最終話:十八歳の君も、四十八歳の君も。
殿下が王都へ戻った翌日の夕暮れ。
ヴァルター様に誘われて、町外れの丘を登った。
頂上に着くと、眼下に湖が広がっていた。
沈みかけた夕日が水面を金色に染めている。
「まあ……きれい」
「君に見せたかった」
ヴァルター様は、湖を見つめたまま言った。
しばらく、風の音だけが聞こえていた。
「ヴァルター様。夜会のとき、柱の陰で何とおっしゃっていたの?」
今度は「さあな」とは言わなかった。
「ようやくか、と言った」
「ようやく?」
「ようやく、君が自分のために生きられる日が来た、と」
ヴァルター様が、こちらを向いた。
「三十年前、君に伝えられなかったことがある」
「まあ。そんな昔のお話?」
「俺にとっては、昨日のことのようだ」
夕日を背にしたその顔は、ひどく真剣だった。
「君を愛している。初めて会った日から、ずっとだ」
――え?
「君の使命を、邪魔したくなかった。夜明け前に起きて、誰よりも先に祭壇へ向かう君を、引き止めることはできなかった」
ヴァルター様は、少しだけ言葉を探した。
「いや……それだけではないな」
「……?」
「俺にも、守るべきものがあった。騎士団を率いていた頃は部下たちを。辺境伯となってからは、領民たちを。君だけを見て生きてきたわけではない」
私は黙って耳を傾けた。
「それでも、君のことを忘れた日はなかった」
ヴァルター様は、少し照れたように笑った。
「縁談も、何度かあった。だが、どうしても首を縦に振れなかった。君以上に心を動かされる人には、出会えなかったんだ」
「まあ……」
「領地は、いずれ兄の息子に返すつもりでいる。もう本人とも話をしてある。だから、俺の立場を気にする必要はない」
そこまで考えていらしたなんて。
四十八の私では、跡継ぎは望めない。そのことに私が引け目を覚えるより先に、この人はもう答えを用意していたのだ。
「だが、君に想いを告げなかったのは、義務のせいだけではない」
ヴァルター様は、まっすぐ私を見た。
「君が、自分の人生を選べる日を待ちたかった」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
誰かに必要とされることは、何度もあった。
聖女として。
婚約者として。
国の守り手として。
でも、私が何を望むのかを、三十年間も大切にしてくれた人がいたなんて。
「で、でも、私、四十八歳ですよ?」
「知っている」
「見た目だけは若いですけれど、中身はすっかりおばさんですし」
「それも知っている」
「朝はゆっくり寝たいですし、甘いものも好きですし」
「それも知っている」
ヴァルター様の口元が、ふっとゆるんだ。
「だから毎日、菓子屋に通った」
――ああ。
甘いものがお好きでもないのに。
毎日、「さあな」と言いながら。
「俺は、十八歳の君だけを好きだったわけじゃない。今の君が好きなんだ。寝坊する君も、焼き菓子を二つ食べる君も」
頬が熱い。
四十八にもなって、こんな気持ちになるなんて思わなかった。
聖女でも、婚約者でもない。
ただのオデットとして、誰かに好きだと言われたのは、生まれて初めてだった。
「……ひとつ、よろしいですか?」
「ああ」
「私、これからは自分の好きなように生きたいんです」
「もちろんだ」
「朝寝坊もしますし、気が向いたら旅にも出ます。誰かのために、無理をするのはもうおしまいにしたいんです」
「それでいい」
ヴァルター様は、静かに頷いた。
「君が行きたい場所へ行けばいい。俺も、自分の務めを果たしながら、できるだけ一緒にいたい」
「……まあ」
「君の自由を奪うつもりはない。ただ、その隣にいられたら嬉しい」
私は、差し出された手を見つめた。
剣を握り続けてきた、大きくて硬い手。
三十年前、新米聖女だった私を何度も支えてくれた手。
その手を、そっと取った。
「では、これからよろしくお願いいたしますね」
「……こちらこそ」
ヴァルター様の声が、少しだけ震えていた。
丘を下りる途中、腰が小さくきしんだ。
「……下り坂は、腰にきますわね」
「つかまれ」
差し出された腕に、遠慮なくつかまった。
麓に着くと、いつもの菓子店がまだ灯りをともしていた。
「焼き菓子を二つ、くださいな」
ヴァルター様が、私の顔を覗き込む。
「今日も二つ食べるのか?」
「ええ。三十年分のご褒美ですもの。まだまだ足りませんわ」
ヴァルター様が、声を上げて笑った。
「では、明日も買いに来よう」
「まあ。毎日ですか?」
「これからは、毎日が休日だろう?」
私は、満面の笑みを浮かべた。
「そうでした!」
湖からの風が、湯けむりを揺らしていく。
明日の朝も、私はきっと寝坊する。
そして、焼き菓子を食べに出かける。
今度は、隣に誰かがいる。
――四十八歳。聖女を引退した私の人生は、どうやらこれからが本番らしい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
三十年間、誰かのために頑張り続けてきたオデット。
四十八歳から始まる、彼女の新しい人生と恋を「よかったね!」と祝福していただけましたら、ぜひ下の☆☆☆☆☆から作品を応援していただけると嬉しいです!
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