第5話:謝罪する王太子、笑顔で答える元聖女
オデットが王都を発ってから、十日余りが過ぎていた。
夜明け前の神殿は、凍えるほど冷えている。
ディートリヒは、桶の水で祭壇の床を磨いていた。
研修が始まって、十日ほどになる。
手のひらには、生まれて初めてのまめができている。
祭壇の奥では、三人の聖女が手を取り合い、結界に魔力を注いでいた。
額に汗を浮かべ、終わるとその場に座り込む。
毎朝、これの繰り返しだった。
「……これを、あの女は一人で?」
思わず漏れた呟きに、老神官が頷いた。
「はい。三十年間、一日も欠かさず。熱のある日も、魔獣討伐から戻られた朝も」
ディートリヒは雑巾を握りしめた。
知らなかった。
知ろうとも、しなかった。
神殿では、オデットの資料をもとに、聖女たちが交代で結界を管理し始めていた。
けれど、三十年間オデット一人の魔力で編まれてきた結界は、他の聖女の魔力を素直には受け入れない。
その日の昼、神殿に警鐘が鳴り響いた。
王都の北東、結界の網目の一角が、薄く揺らいでいる。
「ほつれです!」
聖女たちが祭壇に駆け寄る。
「補修手順、第三章です!」
フィオナが声を上げた。
引き継ぎ資料を開き、書かれている通りに魔力を流す。
けれど、網目が思うように動かない。
「どうして……書いてある通りにしているのに!」
焦るほど、魔力が乱れる。
網目の揺らぎが、少しずつ広がっていく。
そのとき、フィオナは昨日届いた手紙を思い出した。
懐から取り出し、震える指で広げる。昨日から何度も読み返して、もう折り目がくたびれていた。
オデットからの、短い手紙だった。
――ほつれは、真ん中から網目を一つずつ数えて。手順は資料の通りで大丈夫。でも、焦ると魔力が固くなるので、深呼吸を忘れずに。私も最初は、よく焦って失敗しました。
フィオナは目を閉じた。
深く息を吸う。
「……一、二、三」
ゆっくりと、網目を数えながら魔力を通していく。
隣の聖女が、その動きに合わせた。
もう一人も、呼吸を整える。
三人の魔力が、少しずつ重なっていった。
やがて、揺らぎが静まった。
結界は、何事もなかったように淡く光っている。
聖女たちが歓声を上げた。
フィオナは手紙を胸に抱きしめて、泣き笑いをしていた。
「……できました。私たちで、直せました!」
ディートリヒは、その光景を床に膝をついたまま見ていた。
「辞めたのに……なぜ、ここまで」
「オデット様は、そういう方です」
フィオナが、涙を拭いながら言った。
「でも、次は手紙がなくても直せるようになります。いつまでも、オデット様に頼ってばかりではいられませんから」
ディートリヒは、何も言い返せなかった。
自分は、あの人を「古い聖女」としか見ていなかった。
けれど彼女は、新米聖女がどこでつまずくかを知っていた。
自分が生まれた夜のことも、三つの頃に髪を引っぱったことも、覚えていた。
見ていなかったのは、自分のほうだった。
「……フィオナ」
ディートリヒは立ち上がり、彼女に向き直った。
「夜会では、すまなかった。君の気持ちも聞かずに、あんな場に立たせた」
フィオナは少し考えてから、まっすぐ彼を見た。
「認めていただけたのは、嬉しかったです。でも今は、殿下の隣に立つことより、一人前の聖女になることのほうが大事なんです」
「……そうか」
不思議と、腹は立たなかった。
その夜、ディートリヒは父の執務室を訪ねた。
「ヴァイスバートへ行かせてください」
「誰に言われて行く」
「誰にも。……私が、行きたいのです」
「研修はどうする」
「戻ったら、最後まで務めます」
グスタフは長いこと息子を見つめ、それから、静かに頷いた。
◇
それから数日後。
ヴァイスバートの午後。
私とヴァルター様は、すっかり馴染みになった菓子店の前の長椅子で、焼き菓子をかじっていた。
「そういえば、ヴァルター様。甘いもの、お好きでしたの?」
「いや。特には」
「まあ。では、なぜ毎日?」
「……さあな」
また「さあな」だ。
この方、昔からこればかり。
そのとき、通りの向こうから、旅装の青年が歩いてきた。
埃まみれの外套。
少しやつれた頬。
少し離れて、護衛の騎士が一人、気まずそうに控えている。
「……殿下?」
ディートリヒ殿下は、私の前で足を止めた。
そして、深々と頭を下げた。
「オデット殿。……申し訳なかった」
あら。
「あなたが三十年間、何をしてきたのか、私は何も知らなかった。知ろうともしなかった。夜会で恥をかかせたことも、フィオナを巻き込んだことも、すべて私の過ちだ」
「ええ。そうですね」
殿下の肩が、びくりと揺れた。
「でも、お詫びはきちんと受け取りました」
「……ありがとう。それで、その……もう一度――」
殿下は言いかけて、口をつぐんだ。
しばらく黙ってから、小さく首を横に振る。
「……いや。言うべきことではないな。神殿では、フィオナたちが自分の手で結界を直した。あなたに頼るのは、もう終わりにしなければ」
私は微笑んだ。
「ええ。後任の育成は、現役の皆さんのお仕事ですもの。フィオナはきっと、いい聖女になります」
殿下は唇を噛んで、うつむいた。
その手が目に入った。
白くて柔らかかったはずの手のひらが、まめだらけになっている。
「まあ、殿下。床磨き、なさったのですね」
「……十日ほどだ」
「十日も、ですわ」
立派になられた、と、今度は心から思えた。
「殿下。ひとつだけ、お伝えしたいことがあります」
殿下が顔を上げる。
「殿下のおかげで、私は自由になれました。本当に、ありがとうございます」
三十年ぶりの寝坊。
蜂蜜の焼き菓子。
夜の足湯。
思い浮かべるだけで、自然と顔がほころんだ。
殿下は、私の顔をじっと見つめていた。
それから、ふと私の隣に目を移した。
ヴァルター様が、焼き菓子の紙袋を二つ抱えて座っている。
「……そうか」
殿下が、小さく呟いた。
「あなたにも、あったのだな。私の知らない毎日が」
殿下はもう一度、深く頭を下げた。
そして、来た道をまっすぐ戻っていった。
振り返らなかった。
それでいい、と思う。
「いいのか」
ヴァルター様が、ぽつりと言った。
「ええ。あの子はもう大丈夫」
私は二つ目の焼き菓子に手を伸ばした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
ようやく自分の過ちに気づいたディートリヒ殿下。そして、そんな殿下を笑顔で見送り、二つ目の焼き菓子に手を伸ばすオデット。
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