12 ベラドンナの面会
ベラドナに面会に申し込みがあったのは、エメラルドから衝撃の事実を聞いた数日後のことだった。
場所はベラドナが与えられている屋敷の応接間であるという。
処遇の上では客人だが、ベラドナは実質捕虜の身である。本当なら先ぶれのなど必要ない。
丁寧にしたためられた手紙と共にあった訪問の先触れは、彼の側仕えであるという従僕からもたらされた確かなものである。
手紙には、不自由はないかなどという気遣いに溢れたものだ。
捕虜の姫に対する最大限の敬意は、かの王子の優しく、高潔な人柄を思わせる。
普通ならば感激で打ち震えていたかもしれない。実際、ベラドナも心の端に宿った感激の波が粟立ったものである。
だが、
(これでマザコンなどではなければ……)
これが間違いであるなら、アフエルは正真正銘、勇猛で完璧な王子なのだ。
ベラドナの悶々とした懊悩をよそにその日はやってきたのだった。
エメラルドに案内を受けてベラドナの元へやってきた彼は、優しげな笑みを浮かべて挨拶を述べた。
いつかの黒光りする甲冑を脱ぎ、こうして外套も着けず立て襟の地味な平服を着込んでいる姿はたとえ腰に剣を佩いていたとしても軍人というよりも、お飾りの佩刀を許された学者のようだ。
「こんにちは、ベラドナ姫。ご挨拶が遅れてしまって申し訳ない」
不自由はなかっただろうか、と親戚の姪でにも話すような気安さだ。
しかし彼の言葉は誠意に溢れ、ベラドナを人質としてではなく、あくまでも客人の淑女として扱っているのだと知れた。
そうと知れれば、ベラドナも礼を失することはできない。
「ご機嫌麗しく。アフエル殿下。こちらこそご挨拶に伺えず、申し訳ございませんでした」
ローランのマナーに乗っ取って軽くスカートをつまんで礼をすると、アフエルは人の良さそうな笑顔を困らせた。
「そんなにかしこまらないでくれ。最近まで戦の後始末に追われて、ろくに城にも居なかったのは私なのだから」
軍人らしい口調だが丁寧な物腰は好印象だ。そのくせ裏があるようにも思わせないから、ベラドナは幾らか拍子抜けするほどだった。
次の言葉が無ければ。
「母上にも叱られてしまって。忙しい弟でさえあなたのためにきちんと時間をとったというのに、お前は失礼ではないかと」
戦は始めるに容易く、収めるに難しい。
政務官に混じって折衝も務める彼が忙しいのはもっともな話なのだが、母の小言でそれを曲げてしまうのか。
いささかげんなりして、ベラドナはアフエルを応接間へと招いた。
応接間で待ち構えていたエメラルドにお茶を入れさせ、ひと心地つくと改めて対面に座したアフエルは躊躇せず一口飲んで茶器を置いた。
「先ほども尋ねたが、不自由はないだろうか」
真っすぐな赤い瞳に見つめられ、ベラドナも茶器を置く。
取っ手のないこの茶器はこのジーンランドの物だ。ローランでも珍しいほど薄い磁器で、透き通るような白色は淡い黄金色の茶に映えて美しい。
「ありませんわ。とてもよくしていただいております」
それと、とエメラルドが居るであろうドアを見遣る。
「侍女のこと、ありがとうございました。あの者は、故国の領地においてもわたくしの世話をしてくれていた者なのですわ」
これは賭けだ。
外でこの会話を聞いているエメラルドは緊張で思わず武器に手をかけているかもしれない。
魔女と呼ばれるベラドナの腹心の侍女が只者ではないことぐらい、誰でも気付く。
(それに、この人はただの馬鹿ではないはずだわ)
会話だけを考えればベラドナが何気なく腹心の正体を明かし、不審を煽るようにも取れる。
だが、あえてエメラルドの素性を明かしたのは、アフエルを幾らか信用しますよ、というベラドナなりのアピールに他ならない。
ここで空気を変えるようならば、アフエルはただの馬鹿ということになるのだが。
「あなたの御心が安らかになるよう取り計らうのも、私の役目ですから」
アフエルは同じように微笑んだだけだった。
(やはり)
ベラドナはくすんだ紫の瞳の奥をきらりと輝かせた。
(この男、油断ならない)
見た目は立て襟の軍服に身を包んでいながらも、どこか長閑な空気を持つ若者である。だがその中身はどうだろう。
いきなり自陣に駆けこんできて停戦を持ちかける敵軍の女など、切り捨ててしまえば良かったのだ。
しかし彼はそうしなかった。
あのまま戦が続いていればローランは負けていた。しかしあのままでは終われない。今度は残してある兵力を必死で投入するだろうし、もっと切迫するなら大国モイラに援軍を持ちかけたかもしれない。
そうなれば、ローラン、ジーンランドの動向を虎視眈々と見張っているモイラの良い餌食となるし、この三国からもっと酷い戦争になるかもしれない。
戦争は金を産むが、それ以上に損も大きい。
ジーンランドは戦上手で有名だが、それは国内で内乱が頻発していたからだ。
そしてそれが収まりを見せた今、何故ローランに侵攻する必要があったのか。
(結果は出ている)
ローランと停戦を結ぶためだとしたら。
大国モイラは常に自領を増やしたくて機会を伺っている危険な国だ。ささいな諍いに隙を突かれて併合され、属国となった国々を総称してモイラと呼ばれているに過ぎない。
停戦を機に国交を取り戻す。そしてモイラの動向を更に見張る。
その布石としての開戦だとすれば。
(ローランが交渉すべきは王でも、弟王子でもない)
今回の開戦を決め、軍の一切を任されているというアフエルこそベラドナが話すべき相手というわけだ。
「――それにしても、あなたに他の怪我がなくて良かった」
いつの間にか茶を飲み干したアフエルが、にこやかながらも睨みつけるような眼光のベラドナにふんわりと微笑む。
「……他の怪我?」
思わず怪訝な声で応えたベラドナにアフエルは続ける。
「切られた髪は伸びましたか?」
髪?
髪がどうなったというのだろう。
戦場からジーンランドに迎えられてからは毎日手入れをされているので以前の艶やかさを取り戻してはいるが、戦場で髪など気にする暇は無かった。
訝るベラドナにアフエルは苦笑し、すっと手を伸ばす。
そのあまりに自然な動作にベラドナは身を引けず、テーブルの向こうから伸ばされた手に垂らした髪のひと房を取られた。
「何を…」
この国では女性の髪は常にまとめられているが、ローランの貴族が髪をまとめるのは夜会の時ぐらいだ。
普段はせいぜい余分な髪をバレッタで留めるぐらいのものだから、ベラドナもそれに倣って髪は垂らしたまま。
だからローランでは女性の髪に不躾に触れる行為は最上級の無礼になる。ましてその髪先を手のひらに乗せて、観察する者などいない。
「……ああ、やはり長さが違うな」
思わぬことに固まったベラドナを他所に、髪の先をたっぷりと観察したアフエルはそっと髪を返すと、痛ましげに眉をひそめる。
「私と対面した時、髪を切られたでしょう。……やはり、懲罰房にでもぶち込んでやるべきだったか」
低い声が殊更低くなりアフエルは何事もなかったかのように席へと戻ったので、最後の方はベラドナには聞き取れなかったが、髪の先を切られて失くした程度でこれほど悲しげにされてはベラドナの方が居たたまれない。
「……わたくしの髪の房の行方がそれほど気になりまして?」
落ち着かない気分を紛らわせようと魔女と呼ばれるそのままに厭味を込めて微笑むと、アフエルは悪びれもせず「ええ」と頷く。
「あなたはご自分のことをあまりご存じでない」
穏やかだが真っすぐに見つめられ、ベラドナはまたしても言葉を失くした。
そんな彼女に、アフエルは子供に諭すかのように言う。
「髪の一筋さえ、宝石にも勝る価値がある。――あなたはとても美しい」
賛美の言葉など、生まれてこのかたベラドナは腐るほど得ている。
彼女を彩る美辞麗句は尽きることがなく、ベラドナ自身もそれに見合う努力も重ねてきた。
何もせずに美しさを保てる者はいないのだ。
己を知り、己に怠惰を許さず生きてきた。
(自分を知らないですって?)
この賛辞は、ベラドナにとって最大の侮辱だ。
我を忘れかけた彼女にアフエルはのんびりと笑う。
「髪は女の命だと、よく教えを受けました。母上に」
昇りかけた血が下がり、ベラドナは代わりに特大の溜息をつきたくなった。
(この、マザコン王子が…っ!)