第33話 後悔は今でなくても
今回の話から毎日20時頃の更新になります。よろしくお願いします。
ふと、目が覚めた。
目の前が少し薄暗い。天井が低くて、頭が窓に当たっている。ふと窓の外を見て、どこかのサービスエリアにいるのだと分かった。
ぼんやりとした頭で、ここ、私の部屋じゃない――と思って一拍、状況を思い出す。
そうだ、連れていかれたお母さんを追って、響さんの車に、古海くんと乗って……
「ああ、起こしたか」
混乱しきりの頭に、穏やかな声が響く。運転席でコーヒーを飲んでいたらしい響さんが、こちらを振り返った。
「悪いな。さすがに俺も少し休憩したかった。あと一時間弱で着くだろうから、耐えてくれるか」
「え、あ、大丈夫です!」
こくこく、と頷いてから、隣で古海くんが眠っていることに気づいて、慌てて声のトーンを落とす。
「あ、あの、ここはどのあたりですか?」
「ようやく宮城を抜けたところだな。ああ、たびたびサービスエリアに寄って食べ物は買ってある。食べるか?」
「た、食べます!」
受け取ったおにぎりの包装を取ろうとして、古海くんと手を握ったままだったことに気づく。固まった私に苦笑して、響さんがおにぎりの包装を取った。
「ほら、これで食べられるだろう」
「あ、ありがとうございます」
改めて、すごい恥ずかしいなこれ……
なんとか顔が赤くならないようにしつつ、響さんからおにぎりを受け取る。
そのときふと、傷痕だらけの手が視界に入った。
「……響さん」
「ん?」
あんまり、聞いちゃいけないことだったかもしれない。でも、なんとなく、今しか聞けないような気がした。
「響さんが、響さんのお母さんと色々あったのって、無痛症のせい、ですか……?」
響さんが目を見張る。私はさっと血の気が引いた。
ダメだ、やっぱり聞いちゃいけなかった。イサーンお兄さんとの会話ではさらっと言っていたと思うけど、だからって、何も知らない私が簡単に聞いていいことじゃ――
「その通りだ」
けれど、響さんはあっさりと頷いた。何をどう伝えるべきか迷っているような素振りで、私をバックミラー越しに見る。
「誤解しないでくれるとありがたいんだが、俺の母親は普通の人間だった。たまたま、俺みたいな異常性を持った人間が生まれてしまったばかりに、不幸になってしまった人だ」
「そんなこと!」
「いや、そうなんだ。無痛症の子供を育てるというのは、通常ではありえないような対応をしないといけないということなんだ。たとえば、火をつけたフライパンには触らない、ということを教えるのに、半年以上かかる。その間もひっきりなしに病院にかかるし、虐待だって疑われる」
響さんは少しだけ、自嘲するように笑った。
「俺は幼い頃、交通事故に遭ったことがある。車を危ないものだと認識できなかったんだ。痛みがないから立とうとして、上手く歩けなくて、何が起こっているのか分からないまま、母親に歩けないことを伝えたんだ。そのときの俺の足は、折れた骨が皮膚を突き破っていて、とてもじゃないが正視に耐えない状態だったらしい」
私はおもわずごくんとおにぎりを飲み込んで、何も言えなくなった。想像を絶するような過去だ。
「そこから、母はおかしくなってしまった。俺は言動もおかしかったからな。身体感覚が曖昧だと、痛みだけでなく感情も上手く学べない。俺は五歳ごろからこのような喋り方をしていたし、そこから感性があまり変化していない……情緒が育ちようがなかったんだ。感覚が死んでいるようなものだからな」
それって……
私はぱしぱし、と瞬いた。
「なんだか、古海くんと似てますね」
「やはりそう思うか」
響さんは笑った。この人は本当に、屈託のない顔で笑う。情緒が育ってないなんて信じられないくらいに。
「俺も、初めて蓮に会ったときに思ったんだ。これは、情緒を正しく育ててもらえなかった俺の末路だと」
「……」
「ああ、末路という言い方は悪かったな。蓮はまだ途上にいるし、君と出会って、確実に良い方向に変化している。手遅れという意味ではない」
「はい、分かってます。私は、古海くんが情緒のない人だとは思えないので。確かにちょっと分かりにくいかもしれないですけど、怒ったり悲しんだり、笑ったりするじゃないですか」
少なくとも、私には感情があるように見える。分かりにくくて、他の人と感覚が違っても、確実に古海くんには感情がある。それを抑えられなくて、村を壊してしまったのだから。
「古海くんが変なんだとしたら、それは、環境が異常だったせいで……古海くん自身は、何も悪くありません。神様の子だっていうのも、古海くんが選んだ人生じゃない……」
「そう言ってくれる人間がいてくれて良かった。蓮は良い友人を持ったな」
私は、咄嗟に笑った。笑ったつもりだった。
けど、響さんはふと、私たちのいる後部座席のほうをくるりと振り返った。
「君……」
「え?」
「もしかして、蓮のことが好きか?」
どくん、と心臓が音を立てた。咄嗟に古海くんを見る。大丈夫、眠っている。聞かれていない。
「ああ、いや、友人なんだから好きなんだろう。だがそうではなくてだな」
「分かってます」
私は深く息を吸った。少しだけ、迷いが頭の中にちらつく。順番として、これって正しいのかな? 古海くんに先に言うものじゃない?
そう、思ったけれど、響さんは私を見ていて、私は、その視線に嘘をつけなかった。
「私は、古海くんのことが好きです。ちゃんと、『そういう意味』で、好きです。こんなこと、言う資格がないかもしれないけど」
「何? 何故だ?」
「だって、大変なことに巻き込んじゃった……」
ぽろ、と言葉がこぼれて自覚した。そうか、私、ずっと罪悪感があったんだ。
何もできないくせに、ずっと、何もかもをしてもらっている自分が嫌で。申し訳なくて。私には、返せるものが何もないのに。
今も、ずっと古海くんに守ってもらってばかりだ。
「そんなことはない」
響さんがきっぱりと言った。その目はどうしてか、困惑しているように見える。
「さっきも言ったが、蓮は君に会ってとても良い方向に変化している。この二年、ニコくんにもイサーンにも、ほぼ同類だと感じていた俺にもできなかったことだ。それだけで、君は誰よりも素晴らしいことを成し遂げている。何を不安になることがある?」
「え」
「それに、子供が大人に頼るのは当たり前だと言っただろう。君こそ、俺たちの不始末に巻き込まれたに等しい。俺たちが二年前、あの男を司法に突き出しそこねた、そのしっぺ返しが来ているんだ」
「それは、あの男の人が悪いのであって、響さんたちのせいじゃないです」
響さんはより一層混乱した顔になって、首を傾げる。
「それはきちんと認識できるのに、どうして自分のことだけそれほど自罰的なんだ?」
私も困って、眉を下げた。自分の中で当たり前の感覚を問われても、うまく答えが返せない。
けれど、響さんは何か納得したのか、ふと表情を緩めて頷く。
「いや、そうか。よく考えたら、君もまだ子供だったな」
「え?」
「いいか、琥珀くん。誰も何も言っていないことで、己を責めてはいけない。蓮が一度だって君を詰ったことがあったか? 君は守られてばかりだと、責めたことが?」
「ま、まさか!」
私はぶんぶんと首を横に振った。そんなことあるわけがない。
「であれば、それが全てだ。蓮は思ったことを抱え込むような性分ではないし、己の感情は全て、どこかで吐き出せと伝えている。君の悪口を聞いたことは一度だってないし、君も責められたことがないと言う。であれば、蓮は君を大切に思いこそすれ、疎んじることはなかったわけだ」
「そう、なのかな」
「そうだ」
あまりにもきっぱりと言いきられて、私は思わず目を伏せて、自分の手を見つめる。分からない。本当だろうか? 古海くんは優しいから、言わないだけかもしれないのに。
「それよりも俺は、君たち自身の今後についてが心配だ。まあ、それよりも自分を受け入れることのほうが、今は大事かもしれないが」
「へ? えっ、と?」
「なんだ、気づいていないか」
響さんは淡々と、なんでもないことのように告げた。
「君たちは血が近すぎる。おそらく、血縁係数を考えれば、叔父と姪のような血の近さだ。たとえば……俺は今からものすごく気が早いことを言うぞ。たとえば、君たちが将来結婚するとして、この現代において、それは近親婚と見なされる可能性がある」
ひゅっ、と喉が鳴った。何を言われたのか、一瞬分からなかった。
「本来であれば、君たちは従兄弟同士であり、それならば血の近さもギリギリ問題はないんだが、蓮の両親は実の兄妹だという。そして、琥珀くんの母親は、その兄妹と血の繋がった実妹だ。そうなると、血が、近すぎるだろうな」
私は咄嗟に古海くんを見た。眠りながらも、彼は私の手を離さないでいてくれる。
私は古海くんが好きだ。結婚については考えたことがなかったけれど、恋人関係になれるなら、なりたいと思っている。
その考え自体が罪だなんて、思いもしなかった。
ざあっと、全身から血の気が引いたような気がした。頭の奥で、誰かが私の大切な部分を殴っているような音がする。
近親相姦。私たちがこんな目に遭っている、全ての始まりの罪。それを思うと、私のこの感情自体が、ひどくおぞましいものに思えた。だって、近親相姦なんかのせいで、古海くんは、私は、私の、お母さんは。
呆然としながら、それでも手を離せないでいる。私のこの想いは、許されないことだった?
「だがまあ、それ自体はなんとかなるだろう」
響さんがぽんと放り投げるように言って、私はぎょっとした。
「近親婚が許されないのは、昔は結婚したら子供を成すことが当たり前だったからだ。近親相姦には様々な疾患リスクがあるからな。だが逆に言えば、子供をなさなければ結婚自体は問題ないと俺は思う」
「え……ええ……?」
そうかな? その考えで本当にいいのかな?
「まあもちろん、他にも障害はあるだろうが……君たちは別に家族として育ったわけでもなし、たまたま血が濃かっただけの他人だろう。子供を作りたいならまた障害はあるだろうが……」
「か、考えたことないです!」
「だろうな。小学生で自分の子供のことまで考えが及んでいたら怖い」
そういうことじゃないと思う。
やっぱり少しズレているんだよなあ、響さん。
けど、私はいつの間にか、きちんと呼吸ができるようになっていた。なんでだろう。別に何も、許されたわけじゃないのに。
私の感情が罪かもしれなくて、倫理的に許されないかもしれないことには、変わりがないのに。
「琥珀くん、また変なことを考えていそうだが……君のその思いは決して悪いものではない。まあ何にせよ、まずは蓮が君のことをどう思っているかによるだろうが」
「そ、そうですよね!」
うんうんと私は頷いた。ちょっと現実逃避に近いけれど、そもそも古海くんが私のことを好きでいてくれなければ、付き合うも何も無いのだ。結婚だってあまりに遠い話だし、その先なんてなおさらだ。
そう思って、ちくんと心が痛むような気がした。
私の想いと、古海くんの想いが、同じだとは限らない。私の想いに応えてもらえない可能性だって全然ある。
応えてもらえたとして、果たしてこの感情が罪ではないなんて、どうして言えるだろう?
「琥珀くん、そろそろ行くぞ。君はまだ寝ていなさい」
「あ、はい! 運転、お願いします」
「ああ。詮無いことで悩むのは、後からだっていくらでもできる。君は今、君の母親を救い出すことを第一に考えるんだ」
私はハッとして、咄嗟に古海くんの手を強く握ってしまった。古海くんが「ん゙ん゙……」とえげつない低さの声で唸るのを聞いて、慌てて力をゆるめる。
そうして、バックミラーに向かってこっくりと頷いた。
響さんの言う通りだ。悩むだけなら、後からいくらだってできる。
失恋だって、今じゃなくてもできるのだ。
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