第37話 古海蓮はここにいない
走って、走って、走り続けた。
ありえないくらいの吹雪が視界を覆っているのに、足元は雪だらけなのに、不思議と私の足は滑りもしなかったし、私の目は、吹雪の中心を見逃しもしなかった。
あそこだ、あそこに、古海くんがいる。
確信があった。呼ばれているような気さえする。なのに、どうしようもないおぞましさも感じていた。
あそこにいるのは、古海くんであって古海くんではない。そんな気がする。分かってしまう。
だって全身が拒絶している。あらゆる肌が悲鳴を上げているし、ちゃんと意識していないと、今すぐ逆方向に走ってしまいそうだ。
だから、心の中で叫ぶ。
私は、あそこに行く。あそこに行って、古海くんの手を握らなきゃ。
神の子じゃない、古海蓮くんという人間の男の子の、手を握るんだ。
そうして走って、必死で走って、もう口の中が血の味に染まるくらい走って――そうして、急に視界が開けた。
「はっ、はぁっ、ふ、はあっ……」
息を整える私の前に、それはいた。
「古海くん!」
雪の中で一人だけ、そよ風にすら吹かれていない古海くんが、そこに立っていた。
周りは相変わらず猛吹雪が舞っていて、たまに、があん、があん、と雷が落ちている。けれど、古海くんの周りだけはほとんどいつも通りだった。切り取られた空間の中にいるみたいだ。違和感といえば、古海くんの足元に霜が降りているくらいで、肌には雪もついていないし、風で服がはためくこともない。
ただ、その体からは一切の生気が抜け落ちているみたいだった。
目に光がなく、その体に意思はなく、まるで何かが不格好に古海くんを操っているような動きで、彼はゆっくりとその場で回っている。くるり、くるりと回るたび、彼から何かが抜け落ちていくような気がした。
「古海くん!」
必死に叫んだ先、古海くんがぴたりと足を止める。
そうして、私を見た。
思わず息を呑む。互い違いの瞳のうち、透明な灰色をしていたはずの目が真っ赤に染まっていた。燃え上がるような炎の色が、私の目の前でぱしぱしと瞬く。
星みたいだった。燃え尽きようとしている流れ星が、今そこにあるような。
「ああ、そうか……」
薄い唇が開かれて、私を見て、うっそりと微笑む。
「お前か、この子供が望んだのは」
喉が、悲鳴のなり損ないみたいな声を出した。本能で分かる。これはもう、古海くんじゃ、ない。
「そうか、お前、そうか……珍しい女を選んだな」
ゆったりと古海くんが歩いてくる。私は一歩も動けなくて、古海くんのいる穏やかな空間が近づいてくるのを見ているしかない。
そのまま、古海くんの姿をした何かは私の手を取り、ぐい、と自分のいる空間に引き込んだ。暖かな、太陽の光の中にいるような空気に、私は震えた。異常だと一発で分かってしまう。
春先のような暖かさの中にいながら、全身が恐怖で泣き出しそうだった。
そんな私のことは気にもせず、古海くんは雪まみれの私の頭をはらう。手つきがやわくて、温かくて、涙が出そうになった。これはきっと、古海くんじゃ、ないのに。
「お前、呼吸は」
「え……?」
「苦しくないか。怪我は?」
私は面食らって、そのまましぱしぱ、と瞬く。まさか、心配されている?
「ない、です……」
「ならいい」
穏やかに頷いて、古海くんはこの空間の外を見た。
私もつられてそちらを向き、目を見開く。
「では、殺そうか」
そこには、地面に押さえつけられた賢さんと、もがいて暴れる賢さんに馬乗りになっている響さんがいた。
古海くんの指がそちらをすいと指す。何をしようとしているのかは分からなかった。けど、響さんが顔をこわばらせたのを見て、私はとっさにその腕に飛びついていた。
「待って!」
ぐい、と指の向きが逸らされる。瞬間、明後日の方向から、があああああんっ! とすさまじい音がした。
私はぽかんと口を開けた。指がさした方向、少し離れた場所に、雷が落ちたのだ。今まで見たこともないくらいの強さだった。地面は黒焦げを通り越して大穴が開いていて、そこから立ち上った灰が空気にとけていく。
あれがもし、人に当たっていたら。
ぞっとして、全身が一気に震え出す。
「あ、ああ、あああ! 我らが神よ! ようやく降りてこられたのですね!」
地面に押さえつけられたまま、賢さんが歓喜の叫びを上げている。私は何が起きたか分からなくて、呆然と古海くんを見上げた。
「かみ、さま?」
「ああ、まあ、そのように俺を呼ぶ声もあるな」
古海くんの声で、古海くんじゃない何かが喋っている。賢さんが大きく顔を歪め、私に唾を飛ばす勢いで叫んだ。
「この涜神者が! 神の御前だぞ、今すぐにひれ伏せ!」
「かみさま……? この人が……?」
「そうだと言ってるだろうが! ようやく、ようやくだ、俺の予想は間違ってなかった! 神の降臨に耐えられるくらいの体の成長と、情緒の発達を待った甲斐があった!」
「これはなんなのか分からないが、小煩いな。やはり早めに殺すか。そういう契約だ」
私は古海くんの腕がまた上がる前に、がしりとしがみつく。
「や、やめて! 古海くんの体で何するつもりなの!?」
「なんだ、お前も小煩いな……ああ、雷は嫌か? ならば氷にしようか」
ぱき、ぱき、と音がして古海くんの足から霜が伸びていく。同時に、古海くんの指が端から凍りついていくのを見て、私は悲鳴を上げた。
「やめて! 古海くんの体にひどいことしないで!」
「……今回の依代は面倒な契約をしたものだな……」
呆れたように私を見下ろして、古海くんの体に入った神様は、自分の胸に手を当てた。
「これはこの子供が望んだことだ。何をそんなに怖がる必要がある」
「……古海くんが?」
「そうだ。お前を守り、そいつを殺し、この場所を徹底的に壊せとこの子供が言った。俺はそれに応えてこの器を貰い受けた。さっさと契約を果たさせろ」
目眩がした。私はよろめいて、古海くんの全身を上から下まで見る。
「古海くんが、壊せって、言ったの?」
「そうだ。俺は嘘はつかない。お前たちに嘘をつく意味を感じない」
「そのために、古海くんの体、乗っ取ったの? 古海くんが、いいよって、言ったの?」
「知らん。俺は願いが聞こえたから降りただけだ。願いに対価が必要なことくらい、人であれば知っていることだろう。とはいえ存外、この体は心地がいいからな、色をつけてやってもいいが」
偉そうな声で、表情の抜け落ちた顔で、神様は言った。
「こいつはお前のために怒ったらしい。であれば、お前のことは殺さないでいてやろう。俺の巫女にしてもいい。新たな神の子を孕む栄誉もやろうか」
ぐいと腕を引かれ、古海くんの胸元に手を当てさせられる。信じられないことを言われて、私の手がぶるぶると震えた。
「それも……古海くんが、願ったことなの? 古海くんは、私のことが、好きなの?」
「知らん。器の感情など、怒りと悲哀くらいしか感じ取れん」
そのときふと、少しだけ、この人も可哀想な神様なのかもしれないと思った。この神様の中にはきっと、喜怒哀楽の「怒」と「哀」しかない。無表情なのもきっと、激情以外の全てを知らないからだ。
けれど。
けれど、それとこれとは別問題だった。
「……い」
「ん?」
「ひどい!」
吹雪の中心で、私は大声で叫んでいた。
いよいよ佳境のため、明日は3話ほど更新します!
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