ばかり遅い。
畑の際では、去年の枯茎の根方から萌黄の芽が一斉に持ち上がっていて、その一つずつを抜き取っていたら日が暮れる、という程度には数が多い。
川べりの木は蕾を膨らませ、そのうちのいくつかは、もう縁がほどけかけている。
「まだ早くないか?」
ノアが後ろから言った。
「早いのは、去年の話」
「去年も暖かかっただろ。暖かいからって、そのまま行くとは限らない」
「あれは土がまだ冷たかった。今年の土は、もう温い。掘れば分かる」
彼女は指を抜いて、土のついたそれをノアの目の前へ突き出した。
第二の関節まで、濡れた鳶色に染まっている。
乾いた土なら、こうは付かない。
ノアは自分の指を同じ深さまで差し入れて、しばらく抜かずにいた。
抜いてから、その指を上着の腿でこすり、口のほうは開かなかった。
二日おいてから、種を蒔いた。
奥の壁の上の段から袋を下ろして畝まで運んだのはダンで、下ろす前に、袋の重さを両手で一度持ち上げて確かめている。
七本の畝に、三人ずつが付いた。
一人が鍬の先で浅い溝を引き、一人が種を落とし、一人が後ろから土をかぶせていく。
落とす間隔は去年と同じで、踵から爪先までを一つぶんとして数えた。
埋めながらリアが気にしていたのは深さで、浅ければ鳥に持っていかれるし、深ければ芽が土を押し上げきる前に力を使い果たしてしまう。
去年より指一本ぶん浅く埋めたのは、土がこれだけ温いのなら、そのぶん早く出てこられるはずだと考えたからだった。
七本を埋め終えるまでに、日は高いところから川べりの木の高さまで下りている。
その晩、彼女はもう一度、畝の端まで戻っている。
戻って、暗いなかで昼と同じところへ指を入れた。
昼と同じ深さに、昼と同じぬるさがある。
わざわざ確かめる必要のあることではなかったが、確かめてから寝たほうがよく眠れるだろうという、それだけの理由だった。
二度確かめたことは、誰にも言わずにおいた。
*
十日で、二葉が揃った。
リアが暗がりで指を入れ直した、その同じ土の上である。
揃ったのを最初に数えたのはダンで、畝を端から歩きながら、出ているものと出ていないものを分けていき、出ているほうが四分の三を超えたところで、去年の同じ頃より多い、と口の中で言った。
その朝、彼には悪いほうを言う理由が一つも無かったので、数え終えてから畝をもう一往復して、二度目の数が一度目と合うことまで確かめている。
言う理由は、六日後の朝に戻ってきた。
夜のうちに冷え込んで、畝の上が一面、灰を薄く撒いたように白い。
撒いたように見えるのは霜で、霜そのものはこの時期の朝に珍しくもないのだが、その下にあるものが去年までとは違っていた。
彼が外へ出たとき、畝の端にはもうリアがしゃがんでいて、二葉の列に沿って親指を這わせていた。
触れたところが、触れた形のまま倒れていく。
「これ、戻るのか?」
ウルが聞き、リアは親指を止めないまま、首を縦にも横にも振らなかった。
二葉は日が当たるにつれて縁から透け、透けたところが水を含んで垂れ、昼過ぎには煮えたような青褐に変わって畝へ貼りついた。
指で摘まむと、芯になるものが何一つ残っていない。
七本ぶんが、そうなった。
ダンは畝を端まで見てから住処へ戻り、奥の壁の棚の前に立った。
上が種で、下が食う分である。
移った冬に彼が自分の体で二段の幅を測ったとき、大事だったのは、暗がりでもどちらへ手が届くかということだった。
このときはもう、手が届くかどうかではなく、どちらの段にどれだけ残っているかという話に変わっている。
下の段には、笊に二杯ぶんしか残っていなかった。
一杯は、去年の秋なら一日で無くなる量である。
朝と夕に椀を出して、椀の底から指一本ぶんのところまで配れば、それでちょうど一日になる。
その線を半ばまで下げれば、一杯で二日もつ。
下げたのは霜の朝のうちで、二杯は、それで四日ぶんになった。
四日で足りなければ、そのあとは上の段の話になる。
春というのは、来るのが早ければ早いほど親切そうな顔をして、蓄えのいちばん薄いところを狙って訪ねてくる季節である。
去年の実りは冬を越すぶんで組んであって、越したあとのひと月ぶんまで足りるように組めた年は、この森にまだ一度も無い。
畑の際で持ち上がっている芽は、去年しまいまで試して、痺れるほうと痺れないほうの見分けがつかなかった側である。
川は雪解けで濁っていて、投げても石が見えない。
母親のほうの乳は、朝に絞っても椀の底が隠れるあたりで止まる。
飴色に削り上げた棚板の、下の段だけが乾いた木肌を見せていた。
上の段の袋を下ろして、彼は口の紐をほどき、中を覗いた。
覗き込んでいる彼の後ろから、畝を見終えて戻ってきたばかりのノアが、袋の口のあたりへ首を伸ばしてきた。
「もう一度は、蒔ける」
ダンはそう言って、袋の口を相手のほうへ広げ、底まで見えるように傾けた。
「二度は、蒔けるのか?」
「二度は蒔けない。それと、こいつは食う分でもある。待っているあいだに下の段が空けば、上の段へ手が伸びる。上へ手が伸びた時点で、待った意味のほうが先に消える」
そう言ってから、彼は袋の口を締め直し、元の段へ戻した。
「じゃあ、いつ蒔く?」
ノアが聞き、リアが答えた。
「霜が済んでから。今朝みたいになるのは、芽が出たあとに当たったからで、出る前なら土の中までは来ない。埋めたまま霜をやり過ごせば、そのぶんは死なない」
「霜が済んだかどうかは、どうやって分かる?」
答えられる者は、その場にいなかった。
この時期の霜は幾らでも降りるので、降りた数を数えたところで、そのうちのどれが最後の一つだったのかは、夏になるまで分からない。
夏まで待って蒔く畑は、畑ではない。
棚を離れる前に、彼は二段の幅をもう一度だけ体で測っている。
移った冬に測ったときと幅は同じで、変わったのは、下の段に載っているものの高さだけだった。
ダンは両腕を下ろし、上の段を見上げないようにして棚の前を離れた。
*
その測り直しをした晩、セトは石板を全部、床へ並べた。
昼のうちにノアから聞かれていたのである。
いつ蒔けばいいのか、と。
そのとき彼は分からないと答えていて、それは謙遜でも、はぐらかしでもなかった。
彼の石板に刻んであるのは起きたことだけであり、起きたことのなかに、まだ来ていない霜というものは入っていない。
並べると、床が埋まった。
火を挟んだ両側の、人が寝る場所まで石が届いたので、その晩は端のほうの何人かが壁ぎわへ寄り、上着を重ねて座ったまま夜を越すことになった。
文句を言った者はいない。
言わない代わりに、石を跨いで通るときだけ、全員が足元を見た。
火から遠い端は暗くて印が読めないので、ウルに熾しを持たせ、端から順に照らさせていく。
彼は熾しを低く構えて、腕の先だけを動かした。
石の面が橙に浮かび上がり、次の一枚へ移るたびに、さっきまで照らされていた一枚が藍へ沈んでいった。
五年ぶんと、半分がそこにある。
「これ、全部書いたの?」
「書いた」
刻んであるものの大半は、あとから読み返す者のいない類の行である。
雨の降った日、実の落ちた日、川が濁った日、塩山羊が二頭とも塩の岩へ来なかった日。
役に立つと思って書いたのではなく、その日にそれが起きたから書いた、というだけの行が、床の上に五年ぶんと半分、並んでいた。
探すのは、春の終わりの霜だった。
どれが最後の霜かは、刻んだ本人でなくても見分けがつく。
霜の印がひとつあって、そのあとに霜の印が夏まで一度も出てこなければ、その一枚が最後である。
五度の春ぶん、五枚が出て、うち四枚は、その晩の行に霜の印しか刻まれていなかった。
去年の春の一枚だけが、違っていた。
知らなかったのは、その晩の行が二行あったことだった。
同じ晩に二つ書いたときだけ、彼は行を二つに割る。
一行目には、霜の印がひとつ。
二行目には、印が三つ。
粒、岩、肩。
三つの印で、それだけが刻んであった。
粒というのは、星のことである。
晴れた晩に空じゅうへ散っている、あの細かいものを、この一同は森へ来る前からそう呼んでいて、そのうち一箇所だけ、粒がひと固まりに寄り集まっているところがある。
セトの印は、そのひと固まりのほうを指している。
岩は、窪地の突き当たりを塞いでいる、北の切り立った砂色の岩である。
肩というのは、その稜線が日の沈む側の端で一段だけ低くなっている、その段のことだ。
人の肩の落ち方に似ているというので、誰が言い出したのでもなくそう呼ばれている。
去年の最後の霜が降りた晩、粒のひと固まりが岩の肩へ掛かっていた。
その行に刻んであるのは、それだけである。
なぜ書いたのかを、彼はもう覚えていなかった。
覚えていないのに、書いてある。
「星が、蒔く日を教えてくれるのか?」
カイが覗き込んで言った。
去年の秋の斜面から先、この男が軽い側から口を開くのを、セトは一度も見ていない。
今のは、軽い側ではなかった。
「星は何も言わない」
「じゃあ何の役に立つんだ、それ?」
「刻みが当てにならないんだ。俺が一日忘れれば、その先が全部ずれる。実際、忘れた日には忘れたと刻んである。何日ぶん忘れたかは刻んでいない。粒は、俺が忘れているあいだも岩の肩にいる」
「去年の霜だって、暖かい年の霜だったろ。暖かけりゃ、霜だって早く来るんじゃないのか?」
セトは石板を見たまま、少し間を置いて答えた。
「芽も、蕾も、土の温さも、暖かければ早く出る。今年みたいに暖かければ、揃って早く出る。霜のほうは、そいつらが早く出たからといって、自分も早く来ようとは思わない。粒は、暖かい年も寒い年も、同じ晩に同じところにいる。地面は今年の話をしてるが、空は毎年おなじ話しかしない」
「その一枚だけなんだな」
「四枚には、霜しか刻んでない」
セトは何も刻んでいない一枚を膝へ載せた。
載せてから、しばらく刻まなかった。
刻めば、まだ起きていないことが石の上に残る。
刻んだものを戻す道は、この石にひとつも無い。
一枚しか無いというのは、来年も同じなら二枚になる、ということでもある。
二枚になるまで待てるかどうかは、彼の決めることではなかった。
――粒が岩の肩に来る夜、霜。
刻み終えると、彼はその一枚を伏せ、上へ石を一つ載せた。
木に傷をつけて試したとき、どれがどれか分かるように三つの根方へ置いたのと同じ、形で見分けるための平たいやつである。
伏せたのは、誰かに読まれたくなかったからではない。
自分がもう一度読めば消したくなる、と思ったからだった。
そのあと彼は裂け目をくぐって外へ出て、幹の北側へ回った。
夜の岩は輪郭だけを残して黒く沈んでいて、その輪郭が、日の沈む側で一度だけ折れている。
折れたところの上に、粒のひと固まりがあった。
腕を伸ばして測ると、拳四つと、指一本ぶん。
しばらくそうしてから、彼は戻ってきた。
*
次の晩、その石を持ち上げた者がいる。
去年の秋に脛を折った者である。
この一同では、呼ぶための名前を持っている者のほうがまだ少なく、持っていない者は、その身に起きたことで呼ばれることになっていて、彼女の場合はそれが去年の秋だった。
あの日、四枚の上着を繋いだ担架で運ばれたのが彼女で、半年経って歩けるようにはなったものの、歩き方はまだ元へ戻っていない。
右足を出すたびに腰が半分だけ落ちるので遠くへは行けず、そのぶん、夜のうちに起きている時間が誰よりも長かった。
彼女は石をどけ、伏せた一枚を返して、火へ傾けながら読んだ。
「これ、まだ起きてない」
「起きてない」
「そっちは、起きたことしか書かないって言ってた」
セトは答えなかった。
答える代わりに、樹皮を綴じた簾をめくって、外へ出るほうへ顎を向けた。
彼女は右足を引きながら裂け目をくぐり、幹をぐるりと回って、北側へ出た。
外は藍を通り越した群青で、その色のいちばん濃く溜まったあたりに、白銀の粒が寄り集まっている。
北の岩の肩からは、拳四つぶんほど上にあった。
「外がその色になったところで、この石の上に立って見る。そう決めておかないと、下りた分が測れない。同じ晩でも、遅く見れば低いところにいるし、二歩ずれれば肩の高さのほうが動く」
彼は、幹の北側の、根の上へ平たく張り出した石の上に立っている。
「明日は、どこにいるの?」
「拳三つと、指三本ぶん上。拳ひとつは指四本で、指一本が一晩ぶんだ」
「なんで一晩ぶんだって分かるの?」
「昨日の晩に一度、見た。今日と比べて、指一本ぶんだった。二晩ぶんで先を言うのは、俺のやり方じゃない」
「でも、言うんだ」
「言う」
次の晩、外が同じ色になるのを待ってから、彼女はまた幹の北側へ回り、同じ石の上へ乗った。
腕を伸ばしきり、岩の肩へ右の拳を当て、その上へ左の拳を重ね、左を残したまま右をもう一つ上へ送る。
そうやって拳を三つ積み上げ、いちばん上の親指の付け根から、指を三本添えた。
掌の縁が、ちょうど粒の下へ来た。
伸ばした腕の袖の生成りが、夜気のなかで沈んだ鼠色に見えた。
寒気が袖の口から入り込んで、脛の内側の、骨のくっついたあたりが芯から冷えた。
そこは治ってからずっと、冷えると内側が膨れるような重さを持つようになっている。
「私の脛は、霜の来る前の晩に痛くなる。折ってからずっとそう。でも、痛いって言って、誰かが手を止めてくれたためしがない。言われたほうが困るだけだから、私も途中から言わなくなった。そっちのそれなら、手が止まる。石に刻んであれば、みんな、自分の足で見に行ける」
「その脛では、蒔く日は決められないのか」
「決められない。前の晩にしか痛まないから。前の晩に分かっても、明日は蒔くなとしか言えない。いちばん最後の霜がどれかは、痛くなってからでは遅い。そっちのそれは、十いくつ先まで数えられるんでしょう」
「数えられる。合っているかは、別だ」
セトはその晩、石板を彼女のほうへ寄せた。
彼女は、断る言い方を探した。
探しているあいだにも夜は残っていて、どのみち自分は明るくなるまで起きている。
その晩から、日ごとの刻みを入れるのは彼女の役になった。
忘れないからではなく、どのみち起きているからである。
彼女は数えるとき、口の中で節をつけた。
木枠の前で糸を通していた頃に鳴っていたのと、同じ調子の、詞のついていないやつである。
一晩に一度だけ上がって、上がったところで、印が一つ増える。
畝に霜が乗った、その前の晩から、脛は痛んでいた。
朝には退いて、そのあとは静かにしている。
刻む役になってからも、彼女は自分の脛のことだけは、一度も刻んでいない。
*
刻む役が移って、三日が経っていた。
その晩、石板が火の前へ出た。
並んだ全員が、伏せてあった一枚の表を順に見る。
手から手へ渡るあいだ、石の面は火に近づくたび蜜色に浮いて、遠ざかるたび灰へ落ちた。
上着の端に入れた臙脂が、火に近い側の者のぶんだけ浮いて見えた。
石に刻むというのは、これまでずっと、済んだものを片づけて置いておく作業だった。
読んだ者の何人かは、読み終えてから、思わず北の岩を振り返っている。
「粒って、蒔くほうの粒?」
ウルが聞くと、火の向こうからカイが答えた。
「空のほうだ。おまえだって去年からそう呼んでるだろ」
「呼んでる。あっちのが落ちてきたら、蒔かなくて済むのにな」
誰かが笑い、笑ったあとで、いま笑ってよかったのかを確かめるように黙った。
セトは拳と指の数え方を、その場で全員に言い直した。
拳ひとつが指四本で、指一本が一晩ぶんである。
聞いた者のうち何人かは、自分の拳を目の高さまで上げて、そこへ四本の指を並べ、拳のほうが少し厚いとか、自分のは指三本半ぶんしかないとか言い合っている。
数えるのはセトの拳でと決まったのは、そのときである。
ノアはセトのほうへ向き直った。
「一回目で決めたくないって、前に言ってたよな」
そう言ったのは、意地悪でではない。
木を六本枯らして、それでも決めなかった男の顔を、彼はそのとき思い出していた。
「言った。今もそう思ってる」
セトは膝の石板を見たまま答えた。
「けど、二回目を待つには、あと一年ぶん種が要る。種は一度ぶんしか無い。一回目で決めたくないというのは、決めなくても済むときの話だ」
火が一度、音を立てて崩れた。
崩れた朱がしばらく低くなり、そのあいだ、誰も何も言わなかった。
あのときの顔と、いまの顔は違う、とノアは思った。
どこが違うのかは、うまく言えない。
待てば、蒔く日が遅れる。
遅れたぶんだけ、実りきる前に寒くなる。
石に刻んであるとおりなら、蒔くのは十二晩あとで、最初に埋めた日からはひと月ぶん遅れることになる。
どちらを選んでも減る。
減り方を選ぶだけだ、と彼は思った。
輪の外に少し離れてヴェルドが立っていて、石板が回されているあいだ、一度も口を開かなかった。
何も言わないというのが返事なのだと、ノアはこの何年かで分かるようになっている。
ノアは膝の石板を、一度だけ火のほうへ押した。
「必ず当たるとは、こいつも言ってない。俺も言わない。けど、待たなかったら、いつ蒔くかを決めるのは霜のほうだ。今年の畝は、霜が決めた」
「じゃあ、いつなら蒔けるんだ?」
カイが言って、言ってから、答えを持っている者がこの輪にいるのかを見るように一周ぐるりと目を走らせ、返事が来る前に自分で黙った。
待とう、と言った者は、その晩、一人もいない。
言う代わりに、リアが膝に載せていた種の袋を、そこで床へ下ろした。
下ろしてから、口を上へ向けて置き直している。
それで決まった、とノアは思った。
ダンはその晩のうちに、その袋を棚へ戻した。
戻す前に、笊へ一杯ぶんだけ取って、下の段へ移す。
「一杯ぶん減った。七杯までなら、畝は端まで埋まる。八杯目からは、埋まらないところが出る」
「手が伸びた時点で終わりだって、さっき言ったよな」
カイが言った。
「言った。言い直す。七杯までなら終わらない。八杯目から終わる」
「終わったら」
「出たぶんは、秋に足りない。足りないぶんは、冬に誰かの体から引かれる」
一杯で二日もつので、七杯は十四日ぶんである。
石に刻んであるのは十二晩あとだから、あいだに二日ある。
その二日を口に出した者は、やはりいなかった。
数えて言うのは、いつもの彼である。
いつもと違って、移し終えたあとも袋の口を握ったまま、しばらくそこに立っていた。
その手が袋から離れてから、リアが立った。
彼女は種の袋へ手を伸ばしかけて、触れる前で止めた。
止めた指を、そのまま自分の掌へ握り込む。
「一掴みだけ、蒔かせて」
「今か?」
「明るくなったら。霜なんて、この時期は幾らでも降りる。降りたかどうかじゃなくて、殺す霜だったかどうかを見たいの。畝が空のままだと、朝はどっちでも同じ顔をしてる。死ぬものが無ければ、当たったのかどうかを誰も言えない。この一掴みは、そのために死ぬぶん」
ダンは袋の口を開け直して、彼女に掌を出させた。
「一掴みぶんは、七杯からは引かない。畝から引く。端が、そのぶん埋まらなくなる」
「埋まらないところに去年なにが生えてたかは、私が覚えてる」
誰も止めなかった。
止める言い方を、ノアは思いつかなかった。
彼はその夜、外へ出て北の岩を見上げた。
粒は、肩からまだ拳三つぶん上にある。
拳ひとつが指四本で、指一本が一晩ぶんだった。
彼は指を立てて岩の肩へ重ね、重ねたまま、しばらく下ろさずにいた。
*
その三つが、二つになり、一つになった。
十二の晩を数えて下りてくるあいだ、リアは毎朝、明るくなるより先に自分の一掴みを見に行っている。
畝の端の、人の膝ほどの幅しかない一区画に、若草の二葉が三十いくつか揃ったのは、指が二本になった晩の次の朝である。
蒔いてから、ちょうど十日だった。
本畝は、何も無い。
何も無い土は日を受けても色が変わらないので、遠目には去年の秋のままに見えた。
彼女は日に一度、その二つを端から端まで続けて見た。
朝ごとに背を伸ばしているのは、死ぬために蒔いたほうだけである。
七杯目を移した晩に、リアは棚の前に居合わせた。
ダンは笊の中身を指でならして、山になったところを平らにしてから運んでいた。
すりきりにしないと、八杯目が早く来る。
配る線は、七杯目の朝からもう一段下がっている。
下げたと言った者はおらず、下がったことに気づいた者も、その場では何も言わなかった。
立ち上がるとき、彼女自身も一拍だけ遅れた。
腹の内側が薄い。
その遅れ方をする者を、彼女はこの数日で何人か数えている。
水を先に飲んでから椀を取る者が三人、椀を空にしてから縁を舐める者が二人。
上の段を見上げた者が一人いて、見上げただけで、何も言わずに火のほうへ戻った。
指が一本になった晩、リアは初めて自分で外へ出た。
幹の北側へ回り、根の上へ張り出した石の上に立つ。
外の色が教わったとおりの深さになるまで待ってから腕を伸ばしきり、岩の肩へ指を添えた。
肩と粒とのあいだに、指が一本きり入る。
一本が一晩ぶんだと聞いている。
土のほうは、指を入れさえすれば、深さも温さもその場で掌へ返してきて、返ってきたものを彼女はこの春に一度、疑わずに信じている。
腕を伸ばした先のこの一本は、何も返してこない。
返してこないものに、あと一晩、二十四人ぶんの秋を預けることになっている。
下りてくるとは聞いた。
下りているところを、彼女はまだ一度も見ていない。
指一本になった、その次の晩に、粒は岩の肩へ触れた。
その晩は、何も起きなかった。
次の日の風は南から来て、川は雪解けの水で嵩を増し、日中には上着を脱いで働く者が出るほどに暖かかった。
畑の際の枯茎は根方まで褪せた茶に乾き、川べりの木は蕾がほどけきって、薄い緑の葉を出している。
地面のほうは、その日、一つ残らず蒔けと言っていた。
その日の昼、一同は畝の端へ集まった。
「肩には、来たぞ」
カイが言った。
「来た」
「刻んだのと、違うじゃないか?」
「違う」
「今日蒔けば、まだ間に合う。明日は分からない」
フィンが言ったのは、それだけである。
彼が「できる」と言うときは、たいてい本当にできるので、輪の空気がそちらへ傾いだ。
そのあとで、ダンが笊を提げて畝の端まで来た。
「今日蒔けば、八杯目は要らない。明日になれば、要る」
リアは畝の端の一区画を指した。
「まだ生きてる。あれが生きてるあいだは、来てないだけ」
「生きてるのは今日の話だろ。明日どうかは、その一掴みも知らない」
「どちらを選んでも減る。減り方を選ぶだけだ」
そう言って、ノアはそれきり口を開かなかった。
フィンは持っていた籠を足元へ下ろし、それきり畝を見なかった。
その日は結局、袋が下ろされないまま暮れた。
火を熾してから、セトはその石板を伏せなかった。
伏せる代わりに、火のいちばん明るいところへ置いた。
リアはそれを、輪の後ろの、自分の座っている場所から動かずに見ていた。
置かれた面には、来るはずだった夜のことが刻んである。
来なかった夜のことが刻んである、と読み直すほうが、この日の彼女には近い。
石は、消せない。
石板が回った晩、待つと決まったとき、彼女は黙っていた。
黙っていたぶんは、口に出した者の側へ積まれていく。
一掴みだけは自分で言い出して、そのぶんは自分の側に積まれている。
外れていたのなら、二度目に畝を殺すのは、霜じゃない。
その晩、セトはいつもの場所で膝を抱えて座り、裂け目の外の暗がりを見ていた。
脛を折った者が隣で刻みを一つ入れ、それから、節を一度だけ上げた。
上げる前に一拍だけ間があったのを、リアは熾のほうを向いたまま聞いている。
何をしていた間なのかは、向いていないので分からない。
リアはその節が止むまで、火を見ないでいた。
*
火を見ないまま夜が明けて、明るくなるより先に、リアがいちばんに簾をくぐった。
くぐった手の甲へ、外の空気がそのまま当たった。
息を吸うと、喉の奥までまっすぐ冷えた。
空はまだ鉛色で、東の際だけが浅葱に明るみ、その明るみのぶんだけ、地面に霜の乗っていることが見て取れるようになっている。
一掴みの区画は、透けていた。
三十いくつの二葉がどれも縁から水を含んで垂れ、まだ立っているのに、立っている形のほうがもう崩れかけている。
日が回れば、あの朝と同じところまで行く。
本畝は、空である。
空のままの土に霜が薄く乗って、明るみかけた光の下で、そこだけが鈍く光った。
死ぬものが、ちゃんと死んでいた。
リアはその一区画の前に膝をつき、一枚を指で起こして、離した。
起こした二葉は倒れ、倒れたところで、指の腹に冷たいものが残った。
十三日前に自分の掌から落ちた三十いくつを、彼女は端から数え直そうとして、七つ目でやめている。
やめてから、膝をついたきり、彼女はしばらく立たなかった。
自分が春の初めに二度も指を入れて確かめた土と、これは同じ土である。
あのとき指に返ってきたぬるさは、嘘ではなかった。
嘘ではないものが、こういう形で人を騙すことがあるというのを、彼女はこの朝に覚えた。
覚えたところで、膝の下の土はやはり温い。
温いまま、上に霜が乗っている。
後ろで簾の鳴る音がして、上着も羽織らずに出てきたダンが、彼女の隣まで来てから畝を向いた。
「昨日蒔いてたら、今日は数えるものが無い」
「七杯で止まった」
リアが先に言った。
「あと一杯で、埋まらないところが出た」
簾がまた鳴って、出てきた者は畝を見ずに、北の岩の肩のあたりを見上げてから戻っていった。
そのあとにカイが出てきて、畝とリアの背中を順に見てから言った。
「今年の霜は、日を一つ数え損なったみたいだな」
去年の秋の斜面から数えて、この男が軽い側から口を開くのを聞いたのは、この朝が初めてだった。
その日のうちに、蒔いた。
七本の畝に、また三人ずつが付いた。
埋める深さは、去年と同じところまで戻した。
指一本ぶんを、今度は足すほうへ数えている。
袋の底には、一粒も残らなかった。
それでも、畝は端まで届かなかった。
届かなかったのは膝ほどの幅の一区画で、リアが一掴みを蒔いて、殺した、そこである。
ダンはその手前で歩を止め、跨いでから、歩数を数え直した。
戸口のところには、脛を折った者が右足の側へ体重を預けずに立っている。
種を取りに戻る途中で、リアはその立ち方を見た。
「いつ、痛かったの?」
「昨日の晩」
「言ってくれれば」
「前の晩に分かっても、蒔く日は決められない。痛いのは、もう間に合わなくなってからだから。……そっちの石とは、そこが違うの」
彼女はそれだけ言うと、右足を引きながら簾の内側へ入っていった。
その後ろにヴェルドがいて、畝は見ずに、種を掴んで開いたあとのリアの手を見ていた。
見られているのに気づいて、リアは自分の掌を開いたまま、そこに残っているものを見た。
土のほかに、何も無い。
ノアは埋め終わった畝を端から端まで一度歩いて、それから空を見た。
「あとは、寒くなるのが遅いことを願うだけだ」
セトは、その一行の上へ石を載せなかった。
火のそばで石板を膝に載せているのを、リアは種を埋めながら見ている。
彼の手が一度止まって、それから短く二度動いた。
消したのではないことだけは、彼女のところからでも分かる。
彼がその一行の下へ足したのは、一晩ぶん遅れた、という意味の印である。
足してから、彼はもう一枚を持ってきて、隣へ並べた。
並べたきり動かないので、リアは種の袋を置いて、火のそばまで行った。
隣に置かれていたのは去年の一枚で、霜の印と、粒と岩と肩の三つとが、同じ晩の二行に載っている。
「去年は、同じ晩だ」
セトは新しいほうの石板を指した。
「今年は、一枚ぶん離れた。去年の俺が数え損なったのか、今年の俺が数え損なったのか、それを決める材料は無い。一枚しか無いと思っていたものが二枚になって、二枚になったとたんに食い違ってる」
「どっちが正しいの?」
「決められない。決められないものを、明日からみんなが使う」
リアは二枚を続けて見た。
指を入れれば温さを返してきた土のことを、彼女はこの春に一度、信じている。
石は、触っても何も返してこない。
返してこない代わりに、間違えたことだけが、そこに残っていた。
粒が岩の肩に来る夜、という言い方は、その春のうちに全員へ行き渡った。
決めた者がいたわけではない。
畝へ水を運ぶ途中で「粒が肩に来るまでには終わる」と言った者があり、聞いた者が翌日そのまま使い、三日目には、その言い方でしか日を指さない者が出てきた。
そう言えばどの晩を指しているのかが、聞いた者にはみな分かる。
そのうえで、霜が来るのはその次の晩だということも、同じだけ分かる。
二度数えて、二度とも違う晩になったということのほうは、そのうちに誰も言わなくなった。
次の春、リアは蒔く日をその名前で決めた。
土へ指を入れたのは、決めたあとだった。




