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第28話 古海家の朝は早い


「イサーン、起きてたのか」

古海こかいさんほどじゃないですけど、僕も早起きですからね」


 肩をすくめて部屋の中に入ってきたイサーンお兄さんが、古海くんを見てにっこり笑う。


れんくん。とりあえず琥珀こはくちゃんから離れようか。友達なのは分かるけど、いきなり抱きしめたりしたら琥珀ちゃんもびっくりするよ。人には人の距離感ってものがあるからね」

「イサーンにい、でもこれはひびきさんが……」

「離れようか」

「……はい」


 なんだかしぶしぶといった様子ではあったけど、古海くんの手がすっと離れていく。イ、イサーンお兄さん、すごい……!


 続いて、お兄さんは響さんに顔を向けた。


「古海さんも、女の子の寝ている部屋にいきなり入るなんて良くないですよ。ニコちゃんにギャン泣きされながら怒られたときのこと忘れたんですか」

「いや、でもこの子たちはまだ子供だろう」

「何を想像してるか分かりませんけどね、子供にだってプライバシーはあるんですよ」


 ため息をついて、イサーンお兄さんは仕様しようのない子供を見るような目をする。なんていうか、やっぱりこの家で一番ちゃんと保護者をやってるのって、イサーンお兄さんなんじゃないかと思う。


「それで、行くんでしょう、古海さん。琥珀ちゃんのお母さんを助けに」


 響さんが、わずかに目を見張った。


「昨日の話し合いでは、最後までニコくんは反対していたと思うが……」

「あれを話し合いだと思ってるのは古海さんだけですからね。まあ、それはそれとして……」


 イサーンお兄さんはちらりと古海くんを見て、それから私を優しく見つめた。


「家族を助けたいという思いは、僕にもニコちゃんにも分かっています。何も、助けに行くな、なんて思っていないですよ。それ以上に、子供を危険にさらすべきではないと思っているだけです」

「それはそうだろうが、俺たちは皆、子供の頃に、もっと自分に力があればと思っていただろう」


 響さんはあっけらかんと言った。


「自分が動けていればもう少し何か変わったかもしれない、自分がこれほど弱くなければ、自分がこれほど異常でなければ……そう思ったことがないわけじゃないだろう。俺たちだけじゃなく、人は多かれ少なかれそういう経験をしてしまう。だからこそ、そんな経験は少ないほうがいい」


 響さんの言葉は、不思議なほど部屋の中によく響いた。淡々としているものの、強い意志を感じる声色だった。


「俺は少なくともそう思う。俺の体と感覚が異常でなければ、俺の母親は俺を捨てなかっただろうし、捨てられた俺を見て、父が悲しむこともなかっただろう。自分ではどうしようもないごうを背負っているという点では、蓮も琥珀くんも同じだ。だからこそ、同じ苦しみを味わう必要はない」


 私はぎょっとして、まじまじと響さんの体を見つめる。

 親から捨てられている……? そんなこと、思いもしなかった。確かに響さんはちょっと変な人だけど、捨てられるような理由なんて思いつかない。体と感覚が異常って、どういうことだろう?

 思い当たるものがあるとすれば、怖いくらいに傷だらけだったその肌くらいだ。けれど、傷だらけの子供を心配する親はいても、「傷だらけだから捨てる」なんて親はいないだろう。

 イサーンお兄さんは深くため息をつく。


「……それ、ニコちゃんの前では言わないでくださいよ。気づいてないかもしれませんけど、あの子はあなたのことが好きなんですからね。傷つきます」

「分かっている。イサーンだからこんな話をしているんだ」

「信頼されていると思うべきですかね……」


 苦笑したイサーンお兄さんは、すっと笑みを収めて真顔になる。


「それなら、僕はあなたを信じるだけです。二年前、あなたに言われて村までれんくんとあなたを迎えに行ったのは僕だ。あのとき、れんくんのすさまじい力の一端は僕も見ました。神の前では、人間なんてちっぽけですね、本当に」


 少し寂しそうに言うイサーンお兄さんを見て、私は思わず古海くんの手をぎゅっと握った。驚いたように跳ねた古海くんをじっと見つめて、大丈夫だよ、というように頷く。


「自力で環境に抗った蓮くんと、荒ぶる神のようになっていた蓮くんを抑えたあなたなら、おそらくは問題ないでしょう。そんなことはニコちゃんだって分かってますよ。でも、絶対なんかないから怖いんです」

「分かっている。だが俺だって勝算がないわけじゃない。俺はもう、家でうずくまって耐えるだけの子供じゃないからな。絶対とは言えないが……全力で帰ってくると約束しよう」


 イサーンお兄さんは響さんの目をじっと見て、大きく息をついた。


「分かりました。なら、行ってください。ニコちゃんが眠っている間に」

「む、良いのか? ニコくんのことも説得した方が……」

「あなたにニコちゃんの説得なんてできるわけないでしょう。収集つかなくなりますから、僕から話します」

「そうか。苦労をかけるな」


 そう言っている響さんは、やっぱりイサーンお兄さんのお父さんみたいだった。お兄さんは肩を揺らして苦笑する。


「今さらでしょう」


 それで話はついたみたいだった。私には何が何だか分からないことが多すぎるけど……

 すると、不意にイサーンお兄さんが私を見て、手を差し出してくる。


「とりあえず、琥珀ちゃんは着替えようか。ニコちゃんの小さいときの服があるから、それを着るといいよ」

「あ、ありがとうございます……」

「僕は二人ともう少し話があるから、リビングで着替えててくれるかな? 誰もいないから」

「え……あ、分かりました!」


 私は頷いて、古海くんのほうを振り返る。大丈夫だろうか、イサーンお兄さんに怒られないかな。

 けれど、古海くんはちょっと笑ってから頷いた。


「大丈夫だよ、神崎さん。また後でね」

「わ、わかった。待ってるね」


 後ろ髪を引かれる思いだったけれど、私はとりあえず頷いて、リビングに向かうことにした。



◇◇◇



 神崎かんざき琥珀こはくがぱたぱたと階段を降りていく音を聞いたのち、イサーンはゆっくりと蓮たちに向き直った。


「それで? 一体どうして、女の子一人挟んで口喧嘩なんてしてたんですか。女の子には優しくするようにって、僕、言いましたよね?」


 イサーンの目が吊り上がる。まずい、と本能で蓮は察した。イサーンはこの家の中では最も話が通じる人間だが、かよわい者や女子への対応に関しては一番厳しい。

 なので、蓮はすぐさま口を開いた。こういうときは先手必勝なのだと知っている。


ひびきさんが神崎かんざきさんのこと泣かそうとしてたから」

古海こかいさん?」

「誤解だ」


 さっと手のひらを突き出し、響が無表情のまま首を横に振る。


琥珀こはくくんのことは褒めただけだ。泣かれるいわれはない。説明させてくれ」

「聞きますよ、一応」


 義理の父がつらつらと先ほどの状況を語るのを聞きながら、れんはいつ「ここで神崎さんが泣いたよ」と口を挟もうかを狙っていた。けれども、響が琥珀をどう褒めたのかを語った直後、イサーンは「ははあ」と顎に手をやる。


れんくん、ここで怒ったんだね?」

「分かるのか、イサーン」

「イサーンにい、なんでわかるの」

「いや、分かるよ。分からないのは古海さんくらいだと思うな」

「今、俺を下げる必要があったか……?」


 困惑しているひびきのことは半ば無視するようにして、イサーンは「あのね」と蓮に目を合わせた。


「それは多分、嫉妬しっとっていうんじゃないかな」

「……嫉妬?」

「感情としては理解できるでしょう。君は、古海さんが琥珀ちゃんのことを屈託なく褒めているのを見て、羨ましいと思ったんじゃないかな。あるいは、ずるい、かな」


 蓮はこてんと首を傾げた。知らない感情だ。いや、知識としては知っているが、それ以上でも以下でもない感情だ。

 考え込んだ蓮のそばで、イサーンが今度は響に向き直る。


「古海さんに褒められる琥珀ちゃんを見て、蓮くんはなんて?」

「確か……琥珀くんのほうが、自分のことをよく知っているかもしれないな、というようなことを」

「なるほど」

「ちょっと、響さん、余計なこと言わないで」


 何故か急に気恥ずかしくなってしまって、蓮は眉を寄せる。イサーンはそれを見て、穏やかに笑った。


「琥珀ちゃんと一番仲がいいのは自分が良かった?」


 ぴた、と動きが止まる。少し視線を下げて、考える。


「……そうなの?」

「いや、言ってみただけだよ。本当のところは蓮くんにしか分からない。誰に教えてもらったって、それはその人から見えた蓮くんでしかないから」


 蓮にはよく分からなかった。自分の心のことは、蓮にはまだ理解できないことが多すぎる。できれば教えてほしいし、イサーンなら、蓮の心のひとつやふたつ、自然に理解しているような気がするのに。


「でも、僕から見たら、君たちは随分と仲がいいと思うし……うーん、これ以上は野暮やぼかな」

「野暮?」

「本人同士に任せるってこと。蓮くんが琥珀ちゃんをどう思ってるか、琥珀ちゃんが蓮くんをどう思ってるか、きちんと話してみたらいいよ。そうしたら、どうして蓮くんが古海さんに怒ったのか、自然と理解できるかもしれない」


 そうなのだろうか?

 蓮にはまだ分からないことの方が多い。怒りにも種類があるとは知らなかったし、ましてや、誰にも教えてもらえていない状態で、きちんと自分の心を自覚できるだろうか?


 ああ、でも。

 琥珀ならば、この感情を知っているのかもしれない。


「うん、分かった」

「なんか、ちょっと心配な返事だけど……まあいっか。じゃあほら、蓮くんも着替えよう。出るなら早い方がいいだろうからね」


 こっくりと頷いて、蓮はそのまま自分のクローゼットを開けた。後ろから、義兄あに義父ちちのやり取りが聞こえてくる。


「古海さんは、そろそろ子供に合わせるってことを学んでくださいね」

「合わせているつもりなんだが……」

「難しい言葉を使わなかったら大丈夫とか思ってるでしょう」

「……もしかして大丈夫じゃないのか?」

「大丈夫じゃないです」


 まだ眠い頭で服の組み合わせを考えながら、もう十回は聞いたやりとりだな、と蓮は思った。



特に本編には関係ない情報ですが、古海響は22時就寝5時起床の男です。全部ズレてるのに体内時計だけ正確な男。

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