第22話 神崎琥珀は知っている
「神崎さん!」
古海くんがぎゅっと手を握って、私の背中をさすってくれた。私は涙目になりながら、せりあがってきた酸っぱさを飲みくだす。
「げほっ、ゔっ、こほっ……!」
「ちょっと、大丈夫!?」
ニコお姉さんが慌ててタオルとビニール袋を持ってきてくれる。でも、私は気合いで全部の料理をお腹の中に戻した。ぜえぜえと息を吐いて、古海くんの手を、潰しちゃうんじゃないかってくらい強く握りしめる。
「古海くん……古海くん、古海くん、古海くん……!」
「うん、聞いてるよ。ここにいるよ」
「許さない……! 私、絶対に、お母さんを助けなきゃ……! お父さんと約束したんだ、絶対にお母さんを一人にしないって!」
私の中に、もう恐怖なんてほとんどなかった。あるのは燃え上がるような怒りだけだ。お母さんは、私のお母さんだ。神の子供を産ませるための道具じゃない。
古海くんだってそうだ。殴っていい子供なんてのは存在しないし、古海くんは、殴られるために生まれてきたわけじゃない。神様の子だから殴っていいなんてありえない。
許さない。
私から、古海くんから、お母さんから、日常を奪ったものすべて!
古海くんは、ちょっと驚いた顔で目を丸くしていた。
「……神崎さんも、怒るんだね」
「怒るよ!? ずっとずっと怒ってるよ、私!」
そうだ、私、ずっと怒ってるんだ。
びっくりするくらいすとんと理解した。幽霊も、人間も、みんな自分勝手でひどい。私は好きでこんな体質になったんじゃないし、古海くんは好きでそんな村に生まれたわけじゃない。生まれる体を選べなくて、生まれた場所を選べなくて、私たちは、ずっとひどい目に遭っている。
ごめんね、という声を思い出した。お母さんの声だ。そんな体質にしてしまってごめんねと、お母さんは昔からよく泣いていた。こんなのお母さんのせいでもなんでもないのに。髪と目が黒いのと同じで、どうしようもないことなのに。
そもそも一歩間違えたら、私は星螺村で生まれていたかもしれないのだ。古海くんを神の子とか言って、平気で殴るような大人がいる村で、育っていたかもしれないのに。
そんなことにならないようにしてくれたのはお母さんだ。お父さんも、生きていた頃は私たちを守ってくれていたに違いない。
色んな人に守られて、私はここに立っている。
でも、じゃあ、古海くんは?
私は、古海くんが自分のために泣いたところを見たことがない。こんなにひどいことをされているのに、自分の過去を話すときの古海くんの目はすごく落ち着いている。
古海くんは、怒ると天災を起こしてしまうと言った。けれどそれは、最初は怒りではなくて、悲しみだったはずだ。古海くんは最初、きっと泣き叫んでいたはずだ。
こんなに、静かに怒るような人じゃなかったはずなのだ。
許せなかった。許せなかった。許せなかった!
「古海くんが怒らないなら、私が怒る!」
途端、窓をがたがた言わせていた風がふっと止んだ。古海くんが、私の額に自分の額をくっつける。呼吸もままならない私の前で、静かに言う。
「大丈夫、僕も怒ってるよ。あの人は、僕の母さんを殺したから」
周りの大人が息を呑む音がした。でも私は、あの人ならそれくらいするだろうなと思った。そういう気持ち悪さのある人だったのだ。
私は笑った。もう泣き笑いだった。
「じゃあ、私たち、おんなじだ。一緒に怒って、一緒に許さないでいよう」
「うん」
「ぼこぼこにしようね、あの人のこと」
「うん、ぼこぼこにしよう」
あはは! と古海くんが弾けるように笑って、私はちょっとびっくりした。古海くんって、声上げて笑うこと、あるんだ。
「僕、今日が一番、生きてるって感じがするよ。絶対に、神崎さんのお母さんを見つけないとね」
ぞくぞくするような、怖いくらいに低い声だった。
「蓮。それくらいにしておけ。それ以上は近づいてしまう」
ふと響さんの声が挟まる。ぴたりと、古海くんは笑うのをやめた。
「分かってるよ。大丈夫」
「大丈夫な感じではなかったが……まあいいか。話を戻そう」
「いやよくないでしょ古海さん。うちの蓮がちょっとおかしいんだけど!?」
「ニコくんは知らないだろうが、実は二年前はもっとおかしかった。今はだいぶマシだ。全盛期の十分の一くらいの出力だ」
「古海さん、説明してるつもり、ある?」
「まあまあ、ニコちゃん……」
めらめらと怒りを燃やすニコお姉さんを、またしてもイサーンお兄さんがなだめ始めた。
「でも、蓮くんも落ち着いて。その子のお母さんがどこにいるのかは、蓮くんにも分からないんだよね? 星螺村に戻ってるってわけでもなさそうだし……」
「あの村は、壊滅の憂き目にあった直後に好事家が土地を買い取っている。もはやあそこでの再興は無理だろう。どこか別の場所にいるはずだ」
「それなら、神崎さんが知ってる」
え、と私は声を上げた。古海くんはすっと私の持つドッグタグを指さした。
「それ、なんか変な感じがするんだ」
響さんが首を傾げて「それは?」と尋ねてきたので、私は慌てて説明した。
「これは、お父さんの形見で……お父さんが死んじゃう前に、私にくれたんです。今思うと、ドッグタグなのに私にくれるのっておかしいような気もするんですけど……」
ドッグタグは、顔も分からないくらいに傷つけられた遺体でも身元が分かるように、銀製の板に自分の個人情報を刻んで、身につけるものだ。お父さんが持っていないと意味なかったはずなのに、どうしてか私にくれたのだ。
「お母さんと離れ離れにならないための、魔法がかかってるって……」
「魔法?」
ぴくりと反応したのはニコお姉さんだった。
「琥珀ちゃん。それ、ちょっとだけ貸してもらえる?」
「え? あ、はい!」
渡された銀製の板を、ニコお姉さんはじっと見つめた。光に透かしたり、指でなぞったりしている。
一通り眺め終えて、彼女は言った。
「古海さん、イサーンくん。これ、魔術がかかってる」
「は?」
「え?」
「なんの魔術かは分かんない。でも多分そうだと思う」
「ニコくんちょっと貸してくれ」
返事を待たずに響さんがドッグタグを奪ったので、ニコお姉さんが目を吊り上げ「古海さん!」と怒鳴った。けど、響さんはもう聞こえていないのか、銀板を手でなぞったり、懐から取り出したルーペで観察したりしている。
「……ドッグタグにしては厚みがありすぎる。それにこれは……表面に刻まれているのは名前だが、裏にあるのは……英字に見えるが、意味を成していないな? 2種類のアルファベットしかない……」
ぶつぶつと呟く響さんを見て、ニコお姉さんをどうどうと宥めていたイサーンお兄さんがぱっと振り向いた。
「それ、もしかしてモールス信号じゃないですか?」
「かもしれん。イサーン、読めるか?」
「英語なら、おそらく」
てきぱきと大人たちが話を進めていくものだから、私は古海くんと顔を見合わせた。イサーンお兄さんが目を閉じる。丁寧に銀板をなぞって、難しい顔をする。
「A……M……アンバー……? ……琥珀?」
「えっ」
「何? 琥珀くんか?」
「古海さんちょっと黙って。イサーンくんが集中してるでしょ!」
「はは、大丈夫だよ、ニコちゃん。もうだいぶ分かったから」
さらりと言って、イサーンお兄さんは私を見た。
「多分……『琥珀へ。合言葉を思い出して』だと思うな」
「あ、合言葉?」
なんだろう、それは?
イサーンお兄さんが優しい顔でドッグタグを渡してくる。私は呆然と受け取って、銀の板を見つめた。
これは元々お父さんのドッグタグだった。じゃあ、お父さんが私に合言葉を渡しているってこと?
どうしよう、お父さんのことはほとんど覚えていない。私が五歳のときに死んじゃったのだ。合言葉を聞かされていたとしても、覚えているはずがない。
すると、イサーンお兄さんが悩むような声で続けた。
「それと……そのメッセージ以外にももう一つ単語があってね。これは意味のある言葉じゃないと思う。うーん……そのまま読むなら、『いあ』、かな?」
「い、あ?」
その瞬間、私の頭に、内側からがん、と殴られたみたいな衝撃が走った。思わず額を押さえる。
「神崎さん?」
古海くんの言葉に返事をする余裕もない。ずきずきと頭が痛む。呼吸が浅くなる。
それでも、目だけははっきり見開いていた。
私、その言葉を、知っている。
ふざけて唱えてはいけない、という声が、頭の中でこだました。お父さんだ。声どころか顔もほとんど覚えていないはずなのに、それがお父さんだと分かる。
『必要なとき以外は唱えたらダメだ。けれど、必要なときには迷わず唱えるんだ。琥珀には俺の血が入っているからな。お前にも、きちんと加護を与えてくださるはずだ』
加護ってなんだろう? 唱えるって、何を?
記憶の中のお父さんは、怖いくらいに鮮やかだった。優しく微笑んで、今の私の質問に、穏やかに答えた。
私はなぞる。記憶をなぞって、言葉をなぞって、しるしをなぞる。
「いあ……いあ……」
記憶の洪水の中で、手の中の銀板を必死に見つめて、私は唱えた。
「はすたあ」
瞬間。
ヴゥン、という機械音と共に、何かが立ち上がった。




