第36話 少女は背を押された
私が解放されたのは、どこかの民家の前だった。
無造作に担ぎあげられたときと同じように、どちゃ、と音を立てて下ろされる。ら、乱暴すぎる……
けれど、ドッグタグから伸びる光は、その民家の中に吸い込まれていった。
私は、学ラン姿の男の人を見上げる。生気のない瞳で、その人は私をぼうっと見下ろしていた。
何もしてこない。口から触手が生えることもないし、私を殴ったりする様子もない。というか、触手が生えているなら、それで私に触れば、気絶くらいはしたと思う。痺れて動けなくなって、触りすぎると死ぬみたいなこと、古海くんが言ってたし。
だから、もしかしたら、とは思っていた。
黙っている私に、その人は首を傾げた。
民家のほうに顔を向けて、視線だけで私を見る。
「行かないのか」と言っているみたいだった。
私はそのときようやく腹を決めた。こうなったらもうやけだ。どうせ、この人が敵なんだったらろくな目に遭わないのは分かっているのだから、仮説の証明くらいしたっていいだろう。
私はすっくと立ち上がって、男の人の腕をがしっと掴んだ。
「あの……あなた、もしかして……」
首を傾げられる。私は頑張って息を吸った。
「もしかして、幽霊ですか?」
途端、男の人は驚いたように眉を上げて、口を薄く開いた。
その隙間から出てきたのは触手ではなかった。
ごぽ、と血が溢れる。
ああ、やっぱり。
「あの、触手が生えたあなたは、あなたじゃないですよね? いや、えっと、あなたの体だとは思うんですけど、あなた自身はもう、死んじゃっている……ん、ですよね?」
ぼたぼたと溢れる血を拭いもせず、彼は私を凝視していた。
私はというと、本当に当たっていたことにひっくり返るくらい驚いていた。なぜなら、こんなに大人しい幽霊は初めて見たからだ。
問答無用で私をここに連れてきた勢いだけは幽霊っぽいけど、私に襲いかかったり、体を撫で回したりしてこないし、私のことを脅かすようなことも言ってこない。
けど、幽霊の体温や触れたときの感覚というのは独特で、すぐ分かった。形を持った水みたいな感触なのだ。
だから混乱していた。大抵の幽霊は私を見ると暴走気味になるか、そもそも頭のおかしい幽霊しか私を好きにならない。
この人は、いつもの幽霊とは違うみたいだ。なんかうまく言えないけど、私よりずっと年上に見えるのに、迷子みたいな顔をしているような気がする。
死んだことには気づいていると思うけど、それだけじゃない何かのせいで、この人の時は止まっているみたいだった。
「あなたは、どうしてここに私を連れてきたんですか? 賢さんが命令したんですか?」
すると、彼の顔がぐしゃりと歪んだ。私の手を勢いよく掴んで、ずんずんと家の中に入っていく。
「え、ちょっと!」
『あいつ、嫌いだ』
喋った。
水の底で、不快な機械音が鳴っているような、がざがざとした声だった。彼自身も自分の声が嫌なのか、顔をしかめながら進んでいく。
『あいつは、俺を殺した』
「えっ。あいつって、賢さんのこと、ですか?」
幽霊はこっくりと頷く。
『あいつ、俺を引き取ってくれるって言った。俺の家族になってくれるって……けど、そんなのは嘘だった。あいつにとって俺はただの道具で、あのよく分からない触手のための器でしかなかった。背が高くてガタイがよくて、死んでからもある程度は動かしやすいから……だから、選ばれただけだったんだ』
よく分からないけれど、何が起こっているのかはなんとなく理解した。この人はきっと、あの触手を体に入れられて、それで死んでしまったのだ。賢さんがそうしたんだろう。
喋るたびに口の中から血が溢れる。幽霊の体の傷は、例外なく、死んだときにつけられた傷だ。この人の体の中を触手がめちゃくちゃにして、体の中身をぐちゃぐちゃにしたんだと分かってしまう。
『俺はあいつが嫌いだ。だから、俺はあいつが嫌がることをする』
「それが、私をここに連れてくることなんですか?」
男の人はぴたりと足を止めた。そのまましゃがみ込んだ先、床に何かの扉のようなものがついている。
手際よくそれをがちゃんと開け、その人は先に中へ入っていった。私も慌ててついていく。
手の中のドッグタグから伸びる光は、まっすぐ地下へと伸びていた。
薄暗い地下を、スマホのライトで照らしながら歩いていく。寒くて、埃っぽくて、嫌な空気だ。
そうして地下に着いたとき、私は大きく息を呑んだ。
「お母さん!」
粗末な布団に、着物姿で寝かせられたお母さんがそこにいたのだ。
ドッグタグから光が伸びて、お母さんの嵌めている指輪に繋がっていることに気づく。結婚指輪だ。お父さんが前に見せてくれた、内側に黄色い宝石がついているのと同じもの。
ああ、やっぱり。
このドッグタグは、お母さんの居場所を必ず見つけられるように、お父さんが私にくれたものだったのだ。
「……琥珀……?」
お母さんはぐったりとしながらも起き上がる。私はどうにかその背中を支えて、背負っていたリュックから水とおにぎりを取りだした。
「お母さん、これ! これ食べて!」
「これ、どうしたの……どうしてあんた、ここに……」
「いいから!」
油断したら泣き出してしまいそうだった。お母さんはろくに食べていないのかげっそりしていて、目も少し虚ろだ。
おにぎりを無理やり押し付けるようにすると、小さく口を開けて食べ始める。私はほっとした。食べられるなら、まだ大丈夫だ。
「琥珀、あんた、どうしてここが……」
「お父さんのドッグタグが、お母さんの居場所を教えてくれたの! それに、古海くんたちが助けてくれて、一緒にここまで来てくれたんだよ!」
「古海……あんたを助けてくれた、転校生の男の子?」
「そう、そうだよ……!」
私は本当にざっくり、古海くんと私の関係を伝えた。古海くんが星螺村の出身であることや、お母さんの家族と血が繋がっていること、お母さんの家族だった人が、全ての元凶であることも。
すると、お母さんの瞳に、みるみる光が戻っていった。
「なんだって……慧が、死んだ……?」
「そう、言ってた、古海くんは……」
「賢に殺された……? 嘘だ、だって慧は、あたしを逃がすために、あの男に……」
「お母さん……?」
ぶるぶると震えて、おにぎりの包みをぐしゃりと握りつぶす。その目に映っているのは、ひどく純粋な痛みと怒りだった。
「あの男……あたしのことを欠陥品だって言ったくせに……慧よりも血の薄い、出来損ないだって、言ったくせに! 慧のことも殺したのか! 晃みたいに……!?」
「お、お母さん! 落ち着いて!」
立ち上がろうとしたのか、急に動いたせいでお母さんはバランスを崩して倒れそうになった。私が悲鳴を上げた瞬間、学ランの人がさっと腕を差し出して、お母さんを支える。
お母さんはびくりと肩を震わせて、学ランの人を見た。その目がくっきりと見開かれる。
「あんた……」
「お母さん、違うよ。この人は幽霊だけど、味方なの。ここまで私を連れてきてくれたんだよ」
学ランの人はこっくりと頷いた。
『お前を清めて、神の親にするんだって、あいつは言ってた。俺はあいつのことが嫌いだ。だから、あいつの計画は全部、ぶち壊す』
「そう、あいつ、敵を作るのだけは上手いんだったね……」
お母さんはすさまじい表情で笑って、学ランの人の手を掴んだ。
「そんな若い身空で死んで、無念だっただろう。あいつは本当に、惨いことばかり、平気でする奴だから……」
『そうだ。だから復讐する。お前を逃がしたら、あいつは自分の目的のための駒を失う』
「よく分かってるね。幽霊にしては、いい目だ」
からからと笑って、お母さんは学ランの人の肩を借りながら立ち上がった。
私はほっと息を吐いた。これなら、あとはお母さんを連れて、古海くんたちと一緒に帰るだけだ。
「お母さん、帰ろう! あのね、外に響さんの車が……」
そのとき、ずん、と大きく足元が震えて、視界が斜めになった。
「きゃっ!?」
バランスを崩した私の腕を、学ランの人が片手で支える。地震のようなそれは、けれど何度も続いていた。断続的に続く揺れと、そのせいでぱらぱらと降ってくる石の欠片に、私はぞっとする。
何かが、上で起きている。
「お、お母さん、行こう! 早く!」
「あ、ああ……」
よろ、と歩き出したけれど、お母さんの足はふらついていて、ろくに歩けなさそうだった。すると、学ランの人が淡くため息をついて、お母さんの体をぐんと横抱きにする。
「は!?」
『こっちのほうが早い』
言うなり、すたすたと地上への階段を登っていってしまう。私も慌ててその後を追いかけた。
外は、めちゃくちゃだった。
豪雨と、吹雪と、雷を一緒くたに持ってきてしまったんじゃないかと思った。
とんでもない勢いで雨が降って、それが瞬く間に雪に変わって、その間を縫うように、白い稲光が空気を裂いて地面に落ちる。があん! があん! という音が響くたびに、目の前が白く染まる。
白い悪夢が、村中を覆っていた。
お母さんが呆然と外を見る。
「これは一体……何が起こって……」
「古海くんだ……」
「え?」
「古海くんが、怒ってるんだ……」
見たことがないくらいの怒りだった。空気が震えて、絶叫とも咆哮ともつかないような音で、雷が落ちている。
私は全身から血の気が引くのを感じた。こんなの、普通じゃない。こんなに怒り狂っている古海くんは、正気なんだろうか?
怒れば怒るほど、古海くんは神様に近づいてしまうと言っていた。神が、器として古海くんを見ているかもしれないと。
これって既に『そう』なっているんじゃないの?
「古海く……!」
思わず走り出そうとして、私はハッと後ろを振り返る。まだ、まともに動けそうにないお母さんを見た。
どうしよう。お母さんを置いてなんて行けない。
むしろ、こうなってしまったら、お母さんだけでも連れて逃げるべきなのかもしれない。だってこんなの、人間がいつまでもいられるような天気じゃない。
いつ、雷がこの家に落ちるか分からないし、すぐにでも凍え死んでしまいそうだ。まだ家の中にいるのに、外の空気が入り込んできて、足が氷のように冷たい。
「お、お母さん……」
でも、古海くんを置いて行くことも、同じように辛いのだ。
どうしよう? どうしたらいい?
背中を冷たい汗が流れる。約束したのだ。古海くんが神様になってしまいそうだったら、怒鳴ってでも止めるって。こんなの、神様になっていなきゃ逆におかしいくらいの暴走具合だ。
それに、私にはわかる。
こんなこと、ずっと、ずっと泣いていなきゃできない。
あの吹雪の中心で、古海くんはきっと泣いているんだ。
すると、お母さんは一瞬だけ目を見張って、私に向かって微笑んだ。
「行きな、琥珀」
「え……」
「何が起きてるのかは大体分かるよ。賢のやつ、本当に神の子を作ったんだね。そうか、あのとき、慧があたしを逃がしてくれたときにお腹の中にいた子が、こんなことをするまでになっちゃったのか……」
自嘲するように呟いて、お母さんは私を見た。
「琥珀、よく聞いて。賢のやつは、それほどあたしには執着していないはずなんだ。あいつは、慧とは実の兄妹だったけど、あたしとはあまり強く血が繋がっていなくて……従兄弟なんだよ、あたしたちは。だから、あいつはあたしを神妻にすることは渋っていた」
「従兄弟……」
「そう。従兄弟だと、近親婚とは言いにくいだろう? まあ、それだって血が近いことに変わりはないし、ほぼ同じ家で育ったようなものだけどね。でも、神の子を産むには血の近さが重要で、あいつはあたしと子を作ることは嫌がっていた。だから、さっきも
あたしに見張りすらつけずに置いておいたんだ」
もちろんこっちだって願い下げだけど、とお母さんは苦笑して、私の肩をぽんと叩いた。
「あの男にとっては、あたしよりもその古海蓮って子のほうが重要なはずだ。あたしとは神の子を作れないかもしれないけど、蓮くんは既に神の子なんだろう? なら、その子をおびき寄せるために、あたしを攫ったのかもしれない。わざわざもう一人作るより、その子を本物の『神』にしてしまったほうが、早いはずだからね」
「そんな……」
私は吹雪の向こう側を見た。なら、ここまで酷い天気になっているのは、計画通りっていうこと?
そんなの、あんまりだった。
呆然と状況を飲み込んだあとに、ふつふつと強い怒りが湧いてくる。
どうして。どうして、いつもそうやって、誰も彼もが古海くんを傷つけるのか。
好きで神の子になったわけじゃない。好きで、あんなに怒り狂っているはずがない。
だってこれは泣いているのだ。見ていれば分かる。これは、怒っているんじゃなくて、泣き叫んでいるのだ。
助けてほしいと、古海くんが泣いている。
「行きな、琥珀! あんたはあたしの娘で、晃の娘だよ! あの人が琥珀を守ったのは、こういうときに、あんたが思う存分走れるようにだ!」
ばしん、と背中を叩かれる。私はつんのめって、けど、そのまま走り出した。寒さはもう感じていなかった。
「お母さん、ちゃんと隠れてて、無事でいてね!」
背後で、お母さんが笑った気配がした。
今日は20時頃にもう1話更新します!ここから神崎琥珀にめちゃくちゃ頑張ってもらうターンです




