第十話 最初の傷
この朝、誰ひとり、何も間違えていない。
五度目の秋だった。
測る者は測るべきものを測り、下がれと言われた者は下がり、斧を握った者は入れるべき側から入れる。
あとで思い返しても、直せるところがどこにも見つからないという種類の朝である。
古木は、外れの斜面に立っていた。
葉は一枚も無い。
斜面の下草は霜を二度受けて褪せた枇杷色になり、その上に立つ幹だけが、色を抜かれたまま突き出している。
皮は幹の半ばまで剥がれ落ちて、剥がれた下から出ているのは、日に灼けて白茶けた、骨に似た色をした木肌である。
上のほうの枝はとうに折れて短くなり、残った二本が、風の来る側とは逆のほうへ、揃って傾いていた。
「これ一本で、冬のあいだ足りる」
ダンが幹に手を当て、両腕を回して抱えられないことを確かめてから言った。
抱えられない太さというのは、彼の数え方では「これから何日、探して歩かずに済むか」という意味である。
探して歩く日数が減るなら、割る手間のほうが増えても釣り合う。
「足りるってのは、何日ぶんだ?」
「割ってみないと分からない。けど、今まで運んだどれよりも太い」
「太いと、割るのも面倒だぞ」
「面倒なのは一度きりだ。探して歩くほうは、毎日ある」
伐っていいのは枯れた木だけだという決まりが、この一同には去年からある。
それを面倒がる声は、この一年、一度も出ていない。
ただ、決まりに従って一年も歩き回れば、近場の枯れ木というものはあらかた片づいてしまう。
この秋、薪を探す組は、日の出とともに発って、暗くなりかけてから空の籠で戻ってくる日のほうが多かった。
だから、この一本が見つかったこと自体は、その日にとってはよほど運のいい出来事だった。
その運のいい一本を、どちらへ倒すかは、その場で決めた。
斜面の下は開けていて、下草のほかには何も無い。
一方の上側には鈍色の岩が庇のように張り出していて、そちらへ倒れれば途中で引っかかることになり、引っかかったものを下ろす手立ては、この一同のどこを探しても出てこなかった。
だから下へ倒す。
下へ倒すために下側へ切り込みを入れ、その反対の上側から追い込む。最後まで切り残したところだけが繋がったままになり、そこが向きを決める——という段取りを、ノアは地面へ枝で描いて全員に見せた。
「これで、必ずそっちへ行くのか?」
「必ずってことはない。けど、こうしなかったら、どっちへ行くかは木が決める」
ノアは手斧を抜いた。
春に作って、まだ一度も木に当てたことのないものである。
フィンが幾日もかけて川砂で擦り上げた縁が、朝の斜めの光を受けて、鈍い銀の細い線を一本だけ返した。
柄に巻いた蔓は握るたびにわずかに回り、回るぶんだけ、振り下ろした先が思ったところから逸れる。
一撃目で、白茶けた木肌が拳ほど飛んだ。
「入るか?」
ダンが石を置く手を止めて聞いた。
「入る」
ノアはもう一度振った。
二度目は肩から回したせいで刃が逃げ、当たった先で柄のほうが鳴り、木肌は爪ほどしか欠けない。
三度目は、肘から先だけで短く打った。
そのほうが深く入り、飛んだ切片が乾いた音を立てて斜面を転がっていく。
なぜ力を抜いたほうが深く入るのか、その理屈のほうは、その場の全員にとって宙に浮いたままである。
言葉にするより先に、手のほうが三度で覚えた。
枯れた木は水の抜けているぶん脆く、脆いということは、刃の当たったところから素直に割れるということでもある。
この一年、細い一本を倒すのに火を三日焚き続け、焼けた根方を蹴り倒しては半分を炭にしていた者たちである。
籠を提げていた者たちが一人ずつ手を止め、斜面の上を見上げるようになるまで、そう長くはかからなかった。
口を開く代わりに、飛んだ切片の落ちた先を目で追うので、首の向きだけがそのたびに揃った。
切り込みが深くなるにつれて、飛ぶものの色が変わった。
飛んでいたものに黒いものが混じり、混じったほうは飛ばずに、刃を抜いた跡へ粉になって残る。
ノアは指でそれを掬い、腹で潰して、膝へこすりつけて落とした。
枯れた木の内側の色というものを、この場の全員が、この日はじめて見ている。
「三日が、半日になった」
セトが石板へそう刻み、刻んでから、まだ半日も経っていないことに気づいて、その行の下へ線を一本引いた。
一度で決めない、と決めたのは彼自身である。
書いたものを消す手立てを、彼はまだ持っていない。
線のほうが、その代わりだった。
切り込みが入ってしまうと、次は下がる場所である。
それを決めるのはいつもダンで、倒れる先の見当をつけ、そこから幹の高さのぶんを歩数で測り、測った数にさらに半分を足したところへ、目印の石を一つ置く。
測った数に半分を足すのは、この男の癖である。
「ここから先には入るな」
「半分は多くないか?」
「多いくらいでちょうどいい」
「その半分は、何を根拠にした半分なんだ?」
「何も。分からないぶんを足しただけだ」
彼はそう言って、置いた石の外側へ全員を追い立てた。
石は一つきりである。
その一つが、切り株を中心にした丸のことなのか、それとも斜面の下側へ引いた一本の線のことなのかは、置いた本人の頭のなかでも曖昧なままだった。
斜面へ散らばって落ちた枝を拾い集めていた者たちも、籠を提げたままいったん下がり、下がったところから、幹の上のほうを見上げる形になる。
そのうちで背のいちばん低い者が、下がりながら口の中で節をつけていた。
糸を通すときと同じ、歌詞の無いやつである。
題が無いのは節のほうで、節をつけている者のほうにも、無いものがある。
呼ぶための名前を、彼女はまだ持っていない。
*
直せるところの見つからないその朝に、追い込みはフィンが替わった。
上側から斧を入れ、切り込みのほうへ向かって少しずつ寄せていくと、幹のどこか高いところが鳴り始める。
刃の当たる音と、その高いところの軋みとは、はじめのうち別々に届いていた。
軋みの返ってくる間隔は打つたびに短くなり、短くなっていった果てに、二つの切れ目が無くなった。
繋がった、とフィンは思った。
思った瞬間に、幹が捻れた。
向きを決めるために切り残しておいたはずのところが、裂けもせずに、そのまま崩れた。
外から見えていた層は厚みにして指二本ぶんしかなく、その内側にあったのは、朝からずっと刃が掘り出していた、あの粉だった。
腐っていた。
腐ったものに残るのは重さだけで、向きを決める力のほうは、とうに抜けている。
古木は切り株の上でゆっくりひと回りし、狙った下側から三分の一ほど外れた側へ、斜めに倒れた。
そのあいだに、音は二度した。
一度目は幹が斜面を叩いた重い音で、二度目は、それより少し遅れて、枝の先のほうで鳴った。
軽い音だった。
乾いた枝が一本折れただけの音と、それはほとんど区別がつかない。
そのあと、斜面は静かになった。
倒れた幹の先は、ダンが足した半分のぶんだけ、石より手前で止まっている。
測った長さのほうは、余るほど正しかった。
ダンは自分の置いた石と、止まった幹の先を、二度見比べた。
足りている。
足りていて、その足りているぶんが、彼女のいた側へは一歩も伸びていない。
背の低い、いつも木枠の前に座っている者が、その枝の下にいた。
籠を提げたまま下がって、下がった先で、朝のうちから斜面に散らばっていたほうの枝を、拾い集め直していた。
石の外側には、ちゃんといた。
ただし彼女は、その外側というものを、斜面を横へ回ることで作っていた。
横へ回れば、石よりは外になる。
石よりは外になり、そのぶん切り株からは近くなる。
一つきりの石は、そこまでは教えない。
それが見えた瞬間に、ダンとフィンとノアが同時に走った。
枝そのものは、たいして太いものではない。
折れた先の、腕ほどの太さのものが一本、斜面の窪みへ斜めに突き刺さって止まっている。
高いところから落ちたものが、刺さる途中で脛を巻き込み、そのまま土との間で噛んだ。
起こすのに二人が要り、脚を抜くのにもう一人が要った。
「動かすな」
ダンが石を置いた側から言った。
言いながら、彼自身は石の側に立ったままでいる。
近づけば、どちらへ力をかけるかを外から決める者が、この斜面から一人もいなくなる。
「動かさないと出せない」
フィンが枝の根方を抱え込んだまま返した。
抱えた腕はもう震えていて、震えるぶんだけ、刺さった先が窪みの中で細かく動く。
「じゃあ、そっちを持ち上げてからだ」
「持ち上げるとき、こっちが下がるぞ」
「下がらないように押さえてろ」
ノアが膝を斜面へ突き、枝の先の側へ両手を回した。
突いた膝の下から濡れた褐色の土が出て、掌の側にも同じものが移る。
どちらの手も、彼女の脚には触れていない。
触れていいものかどうか、その判断のほうは、この場の全員の手に余った。
抜いたあとで、全員が黙った。
膝から下が、途中で向きを変えていた。
折れているとか曲がっているとか、そういう言葉を頭のなかで選ぶより先に、形が違うということのほうが目に入ってくる。
皮は破れずに済んでいた。
だから、血は一滴も出ていない。
向きの変わっているあたりだけが、内側から菫を溶いたような色に張っている。
皮は破れておらず、傷と呼べるものはどこにも見当たらない。
見当たらないのに、脛のかたちだけが、この一同の誰も見たことのないものになっている。
血の出ない怪我のほうが軽いはずだという当てが、こういう形で外れることを、この一同はこの日に初めて知った。
彼女は声を上げなかった。
上げなかったというより、息を吸うことに持っているものを全部使っていて、声にする分がどこにも残っていない。
唇のふちが薄い灰青に沈み、片方の手が、脇の枯草を掴んでは離し、掴んでは離すのを、規則正しい間隔で繰り返していた。
その手を離させないまま、フィンが背負おうとした。
膝の裏を抱え込んで担ぎ上げるやり方は、ずっと前にリアが足を庇ったとき、セトがその場でこしらえたものである。
あのとき彼は、次に誰かが同じところをやったときに同じ手が使えるかどうかを知りたい、と言って、どこがどんなふうに痛むのかを歩きながら細かく聞いていた。
聞いておいたことは、この日、そっくり余った。
折れているのが骨だと、抱え込む腕がそのまま折れ目へかかる。
ほかの運び方を誰も知らないので、最初は肩へ担ごうとして、それだと足のほうが下がることに気づいて下ろし、次にノアと二人で腕を組んで座らせる形にしてみたものの、斜面では二人の歩幅が合わずにどうしても傾く。
最後は上着を四枚繋いで担架にした。
四枚とも、この秋、継ぎを当てずに一枚のまま織り上げたものである。
縫い合わせたところが一つも無い代わりに、端の始末はまだ甘い。
生成りの布が、運んでいるあいだに斜面の泥を吸って、下の縁から順に鳶色へ変わっていった。
持ち主を分けるために差した糸は、この四枚にだけ、まだ入っていない。
色の無い布は、汚れてしまえば、誰のものだったのかが分からなくなる。
住処まで普段の倍かかったので、上着を貸した四人は、その倍のあいだを上着なしで歩いたことになる。
道中、口をきく者はいなかった。
言うことが無かったのではなく、喋れば足並みが乱れて揺れると全員が思っていたからで、実際には黙っていても揺れた。
カイが一度だけ、口を開いた。
「あのさ、その、なんだ、去年おまえが」
そこまで言って、続きが出てこなかった。
軽い話をしようとしていた。
場が重くなりかけるたびに軽い話を一つ出してくるのが、五年のあいだ、この男の役どころだった。
どれだけ探しても、その日はどこからも一つも出てこなかった。
彼は口を半分開けたまま、担架の縁を握り直し、それきり住処まで何も言わなかった。
*
担架のまま火のそばへ寝かせてから、リアが脛に触れた。
触れて、すぐ離した。
離してから、もう一度、今度はさっきより下のところへ指を置いた。
「骨だ」
「分かってる」
「くっつくのか?」
「くっつく。たぶん、放っておいてもくっつく」
「なら、触らなくていいだろ」
カイが言った。
リアはすぐには答えず、脛のほうへもう一度目を落とした。
「この形のまま、くっつく」
確かめたことは一度も無い。
ただ、曲がったまま固まった指なら、この森に二本ある。
「歩けなくなるってことか?」
ダンが聞いた。
「たぶん」
「ずっとか?」
リアは答えなかった。
ダンは少しのあいだ床の一点を見ていて、それから、誰にともなく数を言った。
「二十四人だ」
火のはぜる音だけが続いた。
「冬のあいだ、外へ出られるのは、多い日で十一人。風の通らない上着が、この秋の終わりで十一枚しか無いからだ。薪と、水と、干したものの出し入れで、その十一はだいたい埋まる。そこへ、運ばれる者が一人増えると」
「やめろ」
「言わないと、数が変わるわけじゃない」
「変わらないなら、なおさら言うな」
「言わないでおくと、冬になってから同じ話をすることになる。そのときは、俺がもっと言いにくい」
ダンはそう言って、口を閉じた。
閉じた口を、彼はそのあと二度開きかけた。
一度目は息だけが出て、二度目は音になる前に閉じ、三度目からは開きかけるのもやめた。
やわらかく言い直しても、冗談にしてしまっても、二十四という数のほうはそのまま残る。
床の木目を目で辿っているうちに、日が傾いた。
傾ききってから、彼は誰にともなく、もう一つだけ言った。
「削るなら、俺の分からでいい」
フィンが火へ枝を一本足しただけで、その日、その一言に答えた者はいない。
そのあいだ、リアは膝の上に手を置いて、そのまま座っていた。
置いたまま、火のほうを見ていた。
このとき彼女が頭のなかで並べていたのは、自分にできることの一覧ではない。
自分に代われる者がこの場にいるかどうかを一人ずつ当たっていて、自分と寝ている者を除いた二十二人まで当たったところで、当たる先が尽きたのである。
骨を継いだことのある者は、この森に一人もいなかった。
一人もいない、というのは、この五年で何度も突き当たってきた壁である。
火のつけ方も、種を埋める深さも、木の内側の一枚も、そのたびに誰かが最初にやって、そうやって一つずつ増えてきた。
ただ、今までのそれは、間違えたところで種か木が減るだけの話だった。
やり直せる回数が、いつでも一回よりは多かった。
彼女は顔を上げて、必要なものだけを言った。
「まっすぐな枝を四本。同じ長さで、片側を平らに削って。曲がってると、当てたところだけが食い込む。食い込むと、そこから先が冷える。細くていいから、四本とも同じにして」
ノアが立ったが、伐りに行かずに済んだ。
担架を組むあいだにフィンが彼女の籠を拾って肩へ掛けていたので、その朝、彼女自身が拾い集めたものが、そのまま籠の底に残っている。
「布を、いちばん薄いのを裂いて。細いのを、たくさん」
ウルが走った。
「俺は何をすればいい?」
ノアが枝を削りながら聞いた。
「押さえて。私が引いてるあいだ、膝から上を、動かないように」
「どのくらい強く?」
「動かないくらい」
「それから」
リアはそこで一度、言葉を切った。
「手を、握ってあげて。誰か」
誰か、と言われて座ったのはセトである。
石板を横へ置き、彼女の頭の側へ回って、床へ膝をつく。
差し出された手ではなく、枯草を掴んだままの指のほうを、彼は上から包むように握った。
掴んでは離すの間隔が、そこで一度だけ長くなった。
「大丈夫」
彼はそう言って、言ってから、続きが出るまでに少し間が空いた。
「……俺がついてる」
これは、根拠のある言葉だった。
この男が石へ刻むのは、確かめたことだけである。
刻んだとおりのことを、彼はこれまで全部やってきた。
その手が握られたのを見てから、リアは脛の下の側を脇へ抱え込んだ。
膝から上はノアの両手に預けてある。
腕の力で引けば余計なところが動くので、抱えた腕は固めたまま、彼女は自分の体ごと後ろへ倒していった。
抱えられた足首が、少しずつ彼女の側へ伸びる。
伸びたぶんだけ、折れ目のところが離れていく。
さらに半歩ぶん体を後ろへ送ったところで、音がした。
短くて、乾いていて、固いものが固いものへ一度だけ嵌まったときのそれによく似た音である。
悲鳴は、その音よりわずかに遅れて来た。
遅れて来たぶん、上げている当人にも、それが自分の声だと分かるまでに間がある。
声は幹の中いっぱいに膨れ、簾の隙間から外の斜面のほうまで抜けていった。
それでも彼女は手を離さなかった。
離すという道を、彼女は最初から数に入れていない。
途中でやめれば、痛みだけがそっくり残って、形のほうは戻らないままになる。
はっきりしているのは、その一点だけだった。
指の腹で、左右から挟むように整えていく。
上と下を辿って、太さの段が消える位置を探す。
探し当てたところで、ノアが削ったばかりの枝を四方から当てた。
削り口はどれも濡れた乳白の色をしていて、朝に見たあの幹の肌のほうは、同じ木でありながら、そこだけ乾いて骨に似ていた。
「離していいか」
ノアが聞いた。
膝から上を押さえている腕が、そのときはもう震えていた。
「だめ」
「震えてる」
「震えててもいいから、離さないで。……いま離すと、痛いのだけがそっくり残って、形のほうは戻らないの。そこまでやって戻らないんだったら、この子は、痛い思いを二回することになる。二回目をやれる人は、この森にいない。私も、たぶんもう一回はできない」
「一回でやるってことか」
「一回でやるんじゃなくて、一回しかないの。……違うから」
ノアは何も返さずに、押さえる位置だけを二本の指ぶん上へ移した。
移してから、震えは止まらなかったが、腕は動かなくなった。
そこで、手が足りなくなった。
引いたまま巻けないということに、彼は巻き始めてから気づいた。
リアが引く手を緩めれば、探し当てたばかりの位置はその場で戻る。
結局、引くのは彼女が続け、枝を四方から押さえるのはノアが受け持ち、裂いた布を下から上へ順に巻いたのはウルだった。
三人の手が同じ脛の上で重ならないように場所を決めるまでに、そのぶんの手間がかかっている。
火の朱が壁を回るたび、巻かれていく布の白さだけが、その一角で明るさを変えずにいる。
きつすぎると先が冷える。
緩いとずれる。
その加減を彼女はまだ知らないので、巻き終えるたびに足の指へ触れて温いかどうかを確かめ、冷たければ解いて、また巻き直す。
三度巻き直して、四度目でやめた。
やめた理由は、これで正しいと分かったからではない。
これ以上触ると、触られているほうがもたないと思ったからである。
*
布を巻き終えてから、火が一度、燃え落ちて足された。
それだけの時間が経って、リアは外へ出た。
戸口から五歩ほど離れた岩に腰を下ろし、両手を膝の上へ載せる。
載せた手が、そこで初めて震え始めた。
処置のあいだ一度も震えなかったものが終わってから震え出すという、その順序の理由について、彼女は何も知らない。
夕方の光が、岩の陰を斜面の下へ長く伸ばしていた。
空は雲の縁だけが橙で、その内側は、鉛から紫へ落ちていく途中の色をしている。
ヴェルドが、少し離れて立った。
「合ってた」
彼女は前を向いたまま、そう聞いた。
ヴェルドは黙っていた。
「合ってたのか、あれで」
「……分からない」
「分からないのか?」
「分からない」
「僕は、骨のつなぎ方を知らない。知らないものを、合っていたと言うわけにはいかない」
リアは膝の上の手を見た。
「じゃあ、なんで止めなかったの?」
「君のほかに、手を出せる人がいなかったからだよ」
*
夜になって、折れた脛のほうに熱が出た。
リアはその三日、ほとんど寝ずに過ごした。
煎じるものはこの時期にはもう無く、無いということのほうは、彼女が湿地へ行った秋のうちに自分の目で確かめてある。
二日目の夜半に、布を解いた下の皮が張って、指で押した跡が戻らなくなった。
巻きを二本ぶん緩めると跡は戻り、戻った代わりに、朝には添えた枝が一本ずれている。
どちらを取っても片方が悪くなるという形の選び方を、彼女はこの晩に覚えた。
足の指は四本までは温く、小指だけが、明け方まで冷たいままだった。
セトは毎晩、石板を膝に載せて枕元にいた。
巻いた布を替えた回数、足の指の温さ、熱の上がった刻限と下がった刻限を、彼はいちいち刻んだ。
二日目の夜、湯の椀を持ったまま、リアがその手元を覗き込んだ。
「それ、何を数えてるの?」
「布を替えた数と、指の温さと、熱の上がった時と下がった時」
「書いておくと、何かいいことがあるの?」
「いまは無い。次に誰かが同じことになったときに、比べる先ができる」
「次があるみたいな言い方ね」
「ある」
リアは湯の椀を膝へ下ろして、しばらく持ったままでいた。
「じゃあ、一つ書いて」
「なにを」
「合ってたかどうか、私には言えないって。……昼にヴェルドに聞いたの。合ってたのか、あれでって。分からないって言われた。あの人が言えないなら、私にも言えない。言えないまま引いて、言えないまま添えて、いま熱が出てる」
「熱は書いてある」
「そうじゃなくて。……熱が出たのが、引き方が悪かったからなのか、それとも骨を継いだら誰でも熱が出るものなのかが、分からないの。そこを書いて。分からなかった、って。……次の人が読んだときに、私が分かってたと思われるのがいちばん困る」
セトは石板を膝の上で持ち直した。
「分からなかった、を刻む形は、まだ無い」
「じゃあ作って」
「作れと言われて作った形は、たいてい次の年に読めなくなる」
「読めなくなってもいい。……読めなくなったら、それはそれで、分からないままだったってことでしょう」
彼は手を止めたまま石板を膝へ置き、その晩は結局、何も足さなかった。
リアはそれ以上聞かずに、湯を替えに立った。
名前は書かなかった。
この一同にはまだ、全員に行き渡るほどの名前が無い。
春に刃ができた日、彼はリアの横で一度だけ、この石はいずれ人を切る、という意味のことを口にしている。
言ったとおりのことは、起きなかった。
刃は木しか削らず、人を折ったのは木のほうである。
そのことを刻める形に直せないまま、彼は三日を過ごした。
その代わりに、彼はその日の石板の隅へ、小さな丸を一つ刻んだ。
丸が一つ、その日の隅にある。
何のための印なのかを、彼は誰にも説明しなかった。
三日目の夜更けに、寝ている彼女が、小さく節をつけた。
歌ではない。
息が上がるところと下がるところが、たまたま同じ幅で繰り返されているだけである。
木枠の前でいつも鳴っていたあの音が、崩れた形でそこにあった。
熾火は芯だけが薄い橙で、縁はもう灰をかぶり、その外は一続きの藍だった。
セトは石板を置いて、それが止むまで聞いていた。
熱は、四日目の朝に引いた。
*
節が止んでから二度目の昼、五日目に、ノアは斜面へ戻った。
一人で、誰にも言わずに行き、切り株の前にしゃがんで、割れ口を上から覗き込んだ。
外側の乾いた層は、やはり指二本ぶんきりである。
その内側は、黒い粉が詰まっていて、指で押すとそのまま沈む。
掬って掌へ載せると、湿った土に近い匂いがした。
生きている木には手を出さない。
去年の秋、住処にする幹の外側を削らないと決めたとき、彼が続けて言ったのは、薪にするのもこれからは枯れた木だけにする、ということだった。
理由も、そのとき一つだけ言っている。
二度目が、無いからだ。
その決まりが間違っていたとは、彼はこのときも、あとになっても思っていない。
思わないまま、掌に載ったものをしばらく見ていた。
二度目が無いというのは、木の話だとばかり思っていた。
枯れた木だけを選ぶというのは、内側の見えない木だけを選ぶ、ということでもある。
外から見て枯れていると分かるものは、外から見て分かるぶんだけ、内側で何年ぶんが進んでいるかが分からない。
生きている木なら、少なくとも去年のことは、葉が教えてくれた。
掌を岩へこすりつけて落とし、立ち上がり、そのまま住処へ戻って、その日の午後からまた薪を集め直した。
籠が半分ほど埋まったところで、フィンが一度だけ聞いた。
「あれ、生きてるやつだったら、ああはならなかったのか?」
「分からない」
「決まりは、そのままか?」
「そのままだ」
フィンはそれ以上聞かず、拾った枝を自分の籠へ移して、斜面の下のほうへ降りていった。
集める先は、やはり枯れた木である。
決まりのほうは、変わらなかった。
*
半月が過ぎて、彼女は起き上がって座れるようになった。
布を解かれるあいだ、彼女は自分の脛のほうを見ている。
「まだ、まっすぐじゃない」
「まっすぐにする」
そう答えてから、リアはそれが確かめていない言い方だと気づいたが、言い直さなかった。
「怒らないの?」
言われて、手が止まった。
「私だったら怒ると思う。石の外にいろって言われて、外にいたのに、こうなったんだから。誰かが間違えたのなら、その人を怒れば済む。でも、みんなちゃんとやってた。ちゃんとやって、こうなった。だから、怒る先が無いの。無いのがいちばん困る」
彼女はそこで一度、息を継いだ。
継いでから、布の巻かれた自分の脛のほうへ、もう一度目を落とす。
「あなたのことも、怒れない。上手だったのか下手だったのかを、私は知らないから」
「私にも分からない」
「分からないのに、私の脚を引っぱったの?」
「引っぱった。あのとき、ほかに引ける人がいなかったから」
答えてから、リアは、それが自分で考えた言い方ではないことに気づいた。
あの夕方、岩のところで、そっくり同じことを言われている。
「じゃあ、おあいこ」
「何が」
「私は、誰を怒ればいいのか分からない。あなたは、合ってたのかどうか分からない。二人とも、分からないところで止まったまま、こうして座ってる」
それきり彼女は黙って、解かれていく布の先のほうを見ていた。
歩けるようになるのは、まだ先である。
リアは日に二度、布を解いて形を見て、また巻いた。
解くたびに、直っているのか、直らないまま固まりつつあるのかを確かめようとして、確かめる基準が自分の記憶しか無いことに毎回突き当たった。
そこで、セトの石板が要った。
彼が刻んだ回数と刻限が並んでいて、並んでいるものと今日とを見比べると、記憶よりはいくらかましな返事が返ってくる。
役に立ったのは、指の温さのほうだけである。
石板が要り続けたまま、冬になった。
その冬、指を切った者が二人と、足を挫いた者が一人出た。
どれも、あの日より軽い。
雪はいつもの年より遅く来て、来たときには一度に積もり、幹の外が乳白に塞がった。
怪我が出るたびに、誰かがリアの名前を呼んだ。
二人目の指のときは、真夜中だった。
呼びに来た者は、彼女を起こすのに肩ではなく足の裏を叩いている。
起こされ方まで決まってきているということに、彼女はそのとき初めて気づいた。
巻くものを取りに立てば、行く先の暗がりには、もう誰かが火を移して待っている。
呼ばれると彼女は行った。
行かないという選択が自分にあるかどうかを、彼女はもう考えなくなっていた。
呼ばれる側がそれをどう思っているかを、聞いた者はいない。
ダンはその冬も数えた。
二十四である。
去年の冬も二十四だった。
同じ数を口にして、去年とは違う数を言ったように聞こえたのは、この冬が初めてである。
セトはその冬のぶんを刻み終えてから、石板の隅の丸をもう一度だけ見た。
名前は、その冬も書かなかった。
書かなかった代わりに、丸のほうはそこに残っている。
リアが日に二度その石板を借りに立つのも、この冬からのことである。




